「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 静かで淋しいファンタジー~佐佐木定綱『月を食う』を読む 平居 謙

2020-09-20 20:27:11 | 短歌時評
 
 
0 はじめにー最近の短歌たち


 ここ1年半ほどの間この「詩客」の短歌評のために、集中的に「ごく最近の短歌」を読んできた。もちろん集中的にと言っても、それまでの僕と比べてということだけであって、歌壇の何物をも知っているわけでもない。それでもどことなく若い人たちの書く短歌の全体としてのありようが、少しつかめた感触はある。短歌の最現在に対して、僕は最初とても感心した。よくぞこんなところまでやってきたものだ、という感じがしたからだ。こんなところまで、というのはまあ一言で言えば「短歌くささ、定型くささを感じさせない最果て」くらいに言えばよいだろうか。≪これならばもう短歌とか定型とかいう枠組みを超えて、僕が長年書いてきた「詩」として普通に読める≫というそんな印象さえ持ったのだった。ところが、これがいけなかった。




1 静かな短歌が読みたくなったー佐々木定綱『月を食う』


 「短歌くささ、定型くささを感じさせない」ということは「短歌らしさ、定型らしさを感じさせない」ということ、もっと言えば「短歌らしい良さ、定型らしい良さすら感じさせない」ものでもあることに気付くと、急に気持ちが醒め始めた。最現在の短歌をいざ、「詩」として読もうと垣根を取り外してみるやそれはただ単にのっぺりとした、詩としても下らない下らなさすぎるたわごとの部類でしかないものに出会う確率が増えてくる気がした。これまでこの詩客で論じた千種創一『砂丘律』や薮内亮輔『海蛇と珊瑚』のレベルを持った対象を探すことは、現代詩の中において何冊ものちんすこうりな『青空オナニー』や最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』を探し当てることと同等以上の血眼が必要であることを直感した。僕は、派手でなくてもいいのでもっとまともで静かな短歌を読みたく思った。一群の「流行病」的な短歌傾向を持たないものを求めていろいろと書店を物色し、できるだけ地味で静かそうなものを探そうとした。それが佐々木定綱『月を食う』だった。著者の佐々木定綱は、巻末のプロフィルによると1986年東京生まれ。「心の花」所属で第62回角川短歌賞を受賞している。祖父は佐佐木信綱、父は佐佐木幸綱という学者・歌人の王道家系に生まれている。読み進めてゆく中で驚愕はないが静かな落ち着きと諦めがある。「流行り病たち」にはない短歌の良さが確かに残されている。




2 確かにある激しさ
  
 今、驚愕はないが、静かな落ち着きと諦めがある、と書いた。しかしそれは、老成していて30代半ばの書き手の荒々しさとか悪意とか、また逆に迷いとか不安とかが何一つないという意味で言うのではない。全体に静かな分激しい歌が現れると如何にも唐突に光る刃にようにその存在が際立って見える。確かに激しさは存在している。


  恨みなく敵意もないけどハンドルを這うナメクジを叩き落とした(P10)


  YouTubeで知らないブルース聞きながら煮込めば歌う細切れの豚(p45)


  伸びきったまま戻らない電灯のひも思いきり引きちぎる夜(p64)


  アルパカにつばを吐かれてこの世界腐臭を放て心ゆくまで(p73)


  撥ねられて体外に飛び出している猫の瞳にひろがっている春(p77)


 最初の「恨みなく」の歌は「ナメクジを叩き落と」すという表現の中に気味の悪い他者に対する本能的な嫌悪が認められる。「払い落す」とか「指で弾く」とかではないわけだ。瞬間的に反応する激しさ。これは若いエネルギーの放出でもある。2番目の「YouTube…」は≪知らないブルース聞きながら≫知らないうちにそれに合わせて歌ってしまっていたと読むことも可能である。ところどころ、魂の叫びのように、激しく歌う語り手の姿を想像する。(同時に僕の頭の中では「細切れの豚」が歌いながら踊っている。ファンタジーだが、その主体が「細切れの豚」であるところに悲哀を感じる。)その次の「伸びきったまま」の歌は「電灯のひも思いきり引きちぎる」ことにより引きちぎられるのは、ひもではなく「」そのものでさえあるような感覚を持たされてしまう。4首目の「アルパカ」の歌を読むと「アルパカ可愛い~💛」とか言ってる女のコたちに代表されるステレオタイプの思考と言葉が随分軽薄に思われてくる。昨秋フィールドワークである動物園に行ったとき、一人の女学生が虎におしっこを掛けられていくら洗っても匂いがとれなくて泣きべそをかいていたのを思い出した。この歌の文句とおり現実の「この世界」は「腐臭を放」つほどに臭くてたまらないのだ。それを直視するのが詩であって、この一首はまぎれもなく短歌形式を通して読者に詩を伝えてくる。最後の「撥ねられて」の歌の激しさと言えば、わざわざ解説する必要もないだろう。「体外に飛び出している猫の瞳」という部分がリアルすぎてエグい。しかしただそういう激しさやエグさだけではなく、その凄惨な状況の中に「ひろがっている春」を見出すところによって短歌形式の中に詩が発生している。佐佐木の短歌を読むことは、詩の発生の現場に立ち会うことでもある。




3 若者らしい不安
  
 また「若者らしい不安」も随所に描かれている。「若者」と呼ばれるには微妙に中途半端な30代半ばという年齢であるこの書き手の、しかし青春そのものの中にあるちぐはぐな思いを見て取ることが可能である。


  吊革に蛇拳のような手つっこんで蛇となりたる九段下まで(p56)

  いったい告白以降の愛とはなんだよかすかな呼吸を聴いてる(p66)

  いつもより陽気な声を出すときはぼくはなんだかさみしくなる(p78)

  事件性あるらし野菜販売所の野菜を赤く照らすパトカー(p115)


 「吊革に」の歌は、べろべろになって吊革の輪っか(を握るのではなく)に手首ごと突っ込んでぐらぐらしながら運ばれてゆく書き手?の酔漢ぶりが想像される。「九段下」というピンポイントの地名が有効である。次の「いったい告白以降の」の歌は、「告白」という一つのクライマックスを超えたあとの目標を失ったような愛の低空飛行を上手に言葉にしている。これも青春真っ只中の生活からしか生まれない言葉だろう。「なんだよ」と語り手は悩んでいる。真剣だから悩むのであって、それが青春というものの証なのだ。3番目の「いつもより」の歌は、みんなが集まっている場所なんかで、普段だと沈んだ調子で喋っている自分がとってもはしゃいでいるのを自分ではっと気づいた時の感覚と読む。録音された自分の声を聴いた時など嫌になる。それと似た自分を突き放した感覚で、「青い」けれども大切な自意識だ。最後の「事件性あるらし」の歌はとても視覚的。「赤く照らす」のは「野菜販売所の野菜」でなくて「住宅街の植え込み」でも「駅前の自販機」でもなんでも置き換え得る。しかしおそらくは普段は穏やかな場所であって地域の人々の交流の場にもなっている大切な場所である「野菜販売所」の「野菜」が「赤く照ら」されることでより一層怖さや不安が募るのだ。「事件」が起きて「パトカー」が来る。自分とは本来直接関係ない事柄なのにどこか怖いと感じるのは、そのことによって自分の心の中にある不安が掻き立てられるからである。この歌はそういう人間の深層のところによく訴えかけてくる。




4 社会詠の可能性
  
 非正規雇用の店員として働き32歳で自ら命を絶った萩原慎一郎の歌集『滑走路』について佐佐木は次のように書いている。


 萩原慎一郎は絶望の真っ只中にありながらも、自己憐憫や自虐に陥らず、憎しみや怒りに身を任せず、自身を鼓舞し、進んでいこうとする。その強い姿に勇気づけられる。(朝日新聞2018年11月3日)


 佐佐木の歌集の中にも社会矛盾を主題にしたらしい歌がいくつも散見する。本人としてはそういう部分に力を入れようとしているようだが、ことさらにそういうものを前面に出している歌よりもある距離を持って歌っている歌の方が作品としては優れている。


  駆け込んで挟まれるカバンとそれを引くOLとそれを引くOL(p177)


  八千キロずれればそこは難民の行列原宿竹下通り(p177)


  暴行をされた人とか殺された人とかかわいい猫画集とか(p91)


 
 「駆け込んで」は通勤ラッシュの中で揉まれる生活を描いているのではあるが、「それを引くOL」と「それを引くOL」という構造がロシア童話「おおきなかぶ」を想起させて面白い。社会性を持ちながら、読者を引き付ける部分は喜劇的な構造である。次の「八千キロずれれば」はその距離感にはっとさえられる。現実としては「八千キロず」らす想像力を持ち得る人は少ない。それをいとも簡単に「ずれれば」などと、当然の前提のように語るところにこの歌の絶妙さがある。常人はずれた想像力で社会への突破口を開いている。最後の「暴行をされた人」「殺された人」と並列しておきながら、それらへのシンパシーを一切語らず最後に「かわいい猫画集」を配置する。これによって、社会問題に目線を置きながらも安直に被害者の方に感情移入せず社会のありようそのものに目をむけようとする作者の意識を読み取ることができる。


5 死への眼差し
 
 佐佐木の歌は社会詠の中にも一定の技術と面白みを感じさせるが、これらの短歌よりもさらに彼の良さが現れているのが次にあげるようなタイプの歌である。存在の底・死の淵を見つめるような作品が時折ふと顔を覗かせる。


  道端に捨てられている中華鍋日ごと場所替えある日消え去る(P15)


  自らのまわりに円を描くごと死んだ魚は机を濡らす(p23)


  終終と苦しみの息する犬とエレベーターで地下へ降りたり(p42)


  まだ蟬が空を摑んで死んでいる駐車場の端で濡れてる(p84)


  おまえは生きているうち一度でも空を見たかと問う鶏肉に(p165)


 最初の「道端に」の歌は、ゴミ収集に乗り遅れたのだろうか。「中華鍋」が語り手の目線の中にいつまでも日々入ってくる。しかしそれも知らないうちに消えている。そんなほんの小さな出来事を記したものである。「中華鍋」の微妙な位置も面白い。さして珍しくはないが、かといって必ずどこの家庭にもあるというほどの日常品でもない。もちろん「中華鍋」は無機質のものであり感情移入などしようがないのである。にもかかわらず読み終えたあと、馴染みの友人がどこか遠いところに行ってしまったような軽い喪失感を覚える。「物」に共通の魂を見出す淋しく静かなファンタジーである。2番目「自らのまわりに」の歌は生々しい。机の上の魚の周りの水のたまりを「」と言い切ったところにこの歌の成功がある。リアルに考えれば「」でも何でもなく不定形の水の形である。しかし「」と書くことではじめて、読者の頭の中に風景の見取り図を提示することが可能になる。「終終と」の歌に関しては、最初の5文字の音感がいい。長年連れ添っている「」であろう、その生き物が吐く「苦しみの息」とともに「エレベーターで地下へ降り」るのだ。当然のことながら、「屋上に上がる」では世界が完結しない。「終終と」という言葉と「」との重みが、さらに下の句において「地下へ」という言葉とリンクしてゆく。最後から2番目「まだ蟬が」の歌の中に使われる「死んでいる」という言葉のニュアンスが絶妙だ。普段耳にする言葉であるが、考えて見ると不思議な表現である。≪死ぬ≫は決して継続することができないにもかかわらず、日本語においてはこの用法の中にのみ「」の継続が認められる。死のシンボルのような「空を摑んで死んでいる」「」の存在。この歌の中で「」は生き続けている。




6 ユーモアと諦念  


 ここまで、佐佐木定綱『月を食う』の激しさや不安・社会性や死の直視等の要素についてみてきた。そしてこれらの要素が歌集を息苦しくしないために、緩衝材のように柔らかなユーモアを含み込んだ作品がいくつか見られるのがこの歌集にとっての長所だと僕は考えている。


  犬と我が名前を交互に間違えて笑う女を母と呼び秋(p149)


  「蟹の脳みそじゃないの」と蟹みそを食む君脳を食いたいのかい?(p152)


  お互いの鋭利なつま先ながめつつ横たわっている紙の力士ら(p157)


  鍵穴の壊れた扉が捨ててあるもうこの世界出入りできない(p159)


  刑務所の再会のごと手と額ガラスにつけてハロー、白熊(p166)




 最初の歌は、もし「犬と我が名前を交互に間違えて」というだけであれば、サラリーマン川柳のような世界に留まるだろう。しかし当の間違う本人が「間違えて笑う」という楽観性、またそれがまさに本人にとっての「」であること。さらにはその季節を「」に設定するという目まぐるしく畳み込むようなスピード感がこの歌の魅力である。「蟹の脳みそじゃないの」の歌は、「蟹みそ」のことを「蟹の脳みそ」だと思いこむというありがちな誤解をベースとしている。しかしそれに対しては直接答えずに「脳を食いたいのかい?」と答える。この切り替えしが効いている。また「食む」「食いたい」という語の言いかえにも細心の注意を感じさせる。3番目においた「お互いの鋭利なつま先」の歌は、まさにその部分を読む限りにおいては厳しく尖がった感じが先行する。しかし「ながめつつ横たわっている」というあたりからトーンが代わり「横たわっている」のが「紙の力士ら」であることが分かってくると、応援している自分まで小人になってそこにいるかのような錯覚に襲われてしまう。4番目の「鍵穴の壊れた扉」を読むとやけに切ない。事実としては「鍵穴の壊れた扉」が捨ててあるだけなのに「もうこの世界出入りできない」というところにまで連れてゆかれる。その想像力にノセられて「出入り」できなくなってしまった淋しさを読者も感じてしまうのである。最後の「刑務所の」の歌は、「刑務所の」という舞台の重さ・もの悲しさと「手と額ガラスにつけて」というかわいらしさの落差で読ませる。なぜ「手と額硝子につけて」がかわいらしいと感じられるかと言えば、それはが言葉の通じない「白熊」相手の行為だからである。言葉が通じない存在には意地らしさを人は感じるらしい。さらには「ハロー、」から「白熊」へと至る一瞬の時間の爽快さがわくわくする気持ちを一段と高めている。




 おわりにー 月を食うとは?


 本稿では5項目に分けて佐佐木定綱『月を食う』を読んできた。静かさを基調にしながらも、激しさ・不安・社会詠の可能性などについても見た。そしてもっとも見どころのある領域としての「死への眼差し」を感じさせる歌、さらにはユーモアと諦念についても触れた。
 最後に本書のタイトル『月を食う』に深く関わる次の作品について考えておこう。


  ぼくの持つバケツに落ちた月を食いめだかの腹はふくらんでゆく(p168)


 ここに書かれていることは、きわめてシンプルで、バケツの中のめだかが、月を食べて腹を膨らませてゆくということだけである。しかし、解釈は幾つにも分かれそうである。「バケツに落ちた月」とは、本当に月が落ちたんだと読む人もいるだろう。あるいは、そんな馬鹿なことはないのであって、バケツに映った月の姿だと考える人もいるだろうし、≪いやそんな映像なんて食っても「めだかの腹はふくらんでゆ」かないからそれは映像ではなく、本当に月が落ちたんだ≫と解釈する人もいることだろう。「めだかの腹はふくらんでゆく」に関しても、子を孕んだのか、或いは「もの言わぬは腹ふくるる業」というようにふさぎ込んで胸がいっぱいになっているのかなど様々に解釈し得るだろう。もしも、めだかが月を食べたり、月を見て物思いに耽ったりするならば、それはこれまで僕の知らなかった素敵な質のファンタジーである。
 「現実」を短歌の中に読み取ってみてもちっとも面白くない。詩も短歌も、そこに書かれていることをそのままストレートに読んでゆくところに面白みが生じるのである。詩や短歌の中に書かれている「比喩」を読めというのは、それをそのままうけとることのできない想像力の欠落した人間の編み出した文芸への悲しいアプローチの方法に過ぎない。
 ありふれた比喩としてではなく、ほんとうに言葉通り、勇気をもって佐佐木定綱『月を食う』を読めば、そこに静かで悲しいファンタジー的要素がちりばめられていることに気付くはずだ。

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