「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 言葉の結晶〜角川「短歌」2016年11月号〜 月野 ぽぽな

2016-12-28 14:28:05 | 短歌時評
 独特の静けさ。予感がしてブラインドを開けてみると、やはり街は雪。歌に心を開くのにぴったりの日。歌人の心身を潜って生まれる言葉の結晶、二十五首。雪の結晶のように、ひとひらずつ、きらり。きらり。きらり。



●佐々木幸綱「神の手」 
ホームレスの男とならび眺め居りにごれる川を流るる樹木

 なぜ人は流れ行く川に心惹かれるのだろう。なぜ流木に思いを寄せるのだろう。寄る辺なき存在である人の心のあり様と通じるものを、言葉以前の場所で感じ共感するのだろうか。その感覚を言葉、ここでは歌が再起させるという妙味。 

●今野寿美「花火師」 
ねんごろにつかへとことば遣されて歌びととふはそよぐくさむら

 人間の一生に比べたら遥かに長い時間を生きている<ことば>。そうか。人は絶えず<ことば>を受け取っては心身に宿し、時を迎えると、それを後に続く人々に譲り渡しているのか。その様は風を受けてはそよぐ草の様と同じように自然な営みなのだ。

●穂村 弘「熱い犬」  
生きているレンズのような水母らのきらりとひかるきらりとひかる

 クラゲを<生きているレンズ>のようと捉えた感性がきらり。大きな水槽に透き通った小さな水母がたくさん漂う様を想起しながら、それぞれの独立した視覚器官が感知した景色はどこでどんなふうに像を結ぶのだろう、などと思い巡らせた。するととてつもない大きな生命体の存在が現れた。

●梅内美華子「山羊カフェ小鳥カフェ」 
やはらかく海藻のやうに揺れており夜の電車に眠る人々

 夜の電車は不思議。外が原始の闇に戻る中、人智の明かりを灯し進む。一日の疲れに眠りに落ちる人々は電車の揺れに身を任し魂はひととき原始の世界へ。<やはらかく海藻のやうに>が生の哀しさを伝える。

●楠の葉陰に   大塚布見子
己が身の匂ひ確かむるや青条揚羽楠の葉陰をなづさひ飛べり

 <なづさふ>という美しい言葉がきらり。意味は、水に浮いて漂う、なれ親しむ。青条揚羽が楠の葉陰を飛ぶ。おそらく葉に触れては離れでも離れすぎることはなく、そのあたりを漂うように。それが<己が身の匂ひ確か>めているのだ、と捉える生々しい感覚に惹かれる。

●前川佐重郎「人間の声」 
けふもまた笑顔が深くなる友の酒三合の行き付けの店

 <笑顔が深くなる>が、友との繋がりの強さを伝える。たとえ辛い一日であってもここにきて酒三合。升が空になるころにはすっかりありのままの自分に。

●安田純正「罅まみれ」  
弁天の生れ出でしてふ渓流に脚つけ遊ぶふたりの女の子

 音楽・弁舌・財福・智慧の徳を持ち、七福神の一としても信仰される弁天。インド神話では、河川の女神であることから、弁天と縁を持つという水辺も多い。とあるそんな渓流に無邪気に遊ぶ子供は、まさに弁天の化身。きらり。

●光森裕樹「旧盆のあとさき」  
デヴォン紀に遡るごと片降(カタブイ)に踏み重ねゆく光るアクセル

 カタブイとは、夏の沖縄特有の気候現象で片方は晴れていながら片方で降る雨という。激しいお天気雨という感じだろうか。この雨の中の運転は、まるで「魚の時代」と呼ばれ魚類が非常に繁栄した時代、デボン紀に遡るようだ。其の人もいつしか魚になって。カタブイの豪快さとダイナミックな比喩にアクセルが受ける太陽の光が眩しい。

●立花開「反射光」     
同じ家に帰るまねごと 鍵をさす指先を見るふと消えそうで

 同棲の風景だろうか。現実は確かにある様に見えて、実は夢のようなもの。儚さへの感受性は、今そこにあるものを失いたくない、と思う瞬間に強くなるかもしれない。鍵が冷たい。

●小宮山 輝「海辺常住」    
雲の上の空わたりゆく雁がねの声に啼くはよし啼かぬ雁もよし

 雁は、その声に郷愁を誘われるが、<啼かぬ雁もよし>と言って視野が広がり、歌全体に生き物を賛賞する心持ちが行き渡った。


●福田龍生「伊那の沢みち」  
すがやかに茅の穂の鳴る沢なだれ 踵ととのへひろひみる嫁菜(はな)

 すがやか(清やか)という美しい言葉がきらり。 心ははるか万葉の世界に誘われる。<踵ととのへ>に嫁菜の花を摘む人の心のすがやかさを思わせる。筆者の故郷は伊那谷であり、一首の透き通った空気感を楽しんだ。

●御供平イ吉「越谷初秋」    
開けて置く窓に一陣この朝の風のふるまひたちまちの秋

 <風のふるまひ>という措辞が風を生き物のように立ち上がらせ、朝の窓を開けた途端に吹き込んだ風に秋を感じた様子を生き生きと伝える。

●馬場昭徳「六十八歳」 
六十八歳初めての嘘つきてやる何だか知れぬ電話相手に

 おそらく電話を取った途端、詐欺だ、と気づいたのだろう。<初めての嘘>の瑞々しさ。<つきてやる>の潔さ。六十八歳を迎えていよいよ聡明で自由闊達。元気な姿が見えた。

●牛山ゆう子「歩く岸辺に」 
対岸の街に向き立ちハーモニカ吹く人のをり音色澄みつつ

 ハーモニカの音には懐かしさがある。川辺に立ち、何を思いながら吹いているのだろうか。音色を聞いているうちに、心は昔いた遠い遠い場所—それは対岸とも彼岸とも—までゆくようだ。

●今井恵子「キヲツケ」 
踏み入れば運ばれ登るほかはなしエスカレーターに浴びる晩夏光

 エスカレーターに足を置く、という日常の一コマに、後戻りという選択のない、運命とも言えそうな大きな流れを感知する鋭さ。疲れを帯びた晩夏光が美しい。

●寺尾登志子「利賀村」  
若女将の背(せな)の赤子と目が合ひきスプーン借りむと厨のぞけば

 <赤子と目が合ひき>が眼目。赤ちゃんの目が無垢に光る。一瞬から垣間見る女将の人生。 スプーンが食べ物を口に運ぶための、つまり生きるための道具の象徴としても働くとすると、そのスプーンが登場人物、若女将・赤子・其の人、それぞれの人生の風景に読者を誘い一首を劇的に演出している。

●尾崎朗子「釣瓶落としに秋の日は」 
踏み入らば森に多くの眠りあり草食むものはいのち丸めて

 一歩。森に住む無数の生き物の眠りを感じた一瞬。<いのち丸めて>が優しい。

●廣瀬美枝「ハーモニー」  
わが指が和音にのりて いつさいはここから始まる 夏の雲ゆく


 自分が奏でていると思っていた楽曲。気づくと実は音楽という大きな流れに自分が導かれていると気づく瞬間はないか。夏の雲は流れる。大きな存在に私たちは生かされている。

●相馬二三男「卒寿の坂」   
寂しくは無きかと己れに己れ問ひ一人歌詠む秋の一日を

 一個と思っている自分という存在は、実はたくさんの存在の集合体、もしくはその一番先端の部分、かもしれない。現実への対処に絶え間無く追われる頭脳には、心身の奥にある魂の声は聞こえづらい。歌を詠む、さらに物を創造するという営みは頭脳が魂に話しかけ、魂のために働くという、美しい秋の一日のような、至極のひととき。


●永井正子「蓄へを問ふ」
夕日差す海見てゐしが石段に畳める影を引き上げて立つ

 夕日の海を石段にしゃがんで見ていた首中のその人が立ち上がった、という様子を<畳める影を引き上げて立つ>と言ったのが好い。その人の心情を、その心情を具体的に言わずに読み手に伝えるから。例えば、萎えていた心が自然の息吹に癒されていて、癒されきったわけではないが、よし、それでも頑張ってみようと思えるところまで充電できた瞬間。


●飯島由利子「あはき影」 
ヒーヨヒーヨ鳴る風音に似たるこゑあげつつ河童闇に溶けたり

 昔から悪戯好きの河童。人間に捕われ手を切られ、その手を返してもらう見返りに、秘伝薬の製法を人間に伝授したという。骨継ぎや打ち身、ねんざ、止血。河童の妙薬として知られる。さてこの河童、手を返してもらい、痛む傷口をいたわりつつ、沼に戻るのかな。

●斎藤 梢「海の鍵」 
旅びとであること悲しタマネギの秋の畑の浸水かなし

 旅先で見た風景。それは収穫最盛期でありながら、天災のために水に浸かってしまった玉葱畑。瞬時に生産者の心の痛みは如何許りかを想像する。想像はできるかもしれないが、実際に経験するその痛みとは明らかに違うだろう。思いはあるが、その思いを共感できるとは言えない痛み。ストレンジャーの心の軋み。

●石井育子「金木犀」 
突然に眼下に深き谿ひらけ秋あかね一つ宙に停まる

 山登りだろうか、それとも渓谷をゆく列車旅行の一コマであろうか。突然現れた広大な空間への驚きは、また瞬時にそれはそれは小さな秋茜へと移る。目眩するようなスピード感とズームの効いた一瞬の美しさが際立つ。

●生沼義朗「ビールかけ」  
胃カメラの麻酔を鼻にいれるとき眼裏にたしかに広がる花野

 無機質な診察室。消毒の匂い。ベッドを囲む医療機器。横たわるベッドの硬さや冷たさ。鼻を通る麻酔の管。胃カメラ体験が、其の人の心身の奥にある記憶の貯蔵庫にシグナルを送り<広がる花野>の映像を<たしか>な感触と共に、意識上に運んできた。動物から少し距離を置く、植物感。此岸をほんの少し離れる彼岸感。花々の色と冷たさが印象的。

●西巻 真「台風の夜」 
延々とくる台風の欲望を思ふ密かに一日を終へて

 この一日は、台風まっただなかというより、一つ台風の騒ぎが去った後の静けさ、という趣が伝わってくる。その瞬間にもどこかでまた生まれ、ぐんぐんと押し寄せてくる台風。その様子を<台風の欲望>と捉えた感性きらり。



 アヴェニューに灯が点った。雪はまだまだ降り続く。きらめきをありがとう。おやすみなさい。


■月野ぽぽな つきの・ぽぽな
 長野県生まれ。ニューヨーク市在住。金子兜太主宰「海程」同人。現代俳句協会会員。海程新人賞、現代俳句新人賞、海程賞受賞。 月野ぽぽなフェイスブック

※引用中丸括弧内はルビ。

短歌時評第124回 短歌は滅びないし此処にいますが何か。 野田かおり 

2016-12-24 15:07:05 | 短歌時評
 「短歌の未来というのは、日本の伝統文化というのが歴史性をもってずっときているわけだけど、それがどうなりますかなんて僕に訊かれても、僕の知ったことじゃないという。どうにもならないと思うね。自然にある経過として流れていく。」(岡井隆)
インタビュー=岡井隆、聞き手=東直子「短歌と非短歌の歌合-詠むことの永遠と新しさについて」(『ユリイカ あたらしい短歌、ここにあります』p105 2016年8月」)

 流されていくのではなく、流れていくのか、短歌は。と、このインタビューを読みながら思った。受動的ではなく歌人たちの意識をともなって能動的に流れていく、余白のある定型、と思っている。詠み手が泣こうが喚こうが定型はゆるぎない、揺らいでいるのは詠み手なのだろう。その意味で、「あたらしい短歌」とされるものは詠み手が多様になったということではないか。実際この号には、歌人だけでなく俳優やミュージシャンも歌を詠んでいて、時評子は短歌という定型の懐の深さを思う反面、もっともっと作品を読みたい歌人がいるのでどうしてこのひとたちだけなのだ!と歯がゆくなった(読者としての我儘でもある。歌人としては俵万智、斉藤斎藤、瀬戸夏子の歌が載っていて、評論もたくさんの歌人が執筆している充実の号なのだが。)正直、時評子は少しモヤモヤが残る号だったのだ…文芸誌でもっと歌人の歌を読みたい。
 ということで、岡井隆氏のインタビューの短歌観を信頼して、「短歌は滅びないし此処にいますが何か。」というテーマで時評を進めてみたい。最初にお断りしておくが、時評子は地方住まいなのでイベント等は網羅できないし、総合誌もすべて読み通すことはできない。でも読書好きの感覚で「ふーん、そういうことがあるわけね、短歌に今」という、そこそこにビシビシした文体で書いていきたい(兎角、場の熟成には良いが短歌の世界は内向きな議論が好きな傾向があると思われ、外を意識しつつ。)
 短歌は滅びない、そう思う。とある本屋さんにて、熊本の橙書店発の『アルテリ』という文芸誌を購入した。短歌を期待して買ったわけではなかったが、あとでゆっくり読んでいると石牟礼道子の短歌に出会った。石牟礼道子は、水俣病を「語り」という形態をとおして社会に問うた『苦海浄土』のひとであるし、最近出版された池澤夏樹個人監修の文学全集にも1巻まるごと入っている。『アルテリ』には浪床敬子執筆の「石牟礼道子の歌②」に以下の石牟礼道子の歌が紹介されている。

  人間の子なりよこれはこのわれの子なりといふよ眸をとぢておもふ

  人の世はかなしとのみを母われは思ひてゐるをせめられてをり

石牟礼道子『海と空のあいだに』


 『苦海浄土』とは別の、母としての石牟礼道子の顏をかいま見た気がして、この歌集は読みたくなって後で図書館で借りた。社会に物申すスタイルのひとと思ってきたが、ひとりの母親である石牟礼道子を知ることができて意味ある読書体験だった。こんなふうに短歌と偶然出会うのは面白く、文芸誌に短歌が掲載されてゆくことの醍醐味を感じた。
 東京赤坂の双子のライオン堂から出版された『草獅子』も興味深かった。「終末。あるいは始まりとしてのカフカ」というカフカ特集号だというのに、漱石・龍之介・プーシキンを詠んでいる堀田季何の歌。

  さいごまで残る五感は聴覚ぞ「はよ死なんかい」と誰か呟く
  
モスクワの「カフェ・プーシキン」名物のボルシチは濃し血の色をして

堀田季何「穴」


 …物騒である。まがまがしい歌だ。だが、会話体の鋭さや鮮明な色が記憶に残る。カフカのあれこれに期待してページをめくっていた読者には不意打ち、いや、毒のひとしずく。文芸誌に31文字がスパイスのように効くの、いいじゃないですかとニヤリとした時評子である。
 さらに、小説をはじめとする本好きたちがこの31文字の詩型のおもしろさに目を留めてるくれる可能性は『食べるのがおそい』にあるだろう。現在2号が発売されている。

  夕方のにおいがホームセンターで行き交う誰もが晩年めいて

岡野大嗣「公共へはもう何度も行きましたね


  東京2020にも君が代ならば君のかかとの桃色がいいさ
瀬戸夏子「二度と殺されなかったあなたのために」


 花鳥風月でもなく、作者=作中の「私」でもなく、この時代に生きている「わたしでもあるしあなたでもある〈私〉」の姿がこの歌たちに見え隠れする。郊外に、東京に、ある場所に。岡野大嗣の歌は、死に誰もがゆっくりと近づいていくことを郊外のホームセンターを訪れるひとびとに見ていて、日常に潜むほの暗さを読みとれるだろう。一方、瀬戸の歌は「東京2020」というオリンピック開催予定の2020年をマキシムの希望として、また「君のかかとの桃色がいいさ」とミニマムな希望を同時に差し出すことで、どこか祈りの言葉のように思えてくる。この時代の危うさが前提にあるからこそ、「ならば」という仮定でつながれている希望を生きるしかないわたしたちなのだろうか。生活の裂け目にもがく生活者の声が聞こえてはこないだろうか。短歌は31文字という詩である。その31文字には小説に負けないくらい伝えられるものがある。ただし、その一首の情報量を読み解く力は読者にも求められ、その意味でも余白のある定型と考えられる。
 最後に、山﨑修平がキュレーターをつとめるシリーズの三冊目『Wintermarkt』。今回は寄稿者に「あなたのギリギリの現代短歌を読ませてください」と依頼があり、それぞれが詩型への挑戦を試みている。

  車椅子を降りようとして美しい筋肉きみがマルボロを吸う 
嶋稟太郎「四辺系」


  夜の橋に誰もをらねばちつぱいと風に呟く酸つぱきことば
滝本賢太郎「ショートパンツ」


  その銃のうしろにつめたい湖(うみ)があるあなたの顏を映した湖が 
服部真里子「火はその野を越えて」


  今にも橋に夕日が落ちてけれどさあこんな場面はすぐに終わるよ
山﨑修平「ナターシャと私」


 ここでは全作品を紹介できないし、「私にはギリギリには思えないけれど、あなたはギリギリと思っているのね」という対話のきっかけになる歌も掲載されていて一読する意義がとてもある。時評子が特に記憶に残ったのは滝本賢太郎の作品である。作中の「私」はドイツに留学しており、異文化のなかで「ちつぱい」と呟くとき、自意識にからめられる生活に風穴が空くのかもしれない。一読者として「ちつぱい」は日常に使う予定が今のところないのだが、一首のなかに置かれると言葉への欲望を喚起される。
 冒頭の岡井隆の「自然にある経過として流れていく。」とは、こうした歌人たちの試行錯誤に支えられている。短歌は言葉を、あるいは多様な詠み手の文体をこれからも貪欲に蓄えて滅びることはないだろうし、文芸誌をきっかけに短歌人口の増加を期待したい。短歌は滅びないし多様な歌人たちが此処にいますが何か、と表明しておきたい。


野田かおり 未来短歌会、アララギ派短歌会会員 第一詩集『宇宙の箱』(澪標 2016)