「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評 第112回 言葉の燃費──新鋭短歌シリーズ第二期を読む 服部真里子

2014-09-30 16:00:39 | 短歌時評
 加藤治郎、東直子両氏の監修のもと、書肆侃侃房から若手歌人の歌集を出版する企画「新鋭短歌シリーズ」の第二期が始まった。第一期との主な違いは、監修者に大塚寅彦氏が加わったこと、これまで監修者の推薦のみだった著者の選定方法に、公募枠ができたことである。
 シリーズ全一二冊のうち、『オーロラのお針子』(藤本玲未)、『ガラスのボレット』(田丸まひる)、『同じ白さで雪は降りくる』(中畑智江)の三冊が、この九月に刊行された。
 まずは『同じ白さで雪は降りくる』より、目にとまった歌を引いてみる。

 歯ブラシの腰のくびれのなかなかに握りやすくて春は暮れたり  『同じ白さで雪は降りくる』
 唐紙の襖外せる手順にてジャングルジムより子を下ろしたり
 伸びあがる水を捕えて飲み干せる少年たちに微熱の五月


  身体感覚の再現性が高い。一首目、人体工学に基づいて持ちやすさを究めた歯ブラシの、あの手にぴったりとなじむ感じ。春の日暮れのほのあたたかさ、急すぎも遅すぎもせず、ほどよくするすると暮れてゆく感じ。両者がお互いにひびきあい、増幅しあって、作中主体が感じたであろう微妙な体感を読者の身体の上に再現する。二首目は、子どもをこちらに向かせ、脇に手を差し入れて、持ち上げ、抱いて、下ろす、というひとつひとつの動作を、クリアに追体験させる。唐紙の襖を外す実体験の有無(読者も作者も)は、読みに影響しないだろう。「唐紙」「」の古風で雅やかな語感が、作中主体の動作の丁寧さを想像させることに意味がある。
 三首目は公園の水飲み場のシーンととらえた。丸い小さな孔から噴き上がる水は、高さの調整がしづらい。加えて、ちょっとした風でふらふらするので、飲むのが難しい。その水の先端を、器用に唇でキャッチする姿を、「伸びあがる水を捕えて飲み干せる」と描写した。様子が目に浮かぶような、的確な表現である。初句の「伸びあがる」は、水の写生のみに終わらず、少年の背伸びや草木の芽が伸びるイメージを補強してもいる。「微熱」は、水をもとめる少年たちの身体の熱さや、子ども特有の熱に浮かされたような感じを匂わせる。すべての言葉とその運びに、必然性があって無駄がない。ひとつの言葉が、いくつもの意味やはたらきを負って定型におさまっている。言葉の燃費がいいのだ。
 逆に言葉の燃費が悪く、しかしそれゆえに魅力的な歌もシリーズ第二期の歌集にはある。

 東京の明かりにBANBANぶつかって青林檎まぶしくてさみしい 『オーロラのお針子』

 いろとりどりの言葉が散りばめられているわりに、意味や景が確定できない。すべての言葉が、作り手の目指すイメージに最短距離でたどり着けるよう構成されていた、『同じ白さで雪は降りくる』の歌とは対照的である。
 けれどこの歌には、言葉を燃費よく使っていたのでは伝えられないものを伝える力がある。
 「東京の明かり」は描写として大づかみと批判されるかもしれないが、「東京の明かり」を「東京の明かり」としか表現できないときが確かにある。物理的または精神的に東京から離れている人が、「ここにないもの」を仮託して「東京」を言うときだ。だからこの歌の「東京」は、少し昔の東京のような気がする。アルファベット表記のオノマトペ「BANBAN」は、「東京」に引きずられるせいか、ネオンサインか巨大な看板のような印象で、歌詞の途中で英単語が入ってくるJ-POPを思わせる。先述した「少し昔の東京」のイメージも、ここからきているのかもしれない。「BANBAN」という表記自体が、日本語表記の他の部分と「ぶつかって」いる。唐突に出てくる具体物の青林檎、「まぶ/しくてさみしい」の句またがり。表現がいろいろと過剰で、そのわりに意味を結ばない。けれど、むしろそれによって、読み手に生々しく手渡しているものがあるのではないか。エネルギーの横溢した、空虚で、なつかしい東京の明かり。そして作中主体の、意味のとおる散文ではうまく形にできない感情。

 あのひとの干した葡萄を売りますよ遠くからきたひと好きですよ 『オーロラのお針子』

 知人が干した葡萄を売るというシチュエーションは、日常生活であまり発生しないので、感覚を再現できない。下句、「遠くからきた」ことが好きである理由のように読めて、意味がきちんととりきれず、上句とのつながりもはっきりしない。特定の「表現したい景」があって、そこへ向かって言葉を構成している歌ではないのだろう。読み手に、作り手の「表現したい景」を追体験させることを最大の目的としてはいないとも言い換えられる。しかし、だからといって読み手に何ひとつ景や身体感覚を呼び起こさないかというと、そうではない。
 「~ますよ」「~ですよ」というリフレインや、「葡萄」以外すべてが清音でできていることから、黙読していても歌っているような気分になる。意味がきちんととりきれないと書いたが、自分にとって特別な人であろう「あの人」が、丹精込めて干した葡萄をお金に変える屈折や、飄々とうそぶくような口調に、ぼんやりと主人公の姿が見えてくる。私にはこの歌が、風の声のように思える。

 真夜中にしっとり濡れたウサギ小屋一羽(うれしい)一羽(さみしい) 『オーロラのお針子』
 東から明けゆく空にみつあみがほどけてやっとはじまるね 夏


 先に挙げた『同じ白さで雪は降りくる』の歌が、読者の身体をダイレクトに共振させるのに対し、これらの歌は作中主体をとりまく世界と自身の心の共振を歌っている。そのため読者は、まず世界を受信し、そのあとそれに共振する作中主体の心と共振することになる。少し遠回りで間接的なのだ。その分読者は、読者自身の足で歌の中を歩くことになる。この場合は、燃費の悪さこそが歌を豊かにしていると言えないだろうか。
 燃費がいい/悪いという物差しを、『硝子のボレット』に当ててみると、これは判断が難しい。

 縫いつけてもらいたくって脱ぎ捨てる あなたではない あなたでもない 『硝子のボレット』
 でも あれはつばさだったよ まわされた腕にこたえたときの戦慄


 一首目は縫いつけてもらいたいものが何か、二首目はつばさだったものが何なのか最後まで分からないので、意味や景に向かって言葉が一直線に向かっているとは言いがたい。が、作中主体の精神のありように関して言えば、ダイレクトにこちらへ伝わってくる。
 作中主体には、自分自身への強く冷静な確信がある。「縫いつけてもらいたい」という衝動は、「このままではどこかに行ってしまいそうなので、誰かにとどめておいてほしい」といった心細さの表明のように見えたが、三句目であっさり「脱ぎ捨て」てしまう。よりこころもとない、無防備な姿を選び取るのである。下句、複数の人物を順に見ていきながら、ひとりひとり「あなたではない あなたでもない」と判断していると読んだ。「あなたではない」「あなたでもない」と断言できるのは、自身の内にゆるぎなく求めるものがあるからに他ならない。「脱ぎ捨てる」のも、この身体が選び取るものに間違いがあるはずはないと確信しているからであろう。
 二首目、先述したように、「つばさ」の具体的に意味するところは分からない。以前相手とともに見て、自分だけにはつばさに見えたものがあったのか。「つばさ」の持つ、飛翔の可能性、遠い場所まで行ける力などをここでは読んでおきたい。抱擁を受け、それにこたえて力を抜き、相手の腕の中におさまる。しかしそのとき、戦慄のように「でも あれはつばさだったよ」という思いが心に浮かびあがる。相手とかぎりなく一体化しようとする抱擁のときでさえ、作中主体は自身の意識の輪郭を薄めることはない。むしろ他者を触媒として、冷静に把握する。

 冷えていく余命まだあと百年はあると信じてすするフルーチェ 『硝子のボレット』

 「フルーチェ」を「食べる」のではなく「すする」。「フルーチェ」という身近なアイテムと、お行儀の悪さと生命力を伝える動詞の選択で、先の二首と比較して身体感覚の再現性が高い。けれど、この歌の主眼は、やはり身体感覚より精神のありようの再現ではないかと思うのだ。医療技術の進歩により、人間の平均寿命は年々延びてきているとはいえ、余命百年ということはまずあり得ない。百といういかにもいい加減な数字から分かるように、作中主体自身も根拠はまったく持っていないだろう。また、初句の「冷えていく」は、「余命」の語に貼りついた死のイメージを照らしだす。なのに、この大きくうなずくような、健康的な気持ちの強さはどうだろう。このあざやかな反転の要は、「フルーチェ」と「すする」にある。身体感覚の再現は、この歌の最終目的地ではない。身体感覚の再現が、気持ちの強さを再現するのだ。燃費の良し悪しに加え、燃費をどこにかけるかという観点が入ってくる。
 新鋭短歌シリーズに参加する歌人たちが、これまで作品を発表してきた場所はそれぞれ異なる。場所の数だけ価値観が存在するだろう。ここで述べた燃費の良さを高く評価する場所もあれば、燃費の良さを避ける価値観もある。ひとつの価値観を物差しにして歌に優劣をつけることはできるが、価値観そのものの優劣を言うのは意味がない。それぞれの作品が何を目標としていて、その目標に対してどこまで成功しているのかという観点で、新鋭短歌シリーズ第二期の続刊を読むようにしていきたい。

短歌評 ネット短歌雑感/詩歌人・黒崎立体を読む 亜久津歩

2014-09-30 12:03:50 | 短歌時評
 短歌はおおよそインターネット上で読んでいる。主にTwitterで、ブログやサイトも巡る。短歌系のbot(自動Tweetシステム)もさまざま斜め読みしている。個人的には「歌会たかまがはらbot」に好みの作品が多く、ここから作品を知り、名前を覚え……となることも少なくない。近頃は興味が高じて若手の歌集を買うようになってきた。「ニューウェーブ」「枡野浩一」「俵万智」というある種「いかにも」な我が家の本棚に、いきなり「新鋭短歌シリーズ」が加わった。これもまた「いかにも」な流れかもしれない。

 そんな私としては、「現代短歌」は楽しそう、盛り上がっているなぁと日々感じている。ネットプリントの知らせや企画タグを見ない日はなく、合評も盛んな模様。 諸先輩方を含めた議論の一端を垣間見たり、ネットで綴ってきた方がオフラインの歌会や結社へと踏み出していく様子をこっそり眺めていると、子規が……口語で…… というような話などは、どこか別世界の御伽噺のような気がする。死んだほろびた、という実感がない。「現代詩」にもいえることかもしれないが、この広がりから、やがて深みや高みにハマッていく人が現れればよいのだろうな、そうなるのだろう、と思う。


 さて。あるときタイムラインに黒崎立体氏(※)の短歌が流れてきて、驚いた。当時まだ単に「詩の方」だと思っていたせいでもあるが、作品に心惹かれて。

きらいだし(きらわせんなよ)罰として蝉の死がいを拾って帰れ
(日経歌壇/2012年9月16日)


信号を無視して駆けてゆくねずみを人間たちが青白く見る
(日経歌壇/2013年3月3日)


手の中の檸檬が人を殺すほど高い高い高い高い場所
(歌会たかまがはら3月号採用歌)


 一首目。「きらい」「」「死がい」「帰れ」と攻撃的な言葉が敷き詰められているにもかかわらず、「(きらわせんなよ)」がオセロのようにそれらを翻す。先に傷を負ったのは「きらいだし」の主体。詫びられてすぐ水に流せるほど軽くはない何かがあったのだろう。「蝉の死がいを拾って帰」る刑は虫嫌いの私にはかなりの厳罰だが、「」は許すために科すもの。甘んじて拾って帰り、跪くように埋めよう(証拠写真を送信して「本当に拾ったの?」と笑われたりして)。友人同士ととれないこともないが、夏の終わりにモメるとなるとやはり恋愛関係だろうか。同棲しているふたりでもおもしろい。ブラックユーモアならぬブラックなラブを感じる。

 二首目。未舗装の横断歩道ではなく、よく踏み均されたアスファルトの交差点だろう。「ねずみ」を鼠と読むにせよ「リンダリンダ」的な人物像と捉えるにせよ、ただしく「信号」待ちをする棒立ちの影と、それを踏み越えていく風のような姿が浮かぶ。だが「ねずみ」と「青白く」。いずれも美化することなく、突き放すような視線が印象に残る。この歌の主体はどちらにも属していない、あるいは属したくない意識があるのではないだろうか。

 三首目。指をふと弛めるだけで誰かの日常を終わらせることができる。そんな場所がこの世界にはいくつもある。火薬も仕掛けもない檸檬であれ、悪意も善意もない理想であれ。「高い高い高い高い場所」 に立つとき人は、己も対象の輪郭をも見失ってしまうのかもしれない。足の竦むような場所で「もし、ここから落ちたら」と自らの脆さを想うことはめずらしくない。自身の死や危機に、生物は(基本的に)敏感だ。「殺す」可能性を突きつけてくるこの歌を、ひやりとしながら繰り返し読んでいる。

ゆく風に名前をつけて「いつかまた頬を打たれてみたい」と言った
(歌会たかまがはら1月号)


 この歌を目にしたとき、黒崎氏の詩作品が過ぎった。

言ってしまうなまえが今は ある、
いつか忘れるとすれちがうような、さびしい距離
こうしていると花みたいだよ まちがえているだけなのに

(黒崎立体個人誌「終わりのはじまり」vol.5)


 面影すらつかめそうでつかまえられないせつなさが香る。「すれちがう」のは想いか、肉体か、時制だろうか。躊躇いながら切っ先を交えるような烈しさとさびしさが、黒崎氏の作品にはいつでも横たわっている。

最悪って言おうね、笑ってるだけはさみしい
刺し違うように光と呼んで、百年後のまぼろし

(Poe-Zine「CMYK」vol.1)


 「まちがえているだけ」「百年後のまぼろし」と唱えればかなしくない、むしろ美しい。痛みと痛みを掛け合わせれば「」が生まれる。一瞬の後、すべて過ぎ去っていく。だから大丈夫、まだ大丈夫。あるいは私自身の投影かもしれないが、そう聴こえてくるようだ。
 手負いの針ねずみのような鋭さと、ほんの少しの風でふるえる花のような儚さを突きあわせて相殺する。世界を受け容れるために紡がれる。そんな言葉に愛しさを覚える。

 黒崎氏の詩作品には閃光の残像に手を伸ばすような、曲を見るような、視点や立場を「定めない」ゆらめきを感じる。「定型」を得たとき、その実に出逢えた気がした。像も景も、より手ざわりをもって近寄れる。詩は詩の、短歌は短歌の合う「何か」が筆を執らせるのだろう。これからも、どちらもみていたい。

 今年7月に創刊された詩人・平川綾真智氏との二人詩誌「数をそろえる」を読み、理系の素養のある黒崎氏の「詩」における「数」の生かし方を予感した。「数」と「言葉」をもって織り、裂く。そんな詩作品もまた、影ながら期待している。


※黒崎立体(くろさき りったい)略歴/Poe-Zine「CMYK」vol.1他より抜粋
1984年12月、栃木県生まれ。筑波大学自然学類数学専攻中退。2009年より詩を書きはじめる。2013年、月刊詩誌「詩と思想」による「現代詩の新鋭」のひとりに選出される。同年、ネットプリント誌「終わりのはじまり」を始める。 Web: http://kazahana.main.jp/
PDF作品集「dimensions

*亜久津歩(あくつ あゆむ)略歴
1981年4月、東京都生まれ。第1詩集『世界が君に死を赦すから』。第2詩集『いのちづな うちなる〝自死者〟と生きる』で第1回 萩原朔太郎記念「とをるもう」賞受賞。日本現代詩人会会員。Poe-Zine「CMYK」発行人(同人/中家菜津子・黒崎立体・草間小鳥子・亜久津歩)

短歌評 詩歌に出来ること? 山田露結

2014-09-13 14:08:54 | 短歌時評
 また来ました。二回目の短歌時評の依頼。前回は一応、俳句をやる立場から見て違和感のあった一首を取り上げてお茶を濁したのですが、さすがにもう書くことないよなぁと。私は短歌についてほとんど何も知らないし、普段からあまり読まないんだから。ん~、だったら断れよっていう話なんだけど、まあ、何とかなるだろうと今回も安請け合いをしてしまったのであります。そんなわけで、みなさま、しばらく私の妄言におつきあいくださいませ。
さて、東日本大震災以降、震災あるいは原発をテーマにした俳句作品というのがたくさん詠まれていまして、あれからから3年以上の月日が経った今も俳句世間ではそうしたテーマを詠おうという空気が続いているわけですが、これはもちろん俳句だけではなくて短歌や他の詩歌作品においてもそういう空気が少なからずあるのかな、と。
 ある日の朝刊の一面の「原発再稼働を問う」という特集記事に「詩歌で批判、6人の作品」として高野公彦さん、俵万智さん、若松丈太郎さん、アーサー・ビナードさん、和合亮一さん、湯川れい子さん6人の顔写真が載っていて、何となく気になって新聞をめくると見開きページにデカデカと6人の作品が掲載されていました。いや、実は、私はこの手の作品が苦手なのでありまして。もちろん、個人的に原発稼働には反対なんですが、詩歌でそれを訴えるというのを目にするたびにどういうわけか胸の奥の方がザワザワした感じになるんですね。虚しいような、切ないような、ちょっと説明しにくい気持ちです。

 歌とは人の心を種とし、言の葉につむぐもの。命あるもので、詠まないものがあるだろうか-。千百年前、歌人の紀貫之が古今和歌集の序文で大意、こんなことを記している。古来、日本は詩歌の国である。市井の人々が何げない日常から時の為政者への不満まで、心のうちを歌に託してきた。今、ここで六人の歌人、詩人、そしてフクシマの人たちが詠むのは大勢の日本人の心でもある。(中日新聞2014.7.21)

 ページの冒頭にはこんな言葉が置かれてあります。へえ、和歌ってラブソングが多いのかなって勝手にイメージしてたんですけど、そればっかりじゃなくてプロテストソングもあるよということなんでしょうか。不勉強な私にはよくわかりません(ちなみに私は福島を「フクシマ」とカタカナで書くのが嫌いです。関係ありませんが)。
紙面にはまず、俵万智さんの作品が、おそらく原発事故のために無人になった町の風景写真の上に印刷されています。

遠足のキャンプファイヤーあかあかと持ち帰れない千年のゴミ 

「おかたづけちゃんとしてから次のことしましょう」という先生の声

雨の降る確率0パーセントでも降るときは降るものです、雨は

声あわせ「ぼくらはみんな生きている」生きているからこの国がある

(「海辺のキャンプ」俵万智)


 一首目はよくわかります。「持ち帰れない千年のゴミ」というフレーズに落とし込むことで、キャンプファイヤーの燃え盛る炎が制御不能の原発のイメージと結びつきます。しかし、やはり、この作品を読んで、胸の奥の方がザワザワした感じになりました。私がよくわかるというのは、この歌には原発の惨状が上手く表現されているということがよくわかるという意味です。どう言ったらいいんでしょう。「持ち帰れない千年のゴミ」が伝えようとしているのは、言ってみれば、既知の事実に基づく既知の感情だと思うんですね。その感情、もちろん、私も知ってます。でも、それは、とてもデリケートで、こんな風に巧みに短歌にしてみせて欲しくないような、そんな感情なんです(ザワザワ)。
 続く三首は、一首一首単体では原発批判の歌なのかどうかがわかりにくい作品です。しかも子供向けの絵本にあるフレーズのような、少し幼稚な書き方がされています。「海辺のキャンプ」ですから子供たちがあつまってキャンプファイヤーを囲んでいるイメージなのでしょうか。「おかたづけちゃんとしてから次のことしましょう」は福島原発の収拾の目処がいまだ立っていないのに、どうして原発を再稼働させようとするのか、ということなのでしょう。あえて子供に言い聞かせるような言い方で書かれています。次の歌は、降水確率0パーセントの予報が出ていても雨が降ることがある、つまり絶対なんてことはないということでしょうか。絶対安全な原発なんてありえない、そう言いたいのかもしれません。最後の歌は、何と言うか、ちょっとクサイですよね。「生きているからこの国がある」なんて、なかなか、真面目な顔をしたまま言えないフレーズです。私が小学生だった頃、こんな風に「やさしさ」みたいなものを生徒に直球でぶつけて心の授業をする先生がいました。授業中、みんなで一緒に泣いたりしなければならない雰囲気があったりして、私は少し苦手でした(ザワザワ)。

海べりの処々(しょしょ)に原発を隠しいてウランの臭(にお)う平成列島

原子炉の毒性発電停止して今にっぽんは〈平静〉列島

神の手が都市の灯りを消してゆき月下に咲(ひら)く泰山木(たいさんぼく)の白

電力の〈おもてなし〉終え原発はたんに巨大な〈毒の城〉となる

(「毒性発電」高野公彦)


 これは、なんでしょう。「平成列島」とか「〈平静〉列島」とか、「毒性発電」、「毒の城」とかいう悪趣味な造語でもって批判精神を詠い上げるのが短歌なのでしょうか(ザワザワ)。「咲く」に「ひらく」とルビを打つのも演歌調で感心しませんし、〈おもてなし〉の流行語の使用もいただけません。どことなく『震災歌集』(長谷川櫂)を彷彿させるような(ザワザワ)。一首ずつ鑑賞してみようと思いましたがやめました(ウランって臭うんですか?)。高野公彦さんという方を私は知りませんでしたが、有名な歌人なのでしょうか。
 この日の新聞には他にも詩や俳句が掲載されていたのですが、正直、私はこのお二方以外の方々の詩歌作品にもあまり好い印象を持ちませんでした。
念のためにもう一度言うと、この特集記事のタイトルは「原発再稼働を問う」というもの。掲載されていたのは「詩歌で批判、6人の作品」です。
詩歌による原発批判って、いったい何なんでしょうね。反原発を訴えようとするなら他に何か有効な方法はないのでしょうか。詩歌は批判媒体としてはあまりにも非力というか、いや、もしかしたら、彼らは、たとえ非力であったとしても詠わなければならなかった、もしくは詠わずにはいられなかった、ということなのでしょうか(ザワザワ)。
今回は短歌時評ということで俵さん、高野さんの短歌作品を取り上げてみましたが、最後に同じ特集記事の中から若松丈太郎さんの詩を紹介させてもらおうと思います。こんな作品です。

いたるところの道にバリケードをしつらえ
人びとが入れない区域を設定した
人が手を入れない耕地には
いちめんにセイタカアワダチソウが茂る
人びとのこころに悲憤が泡だつ

夏に湿気のおおいこの国の風土では
人が住まない家屋のなかは
いたるところじっとりと黴が生える
ありとあらゆるものを腐らせる
人びとのこころまでも患わせる

小児甲状腺がん発症者および疑いのある者三百倍
「核災」関連死者千七百三十人超
避難者はいまも十万人超
このあと二年後も帰還できない人五万人超
燃料レブリ取り出しの願望的開始目標二〇二〇年

無惨としか言いようがない現実がある
あったことを終ったことにするつもりか
あったことをなかったことにするつもりか
おなじことをくりかえすために
いまあることをなかったことにできるのか

(「なかったことにできるのか」若松丈太郎)


 あえて詳しい感想は述べませんが、これは詩なのでしょうか(ザワザワ)。私にはよくわかりません。ただ、若松さんの訴えたいという気持ち(怒り?)だけはよく伝わって来ます。この作品を読んで私の胸のザワザワ感はいよいよ高まり、やがて、少し悲しい気持ちになりました。何と言いますか、批判媒体としての詩歌表現には、やはり限界があるんじゃないでしょうか。詩歌って、こういうことを詠うためにあるのでしょうか。詩歌って、何やら正義の声を上げるための道具なのでしょうか(偉そうにすみません)。こんな風に、直接的な怒りの表明に使われることを、詩歌の言葉は、悲しんでいないでしょうか。
 みなさんは、このような作品についてどんな感想を持たれるでしょうか。詩歌に出来ることって何でしょうか。


※作品はすべて中日新聞(2014.7.21)から引用しました。

短歌評 静かなる傷であること 岡野絵里子

2014-09-05 11:25:59 | 短歌時評
 或る女性歌人の方とご一緒に仕事をした時、話題が若い世代の歌人たちのことになった。将来が楽しみな才能も少なくないが、全般的に見ると、若い歌人たちの作品は「ほそい」のだと彼女は評された。ご自身も長いキャリアを持ち、大いに活躍しておられる方なので、批評眼もまた確かだと思われたが、その「ほそい」という表現が、私にとっては面白かった。
 ほそいとは、丈に比べて幅が狭い、短いということだと思う。またウエストがほそいといえば痩せていることだし、ほそい声は小さく弱々しい声だ。「ほそい作品」あるいは「ふとい作品」とはどういう意味だろうか。

 この詩集は何よりも、時間と記憶をめぐる「ほそい歌」であると言えるだろう。「ほそい」と言うのは、繊細な感覚でなければ捉えることのできない、瞬時に飛び去る幽かな光を追っているから。それ故に、そっと身に寄り添うひそやかさと、もの狂おしいなつかしさを伴っている。
(中本道代 杉本徹詩集「ルウ、ルウ」書評 交野が原77号 2014年9月)


わたしは走らない、ただ光を跳ぼうとした。非常階段の錆は展翅されたまま、
雑居ビル群の谷の虚ろでしきりとざらついて、掻き消える、・・・鎖された暗い
窓が翻りたくて、鳴く、ルウ、ルウ、と。

                   千駄ヶ谷、神宮前、茅屋
。いっせいに
溶けあって漂流する色彩、何いろだろうわたしの、だれかの、後ろ姿の裏側で。
反転する路地の迷彩、千駄ヶ谷、神宮前、茅屋、あれは、時間の沖。


(杉本徹「ルウ、ルウ」冒頭)


 現代詩からの引用で恐縮だが、「ほそい」と述べている書評とその作品を例にあげてみた。ここで評者は、「ほそい」とは繊細な感覚を持ち、その感覚で捉えた幽かな存在の追求をしていること、と説明しているようだ。だが、作品の稀に見る繊細さを好ましいとしながらも、ある種のもどかしさを強く感じているように思える。ほそさは、特徴の一つであって、必ずしも最上の賛辞ではないということかもしれない。
 田中ましろ歌集「かたすみさがし」も、繊細な感性で編まれた一冊である。父の病と向き合った連作「告げられる冬」「抗う、そして春」の言葉は地上から屹立し、生の彼方の光に触れている。

 とりどりの線でこの世とつながってしずかに隆起している身体
 抗うという名の薬さらさらと流れ落ちたり父のからだに
 冬の日の死に近づいた人の目にひかりを入れる医師のゆびさき
 雨の予感いま信号は明滅を終えてしずかに姿勢をただす


 一首目、色分けされたチューブが病人の生命を維持している。治療は苦しいだろうに、病人は静かだ。筋肉も骨もある身体の厚みが厳かでさえある。二首目は、点滴の袋に記された薬剤の名前、抗◯◯剤など。病に抗う父のための薬剤も、抗う性質を持つ。三首目では、清らかな精神が聖性をもたらす。臨終に近い病人の瞳孔をさりげなく調べ、生を確認する医師。「目にひかりを入れる」のは、実際にはペンライトで照らしたのだろうが、「冬の日」が横たわる人と医師を包み、恩寵としての光を目の中に降ろしたようにも感じられる。誠実そうな医師の「ゆびさき」にも光が宿る。四首目、心電図モニターに心拍が表示されなくなる。起伏のない直線が画面に流れるばかり。「しずかに姿勢をただす」のは、心臓の停止を告げるこの直線なのか、死者に礼をする医師たちか。歌人は窓の外に、雨の接近を察知している。深い悲しみと葛藤にありながらも、繊細な感性は微かな湿度の変化に気づいてしまう。雨と共に近づいて来るのが人生の試練であることにも気づいている。
 若い書き手にとって、死は遠い。年長者の領域に生息する未知に過ぎない。人の生死を司る神は更に虚構の領域のキャラクターの一つなのだろうか。

 神さまも発見されてしまったしもう絶対と呼ぶものがない
 八月の蛇口すべてが空をむき神様さえも撃ちぬくように
 3階の窓から空に向け飛ばす輪ゴム 神さま僕はここだよ
 ビー玉をのぞけば大きくなる瞳 神様よこれが僕のいのちだ


 神が虚構のものであるように、作者にとって、世界も時に虚構だ。そこでは驚くほど言葉は自由に飛翔し、鮮やかな抒情の軌跡を描き出す。

 飛びはねて影を地面に置き去れば刹那ふたりになるわたしたち
 ストライク投げても受け止めないくせにミットかまえて「恋」なんて言う
 祈りだけ置いていきます朝の陽を浴びてしずかに開く仕組みの
 壊れゆくもの美しく朝焼けにふたりひとつの窓開けはなつ


 用心していても、つい感心感動させられてしまう。三首目、例えば八木重吉(1898~1927)の詩「このあかるさのなかへ/ひとつの素朴な琴をおけば/秋の美しさに耐えかねて/琴はしづかに鳴りいだすだろう」などと比較すれば、いにしえの言葉がどれほど遥かな距離を旅してここに到達したかが想像される。人の世に祈りは変わらずあっても、「しずかに開く仕組み」を内蔵した言葉はもはや素朴とは言えない。旅人は成長して、別の相貌をそなえたのだ。そして四首目の「壊れゆくもの」が何と多くを意味していることか。夜、闇、そして時間、生命・・。歌集タイトルの「かたすみ」とは謙虚な表現であって、新しい場所から新しい歌が生まれているのだ。
 前述の女性歌人の方が「私にはわからない」と述べられたのが、堂園昌彦「やがて秋茄子へと到る」(港の人)であった。詩集を刊行している出版社が歌集を出したことが新鮮で、私も興味深く読んだ歌集である。(光森裕樹歌集「鈴を産むひばり」も読みたかったが・・)

 秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは
 生きるならまずは冷たい冬の陽を手のひらに乗せ手を温める


 手に乗せる歌二首。前の歌は、艶やかに実って美味しげな茄子を両手に乗せ、死を想うという意表をつく組み合わせである。生の象徴である食とその対極の死。茄子の紺色の奥に漆黒の宇宙を見つけ、人の生の儚さを悟ったのかもしれない。死が艶々と手のひらで一個の実としてある光景は恐ろしくもある。歌集のタイトルがこの歌から取られたのだとすれば、やがて訪れる死を前提に生きよと私たちは何を手渡されているのだろうか。
 同じ手のひらに陽を乗せると、それは身体を温め、心を支える行為になる。すなわち生きるということだ。だが、陽を手に取ることはできず、陽自体も冷たいという二重の不可能性をこの歌は突きつけてくる。現代の明るい社会の生き難さを思う。
 手のひらといえば、二冊の受賞詩集が思い出される。

 手のひらに西瓜の種を載せている撃たれたような君のてのひら
 手のひらで冷えた卵をあっためているときふいに土けむりたつ

(山崎聡子「手のひらの花火」)


・・・私にとって、詠うことは自らの手を燃やすような静けさの行為である。幼い頃から、怒りや悔しさが兆すとどういうわけか心よりまずてのひらが痛んだ。てのひらにこそ、<私>が在ると信じていた。
(大森静佳「てのひらを燃やす」)


 二首はどちらも小さなものを守るように手のひらに載せている。いずれは西瓜の実になり、鳥になる生命と銃撃という対立が衝撃的である。戦火が目の前に迫る緊迫感がありながら、映像のような遠さでもある。
 大森氏の文章は歌集のあとがきより。手のひらに自分自身が宿っている感覚があり、詠うことは、その手を燃やす静けさの行為だという。創造をする精神は、その創作に先立って、なんらかの傷を負っていると洞察した詩人が過去におり、また、「詩集をまとめることは私の生涯に、またひとつ傷を負うことかもしれない。(中略)この詩集という傷口をとおして深く届きたい。」(岡島弘子「つゆ玉になる前のことについて」あとがき)と書いた詩人もいた。創作とは、作者が再び傷を負うことでもある。自らの手のひらを燃やしながら静謐であること。世界の静けさそのものであること。手には自身が宿っている。燃えながら世界を掴んで差し出した時、その手はほそい、と言われるだろうか。いや、おそらくは誰からも言われまい。