「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評 第98回 新鋭短歌シリーズを読む オカザキなを

2013-07-19 18:09:06 | 短歌時評
 福岡の出版社、書肆侃侃房が「新鋭短歌シリーズ」をスタートした。加藤治郎・東直子監修のもと、第一期は全12冊を発行予定。笹井宏之第3歌集をのぞき、残りの11冊は若手歌人11人の第1歌集だ。ここ数年さまざまな若手歌人の歌集が立て続けに発行されている中、さらにこのシリーズからも継続的に若手の歌集が出ることとなる。
 5月に「新鋭短歌シリーズ」第一弾として刊行されたのは、木下龍也『つむじ風、ここにあります』、鯨井可菜子『タンジブル』、堀合昇平『提案前夜』の3冊だ。まずは『つむじ風、ここにあります』から1冊ずつ読んでいこう。
 
 木下龍也は1988年生まれ、雑誌やフリーペーパーなどへの投稿のほか、短歌朗読の活動も行っているとのこと。その作風は虚構性が高く、作中主体=作者自身ととられやすい現代短歌全般とは異なり、超短編小説を読んでいるような味わいがある。

  液晶に指すべらせてふるさとに雨を降らせる気象予報士
  細々と暮らしたいからばあさんや大きな桃は捨ててきなさい
  雨ですね。上半身を送ります。時々抱いてやってください。
  天ぷらになりかけのえびすみませんえびグラタンになってください
  「お弁当あたためますか?」「ありがとう、ついでにこれも」「なんですか?」「星」


 その虚構性と言葉遊びも交えた愉しい読み心地は、笹井宏之の短歌を連想させる。ただし、木下の歌は笹井とは違い、暴力性や死、絶望感を時に強く感じさせる。

  ああそれが転ばぬ先の杖ですか祖母の腕かと思いましたよ
  鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい
  もし僕が死んでも歌は生きていて紙を汚してしまうのだろう


 ただし、その「死」は暗い影を持ちながらも、実際の死よりも軽やかでヴァーチャルな印象だ。

  飛行機がふたつに折れる 巻き戻し ひとつに戻る スロー再生
  飛び降りて死ねない鳥があの窓と決めて速度をあげてゆく午後


 虚構性とともに提示される、暴力性や死、絶望。その一方で希望も見出される。

  ネクタイの吐瀉物和えを投げ捨てて眠るよ僕は目覚めるために
  電気つける派?つけない派?もしかしてあなた自身が発光する派?


 歌に託されているのはどれも、今の感覚だろう。その感覚を生々しいままで読者にぶつけず、虚構を通して詠み込んでいく。軽やかな読み心地のよさを保ちながら、同時に今の時代の感覚を伝えてくれる一冊だ。

***

 虚構性が強い木下歌集と対照的なのが堀合昇平『提案前夜』だ。
 堀合昇平は1975年生まれ、未来短歌会所属。プロフィールによれば、コンピューターメーカーで営業職に従事しているという。歌集にはその職業人としての歌が数多く載っている。最近まで不景気が続いていた影響もあるのか、心身ともに非常に厳しい仕事風景が歌からは伝わってくる。

  ありきたりの言葉をいくつ並べても真実だろう売上だけが
  週末にはなやぐ声を聴きながら塩の吹き出たスーツで歩く
  「ナイス提案!」「ナイス提案!」うす闇に叫ぶわたしを妻が搖さぶる
  惨敗の提案ひとり噛み締める車窓にふいにさくら、さくら、さくら
  ほそながいリードの先のうすやみに険しい顔の柴犬がいる
  SAP-PHIREが導きだした損益にわらうしかない明け方だろう


 仕事に追われる一方で、家庭人としての姿も詠まれている。

  子はひとりと決めた真冬の高台に息詰めて買う中古マンション
  iPhone4Sのシャッターを切る愚かな親のひとりであれば
  まだ抱っこさせてもらえる幸せにサイゼリアのドアまでダッシュする


 祖父の死と親兄弟のことを歌った作品も見受けられる。

  哀しみの追いつかぬままゆっくりと釜石線は動きはじめる
  斎場に灯るあかりのしらじらと長女の顔で母が迎える
  触れた手に記憶は巡る三姉妹みな晩秋のまるみを帯びて
  ひとしきり波に漂う麦わらの 祖父よあの日の遙かなリアス


 歌集全体から立ち上がってくるのは、コンピューターメーカーの営業職として働き、家族と向き合い、自身を振り返るひとりの人間の姿だ。時に不条理であり、時にやむにやまれぬ感情に襲われることもあるその姿が、読者を歌集の最初から最後まで引っ張っていく。
 この私性のあり方が、歌集の魅力に強く関わっているといえるだろう。

***

 堀合と同様に、個人としての姿を歌に託しながらも、時に自由な言葉遊びも歌に取り入れているのが鯨井可菜子『タンジブル』だ。
 鯨井可菜子は1984年生まれ。歌集を見た限りでは、デザイン会社で勤務していた時代の作品が中心に掲載されているようだ。

  企画書を託せるドアに北風の自転車便(メッセンジャー)の足首赤し
  夏の朝かばんの底に二つ三つゼムクリップの散りて光れり
  おつかれさまですと微笑む ゆるきまま持ちこたえおりわが編み込みは


 若い女性だからか、職業詠以上に多いのが恋の歌だ。

  無神経ずるい最低不誠実ゆびをなめたらにんげんの味
  誰々の彼女と呼ばれくすくすと、笑うわたしがほおばる豆腐
  花の枝の背すじを持たんあなたにもソフトカバーの本であること
  夕暮れにむすんでひらいてチョコレートもうかけられぬ番号がある
  吐くごとくこぼす涙を熱きままひたすらに吸えキッチンタオル


 生活や家族を詠んだ歌も多い。

  風光る夏の画塾よ弟がスケッチブックを見せてくれない
  同棲をしたいと切り出す妹の納豆の糸光る食卓
  瓶のふた今ひねるから生姜ジャムきゅぱっと夏に連れていってよ
  亡き祖父の写真探せば段ボール箱をいろどる光の地層
  うすぐらきATMにほかほかのお札を取り出して生きていく
  今日食せしもの唯一の緑なる小松菜そうだがんばれ小松菜


 鯨井の歌には、時に「もうかけられぬ番号」「吐くごとくこぼす涙」というように悲しみが表明されることもある。だが、同時に歌集のあちこちには輝くもの、光をまとったものが詠みこまれ、常に明るさをまとっている。
 また、「1デシリットルの愛(題詠blog2009より)」と題された連作のように、言葉を使って題詠というイベントを楽しんだ歌もあり、終始その歌は若々しく、軽やかだ。
 短歌を通して作者の姿を提示するというよりも、言葉を通して、読者を明るく軽やかな気分に連れ出してくれる、それが鯨井歌集の魅力と言えるだろう。

 「新鋭短歌シリーズ」3冊からは、三者三様の魅力が伝わってくる。これから発刊される9冊の歌集では、どのような作品世界に触れることができるのだろうか。このシリーズを通して、短歌がさらに面白く、豊かなものとなっていくことを期待している。

***
 時評を担当して4回目ですが、個人的事情により今回が最後の回となります。今までお読みくださった皆様、今回初めてお読みくださった皆様、まことにありがとうございました。

短歌時評 第97回 可能世界の中の「私」たち 山田消児

2013-07-05 00:00:00 | 短歌時評
詩客時評(7月5日掲載分)




 短歌同人誌「率」3号(2013年4月刊)の吉田隼人の評論「死ねなかった僕のための遺書(あるいは「亡霊」のためのノート)」は読み応えがあった。取り上げられているのは寺山修司、斎藤茂吉、浜田到。吉田は「死」を共通のキーワードとして3人の歌人の作品を鑑賞、分析し、彼らがそれぞれの方法によって死の不可逆性を無効化したという見方を導き出す。寺山は近代短歌では許されなかった嘘をつくことにより、茂吉は『初版 赤光』で時系列を遡るように作品を配列したことにより、また、到は不可視の世界を志向し、そこにいる死者たちと同じ空間を生きることによって。
 吉田は、3人の作品に触れながら、次のように書いている。


 しかし戦後、経験に対して嘘をつくことができるとわかってしまう。愛も、死も、特権化された経験ではなくなってしまう。経験していなくとも、愛や死を詠うことはできる。とりわけ死は、ここにきてその不可逆性を奪われ、そして特権性を失う。いわば短歌のなかで死ぬことができなくなるのである。

 私は私として死ぬことができない。私が死ぬとき私は消滅するのだから私は私の死を体験することができない。だから私は死にゆく者をひたすら見つめることによってフィクション的に同一化し、虚構として死を擬似的に経験するしかないと考える。死にゆく母や患者をただひたすらに見つめることで、茂吉は自分自身の死と生をも見つめる。

 死者と生者とが混在する恩寵に満たされた空間を希求する彼(浜田到のこと=引用者注)にあっては、死の不可逆性を担保し、生者と死者とを引き裂いてしまう時間性は何より忌避せらるべきものであった。(中略)ゆえに彼の歌にあっては時間がスムーズに流れてしまうことのないよう、「抵抗」としての破調が多用される。


 吉田の評論から読み取れるのは、経験至上主義から解き放たれることによって、死を、他者のそれとしてだけでなく、現実には経験することのできない自らの死としても詠うことが可能になるという、逆説的であり、かつ作者側にとってきわめて重大な成り行きである。死という究極の事態に限らず、実体験と短歌の一人称性との関係全般に関わってくる考え方として、私はこれを非常に興味深く読んだ。また、それとは別に、浜田到の歌の大きな特徴である破調を創作上のモチーフと結びつけて説明しようとした独自の視点にも心惹かれた。
 なお、吉田の評論には、欧米の哲学者、文学者らの言説や文学理論への言及が数多く含まれており、論の展開に重要な役割を果たしている。これは、短歌総合誌などで普段目にする短歌評論にはあまり見られない特徴であり、たまにそういう文章に出会うと、知識量が圧倒的に不足している私などは、それだけで引いてしまうのが今までの常であった。ところが、吉田の評論に限ってはそんなこともなく、不思議と抵抗なく読むことができた。恥を忍んで言えば、そこに出てくるライプニッツやバタイユの著作を私は読んだことがないし、リンダ・ハッチオン、ゲラシム・ルカなどに至っては、その名前すら聞いたことがなかった。にもかかわらず、彼らの言説の援用が論を読み進める邪魔にならないのはなぜなのか。
 ひとつには、先人の業績について述べるときの記述が簡明で、事前に知識を持たない者にとってもわかりやすいということが挙げられようが、それよりも、歌論本体が、既存の理論を必須の前提条件とはしておらず、まずそれ自体で自立していることが大きいように思われる。既存の理論や言説を引き合いに出して論考がなされている場合、その理論や言説がまず読者の前に立ちはだかり、それらを先に理解しなければ本筋に進めない関門として機能してしまうことが少なくない。だが、この吉田の評論では、本論の方が前面に出ており、先人の業績は背後から本論を支えるサポーターの役割を担っている。そして、それは、無知な読者の立場からすれば、本論を通してその向こう側にある新たな知識を窺い知れるということにもつながる。たとえば、ライプニッツの「順列組合せ」や「可能世界論」は、寺山短歌における模倣や引用の問題を死の不可逆性喪失をめぐる議論へとつなげていくための道案内役として生かされているが、それを前提としなければ論が成立しないというわけではなく、むしろ、寺山論と関連づけられることによって、ライプニッツを読んだことのない私のような読者にもその理論の一端を垣間見させてくれるように機能している。つまり、そこでは、歌論が既存の理論に寄りかかっておらず、両者が互いに支え合いながら、自立しつつ一体化しているのである。
 そしてまた、それと似たような関係性は、「死」をキーワードとして繰り広げられる歌論の中心部分と、死そのものをめぐる著者の個人的な思索との間にも成り立っているように見える。あとがきで吉田は次のように述べる。


 僕は自分でも生きているのか死んでいるのかわからないような状態のまま、二〇一一年から二〇一二年への年末年始、福島の実家に帰省した。自分の身に降りかかってきた大量の重荷を背負い切れず、何度も死を考えたが、偶然と臆病のなせるわざから、恐らくは生きたまま帰省することになった。


 詳しい事情は書いてないが、一生活者としての自分自身の体験とそれについての感慨を述べていることは間違いないだろう。この文章からは、自分は今生きているという現実があのとき死んでいた可能性と表裏一体のものであるという著者の思いが浮かび上がってくる。その思いは、寺山や茂吉や浜田到の短歌作品における「不可逆性」を?奪された死、「可能世界」のひとつとしての死という考え方とも直結するものなのではないだろうか。一人称の文学といわれる短歌の世界においても、評論の中にまで露骨に自分語りが入ってくるのはあまり一般的とはいえないが、本件の場合、自分語りが本来のテーマと重なり、また、そのテーマを補強して、評論全体の説得力をいっそう高める結果となっているように思われるのである。
 「はじめに」を読むと、「死ねなかった僕のための遺書(あるいは「亡霊」のためのノート)」という変わったタイトルを持つこの文章は、震災後に書かれた「ごく個人的なノートからの抜粋」であり、また、同じノートから生まれた短歌連作が別途、一足先に発表されていることがわかる。以下、その連作「砂糖と亡霊(ゴースト)」70首(「率」2号、2012年11月刊)から引く。


可能世界のわれを殺むる速度もて通過してゆく特急列車
ぎんなんといちやう降りつむこの道をわれの不在が踏みしめてゆく
薬壜洗ひ干されてゐたりけりまるでからだのないひとのやう
音もなく氷雨降りくるまよなかのバス停に来ぬバス待つ死者ら


 死者の視線を通すことで現実が夢の中の風景のように不確かなものに見えてくるこの連作の作品について、作者自身は評論の「おわりに」の中で次のように述べている。


 しかし「僕は生きて帰省した」という言表の裏側にいつもべったりと貼り付いている「僕は死んで帰省した」という可能世界を、ちょうど窓硝子にうつる自分のように二重映しにしながら紡いでいった……。


 とはいえ、上の掲出歌を見てもわかるとおり、作品は、作者がもし死んでいたとしたら起こったであろう出来事を描いているわけではなく、あくまでも、「われ」が死に、死んだあとも亡霊となってこの世をさまよい、遺された者たちに語りかける、という設定の下に創作されたファンタジーなのである。淡々としていながら、どこか切なく、切羽詰まった感じがするのは、やはり、死者という取り返しのつかない立場にいる者の思いが詠み込まれているからだろう。私の場合、評論を先に読んで作歌に至る経緯を知っていたので、よけいに感情移入しやすかったのだが、作品自体には詞書やエピグラフなど余分なものは一切ついておらず、作者の個人的事情に依存しない自前の世界観を歌だけで提示できているのが強みである。
 短歌連作「砂糖と亡霊」で描かれるのは、「生きている」という現実の裏側にある「死んだ」というもうひとつの可能世界での物語である。私たちは複数の可能世界を生きられないが、短歌の中でならそれができるし、その具体的な中身は、ファンタジーであれ何であれ、どのようにでも作り上げることができる。このことは、小説でフィクションを描くのとは全く質の異なる話だという気がする。
 短歌は一人称の文学であるからこそ、私たちは作中でいくつもの異なる「私」を生きることが可能になる。同じ起点から出発しながら形式の違う2つの作品として結実した「砂糖と亡霊」と「死ねなかった僕のための遺書(あるいは「亡霊」のためのノート)」を読んで、私はそんな考えに辿り着いたのだった。



山田消児(やまだしょうじ)
歌誌「遊子」「Es」同人
個人ホームページ:「うみねこ短歌館」