「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌相互評22 嶋稟太郎から桝屋善成「ゆっくりあゆむ」へ

2018-04-03 16:19:53 | 短歌相互評
ふと見ればうすくれなゐの雲がゆく夕方の空 ことば忘れよ

 くらっと来ますね。現実だと思っていたら「これは夢ですよ」と言われてびっくりするような感じです。よろしくお願いします。

 連作全体でみると二首目以降の歌では句切れや飛躍が抑えられ、全体的にゆったりと歌われています。おそらく一首目の印象を崩さないように構成されているのだと思います。一首目を読んだ後に受ける眩暈のするような感覚は連作を読んだあとも余韻として残り続けます。
 眩暈の震源地である「ことば忘れよ」について、意味に思いを巡らせることも歌の楽しみとしてあるでしょう。しかしこの歌の眩暈をひきおこす仕組みに注目してみたいと思います。
 この歌の優れているところは「ことば忘れよ」という言葉を見出した作者のセンスだけではありません。音数が増えても無駄のない描写をするスキル(夢を現実だと思わせるスキル)、そして構成力が相まってセンスが発揮されています。
 まず歌を読んでいきますと、音をたっぷりと使って雲の色と動きによって景色がめまぐるしく変化する時間の流れが提示されます。また、四句は名詞で切れているので、読者の頭の中には視点と情景が組み上げられた状態で一度固定されます。歌のムード(読者が歌の中の情報を頼りにあれこれ想像できる状態)はここで完成しますが、突如として現れた結句によって頭の中がパンクします。「もとのムードを考える」と「結句の話者と向き先を考える」が合わさると処理できる情報量の限界を超えてしまうため、二つを同時に考えることが出来ず、行ったり来たりします。
 もっと言いますと「ふと見れば」の動作主と雲を見る視点の持ち主は一緒だと考えるのが自然ですので、歌の中に存在するただひとつの視点を持つ人物に対して向けられた言葉と受け取れます。つまり四句までは読者と視点が一体であったはずなのに、その読者自身に対して言葉を向けることになりますので、読者には歌の世界の中にいる読者自身を見る視点が新たに追加されます。結句は読者に突如として自己分裂を引き起こし、歌の中に閉じ込めてしまうのです。
 このタイミングで、読者は思い浮かべていた景色が現実世界ではなく夢の中だったと気付かされます。すごいな。

 一字空けについても考えてみましょう。
 他の歌を見てわかる通り、漢字を平仮名にひらくのを許容しているタイプの作者なので、表記の上で一字空けを避けるのは容易いはずです。しかしそうはしない。結句を名詞で切ると体言止めとして集約されますが、四句だと名詞で切れてもまだ次の句があるので「句切れ感」が弱く感じられます。感覚としては「小休止」程度で「転換」まではいかないです。作者は句切れ感を「補う」ために一字空けを選択したのかもしれません。決して余計な演出ではないのです。鉤括弧でも良いですが、それだと誰かの発した言葉と思われてしまうので、演出感が強くなってしまいます。
 この一字空けには作者の美意識を感じます。

 他の歌について触れていきます。

夕方のひかりを誰かの優しさとおもひつつ浴びゆつくりあゆむ


続いてタイトルとなる歌です。光という自分の周り全体にあるものをいっています。「おもひつつ」からは、自然に思うというよりは、意図的に優しいと解釈しているのではないでしょうか。自身を奮い立たせながらもゆっくりと歩みだすというところに美学があるように感じられます。

いくつもの約束果たさないままにけふもゆふづつあふぎて終へん

約束がどんなものかはわかりませんが、もう果たすことができないという予感が下の句に表れています。「約束果たさない」の助詞の省略は調べがぎくしゃくとしており「約束」に注目させているように感じました。下の句の調べが好きです。

夕方から夜へと時がうつろひて落ち度なき生すこしだけ乞ふ

「すこしだけ」のニュアンスはいかがでしょうか。「生」というと命そのものや人生を指すと思います。「落ち度」とは決して先天的なものではなく自身の選択を経たあとに起こるものだと思います。塞翁が馬的なこともありますので結句はやや短絡的かなと思います。そこが共感できませんでした。もしくは本当に切迫している状況、現状を早く変えなければいけない状況であれば、あるいはこの歌に共感できると思います。上の句のゆったり具合は好きです。

生乾きのタオルと思へる一日をどうにか終へて夜の香をかぐ
痰ひかる通勤の道ほんたうはみんな気づいてゐるはずなのに


 生活の1シーンを生々しく捉えていますが、文体の雰囲気によって詩に昇華されています。「みんな気づいてゐる」おそらく作者自身も気づいているはず。

夜の卓の上なる果実また明日もだれかがだれかのために捥ぐはず
柑橘のかをりはわれにまつはりし毀誉褒貶を無いことにする
輪郭のもろさをやどすくだものが置かれし卓のうへにある夜

 果物への理解。作者自身の意思は介在せず、ただそこにあるものとして歌われています。「無いことにする」というのも消極的な受け止め方です。自分ではないだれか、自分の意思とは関係なく操作されるものたちという社会の構造への批判と受け取ってもよいかもしれません。

夕方に見上げし雲のやうに燃ゆたつたひとつの歌つくりたし
にくたいは脆い、呷りしウオトカが一気にのどを灼きつつくだる
つきしろよ聖なるものしか照らすなと願ひあふげば虚しくはなし
今宵もまた同じところに影は落ち秩序はゆるくゆるく守られぬ


 調べと文体で読ませる。日常の言葉ではないからこそ文体によって引き出される作者独特の把握が歌の表面に現れるのではないでしょうか。一方で次のような口語の混じる文体では、場の統一感が薄れているように感じられました。

完璧な影を落として木の椅子が部屋にあるべきものとしてある
室外機だけがしづかにひびく夜ひとを恨むのはいけないことだ
フラナリー・オコナー書きし短篇をさすがにきついと思ひつつ読む


 果物の歌に通じるかもしれませんが、いま挙げた歌はいずれも下の句では物事に対して受け身になっているような言葉があり、連作一首目から感じた作者の美意識からはみ出していると感じました。ただ、変えられない「生」の姿や果たせないままの「約束」、こういった世の中の構造とそこに自分が置かれていることによる苦悩と向き合った際の心の揺らぎが、一首目があるからこそばらばらにならずに連作を構成しているのだと思います。

繰り返し登場する夕暮れのモチーフはいくつかの時間経過を経て新しい一日の始まりへとつながってゆきます。

すこしづつうしほが満ちてゆくやうな目覚めに内なる渚はなやぐ
ぬるき湯につかりをるとき夕雲のあかるさばかりが思ひだされて
きぞ読みし海彼のをみなの著しし短篇に充つほむらのにほひ
はるかなる物語として火の爆ぜる音聞くときにふるへたる耳


 お読みくださりありがとうございました。
 短歌の構造そのものについて考えさせられる一連でした。頭の中で起こっていることなので基本的には夢と同じだと思いますが、夢と知らずに読んで最後に夢と知らされるところに恐ろしさを感じました。

 皆様、ぜひ原作を読み返してみてくださいませ。

短歌相互評21 桝屋善成から嶋稟太郎「底に放せば」へ

2018-04-01 11:13:58 | 短歌相互評
 嶋さんとは同じ「未来」に所属しているので新年会や大会で会うことが多く、一緒に酒を飲んだり、カラオケで歌ったりもしてとても親しくさせてもらっている。
そういった機会に歌の話はもちろん、ほんのすこしだけ個人的な話もしたりする。
 嶋さんが歌を始めて、桜井登世子さんの講座で学び、「未来」に入会することになった話はなんとも言えぬ味わいがあり、大げさに言えば奇跡的な出来事だ。
 桜井さんといえば、近藤芳美に直に接してきた歌人であるので、嶋さんは「未来」の幹である近藤芳美直系の歌人だ とも言える。
とはいえ、本人にそういった意識があるかといえばそんな感じではなく、自由に歌っているように思える。
 そんなことを思いながら「底に放せば」を読んでいきます。

空洞がわれにもありや鉄塔は空の青さに貫かれ立つ

 この歌の情景は不思議で、鉄塔が空の青さを貫いているのではなく、鉄塔が空の青さに貫かれているのである。これは鉄塔の骨組みのようなものの間から見える空の青さのことであり、「青さ」が貫くことで力を得て鉄塔が立っているようである。自分のなかの空洞もなにかに貫かれているおかげで空洞がただの空洞にならずに立っていられる、というような感覚か。

向かい合うわが手の中を偶然に真水のみずは通り過ぎたり

 この歌は一首全体の言葉 の使い方にどこか落ち着かないところがあり、それが魅力であるとも言えるし、不完全燃焼とも言える。「向かい合う」という言い方には「手」がみずからの意思で向かい合っているようであり、それが現実的ではないようにも思える。また「手の中」も分かるようでいて実は分かりにくい表現なのではないだろうか。

遠き日のジュラ紀に絶えし種のありて里芋六個わが前にある

 実家から送られてきたのか、どこかで買ってきたものか里芋が自分の前に置かれている。それも六個という指定までされている。ここには具体的に示されたものが存在している。その具体的なものに対して上の句では「ジュラ紀に絶滅した種」が提示されている。このあまりにもかけ離れた時間のスパンを面白いと思うか、ど うか。ジュラ紀を言うのであれば「遠き日」は不要と思えるし、「遠き日」を残すのであれば、具体的に絶滅した種を言った方がよかったように思う。

たちまちに水濁りつつ銀色の器に水が増してゆくなり

 「銀色の器」が何なのか具体的には提示していない。全体的になにかを喩えているのだろうか。器に満たされていく水はたちまちに濁ってしまうのだから、器に満ちていく水も濁った水ということになる。どこか世相のようなものを感じさせる。

ふと覚めて傾く部屋のしばし見ゆ草刈る音の遠ざかりゆく

 目覚めの瞬間の夢かうつつか定まらない時間を詠んでいる。そのため眩暈のような感覚を覚え部屋が傾いているように思っている。そのように視覚や平衡感覚がおぼつかない時にあ って聴覚は研ぎ澄まされ、屋外で草刈り機が唸っている音が移動していくことに気づいている。「草刈る音」が大雑把なようにも思えるが、その音が遠ざかっていくというのはとてもよく分かる。

ふるさとを遠く離れて東京の吾が家の湯に柚子ひとつあり

 「ふるさと」という言葉から思い起こされる言葉や情景には誰にでも共通するものが多い。この歌の場合は「家」であり「柚子」という二つのものが連想されている。「わがや」ではなく「わがいえ」と読ませることによって「家」というものを強く意識させる。それは観念的な「家」であり、かつ、より物質的な「家」でもある。その物質的な「家」に刻み込まれた家族の生活や歴史や地域との関わりのようなものを感じる。翻って東京の「家」に は「ふるさとの家」にはあった様々なものが無く、観念的にも物質的にも不安定さがつきまとい、ただ生きていくためだけの器としての「家」のように思える。
そういった不安定さを「柚子」が補い、「ふるさとの家」に奥深いところで繋ごうとしているようである。

柚子の実を底に放せばゆずのみがやがてあらわる膝の間に

 ひとつ前の歌に続いて入浴の場面で、柚子が浴槽の底に一度沈んで再び浮かび上がった時に作者の左右の膝の間に出てきたという、何でもない歌である。ただ、前の歌の解釈の流れでいえば、一度浴槽の底に沈むということが、地の底を通じてふるさとまで行って帰って来た、という感覚にもなる。柚子を媒介として故郷と繋がるというショートショートである。
とはいえ 、この歌はうまく掴みきれないところがあり、私としてはやや残念な感じもする歌である。
まず「底に放す」という部分であるが、「放す」だけでは浮力で浮かび上がってくるので底には届かないような気がするし、「膝の間」も分かるようであるが大雑把な言い方とも思える。「底に放せば」というタイトルにもつながる重要な歌であるのでなおさら勿体無いように思う。

月面に着陸したる人思う何も持たずに浴室を出て

 浴室から脱衣室のようなところに出て行くときに月面に着陸した人を思っているのだが、むしろ逆のように思える。浴室から出て、脱衣室で服を着てリビングに行くということは日常の空間に戻るようなものである。月面着陸などという非日常的なことを思うのであれば、浴室 に入っていくときの方が相応しいように思うのだが、どうだろうか。また、わざわざ「何も持たずに」と言っているところも掴みきれないもどかしい感じである。浴室を出るときに「何も持たない」のは当たり前だと思う。人によっては、スマホや本を持ち込んだりすることもあるかとは思うが、そういったものは浴室から出るときには一緒に持って出るのではないだろうか。
ただ、月面に着陸した人のことを想像するというのはとても面白い。

縦に長き硝子の窓はぼんやりと明るくなりぬ靴紐を結う

 玄関でのごく普通の光景なのだろうが、「縦に長いガラス窓」が小さな世界観というようなものを思わせる。そして五句めは外の世界に向かおうという小さな決意がうかがえる。日々の何気ないあり ふれた生活であっても、いくつかの「小さな決意」を積み重ねて成り立っているのである。

両の手を広げるほどの窓あれば地上の雪は吹き上げにけり

 この歌では、上の句と下の句の関係性や下の句の表現の不安定さがやや目についてしまう。まず三句めの「窓あれば」から下の句への繋がりが分かりにくい。そして下の句の表現も情景が想起しづらい。これは二首めの「向かい合う」の歌と同じように表現の不安定さが疵になっているように思う。

 以上です。嶋さん、また歌おうね。