笹井宏之『えーえんとくちから』は読みやすい。普段短歌を読むことにそれほど積極的でない僕は「短歌はここまで来ていたのか!」と驚いてしまう。笹井宏之は1982年生まれ。2009年に亡くなっているいわば夭折の歌人である。『えーえんとくちから』は2011年に刊行。2019年1月に文庫化された。文庫版の冒頭に「短歌というみじかい詩を書いています」とある。それゆえ本稿では、笹井の作品を「詩」と呼ぶことにするが、それでは彼にとって詩とは何なのだろう。
読みやすいけれども、ある種の分かりにくさが確実に存在している。そこに辛うじて彼の短歌の存在理由がある。結論から言えば、その「分かりにくさ」を創り出している要素が「詩」なのだと思う。分かり易い事柄は新便記事で充分だ。誰もまだ気づいていない感覚、意識されたことのない観念に出会う時そこに詩が出現する。現代詩の場合も同じなのだが、その「自由な長さ」が逆に災いする。分かりにくさを醸し出す舞台設定を準備する時点で、読者は疲れて何処かへ立ち去ってしまうことが少なくない。誰かが「現代詩を読むにはそれなりのトレーニングが要る」と言っていた。それはそうだろう。でもそれだからこそ、「通」しかその世界を楽しむことは出来ない。短歌の場合、否、少なくとも笹井宏之の詩の場合、分かりにくさはすぐに伝わる。勝負は一瞬で決まるのだ。
以下、本稿ではBest10を紹介することで、1人の若い書き手の短歌が「文庫化」という形で時代の舞台にせり上がって来た状況を時評として確認しておきたい。
1 午前五時 すべてのマンホールのふたが吹き飛んでとなりと入れ替わる (P46)
これは一体どういう感覚だろう。ものすごく前衛的なイメージフィルムの世界だ。マンホールの蓋が吹き飛ぶというのは、現実には大雨で下水道が増水した場合などが考えられる。しかし、面白みとスピード感が「ウエットな感じ」を吹き飛ばしてしまうからだろうか。からりと晴れたもう明るい夏の朝、マンホールだけが次々と入れ替わる奇妙な世界を僕は想像した。君と僕。彼女のあのコ。互換不可能であるところに全ての存在価値はある。一方作品内現実では、ぽんぽんと横のマンホールの蓋に収まってしまう。誰かは誰かのスペアでしかない。そんな絶望もどこかに微かに匂っている。このどうしようもない感覚のことを、人はやるせなくて「詩」と呼びならわしている。
2 この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい (P6)
森で軍手を売るとは何? 誰に? 何処で? それは不思議なメルヘンを想起させる。森のまん中に、全ての人が自分自身のための野菜畑を持っている。その野菜畑で畑仕事をするためには、魔法の軍手を買わなければならないのだ。魔法の軍手で森の大木の幹に触れると、中から果物や野菜がごろごろ獲れる。ある日小さな男の子が、野菜ではなく本を収穫する。じゃがいもだと思って掘り出したもの、それは1冊の本だったのである。男の子は次から次へと本を掘り出す。どうしようもなくなって図書館を立ててしまう。こんなもの建てるつもりはなかったんだと彼は呟く。その男の子とは言うまでもなく、笹井宏之その人なのだ、という一つの儚い夢のような物語を僕はこの一行から夢想する。
3 しっとりとつめたいまくらにんげんにうまれたことがあったのだらう (P21)
蒸し暑い夏。ひやっとする感触のまくらカバーに触れると、それだけで喜ばしい気持ちになれる夜がある。まくらを抱くと、それだけでひんやりとしてどこか安心する。表現としてこの詩が優れているところは、それを「にんげんにうまれたことがあった」のだと言い表しているところだ。かつて人間だった体験があるから、まくらに触れる人と、分かり合うことができるのだ。はじめ僕は「まくらにんげん」に「うまれたたことがあった」という、私の過去の思い出せない記憶について歌っている詩かと思った。ちょっと変だが、それを否定し切る決定的な根拠を見出すことは出来ない。
4 ゆびさきのきれいなひとにふれられて名前をなくす花びらがある (P40)
5 だんだんと青みがかってゆく人の記憶を ゆっ と片手でつかむ (P73)
6 悲しみでみたされているバルーンを ごめん、あなたの空に置いたの(P38)
4~6は「分かりにくさ」が低い分、詩としての気高さに若干欠ける嫌いがある。4の詩はしかし、それでも「きれいなひとにふれられて名前をなくす」なんていうのはロマンチックだし、しかもそれが人ではなく「花びら」のことだ、というワンクッションおいた形で描かれているのも面白い。「がある」で締められているものも、全てがそうではないんだ、という妙な不安感を煽る高度な技術である。5の詩は、誰もがおそらく注目するように「 ゆっ 」で勝負が決まる。余りにもインパクトが強いので忘れがちだが、薄れる記憶を「だんだんと青みがかってゆく人の記憶」というように実際の色彩に置き換えたところに一瞬の分かりにくさ=途惑いを生み、それが絶妙な詩との遭遇感覚を読者に提示するのだ。6の詩は僕の感覚だと「ベタ臭い」感じがしないではない。しかし、これを恋の悩みの共有として考えるとき、極めて高いリアリティが感じられる。
7 昨晩、人を殺めた罪によりゆめのたぐいが連行された (P119)
8 完璧にならないようにいくつもの鳩を冷凍する昼さがり(P 33)
9 わたしだけ道行くひとになれなくてポストのわきでくちをあけてる(P98)
7~9は「分かりにくさ」が僕には若干過剰な詩たちの例。7は、誰かを殺めたいという欲望によって、それを想像した人自身の「ゆめのたぐいが連行された」という詩。人を憎むと、自分の中の大切な何かが失われる。8の詩は面白いが分からないが面白いが分からない、と何巡もする。それでこういう風に考えてみた。うじゃうじゃとひしめき合う公園の鳩たちのいくつかにロックオンし、その中の何羽もが凍り付いたように固まって動かない様子を発見した「昼さがり」の瞬間ではないか、と。9は、「ポストのわきでくちをあけてる」私の、他の人に交じれない感覚。「道行くひとになれなくて」という言葉から、他の人ほど冷徹になれない自分の弱さをちょっと不甲斐なく思いながらも、ポストに付き合って一緒に口をあけて立っててやるという発想自体に気づくまで少し僕はぽかんとしていた。
10 泣きそうな顔であなたが差し出したつきのひかりを抜くピンセット (P93)
この詩に関しては、「まあ!こんなにも美しい詩もこの本の中にはあるのね!」という意味でこれを紹介するに留めておこう。
笹井宏之『えーえんとくちから』は読みやすい。と最初に書いたが、本稿で述べたように「読みやすくて分からなくて、でも1周回って読みやすい」奇妙な代物。そしてその奇妙さが詩の命脈。笹井宏之の詩を読んでいると、「現代詩」というジャンルの、一般的に言ってだらだらと長いそのあり方の愚について少し考えさせられてしまった。
(2019年1月 筑摩書房刊 680円)
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