「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評 第94回 短歌から作者像を読み解かせない、ふたつの試み オカザキなを

2013-05-19 10:39:36 | 短歌時評
「角川短歌」2013年5月号の「北原白秋『桐の花』×斎藤茂吉『赤光』刊行100周年記念座談会」を読んでいて、ふと奇妙な心地がした。
 司会進行の三枝昂之が「まず、白秋と茂吉、友達になるとするとどちらがいいかな。」という問いかけから座談会が始まっていたからだ。

 問いかけ自体は誰にでも答えやすく、会話の切り口としてもふさわしい、心和むものだと思う。
 それでも、会ったこともない白秋や茂吉を友達にするかどうか考えられるということが不思議だったのだ。白秋や茂吉を知る人物が二人について書いたものを読むことはできる。だがそれは個々の人物にとっての白秋・茂吉像であって、自分にとってどうなのかはわからない。残っているのは白秋・茂吉の作品であって、今を生きる私たちには、彼らがどんな人物なのか直接知ることはできない。
 そう考えてみると、この問いかけは、ある前提の下に成り立っていることがわかる。
 「短歌から作者像、現実の人間としての歌人の姿を読み取ることができる」という前提だ。

 「歌壇」2013年5月号の中沢直人による「時評 それからの情景」からも同様の前提を感じた。家族をめぐる個人的体験から書き出されたこの時評では、中沢と同世代の歌人たちの歌とその日常について読み解かれている。

 その中でも家族詠に引き込まれるのは、生の根拠を自らに依存する存在との関わりが作者の心に緊張感を与え、歌を豊かにしているからだろう。
(中略)
 後半を彩るこうした作品は、この歌集を穏やかな光に満ちたものにしている。(中略)単身者の寂寥をうたっていた作者も右へハンドルを切ったらしい。それは変節ではなく、幸せな必然だったに違いない。


この読み解きの中では、作品自体の魅力と、それぞれの歌人の生き様とが強く結びついている。
 「短歌は、それを詠んだ歌人を投影している」、という強い信頼がそこにはある。

 短歌のみに触れていると、こうした前提、信頼は当然のものに思えるかもしれない。だが、小説の批評に作者の現状が触れられることはあまりない。現代詩の批評でも同じだ。
 作品と作者像を結び付けて考えるのは、短歌ならではの独特な感覚なのだ。
 短歌のこうした特徴は、これまでも「私性」の有り様として論じられてきたことであり、今さらと思う人もいることだろう。
だが、短歌は詩である。作者像に寄り添った短歌の中には、魅力的な作品も多いが、一方で現実の作者像に寄り掛からずに成立する作品は、短歌の詩としての幅をより広げてくれるのではないだろうか。

 瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』と中島裕介『oval/untitleds』はそんな新しい短歌を予感させてくれる。

可聴音域のガラスのなかでも 行方不明の目をあけていられるかと
みずからうみ眺めるようなもので 外国の女性の方は下の毛も金色ですし
ETのよだれのような緑色の液体で Merry Christmasと書かれてしまう
夢の中でほんとうに見たけれど 胸に赤・白・灰のつやつやの毛がびっしり
あの世みんなはやく結婚して… 夕焼けが栞のように電線に絡まって
疲れた帽子をかぶっていくと見えなくなる
みんな人妻だよ きみのきれいなちんぽもね
とてもちいさな墓場からもどってきたときには 選べる?
みずうみは銀の 南のシンバルを何度も重ねて
もっと自信を持てばいいのにとずっと思っていた
冷蔵庫から稲妻が漏れてくる 他人の家でパソコンをつけたままねむるのは気持ちがいい
背中の上に繰り返す船がいるのが見えて 危ない
悪いけど俺の親は本物の医者
まばたきばかりして、きのこみたいだ
まだ入歯じゃないということが恥ずかしくて仕方がないの?

瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』


 これが一首だ、と言われて驚かない人はいないだろう。不可思議な言葉の羅列に、これは詩かな、と思うのではないだろうか。
 よく見ると、あちこちに太字が点在している。それをつなぎ合わせるとこうなる。
みずうみを鞄にしまうあの世の疲れたみずうみ繰り返すまばたき
 短歌は解体されて詩となり、同時に解体されながらも短歌として埋め込まれている。マシンガンのように言葉は次々と発射され、そのところどころに短歌が埋まっている。このマシンガンを心地よいと感じるか、理解不能と拒否したくなるかは読者によりけりだろうが、非常に刺激的な、実験的作品ということは言えるだろう。
 残念ながら印刷の関係か、太字がやや見えづらく読み取りづらくはあったものの、ペンを片手に、言葉の飛沫を浴びながら短歌を発掘していくのは私としては面白い体験だった。

 一方、中島裕介『oval/untitleds』では「予測変換機能によるインプロヴィゼーション」「予測変換機能によるコンタクト・インプロヴィゼーション」として、携帯電話の予測変換機能を使った短歌が展開されている。
 携帯電話ではひらがな一文字、または二文字を入力すると、自動的にいくつかの言葉が表示される(これを予測変換という)。この機能を使い、最初の一文字か二文字はランダムに入力し、出てくる一語を選び、さらに提示される予測変換から一語を選択していく。その繰り返しにより、一定の長さになった語句を短歌形式に整えて作ったという作品群だ。

我々も日本そのものなのであるとどうか宜しくお伝え下さい。 
中島裕介『oval/untitleds』

改札へ向かうスーツの群れはいつ自慰の最中の精液となる
雨だから家に送るよ。少しだけ素敵なとこが好きになるまで


 作り方の説明を読むと、機械が作った歌だと思われるかもしれないが、そうではない。
 予測変換には、よく使う言葉が表示される。言い換えれば、作者、または携帯の保有者の日常が醸し出されている。
予測変換機能で並べられた言葉の中から、自分が面白いと思うものを選ぶ。さらに最終的に短歌として整える。その行為に作者の意識は反映される。
 作者像に結びつかないにも関わらず、明らかにこの短歌には作者の日常や意識が反映されているのだ。
 作者の存在によって生み出されながら、作者像と作中主体を強く結びつけることのない興味深い作品といえるだろう。

 瀬戸、中島のこうした手法は誰もが手を出せるものではないし、繰り返し同じ手法で作られることに意味のあるものではない。現状の短歌を解体しようとした、そのことに何よりも価値があるからだ。
 これからの彼ら、彼らの作品に刺激を受けたこれからの歌人がどんな作品を提示していくのか、私性や詩としての短歌は今後どうなっていくのか。新しい短歌の流れにつながるものとして、期待とともに注目したい。

短歌時評 第93回 過去から来た震災詠 ~石井辰彦の作品をめぐって~ 山田消児

2013-05-10 00:00:00 | 短歌時評
()()なればこそ洗はるれ。(ジン)(ルイ)が((くそ)(まみ)れて)()む地は ―――――波に
(はき)()が、さ、しないかい? 世界がこんなにも搖れてゐるゆふまぐれには……
手を振つてゐるのか? (ゲツ)()(おほ)(ぜい)のだれかが溺れかけてゐるのか?
やがてまた()る、てふ、()(シン)。満月の(あまりに!)美し(うつく)い(ある!)(よる)


 石井辰彦著『ローマで犬だつた』(書肆山田、2013.1)収載の「(雪月花)あるいは(intermezzi)」から引いた。今これらを読んで2011年3月11日の東日本大震災を思い浮かべない人はまずいないだろう。だが、119首から成る連作の中に戻して読み返してみると、受ける印象もだいぶ違ってくる。そこに描かれているのは現実に起こった特定の震災ではなく、あくまでも作品世界の中で作者によって起こされた地震や津波であり、歌は、それらに遭遇した作中の語り手による情景描写や、彼自身の内面に生じた心の動きを表す述懐の言葉なのである(連作中にはあたかも一人称代名詞の一種であるかのごとく、いくたびか「詩人」の語が現れる)。
 と、ここまで書いてきたのは、付随的な情報を抜きにして作品だけを読んだ限りにおいての感想である。
 実は、『ローマで犬だつた』の収録作品には古今東西の既存文芸作品からの引用が数多く取り入れられており、そのうち欧文の引用については、作者自身によって簡潔な註が施されている。註は、各連作の初出データもしくは解題とともに「(航路標識)あるいは(書檠)」と題した別冊にまとめられているのだが、その中の「(雪月花)あるいは(intermezzi)」の項を読んでみると、以下のことがわかる。まず、初出は2005年であり、したがって、作品は東日本大震災を踏まえたものではありえない。次に、掲出歌とは別の歌2首に含まれる仏文の引用句に付された註から、1755年に起こったリスボン大地震が作歌の背景として浮かび上がってくる。その引用句とは、フランスの哲学者ヴォルテールの小説作品『カンディードまたは最善説』(オプテイミスム)の中の同地震に関係する記述であり、註で出典を知ることによって読者は250年前の異国の大震災を意識した読み方へと導かれることになるのである。
 ただし、ここで言っておきたいのは、だからといって、歌をリスボン大震災を詠んだものと単純に規定してしまったのでは、作品が内包している世界を狭めてしまうということである。もともと、引用句自体には特定の史実を指し示す情報は含まれておらず、また、初出時には本編のみで発表され、註はついていなかった。つまり、作者自身が別冊で述べているように、引用はあくまでも「重層的な読み方を促す」ものであり、作品自体は出典についての知識がなければないなりの自由な読み方ができるように作られているのである。横文字の引用句については、意味がわからなかった場合、一首の鑑賞にまで支障を来すのを避けられないが、連作単位で見れば、文字が意味を失ってモノ化することにより、作品世界を飾る小道具としてうまく機能しており、フランス語の読めない私でも、「読めない」ということをひとたび受け容れてしまったあとは、さして違和感もなく鑑賞することができた。
 なお、石井は、別冊で自ら「この作品を母体として生まれた」と述べる、地震を描いたもうひとつの連作「人類に告ぐ」を書いており、こちらは『ローマで犬だつた』よりも先に刊行された作品集『詩を弃て去って』(書肆山田、2011.3)に収録されている。「(雪月花)あるいは(intermezzi)」と内容的に直結するのは3連構成になっているうちの1連め「海は泡立ち地は搖らぐ日に」10首で、エピグラフに『カンディード……』から引いたリスボン大地震の描写(仏文)が置かれ、本編は全て地震の歌で統一されている。2008年に朗読用テキストとして発表されたのが初出だが、のちにこの作品はちょっと出来すぎともいえるような思いがけぬ運命を辿ることになる。『ローマで犬だった』別冊の記述をもとにその間の経緯を記しておく。
 「人類に告ぐ」は2011年3月15日にパリで開催された《第13回詩人の春》というイベントで石井自身によって朗読される。それに合わせて、作品のフランス語訳が限定版小冊子として刊行され、さらに翌2012年には“L’Archipel des séismes : Ecrits du Japon après le 11 mars 2011”という書物にも収録されることになる。『ローマで犬だった』別冊には詳しい説明は書いてないが、調べてみると、“L’Archipel des séismes”(日本語に直訳すると「地震の列島」)は東日本大震災後に日本の文学者らが発表した震災関連の文章や詩歌作品の仏語訳を集めたアンソロジー本だとわかった。
 パリでのイベントの詳細を私は知らないが、その日程や小冊子が刊行された事実を考えるなら、おそらく「人類に告ぐ」の朗読は事前に予定されており、その直前に起こった東日本大震災と結びついたのは偶然の結果だったのではないだろうか。もし仮に、震災の発生をうけて急遽対応したのだとしても、作品自体が震災以前に書かれていたことに何ら変わりはない。つまり、もともとは歴史上の出来事である18世紀のリスボン大地震を題材として作られた作品が、内容はそのままなのに、東日本大震災というリアルタイムの天災に巡り会い、それを意識して朗読され、震災関連作品のアンソロジーに収録されることによって、新たに震災詠として生まれ変わったのである。
 ここで考えさせられるのは、事実と作品との関係についてである。たとえば東日本大震災のように誰もが知っている出来事を題材に詠まれた歌は、その出来事とセットで鑑賞されるのが普通であって、それを好ましくないことだと考える人はあまりいないだろう。だが、セットでなければ鑑賞に堪えないのなら、歌が出来事に寄りかかりすぎて作品として自立できていないということになる。また、逆に、石井の連作のように実際には東日本大震災とは無関係に書かれた作品を、その成立事情ゆえにはじめから本物の震災詠とは別物として扱うことも、やはり適切ではないように思われる。
 石井の連作における地震の歌は、ヴォルテールの小説の中で描かれたリスボン大地震を題材としながら、それとは切り離しても読めるという点で自立しており、それゆえにこそ、あとから東日本大震災が起きたとき、作品の側から主体的に事実へとリンクしていくことができたのだろう。しかしながら、現実に目の前で震災が起きてしまった今、そこから完全に自立した地震や津波の歌を作ることは、誰にとってもきわめて困難である。震災による死者や被災者の存在を思い浮かべたとき、人間が津波にさらわれる情景を映画の一シーンのように描いたり、「穢土なればこそ洗はるれ」のような高踏的な物言いで津波を表現したりすることが、はたして躊躇なくできるのかどうか。そういう書き手側の心理面の問題なども含め、事実を踏まえつつ、その圧倒的な力に押し流されることなく対峙していくための創作のあり方について、私たちは考え、模索し続けていかねばならないのだと思う。
 折しも、当サイト「詩客」の2013年4月5日号に、石井辰彦が新作「逃げ去る者を追つて」20首を発表している。それを読みながら、異国の地を放浪する難民たちと二重写しになって見えてくるものの姿に気づいたとき、私は、主題との距離を慎重に測りながら歌を一首ずつ確定させていく作者の強固な意志を感知して、大いに刺激を受けた。
 その連作中にこんな歌がある。下句がいささか唐突で、趣旨明瞭な作品が並ぶ中では例外的に鑑賞のし方に迷う一首だが、作者自らの過去、そしてもしかすると現在や未来の歌業に言及した歌であることは、たぶん間違いないだろう。

(ヤク)(サイ)を((かね)て)(うた)つておくことを、()づ。  春を賣る(セウ)(ヂヨ)の部屋で


山田消児(やまだ しょうじ)
歌誌「遊子」「Es」同人
個人ホームページ:「うみねこ短歌館