「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評184回 新しくない部分を指摘することの意味 竹内 亮

2023-02-06 12:32:33 | 短歌時評

 歌会では、ある歌のこの点に独自性があるというところが注目されるように思う。短歌としての価値がほかの歌と違うところにあるからであると思う。
 しかし、ある歌のこの点は既存の歌と共通しているという指摘にも興味を惹かれる。ある歌のここまでがほかと同じで、ここが違うところだというような言い方についてである。
そこには二つの効用がある。
 ある表現または内容が新しいというためには、それ以外の表現または内容が新しくないという区別が必要だと思うが、そのように検討することによって、新しくない部分の一般化がかのうになるように思われるからである。そのような短歌の共通性を言語化していくことによって、短歌の仕組み、短歌の秘密のようなものが言語化されることになる。
 二つ目はそのように検討することによって、新しさの内容が精密に検討できると思える。直観的に新しいと思える部分がなぜそのようにいえるのかが、言語化できるように思える。
 しかし、具体的な歌を挙げて、特に他の作者の歌と比較して、この歌とこの歌は「近い」、この歌とこの歌は「遠い」というようなことは、評論でもそれほどなされていないような気がする。そのような比較は、恣意的になれば検討対象の短歌の独自の価値を認めないことになるから避けられるのだろうか。
 添削は、具体的な表現を捉えて、その変化の可能性を検討するから、添削にもここで述べたのと似た検討が含まれていると思う。
 たとえば、岡井隆『岡井隆の短歌塾入門編』(2012年、角川学芸出版)に、短歌講座での講評を収めたところがある。

まつばきの森暗緑に沈むころ想ひ矯(た)めして寒の水くむ
 
 という受講生の歌を講評して、斎藤茂吉の

しみとほる暁(あかとき)水にうつせみの眼洗ひて年祝がむとす

 という歌を挙げた上で「『眼洗ひて』なんていうところがうまいんですね。ここで一首が緊まるんですよね。『寒の水』もいいのだけれど『眼洗ひて』に類した言葉がもう一つ入るときりっとしまるんだよなあ。」というのだけれど、こういう具体的な他の歌を挙げてここが同じで(この例では発想の類似性)、どこが違うか(この例では「寒の水」と「眼洗ひて」)を指摘している(同書の178-179頁)。
 
 同じように、穂村弘さんは時々「改悪例」を挙げることである短歌のよい点を明確にする書き方をされているが、「改悪」だけでなく「バリエーション」を検討したものをもっと読みたい。
 小さい添削によってある歌が見違えるよいによくなったり、小さい「改悪」によってある歌が急によくなくなったりするのを読むとき、わたしは短歌の秘密の一端が明かされたような気がするが、そのようなものがわかりやすく蓄積されていくとよいと思う。