「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌相互評13 中山俊一から伊舎堂仁「なぞなぞ」へ

2017-11-30 14:10:37 | 短歌相互評

(編注:歌のあとの数字は連作における歌の位置です)

なぞなぞ、とあなたの声が言ってきて なぞなぞだった、しりとりじゃなくて  二

 伊舎堂仁『なぞなぞ』を読むにあたって、タイトルにもなっているこの歌から評をしていきたいと思う。違和感を覚えるのは<あなたが言ってきて>ではなく<あなたの声が言ってきて>という表現。あなたの実体はそこにはなく、声だけがどこからか聞こえてくる。生活のふとした隙間に昔の恋人との会話が頭を過るイメージに近い。

 この歌には、あなたが<なぞなぞ>と言ったことに対して、わたしは<しりとり>ではないかという憶測を挟むのだが、結果的にはやはり<なぞなぞ>だったというような思考の流れがあるように思う。こういった思考回路を丁寧に伝える面白さが伊舎堂作品には多いのだが、この思考回路の面白みはどこにあるのだろうか。

 コミュニケーション(とくに男女間)には、<しりとり的コミュニケーション>と<なぞなぞ的コミュニケーション>がある。前者は、ただの言葉のラリーに過ぎない言わば他愛もない会話だが、後者は相手の求める回答を探り、的確に答えなければいけない難解な会話である(平たく言えば、仕事と私どっちが大事なの?的な)。これに対して、しりとり的な受け答えをすると相手に嫌われたりもする。

 歌の場面に戻る。恋人はあのときわたしに対して、ひとつの答えを求める言葉を投げかけた。それに対してわたしはしりとりのような言葉で受け答えをしてしまった。答えるべき言葉を見つけたときには、あなたの姿はなく、あのときの声だけが今も耳に残る。

 一首として読むと、強引な読みに思われるかもしれないが、連作として読み終えたとき、そう思えて仕方がなかった。

うけつつもひいたり別にだいじょうぶだったりしながら 相模湖にいた   一

 そこで冒頭の歌に戻る。この歌は二人の関係がまだ良好だったときの歌だろう。相模湖という穏やかな場所のなかで、会話や意図の行き違いがありながらも二人は関係性を保っていた。連作の導入にふさわしい一首で、ここから時間経過を挟み、二首目以降は回想を入れながら現在へと進んでゆく。

こんな駅であなたにガストをおごってる場合なんかじゃなかった夜と   三

夜の仕事 夜も仕事、はじめるねって聞いていったら〈も〉だった夜よ   四

2万円くらいおろして行く駅の曲がったらへんで懐かしかった   九

 三首目、四首目そして九首目の歌。「こんな駅」とはどんな駅か探るため歌が前後してしまうが九首目の歌も取り上げた。連作の流れから、ここに出てくる二つの駅は同じ駅だろう。「こんな駅」という揶揄した言い方や「2万円くらいおろして行く駅」、そして四首目への歌の繋がりを踏まえると、この駅は新宿や渋谷、または鶯谷や錦糸町などの酒場やラブホテル、風俗店が立ち並ぶ場所であることを想像する。ふたりが相模湖という穏やかな場所から随分と猥雑な場所へと辿り着いてしまったことに物語性が潜んでいる。

 三首目と四首目は歌の構造から対になっており、同じ夜に起きた二つの出来事をそれぞれ歌っている。これらの歌を二人の関係性が行き詰まった歌、別れ話の歌として読んだ。ファミレスという賑やかな空間がかえって二人の関係を浮き彫りにしているのだが、<夜も仕事をはじめるあなた>に<ガストをおごっているわたし>、この二人が同じテーブルに座っていることの悲哀が見事に映されている。わたしの夜とあなたの夜の乖離がここにはあり、二人の関係性の亀裂を感じさせる。

 そして五首目以降からは個人の苦しみが歌われることになる。

どうすればいいんだーとかってうっすらずっとふざけられるのがいいと思います   五

大丈夫なわけないだろ 遊星 とかって辞書で引いているのに   六

ノンアルコールビールのこそこそ感・・・じゃない? じゃないかなぁ 思うけど   七

前けっこうもてた変質者になりたい たおれて寄ったらもう死んでいる   八

 失礼な言い方になるが、会話の相手を失い、独り言の数が増え、言葉がどこへ向かっているのか分からない印象。そこが面白いというかよく理解できる感覚なのだ。

 <どうすればいいんだー>や<大丈夫なわけないだろ>は自身の素直な心情の吐露と思うが、その言葉が行方もなく浮遊していることの儚さ。<いいと思います>というやや投げやりな言い方や<遊星>という言葉の選び方がそういった印象を与えている。また七首目<じゃない? じゃないかなぁ 思うけど>と最終的に言葉が自己対話に向かってゆく虚しさ。何が<ノンアルコールビールのこそこそ感>なのかは然程重要ではなく、そういった些細なことさえ共有し合える相手がいないということがこの歌の重要な要素だろう。

2万円くらいおろして行く駅の曲がったらへんで懐かしかった   九

帰ったら動いててのりしお味で見たら畳で運んでたアリ   十

 九首目は先程も取り上げた歌だが連作の流れを汲むために重複するが記載する。読みでは別れ話をしたガストのある駅に降り、恋人との思い出を懐かしむ歌のように見えるが、それは続く十首目の心の揺らぎにも表れている。

 恋人との思い出がボディブローのように効いてるなか、自宅に戻り十首目へと至る。誰もいなくなったはずの部屋に何やら動くものが目に映る。五首目以降、自分ではない誰かを求めていたわたしにとって、それはより鮮明に映ったのだろうか、一気に動くものへと視線が寄ってゆく。のりしお味? ここで寄り過ぎた視線がズームアウトしてゆき畳全体を見渡す。そこで初めてアリがのりしお味のポテトチップスを畳のうえで運んでいたことがわかる。この歌は一見すると文体自体に歪みがあるように感じるが、実は自身の目線の動きを忠実に書き並べたものではないか。文体そして目線の揺らぎが、自身の心情の揺らぎと干渉してリアルな手触りが残る歌になっている。

 連作『なぞなぞ』は一首単位では読み切れない謎が含まれた作品だった。連作として読むべき作品であることは間違いないが、一首一首が自立していて、そこから読者が背景を読み解くことを期待している作風だ。この評もその背景のひとつに過ぎない。短歌はなぞなぞではないので読者によって様々の答えが生まれたら素敵に思う。


短歌評 俳句の国から短歌国探訪(3)透きとおりゆく世界の中の短歌 丑丸 敬史

2017-11-22 03:07:20 | 短歌時評

(1)はじめに

 俳句実作者である筆者の短歌国探訪記の今回が4回中の3回目となる。

 前々回、短歌がなぜ若者に共感を呼ぶ詩型であるのかを「短歌評 俳句の国から短歌国探訪(1)短歌は若者の器か」として書いた。そして、前回は「短歌評 俳句の国から短歌国探訪(2)穂村弘と言う短歌」で、穂村短歌を通して現代短歌の流れの原点を見ようとした。

 短歌は若者の器である。第一回でこのように考察した。短歌は若者が牽引する。今回は1970年以降の若手のアンソロジーとなる山田航の『桜前線開架宣言』(左右社)より若手の現代短歌を見たい。この本から零れた優れた若手も多かろう、この本のみで若手短歌を俯瞰することに忸怩たる思いはあるものの、普段包括的に短歌に親しんでもいない門外漢のこと、お許しいただきたい。

 『桜前線開架宣言』は1970年以降の生まれの40人を収録している。あとがきには「二十一世紀は短歌が勝ちます」と勝利宣言をしているが、これは現代詩や俳句に対しての相対的勝利というより、山田のその脳裏にはもはや他の詩型は存在せず、彼は短歌という絶対詩型の勝利を確信している。『桜前線開架宣言』に収録された若者による今後の短歌の隆盛が強く信じられるからであろう。確かに山田をその気にさせただけの(山田から見た)質と量を伴った若者の歌がそこに収録されている。と見える。

(2)ぼくたちはこわれてしまった

  なにゆゑかひとりで池を五周する人あり算数の入試問題に     大松達知

 ユーモアは詩には欠かせぬジャンルである。そのユーモアを盛る器として短歌が相応しいことを見てみたい。「たかしくん問題」というものがある。小学校などで使われる算数の文章問題のたかしくん、100円持ってお使いに行かされたり、3キロ離れた場所に時折休憩を挟んで時速4キロの速度で歩かされる。短詩型こそ瞬間芸に強みを発揮する。この短歌の深読み、裏読みとして世の不条理を読み取ることも可能であろう。人間は総じて似たり寄ったりの不条理な日常を生きている。しかし、そのような読みを入れてしまうことはこの短歌の力を減じてしまう。

  さかみちを全速力をかけおりてうちについたら幕府をひらく    望月裕二郎

 これもばかばかしい短歌に見えるが、勢いよく坂道を駆け下りた時の高揚感、興奮をこのように大言壮語したユーモアが微笑ましい。

  信長の愛用の茶器壊したるほどのピンチと言えばわかるか     笹公人

 このピンチ、わかります! この歌は内容から上司と部下の関係を想起させる。この後、この部下は手打ちになったことだろう。絶体絶命のピンチを茶化した才能。田村元の「やがて上司に怒りが満ちてゆく様を再放送を見るやうに見つ」も同様。

  銃弾は届く言葉は届かない この距離感でお願いします      木下龍也

 人付き合いの苦手な若者が望む難しい距離感をストレートに伝えている。銃弾は届く距離というのが寂しい悲歌である。ストレスを感じて人と接するくらいなら撃ち殺される方がまだマシと言う。木下の「後ろから刺された僕のお腹からちょっと刃先が見えているなう」、「本屋っていつも静かに消えるよね死期を悟った猫みたいにさ」も現代社会を冷めた目で引いて眺めている。自分に不適合な社会。この理不尽な現実を受容することは、社会が自分を受容してくれない限り仕方ないことである。

  半島をめぐりしのちに軍艦はわが前に来つイクラを載せて     松村正直

 最後の七でのどんでん返しのオチが素晴らしい。長々と五七五七で言葉を尽くして語るからこその最後の七でのオチが効果的なのである。俳句ではこうはいかないという好例。

  ベニザケの引きこもりなるヒメマスは苫小牧駅にて寿司となる    松木秀

 これも寿司ネタであるが、社会を自分らの世代を皮肉る。海に出ることをやめたヒメマスを「引きこもり」に重ねている。防人の頃から短歌は社会問題、それに翻弄される人生の悲哀を歌ってきた。さらに、松木はそれを社会風刺に昇華している。社会不適合な烙印を押された者は、切り身となって寿司ネタになって消費されるのみと。ただ、そんな社会を変えたいという積極性はなく、その冷めた目線には諦めが感じられる。

  世界じゅうのラーメンスープを泳ぎきりすりきれた龍おやすみなさい 雪舟えま

 情緒、ユーモアのあるファンタジー。書かれている内容はたわいないものであるが、1日頑張ったラーメン丼のすりきれた龍を労う優しい目線が好ましい。

  お客様がおかけになった番号はいま草原をあるいています      吉岡太郎

 これをシュール短歌、ナンセンス短歌、と片付けるわけにはいかないくらい、なぜが心を揺すぶられる繊細な歌である。この草原は風の吹く気持ちの良い草原である。電話から切り離されて自由になった電話番号がこの草原を颯爽と歩いている。

  ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ 中澤系

 集中、筆者が一番衝撃を受けた怪作である。ブラックホラー。「ぼくはこわれてしまったぼくはこわれてしまったぼくはこわ」ではない。「ぼくたち」が現在の社会不安を表している。こわ…、でゼンマイが止まって永遠に歌は紡がれなくしまった。31文字を効果的に使ってこその不気味さ。先ほどから、これらの短歌を読めば読むほどに俳句から見ての短歌の言葉を尽くせる詩型のメリットが羨ましくなる。このような詩心を詠みたいならば短歌は絶大な力を持っていることを認識させられた。気になって「ホラー短歌」で検索したが、残念ながらこれほどのものは見つけられなかった。中澤はすでに亡くなっており、これ以上の怪作を読めないのはとても残念であるが、そのような中澤だからこその絶唱と言えるか。
中心に死者立つごとく人らみなエレベーターの隅に寄りたり」黒瀬珂瀾も、「死ののちもしばらく耳は残るとふ 草を踏む音、鉄筋の音」澤村斉美、もホラーと言えば言えなくもないが、その繊細な情緒はホラー短歌に分類することを躊躇わせる。

(3)宇宙の風に湯ざめしてゆく

  もう歌は出尽くし僕ら透きとおり宇宙の風に湯ざめしてゆく     雪舟えま

  小さい林で小林ですというときの白樺林にふみこむ気持ち

  ホクレンのマーク、あの木が風にゆれ子どもの頃からずっと眠たい

 「世界じゅうのラーメンスープを泳ぎきりすりきれた龍おやすみなさい」ですでに雪舟を取り上げた。彼女の歌を読むと優しい気持ちにさせられる。山田は地母神に喩えているが、或いはマリアさまの慈悲に喩えられるか。この世の中が肯定されている。「もう歌は出尽くし僕ら透きとおり宇宙の風に湯ざめしてゆく」では壮大な宇宙的な大きな歌ではあってもその情緒は細やかである。この「」というのは若者の声、希望と言い換えても良い。「もう歌は出尽くし」と、悲観的な調子から始まるが、描くその世界はディストピアではない。少なくともそうは感じられない。それは「透きとおり」がこの歌を美しくしているからであろう。加えて「湯ざめしてゆく」がその儚さをいや増す。

  青空からそのまま降ってきたようなそれはキリンという管楽器    服部真里子

 キリンが首を下げてきた時の驚きをウィットに富んだ歌にした。キリンの首を長い管のラッパに喩えた。そのラッパから聞こえてくるのはどんな天井の音楽か(実際には牛のように低く鳴くらしい)。

  まいまいは古代楽器の姿して雨の音風の音からだを巡る       小島なお

 楽器つながりで本歌を引く。小島の歌はさらに繊細におおらかである。こちらは蝸牛をホルンに喩えてその音色も歌っている。蝸牛は実際に鳴き声を出さない。それゆえ、逆にその蝸牛の奏でる雨音、風音がより鮮明に聞こえてくる。小島の「わたくしも子を産めるのと天蓋ゆたかに開くグランドピアノ」はさらに想像の翼を豊かに羽ばたかせている。天蓋を開き次々に音を生み出すピアノから、お腹が大きくなった女性から次々に生れ出る赤子を想起させる。

(4)空が濡れるのを待つ

 山田航(1983年生まれ)自身も歌人であり2011年には第55回角川短歌賞を受賞している。山田の短歌を第一歌集『さよならバグ・チルドレン』より引く。

  鉄道で自殺するにも改札を通る切符の代金は要る

  水飲み場の蛇口をすべて上向きにしたまま空が濡れるのを待つ

  鳥が云ふ誰にとつても祖国とはつねに真冬が似合ふものだと

 これらの歌から、山田が上記の歌人たちと同じ空気を吸って歌をなしていることが分かる。社会の片隅で歌をつぶやく。声高に誰かに伝えるための歌ではない「つぶやきの歌」。

 この世は悪意に、厄災に満ちている。石川啄木の「ぢつと手を見る」ではないが、和歌、短歌は生活の苦しさを生々しく赤裸々に歌ってきた。詠み手の不幸があって、そしてそれに共感する読み手の不幸があって歌は成立した。昔は皆が運命共同体の一員であり有機的な結合状態にあった。歌が人と人とをつないでいた幸せな時代があった。

 それに対して、現代社会は人間関係の希薄化が進み、社会の希薄化が社会を透明に、人を透明にしていく。他人の幸も不幸も所詮他人事な現代社会で、透明人間がどこかで歌を呟く。歌人の歌は一般人(我々俳人にも)には届かない。それは、今を生きる人間みなが透明人間だからである。透明人間の社会では悲しみもまた喜びも透明である。透明人間の歌は透明である。心には届かない。その微かな歌は、耳を欹てている透明人間(と言う歌人)にしか聞こえない。現代の若い歌人は微かな歌は、気づいてくれる人だけでいいから気づいてとSOS信号を送っている歌なのである。

 明治以降も数多の偉大な歌人を輩出した短歌世界も俵万智をもって打ち止めとなるのだろうか、大衆に膾炙する歌をなし得た歌人は。俵万智の歌は大衆受けして、なぜ穂村弘以降の歌は大衆受けしないのかの答えもここにある。これまで和歌・短歌が人と人との間の糊づけ的な役割を果たしてきたが、短歌的有機的結合を社会が必要としなくなってきている現在、短歌の存在意義も変容せざるを得ない。その中で透明人間がなお交わりを求めるとしたら、もはやそれは微かな電波として発信しアンテナを持った歌人だけは受信できる、このような歌人の間を飛び交う透明な歌にならざるを得ない。雪舟の「もう歌は出尽くし僕ら透きとおり宇宙の風に湯ざめしてゆく」も、変容してゆく現代社会の中で生きる若者を歌って象徴的である。出尽くした歌というのは、本来の人間の歌の謂であろう。もうこれまでのような歌は歌えない、これからの歌は他の人には届かないであろうという諦観の歌にも見える。

 山田は札幌出身であるが、彼がリスペクトしている穂村弘も札幌出身である。穂村に熱烈なファンレターを送り、穂村の歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』のインスピレーションを与えた雪舟も札幌出身である。これは啓示的である。そのように、北の大地で現代の歌が紡がれて降ってくる。雪空より舞い降りて来るように、透明な歌が。

 この希薄な社会にあって俳句はどうだろう。俳句は元来人生を歌う詩ではない。人生から、社会から超然と存在している。戦後「社会派俳句」という名称が冠された俳句が出現したが、それは俳句がそのような機微を歌うことを得意とはしていないという証拠である。人がいようといまいと、社会が透明になろうと俳句にはさほど影響しない。現在の社会の変質はより短歌に影響が現れるように見える。

(5)終わりに

 東郷雄二がウエッブ上で雪舟えまを採り上げている。そこで、雪舟の歌を例に挙げて、「うたう」以降の若手歌人の陥穽を指摘している。

第79回 雪舟えま『たんぽるぽる』

 「うたう」以降の歌は、歌に気取り、衒い、形而上的志向、技巧、作為がなく素直に歌をうたう「棒立ちの歌」と言う。筆者は、俳句作家でもあり短歌はかくありたしという思い入れもないものだから、喩も区切れもない短歌であってもそこにポエジーがあればいい歌だと思う。若者の歌もいいものはいい、心に響かないものは「うたう」以前の歌であっても心が動かされない、それだけである。「うたう」以降の歌が、若者が自分の声で歌う歌であるならば、その流れは今後とも本流であり奔流となるであろう。この社会がこの先も透明になりゆくかぎり。


短歌相互評⑬ 柳本々々から中家菜津子「離さないで」へ

2017-11-04 13:22:03 | 短歌相互評

 

Never Let Me Go(離さないで)   中家菜津子 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-10-07-18775.html

 

キャシーのために  柳本々々

 

中家さんの連作タイトルは「離さないで」。詞書にも「お前はほんとうの花ではないこと」と書かれているがこれはカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』のオリジナルとコピーのテーマを想起させる。

 飽食の時代の宝飾店のカフェ グレーのスーツの男ばかりだ

「飽食」=「宝飾」の時代という表面的な価値観があふれる世界に、色をうしなった「グレーのスーツの男ばかり」がコピーのように現れる。

そういう世界のなかで、《離さないで》と訴えかけることはどのような力と無力をもつのだろう。

 ringoって書いてあるから林檎だとわかる真っ赤な〇の記号は

 無意識に選んでいるんだ、炭酸の気泡の音か雨の音かを

ひとつは、微細な眼と耳の感覚をもつことだ。語り手は、「ringo」と「林檎」の差異に注目からそこからそのリンゴが「○」に結びついていくプロセスに注目している(ちなみに「○」は中家さんのひとつのテーマとなっている。○は、生へのうずきだ。参照:歌集『うずく、まる』)。または「無意識」の「音」が、意識上の「炭酸の気泡の音か雨の音か」に分別されてゆくそのプロセスを意識化しなおしている。

これは、微細な意識のひだにわけいっていくことである。無意識と意識の往還をたどるように意識しなおしながら、〈わたし〉の認知がうまれる現場を歌にする。それはわたしが〈そのようにして〉世界とむきあっていたことの小さな〈証拠〉になるはずだ。

カズオ・イシグロの語り口の特徴は、それがたとえ信頼できなかったとしても、ミスリードにあふれていたとしても、〈想起〉にあるが、その物語としての〈長い想起〉とは、認知がたえず波のようにあらわれる現場そのものでもある。

 火葬なら灰があなたの体温と同じになれる瞬間がある

灰とあなたは「同じ」になってしまう瞬間があるが、しかしその「同じ」になる瞬間そのものを〈わたし〉は認知として意識している。
 
 かさねられ母音に打ち消される子音 異国の言葉で囁いていて

かさねられ〈同じ〉にかきけされようとしても、わたしは「異国の言葉」としての声をもとめる。

離さないで、とはそうした認知のひだを言葉をとおして〈生まれ直す〉ことなのではないか。

わたしたちは、語り直し、生まれ直すのだ。たえず。『わたしを離さないで』のキャシーのように。わたしが・わたしを・離さないために。


短歌相互評⑫ 中家菜津子から柳本々々「ようす」へ

2017-11-04 06:47:07 | 短歌相互評


短歌作品  柳本々々「ようす」 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-10-07-18782.html

評者 中家菜津子


あなたにはあなたの大事にするものがあるという話をきいてからうごく

 

馬場さんは、愛とは牛肉のかたまりのようなものかとおもっていた。肩ロースのかたまりとかなんとか。そういうごろごろっとしたものが愛だとおもっていた。血がしたたるような。はなが舞っているなあ。

 

でも、バケツいっぱいのあめ玉のような愛もあるのかもしれないね。こまかくわけられて、まるみをおびた、邪気のない、時間をかけたもの。からだにとりこむような。小学生のころ、隣の席の女の子が机にぎっしりとあめ玉をつめこんでいた。馬場さんはそれをもらったことがある。

 

いったいわたしたちどう歩いていけばいいのかな、と友人が言っている。あめ玉はなめなければ、石のように固いね、と友人がいう。ようす

 

 

*

 

ようす。短歌だけれど。こんな風に読めた。呼んだのかもしれない。韻文を意味の上では散文として。だけどリズムはうたうように。

 

*

 

馬場さんへ

馬場さんのことは、知らないんだけど。馬場さんのことをよく知ってる人がいて。その人を通じてあなたを知ってる。だって、わたしは知らない。誰かが愛をどんなものだと思っているかなんて。あれ、知ってた、わたしの好きな作家は、「愛とは、誰かのおかげで自分を愛せるようになること」って言ってた。でもそれは、直接聞いたからじゃなくて、読んだから知ってるんだよ。恋人が愛をどんなものに例えるか思いつかない。それなのに、馬場さんが愛とは牛肉のかたまりのようなものって思っていたのを、この人は知ってるんだから、馬場さんのこと、とてもよく気にかけてる。過去形だから今は、そうは思っていないことまで知ってるんだ。なんだか。羨ましいな。

馬場さんの思っていた愛は、触れるものだから、体感としてわかりやすいな。存在からポエジーが発生するとき、発生したポエジーをメタファーで書きとめる方法と、存在そのものを書きとめる方法があって、他にもあるけど、短歌は後者を武器としていて。ここでは、ポエジーのメタファーとしての肉。でも目の前に確かに存在しているような生々しい肉。かたまりを二回強調して、部位までいったからかな。その表現が面白くて噛みしめた。わかるよ、肉感的な、あ、的じゃなくて肉そのもののか。質量やなまみの感じ。時間と空間を占める密度。ゴーギャンのハムの絵みたいだな。アガペーとエロスで言うならエロス。「血がしたたるような。」は肉にも。はなにもかかっていて。きっと薔薇なんじゃないだろうか。はなの内部は裏返った肉体そのものかもしれない、存在することへの狂おしい希求を感じるよ。でも、馬場さんは、今はちがうんだよね。そのことをこの人も知ってる。

 

馬場さん、この人にとって愛は、バケツいっぱいのあめ玉みたいなんだね。きっと、かたまりの肉と対比された、この人のあめ玉はさ、アガペーなんだよ。「こまかくわけられて、まるみをおびた、邪気のない、時間をかけたもの。からだにとりこむような。」すごく丁寧でうつくしいと思った。肉塊は存在の結果なんだけど、あめ玉は誰かがつくったものだからかな。精神の結果みたいな。小学生のころ、机にあめ玉をつめこんだ少女は、馬場さんにあめ玉をくれたんだね。与える愛を馬場さんももらったんだね。

白波多カミンの曲に「あめ玉」って歌があってね。「綺麗な空から爆弾をふらせる金があるのなら綺麗な空からあめ玉を降らせたら素敵だね。今日きみがくれたまるいあめ玉を舌の上で転がしてそんな風におもったんだ。色とりどりのあめ玉が見上げた空から降ってきたらいつもは、なかなか話せないあのこともなんだか笑いあえそうさ」っていう歌詞なの。いや、好きだから引用しただけなんだけど。やっぱり、あめ玉ってアガペーだと思う。

 

*

 

短歌を散文化して読んでみて。そのように読むことをこの連作は求めているから。でも作品は小説ではなく短歌なのだから、主体から見た「馬場さん」を見ているのが読者である私自身になる。もし小説なら主体、ここでいう「この人」のことは意識しない。だから馬場さんに宛てたこんな手紙の形式も、感想のかたちとしてはいいのだろう。けれど、友人の歌に差し掛かって思う。短歌は一首完結だ。小説なら起承転結があるが、馬場さんとあめ玉の小学生と友人は直接的に関係がなくてもいい。あめ玉という連作の中で主体の意識のなかでゆるやかにつながっている。

 

*

「友人」へ

 あなたとこの人を、あわせて「わたしたち」と呼ぶとき、不確定要素ばかりの未来で、あなたは無意識に一緒に歩いていくことを決めているんだ。投げかけられた言葉の先に、この人が存在する。それがあなたの歩いている道だ。この人は、なにか答えただろうか、答えるかわりに、あなたのことをよく見ている、あなたのようすを。あなたが未来へ眼差しをおくるとき、この人は、現在を見ている。それがあなたたちの歩き方だ。

とりこまれない、石のように硬いあめ玉。それはまだ物質だ。ずっとかもしれないし。愛にかわるかもしれないし。愛から物質にもどったのかもしれない。またとりこまれるのかもしれない。そのようすも。このひとはきっと見ている。

 

*

あなたへ

ここまで読んできて、最初の「あなた」へかえってみる。

あなたにはあなたの大事にするものがあるという話をきいてからうごく

このひとは。先手をとらない。ずっとようすをみていて、あなたの核心をとらえたから

動きだすんだ。

 

*

この散文を書いている途中で、電話したんだ。「好きなものを好きでいると、最近余裕がなくて、自分を好きになれないって。」って。その人は笑っていた。「それでも、もう、根っから自分のこと十分好きだから、好きなものを好きでいて大丈夫だよ」って。知らないうちに愛も蓄積されていて、無意識の肯定感で自分を守ってくれてるのかな。これも関係ない話。

愛とは。なに?

 

 

最後に短歌を短歌の形に戻してあげなくては。窮屈だったでしょ、ごめんね。

 

*

 

ようす

 

あなたにはあなたの大事にするものがあるという話をきいてからうごく

 

馬場さんは愛とは牛肉のかたまりのようなものかとおもっていた

 

肩ロースのかたまりとかなんとか。そういうごろごろっとしたもの

 

が愛だとおもっていた。血がしたたるような。はなが舞っているなあ。

 

でも、バケツいっぱいのあめ玉のような愛もあるのかもしれないね

 

こまかくわけられて、まるみをおびた、邪気のない、時間をかけたもの

 

からだにとりこむような。小学生のころ、隣の席の女の子が机にぎっしりと

 

あめ玉をつめこんでいた。馬場さんはそれをもらったことがある。

 

いったいわたしたちどう歩いていけばいいのかな、と友人が言っている。

 

あめ玉はなめなければ、石のように固いね、と友人がいう。ようす