「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 うらじ、みる。と、はねから、はねとね。 カニエ・ナハ

2015-11-05 11:58:03 | 短歌時評
 20年以上前に公開されて数年前にやっと日本で公開されたモーリス・ピアラの映画『ヴァン・ゴッホ』はまだ見ていなくて、私の中で動いてるゴッホのイメージはロバート・アルトマン監督のティム・ロス演じるゴッホのなのだけど、中家菜津子さんの『うずく、まる』(書肆侃侃房)、「新鋭短歌」というシリーズから出ていて、短歌が載っているのはもちろんだけど、短歌と現代詩が融合された作品も載っている、まずなんといっても表紙のゴッホが印象的で、ひらくと見返しは案の定(ゴッホのテーマカラーともいえる)黄色。これでこちらのアタマが完全にゴッホモードになったところでページをめくると、そこへ意表をつく「なぼこふ」の文字。「ごっほ」や「ふぃんせんと」ではなく。なぜ、なぼ、こふ?と思って読みはじめると、2首目に「耳朶」と出てきてどきり、とする。


  耳朶をひっぱりながらささやいたふたりのかなた冬の朝やけ  中家菜津子


 こちらのアタマは完全にゴッホモードになっているので、この「ふたり」がゴッホとゴーギャンに思えてしまうのだけど(ゴッホとゴーギャンが一緒に暮らした短い蜜月(あまりにも過酷な!)も秋から冬にかけてで、破局(かなた)を迎えたのは、まさに冬)、まあまさかそんなこともないだろうと思って読みすすめると、つづいて、


  あかあかと力をこめるわたしからいびつな耳をなくせ、ジンジャー


とあり、「耳をなくせ」(!)……やはりゴッホなんだろうか?こうなってくると、つづく歌たちの「一本のひかりの道に手をのばす」とか「小さな鳥へひかりを配る」とかの記述も、ゴッホのことをいっているように見えてくる。日本ではゴッホはよく宮澤賢治に似ているといわれ、たしかに共通点が多いと思うけれど(亡くなった年齢もおなじ)、賢治の絶筆が短歌だったことを思いだして、ゴッホが日本人だったら短歌を書いてたかも……、なんて想像までふくらむ。
 しかし私はあまりにもゴッホにとらわれすぎてるかもしれない。
 いったんゴッホはアタマから追い払って、きぶんを変えて、あらたなきもちでページをめくると、


  歯車のひとつのようなケチャップの白いキャップが床をころがる


とあり、これはなにやらピタゴラスイッチ、あるいは(その元ネタと思われる)フィッシュリ&ヴァイスを思い出させるような映像作品で、ころがっていく「ケチャップの白いキャップ」(この音自体ころがっていて楽しい!)を目で追っていくと、


  ひとときは紅茶を淹れる読みかけの本はかもめのかたちに伏せて


と場面転換するのだけど、ケチャップの赤が紅茶の赤に、キャップの白がかもめの白にメタモルフォーゼしたのかもしれない。つづく、


  冬の月ねこはまなこを細くしてオリーブオイルのまどろみのなか


 では、前の歌で「かもめのかたちに伏せて」いた本のかたちが、ねむる猫の細いまなこのかたちにトレースされて……、と、ピタゴラスイッチあるいはフィッシュリ&ヴァイス的に、ゆるやかな連鎖の運動で、歌と歌とがつながっていくようにも見える。あるいはわたしの考えすぎかもしれないけれど。でも自由詩を同時に書いている著者だから、一首が一つの詩行で(も)あるという意識(あるいは無意識)が、強めにはたらいているのかもしれない。しばらく読み進めると、まんをじして、という感じであらわれる「散緒」、表題作「うずく、まる」、「ピストル」といった詩型融合の作品群はこの作品集のハイライトと私は思うのだけど、ゴッホの絵画が、当時の「なになに派」からハミだす画風であったように、あるいは今見ても、あの超厚塗りの絵なんか平面と呼ぶにはおさまらない、三次元へと越境していく存在感をたたえているように、中家さんの作品の最大の魅力は、渦巻くような、表現することへの欲望を解放(あるいは爆発)させた、カンヴァス(既成の詩型)に収まりきらない、これら融合作品にあると私は思います。詩型が、さまざまな表記やリズムが、一つの作品のなかで混ざり合って渦をまいているポエジー。一方、その欲望をぐっとおさえた(ように見える)短歌作品には、それゆえの抑制された美しさを感じます。いずれにせよ、ゴッホの絵がシリアスなばかりでなく、よく見ていくと意外にもチャーミングだったり遊び心があったりするように、中家さんもその作品で、チャーミングにかつ真剣にかつ大胆に、遊んでいらっしゃる。短歌が好きな方にも現代詩が好きな方にもゴッホが好きな方にもピタゴラスイッチあるいはフィッシュリ&ヴァイスが好きな方にもおすすめしたい一冊。


    *


 ワタクシゴトで恐縮なのだけど、先日あたらしい詩集を出しまして、私はずっと私家版でやっているので(おもに金銭的な事情で……)、置いてくださる本屋さんを自分で探して、ありがたいことに、東京では吉祥寺の百年さん、三鷹の水中書店さん、下北沢のB&Bさんに、また大阪では葉ね文庫さんに置いていただけることになったのですが、詩歌ファンの皆さんはご存知のとおり、街のそのへんのふつうの本屋さんには詩歌集のコーナーなどほとんどなくてわれわれは苦汁をなめさせられているわけですが、そんななかで、いまあげた本屋さんたちは詩歌集にかなりのスペースをさいてくださっていて、詩歌ファンにとって、ましてや書き手にとって、これほど喜ばしいことってないです(よね)。東京の百年さん、水中書店さん、B&Bさんにはうかがっているのですが、大阪の葉ね文庫さんにはまだうかがっていなくて、いずれご挨拶にうかがわなくてはと思っていたところ、先日早稲田で開催されたブック・フェスに出店されるとのことで、私はシメタ、とばかり、いそいそと出かけていったのでありました。(おなじブック・フェスに前述の水中書店さんも出店されていて(私が行ったときちょうど店主さん不在で、その日はお会いできなかったのですが……)、ほかにも全国からハイセンスなインディース書店さんが集う、ちいさい会場ながらコダワリの本たちと素敵な書店主さんらがひしめくたいへん贅沢な空間でした。)

 そこで葉ね文庫店主の池上さんと詩歌のお話をあれこれさせていただいて、とても楽しいひとときを過ごさせていただいたなかで、もちろん短歌のことにも話はおよび、おすすめの歌集などいろいろ紹介していただいたのですが、その中で、表紙デザインも誌名もとりわけ気になって(気に入って)購入させていただいた一冊『羽根と根』(通巻3号)から、何首かここでご紹介したく思います。この本はどこで買ったとか、誰にすすめてもらった、といった記憶は、その本の、自分だけの来歴として、表紙よりも前にあるみえない頁にしるされて、その本を自分だけの特別なものにしてくれるんですよね。葉ね文庫さんからの羽根と根、という、その音とイメージの響きあいも楽しく。『羽根と根』は装幀もなかなかにこだわっていらっしゃって、一頁に一首ずつ、作者名は書かれていなくて、ぜんぶで7つある連作ごとに異なった7名の作者によって構成されていたことがさいごに明かされるしくみになっていて、誰が書いたかよりもまず、作品を見せようとする潔さ。好ましく思います。なので、ほんとうはここでもお名前無しで紹介したほうがよいのかもしれないのですが、それも申し訳ないので、カギカッコつきにして、お名前、しるさせてください。


  ねむたいと言ってわたしは目を閉じるわたしが泉そのものになる  (坂井ユリ)

 ベルイマンの映画「処女の泉」のことなんかもちらりと思い出しながら(『羽根と根』に参加されているみなさん、巻末のプロフィール見ると、90年代生まれの若い方ばかりで、90年代生まれの方って、ベルイマンなんか見るんでしょうか?80年代生まれの私でもベルイマン好きなひとなんてまわりにそんなにいないけれど)、この歌から死生観のようなものを私は感じるのだけど、ねむることは死の予行演習ともいいうるのかも、そして私は眠りに入るときいつも、なんとなく、水をたゆたっていることをイメージするのだけど(そういうひと、多いですよね?)、感覚的に、生まれる前に遡行しようとしてるのかも。


  人身事故で電車が動かなくなって外にある桜を撮っている  (阿波野巧也)


 先日、インディースロックバンド「森は生きている」の突然の解散のニュースが流れてきて、私は近年もっとも好きで愛聴してきたバンドの一つだったのでガッカリしてしまっているのだけど、おなじく近年大好きで、おなじく「モリ」をバンド名にもった「andymori」もおなじように先年あっというまに解散してしまったのだけど、彼らの「オレンジトレイン」という歌のサビは「人身事故で君に会えない」と歌われて、その歌を思い出したのだけど(この歌が入ってるアルバムには3回も「人身事故」という言葉が歌われる)、阿波野さんのこの歌も「人身事故」を契機として、生死が交差した(その境界があやうく感じられるような)ひとときをとらえていて、人身事故で止まった車窓から見る桜のまがまがしいうつくしさ。


  忘れそうになって線路をたどるときどこからか川の音がきこえる  (佐々木朔)


 そういわれてみると線路と川って、似てますよね。どちらもあわいを流れていく。(人身事故など、どうか起こりませんように……)


  ほらこれが陽ざしだよって言いながら光るほこりをぼうっと見てた  (上本彩加)


 これ読んで、美術家・内藤礼さんのインスタレーション作品を思い出しました(むかし鎌倉で見たやつ。なにもない中庭に、一本のほそい紐がぶらさがっていて、風にたゆたっている、ただそれだけの)。先日、内藤礼さんのドキュメンタリー映画を見たばかりというのもあるのだけど。「ドキュメンタリー」って言い切ってよいのかわからない、へんな映画でした。おもしろかったけど。彼女の作品のなかにいると、光とか風とかほこりの存在をおおきく感じられる。反対に、私の存在などほこりほどにも取るに足らぬものだということも。良い意味で。なんだかこの歌も生と死のあわいにいるように見えるんだけど、想起させられたべつの作品の記憶とか、ここまで読んできた歌にひっぱられてもいるのかも。いずれにせよ、わたしたちはいつだって生死のあわいにいるのだ、とも云いえますよね。


  はずれだね、って白いドロップくれながら笑った 花の名の商店街  (服部恵典)


 服部さんの連作は「十種の愛、九本のY染色体、八人の女、七色のドロップス、六組の異性愛、五つの声、四つの季節、三輪の花、二頭の獣、一つの大災害」と、これ自体が現代詩の詩行のような、なんだかすごいタイトルがつけられていて、どんな歌がくるかと身構えていたのですが、十首の連作を通してちゃんと(予告どおり)花が三輪でてきたり(「日輪草」「水仙」「花の名の商店街」)、獣が二頭出てきたり(「犬」「熊」)と、とても緻密につくられている印象。この「はずれだね」の歌も、白いドロップも、商店街のひとがくれた笑顔も、商店街につけられた花の名も、一種の愛なのですね。そんなささやかな種類の愛に支えられてたしかに生かされている気がします。そして、しかし、さいごに待っている「一つの大災害」。この連作の意表をつくオチをどう読むか。


  光は矢 しかれども眼に容れてのちは眼のくらやみの鳴りやまぬ弦  (七戸雅人)


 「Phobia Phobia Phobia」と題された七戸さんの連作には「Phobiaとふ語を聴きゐたり雨足が風に乱れて立つごとき音(ね)の」という歌もあり、音が光に、光が音になって、どこまでもまとわりついて刺してくるような恐怖がある。(この稿の前半の話にもどるけれど、)晩年のゴッホもこんな光の音を聴いていたんじゃないかな。生きてあることの根源的な恐怖にふれている気がする。


  暗くても歩けるけれど 口にすればどんな願いも光だけれど  (佐伯紺)


 二度くりかえされる「けれど」が、私たちに寄り添ってくれる気がして、逆説的に救われる気がします。つづいて、「生きるとか死ぬとかもういいよ気付いたらお湯が沸いてるから火を止める」、「雨は檻、檻には獣、獣にはなれなかったから淹れるお茶」と歌われてこの本が終わって、ああそうだ、お茶のみたいな