ここ最近、言葉を読むことが手放しでこんなに楽しかったことはついぞなかった。『胎動短歌』(Collective vol.3)に収められた数々の短歌(短詩型作品)の、それぞれに現われた言葉の多彩な表情のことである。いよいよ、その後半戦を始めてみることにしよう。お断りしておくが、ここで述べることはすべて私の個人的感想であって、つまるところ私のマニアックな面白がりの記録にすぎないのだから、そこのところはよろしくご理解ねがいます。
前編はこちらをご覧ください。
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生真面目な生徒 マティスが飾られてあるかのように白壁を見る (風の香、ゾンビ、ある夕焼け/千葉聡)
いや、実に痛快だ。だって、「マティス」はもともと飾られてないわけだよね?でも、飾られていないはずの「マティス」が、この作品のなかにまぎれもなく「飾られて」あるよね?これってどういうこと? いやいや、それだけじゃない。あるのはただの「白壁」であって「マティス」は飾られていないのに、私には何故か、「マティス」の飾られた「白壁」が見えてしまうんだけど、これってどういうこと?そうか、そうか、「生真面目な生徒」が「見る」筋書きになってるけど、見てるのはじつは読者たるこの私なんだ。「生真面目な生徒」はほんとうは実在せず、「生真面目」という四文字(餌)に私の感受性がみごとに吊りあげられた結果がこれなんだな。無から有をうみだす、これは見事すぎるお手本だね。
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城壁に這いながら沿う朝顔のようにあなたを奔る静脈 (クロール/toron*)
いちばんの謎は「あなた」です。いえ、そこのあなたではなくて、「あなた」という二人称の指示対象が謎なんです。そもそも「あなた」っていったい誰のことよ? 恋人? 自分自身? それとも不特定多数の誰でもない誰かのこと?いやどれも違うな。つまり「静脈」に還元されるところの対象じゃなくて、もっとぐねぐねしたもののイメージだね。「城壁」をここで身体表面のメタファーと捉えれば、それに沿ってぐねぐねと伸びる「朝顔」はまさに生き物としてのリアルな姿。とっても生々しい感覚となって、そこにはエロスを感じるね。「朝顔」と「静脈」は「~のように」で繋がっていて同格になってるから、「あなた」はそうした生命現象そのもののことだと私は思うんだが、どうだろう?
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はなびらはなびらはなつひらひらももいろのやわらかなそれをいま抱きしめよ (点滅/野口あや子)
コトバってオトだけでもないしモジだけでもないしイミだけでもないし、それらぜんぶを含みこんでさらに余りあるナニカだよね。そのナニカがいかんなく発揮されているこれは作品だと思ったね。「やわらかなそれをいま抱きしめよ」はそんなナニカを「抱きしめよ」と言ってるように私には聞こえる。じゃ、その「それ」とはなんだろうか。「それ」とは「はなびらはなびらはなつひらひらももいろの」ナニカだ。ということは、コトバでしかないものだ。コトバでしかないのにコトバいじょうのナニカだ。このばあい「やわらかな」という形容詞はことのほかだいじだね。「やわらかな」コトバはだれも傷つけないわけだから、「はなびらはなびらはなつひらひらももいろの」はコトバのそんな優しさの‶絶対語感〟じゃないのかな。
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きみのなかみが機械だったらいいのに、は そこなし沼に投げる飴玉
わたしにはきみしかおらずきみもまたわたしばかりで 剣飲むマジック (こころスカッシュ/初谷むい)
短歌が言語ゲームかもしれないという直感がわたしにはあって、だとしたらそれはかならず対話を形成しているはず。この二首なんか、上の句と下の句が張り合いながら対話している、そんな感じがする。みえない天秤がここには仕組まれている印象があるね。どっちか一方に傾いてしまったら、ちょっと鼻白むかな。だから勝負はコトバとコトバのバランスの取りあいで決まってしまう。たとえばはじめの作品では「機械」と「飴玉」の勝負になってるね。二番目の作品では「わたしにはきみしかおらずきみもまたわたしばかり」と「剣飲むマジック」が、勝負というより、もうこれは決闘だな。MISOHITOMOJI(短歌)というリングのうえで繰り広げられるコトバの異種格闘技には、つい興奮してしまうのです。
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生き物のすべての言語理解して最後の花はちぎれてゆくの (銀の靴/東直子)
なんかとてつもないことが、あまりにも簡単に語られてしまい、こちとら拍子抜けしてしまうところが、なんともいいね。拍子抜けついでに言わせてもらえば、鳥や獣や虫や植物にもそれぞれの「言語」がほんとうにあるのかという話し。わたしたちは「言語」がないとすごく不便なことになるけれど、「言語」をもたないはずの彼らは、そのことでぜんぜん困っているようにはみえない。それでもちゃんと生きている。その仕草がすでにしてかれらの「言語」なのかもしれないね。〝自然言霊〟と私は呼んでるけど、「最後の花」っていうのはそこに通じる詩的言語のことじゃないのかな、たぶん。「ちぎれてゆく」ことが作品化の契機を物語っているとすれば、〝もののあはれ〟はまちがいなくそこに誕生するのだと思う。
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春を売る人に負けじと夏を売る 祖父の育てたスイカが売れる (Paradigm Shift/ひつじのあゆみ)
おお、これは商売の競争のことを詠っていると見せかけて、じつはスイカを売ろうとしたキャッチコピーなのか?んなわけないない(笑)。とても骨太い力強さを感じてしまうのは何故なのだろう。「祖父の育てたスイカが売れる」ことが、ここでは、はからずも無償な救済になっている。たぶん、それは大きくて甘くて水分のゆたかなまるまるずっしりとした「スイカ」なのに違いない。「春を売る人」が売ってるのは「春」にすぎないわけだけど、「夏を売る」人が売るのはただの「スイカ」ということではなく、「スイカ」に象徴される生命力の贈与そのものなんだという、これは表明だね。こんな単純明快ないいきりが、こんなにドラマチックにいえるなんて短歌ってやっぱりすごいかも。
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創世記からの顔風船だけで浮かんで死ねる(つもりなのかい (「24:球体john」/平川綾真智)
いえ、そんなつもりは……とおもわず反応してしまいそうな喉仏であります。「顔風船」っていかにも軽そうなイメージだけど、私なんかどうしても2021年に代々木公園上空に出現した「まさゆめ」プロジェクトの、あの異様な〝顔風船〟の光景が思い浮かんでしまって、どうもよろしくない。それはともかく、「創世記」は起源の物語だから事実でないことは当たり前だとしても、信じてるひとからすればそれは事実ではないことのうえに事後の物語をつむいでいくことになり、そんなフェイクのうえにフェイクをうわ塗りした高貴なストーリーにそって殉難死してくださいっていきなり頼まれても、そりゃ困るよね。だから、こうして問いつづけてるわけだ。閉じカッコがないのも、たぶんそのためなんだろうな。
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右側は苦い光だ瀬戸際のダッシュボードの下の太腿 (地獄ハイウェイ/広瀬大志)
対向車線なんだろうか、追越し車線なんだろうか?車を運転してると右側ってやっぱりつねに気にしてないといけない方向なので、のんびり景色を堪能なんていうわけにはとてもいかない習いなわけです。朝陽が射しかかっていても夕陽を浴びていたとしても、それは変わらないから「苦い光」はにがいままにいつしか車中の日常世界に乱反射するようになります。そんな生と死の「瀬戸際」に位置するダッシュボードは、退屈な命数をその手ににぎってしまっているから、せまい車中空間のなかでゆいいつ視線をはしらすことができる、そんな許された視界にはいってくる「太腿」って、いったい誰のフトモモなんだろうね?まさか自分のじゃつまらないよね。あとはご想像におまかせしますよ。で、頼むから事故らないでね。
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この世にはものまねされる人もいるウニ軍艦はきゅうりも乗れる (ショート、バッドロング/文月悠光)
「ものまねされる人」にとってものまねされることは、嬉しいことなのだろうか? ものまねされたことがないので分からないのだが、どちらかというとそれは愚弄というよりは賛辞なんだろうね。「ものまねされる」には、多くのひとに慕われる存在であることが理想だし、場合によっては、ものまねすることで自分も慕われる存在になれるかもしれないからね。ところで「ウニ軍艦」に「きゅうりも乗れる」とは知らなかったな。「ウニ軍艦」はひょっとして「軍艦」のものまねで、それに「きゅうり」を乗っけたらカッパ巻のものまね? でも、寿司ネタとしてはどっちも慕われてるよね。こうして世界は、互いを〝ものまね〟しながら、共感のかたちを広げていくのだとしたら、ものまねも寿司もネタには事欠かないことだろうね。
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ほらあれだいまのセックスの説明にぴったりだあの簡単な形容詞 (デザイン担当のMさん/フラワーしげる)
あるコトバってべつのコトバでかんぜんに説明しつくせるとふつうは思われてるけど、怪しいものだ。なんとか説明しようとして、結局、説明できなかったことが、もっとも雄弁な説明になっているなんてこともあるからね。これは「セックス」の説明のようだけど、なんの説明にもなってないことで、逆に読む人にそれを想像させようという魂胆なのだろうけど、その日の体調や気分によって、きっと変わるのだろうな、この想像上の「形容詞」は。それって〝よかったー〟なのか〝さいてー〟なのか〝オーマイガー〟なのか、あっしには関係のねーこってござんす、と言いきれないところが人間の性。やっぱり気になるわけよ。でもね、この短歌の説明にぴったりのあの簡単な形容詞を私が決めちゃだめなんです、はい。
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死ぬるときには皆呼びて思ひつきり苦悶の表情浮かべてやらむ (思ひつきり/堀田季何)
生前葬ってたまにやる人がいるけど、他人さまを呼んでやるからにはやはり自分に注目してほしい気持ちが絶対にあると思うんだよね。人の死にざまにはいろいろあっても、関係的な本質をもっていることでは変わりがない。でもそれは生き残っている側からしてのことであって、死んだ本人にとってはあずかり知らぬことのはずなんだが、でもこの歌は死んだ本人がじぶんの死に〝あずかり知ろう〟としてるわけだ。いや、往生際が悪いというか人が悪いというか、みあげた心がけだと思います。「苦悶の表情浮かべてやらむ」という心情はすごく分かる。死人に口なしをいいことに、周りの奴らが勝手なことをいえないように、死んでからも睨みを効かそうというのだから、それを告知できる短歌ってやっぱりすごい。
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スローガンみたいな広告コピーみたいな標語みたいな短歌が好きだ(2023年2月2日)(短歌が好きだ/枡野浩一)
短歌というものをわがくにの伝統に根ざす詩文学表現の一形式としてとらえるかぎりでは、「スローガンみたいな広告コピーみたいな標語みたいな」ものは、たぶん、歌壇的な評価基準からしたら、排除の対象にされてきたのではないかと思う。おなじことは戦後の現代詩の世界にもあって、おおむねそうした類の作品は冷や飯を食わされてきた歴史というものがあった。でも〝そんな詩が好きだ〟っていう心情は、あったにしても詩になりづらかったとみえて、ほとんど聞かれなかったね。でも短歌だとこうやって言えてしまえるんだね。いいんじゃないだろうか。いいかえれば〝短歌短歌してない短歌が好きだ〟ってことじゃないのかな?だったら私も心から賛同するよ。だってこの歌じたいが〝そう〟だから。
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ひとはひと わたしはわたし はなははな 君が散ったら わたしは寂しい (葬花早々/宮内元子)
AはAでありBはBであるとはいわゆる論理学上の自同律であって、これを不快だと感じたところから自由な想像のせかいは翼を求めるようになるんだと思ってきた。でも、最近は、そうじゃなくてAはじつはBなんじゃないかということに気づいたようなところが私にはある。「ひとはひと わたしはわたし はなははな」だとしても、「ひと」がもしかして「はな」でもあり、「わたし」ももしかして「はな」だとしたら、「ひと」はつまるところ「わたし」なんだという帰結になるよね。「はな」が散ったので「わたしは寂しい」のじゃなくて、「あなた」が散ったから「わたし」は寂しいのですよ。存在レベルでこれはたしかに言いうることだと、最近になってようやく気づくようになった。ああ、とても寂しいや。
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このままでいれる気がした晴れた日とインターフォンの剥がれたシール (ポートレート/宮崎智之)
こころが落ちこんだ日の朝や気持ちがふさぎこんだ日の夜に、自分ではもうどうしようもない、もはやこれまでといった気持ちが勝ってきて、死にたくなるようなときってきっと誰にもあると思うんだよ。私にもあります。でもね、すごく不思議なんだけど、理由もなくまったく意味もわからず、とつぜん気持ちがパーッと晴れていく瞬間ってものも本当にあるんだよ。私がいうのだから間違いないよ。「このままでいれる気がした」っていう究極の自己肯定感に、心からの祝福をおくりたい!おてんとうさまは分かるとして、この「インターフォンの剥がれたシール」って、こういう何でもないものが自分を救うことだってあるのさ。この歌の作者もきっとそうだったんだ、だってこれはリアルであって表象じゃないもの。
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バスを待つきみのかたちの凸凹に朝のひかりが乱反射する (まわる春、かわる春/村田活彦)
とおいとおい記憶をはるかによびさまされた一首でした。まったくおなじような朝がかつて私にもありました。高2の春だったとおもいます。バス通学していた私のまいあさの関心事は、キミが今日もバス停に並んでいるだろうかという、そのことだけでした。ある天気のよい朝に、私がいつものようにバス停にむかっていくと、そこにはこっちをみて微笑んでるその「きみのかたちの凸凹」が「ひかり」のなかに乱反射してたんです。忘れもしません。50年以上をすぎたいまでも鮮明にまぶたに焼きついています。この歌のまんまです。わかるよね、なぜ「乱反射」してたのか?それは後光だったからだよ。まぶしくてとても正視なんかできない。ひかりのなかの「凸凹」、それが偶像としてのキミだった。アリガトウ。
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生きるとは胸のどこかにこみあがる、美術室の、牛の、頭、蓋骨、の、眼。 (ジュース、ジュース、ジュース!/和合亮一)
〝わからない〟を〝わからない〟ままにコトバにするって、ひとつの技法であることはそのとおりなんだが、でもなぜそれが美をはらむのかが、じつはわからない。コトバのもつ美なのか、コトバがかもしだす美なのか、コトバがうつしだす美なのか、かりにそれが分かったところで、美がよってきたる源泉がどこなのかわからない。だから、惹かれてしまうのも美のもつぬぐいがたい魅力だともいえる。「美術室の、牛の、頭、蓋骨、の、眼。」って、メタファーじゃない、アレゴリーでもない、オブジェでもない、「胸のどこかにこみあがる」いくつかのフィギュール、「生きる」とはその途切れがちな連鎖だといわれているね。コトバにできない美があること、それが「生きる」ことだと、コトバは究極そういってるね。
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人違いだが「よぉ!」と手を上げて座る 自分が誰かであろうとよい (街を歩けば/ikoma)
アイデンティティというものが未確認だと、人は焦りまくるもの。じぶんが宇宙人になってしまうような、そんな危機感となって来襲するのかと思いきや、存外そうでもない生き方があるんだと教えてくれる。自分が誰かではないことって、けっこう気楽な面もきっとあるんだろうし、相手がじぶんをちがう誰かだと勘違いしてるときってマジで自分が自分でなくなれる唯一のチャンスかも? だから錯覚でもなんでも「自分が誰かであろうとよい」と言いきれるってとてもおおらかな気がする。それを許してしまうのが東京なのだろう。最近スタバで勉強する人が多いのもそのせいかな?そこではお互いが無言のアクター、アクトレスになり、内面はともかく外面はかんぜんに自分のものじゃない時間が守ってくれるからね。
さて、『胎動短歌』(Collective vol.3)をめぐる私の読み解きの後半戦も、こんなかたちで無事終了です。
いや、とっても面白かった。存分に楽しませていただきました。ここに集ったすべての書き手のかたがたに、この場をかりて心からの感謝をお伝えします。ありがとう!!!
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