「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 短歌を味わえない 若林 哲哉

2021-06-23 22:17:57 | 短歌時評

 この4月から、国語の教員として中学校に赴任した。教えているのは中学2年生で、勤務校(の属する教育委員会)が採用している光村図書の教科書では、6月頃に短歌を学習することになる。どこの出版社の教科書を見ても、短歌とそれにまつわる読み物が掲載されているのだが、光村図書の教科書に載っている教材は、『短歌に親しむ』と題された栗木京子さんの鑑賞文と、『短歌に親しむ』と題された短歌6首で、これらを元にして授業を行うこととなった。俳句や短歌というのは、入試でもなかなか出題されることが少なく、国語の授業の現場においても、軽視されてしまうことが少なくない。また、僕自身は俳人で、短歌を書くことは殆どない。しかし、短詩に馴染みのない人たちからすると――生徒は勿論、国語科の先輩・同僚の先生も皆さんそうなのだが――俳句も短歌も同じようなものだという感覚があるのか、教材の短歌にまつわる質問が、何かと僕のところに届いてきた。その中で、特に印象に残っているエピソードを二つ紹介したい。
 まず、『短歌を味わう』で栗木さんが取り上げている短歌の中に、

  鯨の世紀恐竜の世紀いづれにも戻れぬ地球の水仙の白 馬場あき子

 があり、「この歌の優れた点は、『水仙の白』と歌い収めたところです。鯨の世紀、恐竜の世紀といった、とてつもなく長い時間が『水仙の白』という一滴の時間の中に、すっと回収されていきます。大きな時間と小さな時間が、一首の中でダイナミックに溶け合っているのがわかって、思わずため息が出ます。」という鑑賞が付されている。
 これを読んだ先輩の国語の先生が、「どうして『水仙の白』でなければならないのか?」と訊いて来たのだ。「作中主体の眼前に水仙がある。水仙というのはある季節の間を咲いたら枯れてしまうが、水仙が根を下ろしている地球というのは、かつて鯨や恐竜が栄えたのと同じ惑星であり……」と返答しかけたところで、さらに、「『たんぽぽの黄色』じゃダメなのか?」と畳みかけられた。まるで短歌甲子園・俳句甲子園のような応酬に驚いてしまったが、その後は上手く返答することが出来ず、口を噤んでしまった。というのも、僕自身は栗木さんの鑑賞に納得していて、水仙である必然性のことなど微塵も考えていなかったからだ。
 今になって、これは、短歌における虚実の問題が下敷きになっているのではないかと思っている。というのも、僕が、馬場さんの短歌の歌い収めが「水仙の白」であることを疑わなかったのは、それが作中主体ひいては作者にとっての現実としてそこに存在することを疑わなかったということなのだ。また、先輩の先生が「水仙の白」ではなくても良いと思ったのは、それが作中主体や作者にとっての現実でなくとも、短歌の作品として納得性・意味性の高い措辞が他にあると考えたからであろう。短歌や俳句における一回性の重視という、ある一つの観点を共有していなかったことが、意見の違いを産んだのだとも言えるだろうか。
 もう一つは、『短歌を味わう』に採録されている、石川琢木の、

  不来方のお城の草に寝ころびて
  空に吸はれし
  十五の心

 にまつわるエピソードである。ある生徒がこの句を、「十五人の人が草に寝転んで、空を眺めている」と鑑賞したのだ。新しくて面白い解釈だと褒めつつ、こちらも「十五歳」だとしか思っていなかったので、ひどく驚いた。
 確かに助数詞は入っていないから、十五人という解釈も成り立たなくはない。しかし、「草に寝転んで空を眺め、自分の悩みのちっぽけさを感じ、心が軽くなる」というような青春性は、啄木をはじめ、一つの類型である。例えば、中学生がよく歌う合唱曲『COSMOS』の歌い出しは、

  夏の草原に
  銀河は高く歌う
  胸に手を当てて
  風を感じる

 であるし、また、村上鞆彦『遅日の岸』の収録句、

  寝ころべば草がそびえて南風

 もその一例と言えよう。そうしたイメージを思えば、「十五歳」という読みの他ないのではないかと感じるのだが、一方で、「青春像」というものがあるとするならば、それは時代と共に変容しているのだろう。少し前に、Adoの『うっせぇわ』とチェッカーズの『ギザギザハートの子守唄』とを比較して、若者のメンタリティーの変化が論じられた。つまり、草に寝転んで空を眺め、ギザギザハートを癒やすよりも、優等生を演じつつ、大人たちを凡庸と切り捨てて、心の中で「うっせぇわ」と呟くのが現代のメンタリティーなのだろうか――とまで言ってしまうと、一生徒の発言から飛躍しすぎだろうとツッコミが入るのだろうが、ともあれ、余計なことまで含めて色々考える契機となった短歌の授業であった。


短歌時評167回 ステキな歌 大松 達知

2021-06-17 00:53:06 | 短歌時評

 くどうれいんさんの「氷柱の声」(「群像」2021年4月号)が芥川賞候補になったという知らせが入って来た。はじめての小説作品。慌てて検索してももう手に入らない。7月の書籍化を待つのみ。
 もちろん「くどうれいん」さんは「工藤玲音」さん。盛岡市出身在住。
 日本文学振興会発表の候補者紹介に「俳句結社樹氷同人、コスモス短歌会所属」とある。

 かなり異色かもしれない。でも驚かない。これまでエッセイ(『わたしを空腹にしないほうがいい』『うたうおばけ』)や短歌作品を読んできたから。そのたび、「センス」としか言いようのない言葉の使い方、ドラマの作り出し方に驚き、楽しんできたのだ。

 その工藤玲音の第一歌集『水中で口笛』(左右社)について書いてみる。
 まさに工藤ブシが炸裂、という印象。

  016  大型犬飼って師匠と名付けたい師匠カムヒア、オーケーグッドボーイ
  017  将来は強い恐竜になりたいそしてかわいいい化石になりたい
  022  かき氷だったピンクの水を飲み全部殴って解決したい
  023  ATMから大小の貝殻がじゃらじゃらと出てきて困りたい

 序盤から飛ばしてくる。(歌の左の数字はページ番号。)
 かってに、「願望シリーズ」と名付けているいくつか歌。とにかく言葉が元気。ハツラツという陳腐な単語が褪せて見えるほどのハツラツさである。願望という形を取りながら、鬱々とした現実世界からの突破、そして別世界への乱入を試みているようだ。

 ただし、それは別世界とは言っても、ファンタジーの世界や非現実の世界ではない。現実と地続きでありながら現実の裏側に潜り込む。いまここにありながら、もう一人の自分が「ここ」の裏側から自分を覗き込む。そんな「無理のない説得力」が心地よい。(それを手ぬるいと見る向きもあるかもしれないけれど。)

 そして、言葉の選択がステキ。良いとか巧いとか秀歌とか名歌とか言うけれど、「ステキ」がもっとも適している感じがする。

 大型犬の名前はなんでもいいはず。タローでもライオンでもマロンでも茶々丸でもなんでもいい。そこに「師匠」。年長者をからかう小悪魔的な姿をちらっと見せる。そして、Come here, OK, good boy! それも舌を噛みそうなカタカナ表記から、グッドボーイと低音で締める感じ。そのあたりのコミカルなリズムもステキ。分析すればそういうことになろう。でも、歌を読むときにそんな理屈は考えない。頭で言葉をこねくり回していない。体で感じた言葉という印象。他の歌もこんな感じのステキさに満ちている。

 三首目の「全部殴って解決」というフレーズもいい。鬱屈するようなことがあっても、嘆くのでなくぶち壊す方向にすすんでゆく。そんなハツラツさに心を奪われる。社会が今よりも元気だったという戦後からの五十年ほど。そのときは短歌で個人の暗い感情を打ち出してても、社会全体の活力とバランスをとっていけたのかもしれない。

 しかしやがて、日本の経済的成長は頭打ちになり、バブル崩壊後、経済的な国際競争に負け続ける状況がやってくる。しばらくは目をつぶっていることもできた。しかし、東日本大震災や多くの自然災害、それに新型コロナウイルスとの戦いに比較的遅れを追っているという現状はもう直視せざるをえない。

 そうなってくると、短歌の方にこそ元気であって欲しい、短歌に暗い現実を入り込ませないで欲しい、という気持ちが出てくる。そこに工藤玲音の歌はすっぽりはまる。ディストピア文学とは逆の方向の「健全な」あり方が良いと思う。

  080  やわらかい蠟をさわってセックスが終わった後のきもちになった
  085  夜と死が似ている日には目を閉じてふたりで春の知恵の輪になる
  085  性交の動画開いたパソコンのシャットダウンを最後まで見る
  091  シャワーヘッドを握りしめ白蛇を殺してしまったみたいに泣いた

 その「健全さ」は中盤のこんな歌にも感じる。感情と歌の言葉の間に捻じれたりひねくれたりするところが少ない。なんだか分からない感情をなんだか分かるようにして提示してくれる。分かりそうな感情をわざと分からないようにしている(ように見える)歌も多く流通している(ように見える)現在。このストレートさは心地よい。

 そこには、「」「知恵の輪」「パソコン」「シャワーヘッド」など、核となる物体が一首の中心に堂々と座っている感じ。これは、工藤が敬愛するという(そして、この歌集の「編集協力」である)小島なおの歌の作り方に似通うところがある。

 と、話は急に変わるのだが、「コスモス愛知」という「コスモス」の支部報がある。(「コスモス」関係ばかりですいません。)そこに鈴木竹志が、角川「短歌」1977年7月号の特集を引用している。若手歌人が自分の方法論を語るというもの。

 高野公彦の「明確な表現にある謎」という文章。孫引きさせてもらう。

 私は自分の方法論など持たぬが、強ひて言ふなら、できるだけ明確に言葉を使ひたいと思つてゐる。この〈明確に使ふ〉といふことの中には、むろん言葉を積木のやうにもてあそぶことは含まれてゐない。それは明確さを裏切る行為にすぎないからである。
表現はあくまでも明確でありながら、その中に解きがたい謎のやうなものを秘めてゐる—そんな作品が、私にはいちばん付き合ひやすいし、また深い付き合ひもできるやうに思はれるのである。

 鈴木はこの文章を受けて、この前年(1976年・高野34歳)に刊行された高野の第1歌集『汽水の光』は、この「方法と実践が見事に融合している歌集」だと言う。高野の現在に至る歌業を貫くもっとも大切な部分であると思う。(むろん私はその主張に強く賛同する。)

 この発言の後も、高野は繰り返し、「言葉を積木のやうにもてあそぶ」歌を批判してきた。それは頑固ともリゴリストとも言われることもあるが、実はとても単純で簡潔な態度なのだ。

 そこで、ふたたび工藤に戻る。この「明確な表現にある謎」が工藤作品の魅力のひとつだと思うからだ。

  080  やわらかい蠟をさわってセックスが終わった後のきもちになった
  085  性交の動画開いたパソコンのシャットダウンを最後まで見る

 やや目を引く単語を使った先述のこの2首。
 なぜやわらかい蠟の感触と性行為が終わった後の気持ちがつながるのかは書かれていない。しかし、熱せられて弾力を持った蠟燭。その独特な感覚が一首の核として強い存在感を示している。

 また、なぜアダルト動画を映したパソコンが完全に電源オフになるまで見つづけたのか書かれていない。(現実的な証拠隠滅確認的な意味はあろうとも。)しかし、その数秒の行動は十全に書かれている。ひとつの時間を確実に終わらせる気持ちかもしれない。言葉で割り切れない感情だからこそ、その動作を端的に描くのだ。
 そして、読者はその「明確な表現にある謎」に包まれてゆく。それがこの歌集の読みどころ大きなひとつだ。

 短歌の表現を革新することは必要だろう。それはときに意図的に、ときに強引に。(塚本邦雄のように、穂村弘のように。)
 しかし、その過程で「言葉を積木のやうにもてあそぶ」ような迷路に入り込んでしまうことを私は望まない。今でも、石川啄木が一気に作ったという作品が読まれつづけるように、ストレートな感情が伝わる作品が、(俵万智のように)結果として短歌の表現を革新してゆくのかもしれない。

 さて、『水中で口笛』の後半には、そんなストレートさを前面に押し出した相聞がある。もう長い間、あっけらかんと相聞を詠むことが少なくなったと言われる。時代のせいというなら、どんな時代なのだろうかと思う。しかし工藤はそんな方向には与することなく、独自の情愛の深くコミカルなシーンを見せてくれる。

  118  葉を見れば咲く花わかるわたしだよきみの手を取るとき夏の風
  127  発作のごとくあなたは海へ行くとしてその原因のおんなでいたい
  130  助手席のわたしをわたしにそっくりな綿と信じて泣けばいいのに
  153  魚がはじめて自分の口からでたあぶく眺めるような恋をしている
  154  山にでもなっちゃいそうなきもちだよきみにつくづく思われていて
  154  ふたり乗りにふたりで乗るとちょうどいいふたりになったんだねほんとうに
  168  天ぷらを食べつつ彼はどんな人と問われ咄嗟にほそながい、と
  178  神様に繰られてゆがむ口と鼻きみはいまから冗談を言う
  183  きみがいるこころづよさは自販機で買った後知る増量麦茶
  187  ぶおおんと言えば車がはやくなる明日も仕事なのにごめんね

 ポップスっぽく、演歌っぽく、ミュージカルっぽく、落語っぽく、泣かせたり笑わせたり、泣いたり笑ったり。多面的な主人公の顔が生き生きとしている。

 長くなったので、他にちょっと駆け足で紹介して終わりたい。
 どれも、向日性というか、自分の感情の振幅を疑わない素直さというか、とにかく。

  111  呆けた祖母を呆ける前より好きだった 水からぐわりと豆腐を掬う
  114  訛ってないじゃんと言われて無理矢理に訛るときこのいらだちは何
  122  あの街があの波でこの公園になったのだひろいひろいひろいこの
  126  就活用タイトスカート履くときの太巻き寿司の心強さよ
  141  寝つつ泣く涙を溜めて右耳はここを海だと勘違いする
  144  アメリカ帰りの同級生がまぶしくてしなちくみたいな表情になる
  145  パンケーキ食べてみたいという母がどうかかわいく呆けますように
  149  おとうとは父に似たねと話しつつ母と並んで蕗のすじ取り
  150  まず先に支柱ばかりが立っている きゅうり畑よ 通勤が好き
  151  サランラップの芯を握ったまま歩き頭をひとつ叩いて捨てる
  157  口紅をうすく引きつつ口紅にも工場があることの可笑しさ
  161  怒るときわたしの中にあるろくろ そこで回転する巨大土器
  165  とーほくとーほく 連呼をすれば寄せ鍋の豆腐を食べる声に似ている

 遠慮なく挙げさせてもらった。ドラマチックな喜怒哀楽。感情の起伏の襞を隠さず捻りすぎすに伝える。(おそらくその東北性は「氷柱の声」とともに分析の余地が大きいと思う。)

 短歌の楽しさを、短歌に親しみのないひとたちにも深く伝えられる歌集。朝日新聞の広告を見て買ってくださった読者を決して裏切らなかったと思う。
芥川賞、どうなるかなあ。