福岡の出版社、書肆侃侃房が「新鋭短歌シリーズ」をスタートした。加藤治郎・東直子監修のもと、第一期は全12冊を発行予定。笹井宏之第3歌集をのぞき、残りの11冊は若手歌人11人の第1歌集だ。ここ数年さまざまな若手歌人の歌集が立て続けに発行されている中、さらにこのシリーズからも継続的に若手の歌集が出ることとなる。
5月に「新鋭短歌シリーズ」第一弾として刊行されたのは、木下龍也『つむじ風、ここにあります』、鯨井可菜子『タンジブル』、堀合昇平『提案前夜』の3冊だ。まずは『つむじ風、ここにあります』から1冊ずつ読んでいこう。
木下龍也は1988年生まれ、雑誌やフリーペーパーなどへの投稿のほか、短歌朗読の活動も行っているとのこと。その作風は虚構性が高く、作中主体=作者自身ととられやすい現代短歌全般とは異なり、超短編小説を読んでいるような味わいがある。
液晶に指すべらせてふるさとに雨を降らせる気象予報士
細々と暮らしたいからばあさんや大きな桃は捨ててきなさい
雨ですね。上半身を送ります。時々抱いてやってください。
天ぷらになりかけのえびすみませんえびグラタンになってください
「お弁当あたためますか?」「ありがとう、ついでにこれも」「なんですか?」「星」
その虚構性と言葉遊びも交えた愉しい読み心地は、笹井宏之の短歌を連想させる。ただし、木下の歌は笹井とは違い、暴力性や死、絶望感を時に強く感じさせる。
ああそれが転ばぬ先の杖ですか祖母の腕かと思いましたよ
鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい
もし僕が死んでも歌は生きていて紙を汚してしまうのだろう
ただし、その「死」は暗い影を持ちながらも、実際の死よりも軽やかでヴァーチャルな印象だ。
飛行機がふたつに折れる 巻き戻し ひとつに戻る スロー再生
飛び降りて死ねない鳥があの窓と決めて速度をあげてゆく午後
虚構性とともに提示される、暴力性や死、絶望。その一方で希望も見出される。
ネクタイの吐瀉物和えを投げ捨てて眠るよ僕は目覚めるために
電気つける派?つけない派?もしかしてあなた自身が発光する派?
歌に託されているのはどれも、今の感覚だろう。その感覚を生々しいままで読者にぶつけず、虚構を通して詠み込んでいく。軽やかな読み心地のよさを保ちながら、同時に今の時代の感覚を伝えてくれる一冊だ。
***
虚構性が強い木下歌集と対照的なのが堀合昇平『提案前夜』だ。
堀合昇平は1975年生まれ、未来短歌会所属。プロフィールによれば、コンピューターメーカーで営業職に従事しているという。歌集にはその職業人としての歌が数多く載っている。最近まで不景気が続いていた影響もあるのか、心身ともに非常に厳しい仕事風景が歌からは伝わってくる。
ありきたりの言葉をいくつ並べても真実だろう売上だけが
週末にはなやぐ声を聴きながら塩の吹き出たスーツで歩く
「ナイス提案!」「ナイス提案!」うす闇に叫ぶわたしを妻が搖さぶる
惨敗の提案ひとり噛み締める車窓にふいにさくら、さくら、さくら
ほそながいリードの先のうすやみに険しい顔の柴犬がいる
SAP-PHIREが導きだした損益にわらうしかない明け方だろう
仕事に追われる一方で、家庭人としての姿も詠まれている。
子はひとりと決めた真冬の高台に息詰めて買う中古マンション
iPhone4Sのシャッターを切る愚かな親のひとりであれば
まだ抱っこさせてもらえる幸せにサイゼリアのドアまでダッシュする
祖父の死と親兄弟のことを歌った作品も見受けられる。
哀しみの追いつかぬままゆっくりと釜石線は動きはじめる
斎場に灯るあかりのしらじらと長女の顔で母が迎える
触れた手に記憶は巡る三姉妹みな晩秋のまるみを帯びて
ひとしきり波に漂う麦わらの 祖父よあの日の遙かなリアス
歌集全体から立ち上がってくるのは、コンピューターメーカーの営業職として働き、家族と向き合い、自身を振り返るひとりの人間の姿だ。時に不条理であり、時にやむにやまれぬ感情に襲われることもあるその姿が、読者を歌集の最初から最後まで引っ張っていく。
この私性のあり方が、歌集の魅力に強く関わっているといえるだろう。
***
堀合と同様に、個人としての姿を歌に託しながらも、時に自由な言葉遊びも歌に取り入れているのが鯨井可菜子『タンジブル』だ。
鯨井可菜子は1984年生まれ。歌集を見た限りでは、デザイン会社で勤務していた時代の作品が中心に掲載されているようだ。
企画書を託せるドアに北風の自転車便(メッセンジャー)の足首赤し
夏の朝かばんの底に二つ三つゼムクリップの散りて光れり
おつかれさまですと微笑む ゆるきまま持ちこたえおりわが編み込みは
若い女性だからか、職業詠以上に多いのが恋の歌だ。
無神経ずるい最低不誠実ゆびをなめたらにんげんの味
誰々の彼女と呼ばれくすくすと、笑うわたしがほおばる豆腐
花の枝の背すじを持たんあなたにもソフトカバーの本であること
夕暮れにむすんでひらいてチョコレートもうかけられぬ番号がある
吐くごとくこぼす涙を熱きままひたすらに吸えキッチンタオル
生活や家族を詠んだ歌も多い。
風光る夏の画塾よ弟がスケッチブックを見せてくれない
同棲をしたいと切り出す妹の納豆の糸光る食卓
瓶のふた今ひねるから生姜ジャムきゅぱっと夏に連れていってよ
亡き祖父の写真探せば段ボール箱をいろどる光の地層
うすぐらきATMにほかほかのお札を取り出して生きていく
今日食せしもの唯一の緑なる小松菜そうだがんばれ小松菜
鯨井の歌には、時に「もうかけられぬ番号」「吐くごとくこぼす涙」というように悲しみが表明されることもある。だが、同時に歌集のあちこちには輝くもの、光をまとったものが詠みこまれ、常に明るさをまとっている。
また、「1デシリットルの愛(題詠blog2009より)」と題された連作のように、言葉を使って題詠というイベントを楽しんだ歌もあり、終始その歌は若々しく、軽やかだ。
短歌を通して作者の姿を提示するというよりも、言葉を通して、読者を明るく軽やかな気分に連れ出してくれる、それが鯨井歌集の魅力と言えるだろう。
「新鋭短歌シリーズ」3冊からは、三者三様の魅力が伝わってくる。これから発刊される9冊の歌集では、どのような作品世界に触れることができるのだろうか。このシリーズを通して、短歌がさらに面白く、豊かなものとなっていくことを期待している。
***
時評を担当して4回目ですが、個人的事情により今回が最後の回となります。今までお読みくださった皆様、今回初めてお読みくださった皆様、まことにありがとうございました。
5月に「新鋭短歌シリーズ」第一弾として刊行されたのは、木下龍也『つむじ風、ここにあります』、鯨井可菜子『タンジブル』、堀合昇平『提案前夜』の3冊だ。まずは『つむじ風、ここにあります』から1冊ずつ読んでいこう。
木下龍也は1988年生まれ、雑誌やフリーペーパーなどへの投稿のほか、短歌朗読の活動も行っているとのこと。その作風は虚構性が高く、作中主体=作者自身ととられやすい現代短歌全般とは異なり、超短編小説を読んでいるような味わいがある。
液晶に指すべらせてふるさとに雨を降らせる気象予報士
細々と暮らしたいからばあさんや大きな桃は捨ててきなさい
雨ですね。上半身を送ります。時々抱いてやってください。
天ぷらになりかけのえびすみませんえびグラタンになってください
「お弁当あたためますか?」「ありがとう、ついでにこれも」「なんですか?」「星」
その虚構性と言葉遊びも交えた愉しい読み心地は、笹井宏之の短歌を連想させる。ただし、木下の歌は笹井とは違い、暴力性や死、絶望感を時に強く感じさせる。
ああそれが転ばぬ先の杖ですか祖母の腕かと思いましたよ
鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい
もし僕が死んでも歌は生きていて紙を汚してしまうのだろう
ただし、その「死」は暗い影を持ちながらも、実際の死よりも軽やかでヴァーチャルな印象だ。
飛行機がふたつに折れる 巻き戻し ひとつに戻る スロー再生
飛び降りて死ねない鳥があの窓と決めて速度をあげてゆく午後
虚構性とともに提示される、暴力性や死、絶望。その一方で希望も見出される。
ネクタイの吐瀉物和えを投げ捨てて眠るよ僕は目覚めるために
電気つける派?つけない派?もしかしてあなた自身が発光する派?
歌に託されているのはどれも、今の感覚だろう。その感覚を生々しいままで読者にぶつけず、虚構を通して詠み込んでいく。軽やかな読み心地のよさを保ちながら、同時に今の時代の感覚を伝えてくれる一冊だ。
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虚構性が強い木下歌集と対照的なのが堀合昇平『提案前夜』だ。
堀合昇平は1975年生まれ、未来短歌会所属。プロフィールによれば、コンピューターメーカーで営業職に従事しているという。歌集にはその職業人としての歌が数多く載っている。最近まで不景気が続いていた影響もあるのか、心身ともに非常に厳しい仕事風景が歌からは伝わってくる。
ありきたりの言葉をいくつ並べても真実だろう売上だけが
週末にはなやぐ声を聴きながら塩の吹き出たスーツで歩く
「ナイス提案!」「ナイス提案!」うす闇に叫ぶわたしを妻が搖さぶる
惨敗の提案ひとり噛み締める車窓にふいにさくら、さくら、さくら
ほそながいリードの先のうすやみに険しい顔の柴犬がいる
SAP-PHIREが導きだした損益にわらうしかない明け方だろう
仕事に追われる一方で、家庭人としての姿も詠まれている。
子はひとりと決めた真冬の高台に息詰めて買う中古マンション
iPhone4Sのシャッターを切る愚かな親のひとりであれば
まだ抱っこさせてもらえる幸せにサイゼリアのドアまでダッシュする
祖父の死と親兄弟のことを歌った作品も見受けられる。
哀しみの追いつかぬままゆっくりと釜石線は動きはじめる
斎場に灯るあかりのしらじらと長女の顔で母が迎える
触れた手に記憶は巡る三姉妹みな晩秋のまるみを帯びて
ひとしきり波に漂う麦わらの 祖父よあの日の遙かなリアス
歌集全体から立ち上がってくるのは、コンピューターメーカーの営業職として働き、家族と向き合い、自身を振り返るひとりの人間の姿だ。時に不条理であり、時にやむにやまれぬ感情に襲われることもあるその姿が、読者を歌集の最初から最後まで引っ張っていく。
この私性のあり方が、歌集の魅力に強く関わっているといえるだろう。
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堀合と同様に、個人としての姿を歌に託しながらも、時に自由な言葉遊びも歌に取り入れているのが鯨井可菜子『タンジブル』だ。
鯨井可菜子は1984年生まれ。歌集を見た限りでは、デザイン会社で勤務していた時代の作品が中心に掲載されているようだ。
企画書を託せるドアに北風の自転車便(メッセンジャー)の足首赤し
夏の朝かばんの底に二つ三つゼムクリップの散りて光れり
おつかれさまですと微笑む ゆるきまま持ちこたえおりわが編み込みは
若い女性だからか、職業詠以上に多いのが恋の歌だ。
無神経ずるい最低不誠実ゆびをなめたらにんげんの味
誰々の彼女と呼ばれくすくすと、笑うわたしがほおばる豆腐
花の枝の背すじを持たんあなたにもソフトカバーの本であること
夕暮れにむすんでひらいてチョコレートもうかけられぬ番号がある
吐くごとくこぼす涙を熱きままひたすらに吸えキッチンタオル
生活や家族を詠んだ歌も多い。
風光る夏の画塾よ弟がスケッチブックを見せてくれない
同棲をしたいと切り出す妹の納豆の糸光る食卓
瓶のふた今ひねるから生姜ジャムきゅぱっと夏に連れていってよ
亡き祖父の写真探せば段ボール箱をいろどる光の地層
うすぐらきATMにほかほかのお札を取り出して生きていく
今日食せしもの唯一の緑なる小松菜そうだがんばれ小松菜
鯨井の歌には、時に「もうかけられぬ番号」「吐くごとくこぼす涙」というように悲しみが表明されることもある。だが、同時に歌集のあちこちには輝くもの、光をまとったものが詠みこまれ、常に明るさをまとっている。
また、「1デシリットルの愛(題詠blog2009より)」と題された連作のように、言葉を使って題詠というイベントを楽しんだ歌もあり、終始その歌は若々しく、軽やかだ。
短歌を通して作者の姿を提示するというよりも、言葉を通して、読者を明るく軽やかな気分に連れ出してくれる、それが鯨井歌集の魅力と言えるだろう。
「新鋭短歌シリーズ」3冊からは、三者三様の魅力が伝わってくる。これから発刊される9冊の歌集では、どのような作品世界に触れることができるのだろうか。このシリーズを通して、短歌がさらに面白く、豊かなものとなっていくことを期待している。
***
時評を担当して4回目ですが、個人的事情により今回が最後の回となります。今までお読みくださった皆様、今回初めてお読みくださった皆様、まことにありがとうございました。