「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌作品評⑨ 小津夜景から加藤治郎へ  ガリガリ君と、夏の思い出。

2017-08-29 22:34:55 | 短歌相互評
 
評者  小津夜景
 
 
 
加藤治郎の新作が出たので感想を、との依頼があった。タイトルは「ヘイヘイ」。一瞬どうして私が?と思ったが、先方の説明によると、今度の彼の新作は短歌×詩のコンポジションである、ついては複数の詩型を融合させて作品をつくるあなたにそれを読み解いてほしいのだ、とのこと。

とはいえ「ヘイヘイ」は「読み解く」といった硬質な響きがこの上なく不似合いな作品である。たしかに加藤は大胆な比喩や措辞をもってして世に知られる歌人ではあるが、「ヘイヘイ」は物語全体が大変分かりやすいイメージで展開されており、またこのことは加藤から読者に向けられた本作の企図が、読解のスリルよりもコーヒーブレイク的快楽に置かれていることをシンプルに物語っている。実際この作品を読んでわたしが感じたのは、クールでこなれた描写からなる、軽いペーパーバックを繰る午後のひとときのような快適さだった。

そう、ペーパーバック的洗練という観点からみて「ヘイヘイ」はきわめて質の高い作品だ。舞台は夏。それも最も夏らしいといえるような日々である。作品は広々とした青空を底なしの背景として据えながら、作中人物の行為を近景としてさりげなく描く。そうしてこの作中人物が、この夏をいつもと同じように過ごしつつ、過ぎ去った(おそらくはただ一度きりの)あの夏を回想するようすを追ってゆく。
 
便箋に青いインクがしみてゆくお元気ですか夏のゆうぐれ

ダウンロードのゆっくり進むファイルにはハイアイアイと歌が聞こえる

雲の下にあるかなしみと雲の上にあるかなしみとどっちが軽い

冒頭の三首。読者を引き込むために、初手から加藤が紋切り型もかくやとばかりのロンサムな物腰を、迷いなくソリッドにキメてきたことに私は感動する。また一見センチメンタルに見えて、一首の中に無駄な情緒が皆無なのもいい。作品のてざわりはフラジャイルでありながら、しかしムードに流されていない。三つの歌の景の切り取り方も、抒情を捌く手つきも、それらが繰り出される順序も、まるでCMのように最適化が効いている。

どこかの夏に降り立って
缶コーヒーを飲んでいる
返事を待っているばかり
生きているのかわからない

ここに間奏詩(インテルメッツォ)を挟むことで、物語の情感は流れに乗ることなく一度クールダウンされ、作品全体の雰囲気が明るく、さわやかで、すっと自立した感傷に留められているのがわかる。ところでこの、CM的洗練からのフィードバックを強く感じさせる四行については、詩というより変則的な詞書であると捉えた方がすっきりするだろう。というのも、本作の詩と短歌との間には互いの形式のあり方を意識させる種類のせめぎあいがなく、むしろ状況の補足・調整のための積極的親しさが感じられるからで、また正味のところ詞書の発展系が歌物語であることを思い返してみても、この四行は進化した詞書そのものだからだ。つまり「ヘイヘイ」における詩的形態の導入は〈形式の混在〉を演出することでテキストの多声化を図りつつ、同時にきわめてプラグマティックに物語のアングルを切り替える意図をもっている、と推測できる。

おもったより、おもったのは、音楽が言葉のなかにあってたのしい

青空のなかにも雲があることのすこしうれしくともだちを呼ぶ

午後からは行き先不明のわたくしでメロンフローズンころころと吸う

「おもったより、おもったのは、」の「、」は思弁と情緒とのあいだの振り子的運動、存在者の存在様式をリズミカルに入れ替えるギアとして機能している。存在者の存在様式にゆさぶりをかけるこのような原始的リズムすなわち「音楽」は、さまざまなヴァリエーションでもって加藤作品のいたるところにその跡ととどめている。私の感じるところ、加藤作品における大胆なエクリチュールは、おしなべて読者の身体に直接訴えかけるてごわい弾力性を孕んでおり、またこの弾力性こそが彼の作品の生命力の核心となる。これを外見上〈記号的遊戯〉に見える部分にこそ、実は加藤の〈肉体的本性〉が生々しく湧き躍っている、と言いかえてもよい。加藤による記号との戯れが書斎派のそれとは違い、荒削りで不統一なカオスを感じさせるのも、つねに肉体を実感でみたそうとするディオニソス的衝動でもって、記号という秩序すなわちアポロン的なものを掴みとる性癖のあらわれなのではないかと思う。

また「青空のなかにも雲があることのすこしうれしくともだちを呼ぶ」の「雲」が、ロンサムなモードに最適な符号であることにも一応触れておく必要があるだろう。雲ひとつない青空は、あまりに果てしなさすぎる。無窮のさびしさを癒す「雲」は自然のなりゆきとして「ともだち」の観念を召喚し、またこう考えると、この歌にはいくぶん漢詩的な伝統が息づいてもいる(もっとも「ヘイヘイ」は、どの語の背後もあっさりとしており、こうした意味づけをこれっぽっちも当てにしていないが)。さらに言えば「午後からは行き先不明のわたくし」と「ころころと」も、漂流感覚をありのまま読者に伝えている。

砂漠の色の夏の午後
ホットケーキを裏がえす
ナイフとフォーク用意して
宅配便を待っている

この四行についても同様に、詩の形態(形式ではなく)をした詞書であると捉えると見晴らしがいい。ここではまず「砂漠」という把握が効いている。やはり「ヘイヘイ」の大地はひろびろと乾いた色をしているのだ。次に「ホットケーキ」の色と質感がよく、さらに「宅配便」といった外の世界と内の世界とを循環するマテリアルが、以下につづく回想を自然に引き込んでいる。

蜂蜜の流れる部屋にきみといるなんに濡れたか分からない髪

水風呂に夏のひかりのみちていてあなたの指がおへそをさわる

つめたい雲がまぶしくて
おなかの上におりてくる
あたっているのあたってる
シャワーの水はくすぐったい

感覚を介して受けとめる光の変化、温度の変化、空気の質感の変化。光や水が肌にふれるときの、言葉にならない幸福感。夏という舞台だけが表現できる性愛の解放。五感をいっぱいに広げて世界を掴むことは、加藤作品における真に基礎的な意味での土台である。この土台を〈幼児性〉という視点の導入によって解き明かそうとする者は多く、その一人に柳本々々がいるが、先日柳本と加藤の歌について語り合っていたとき彼はこの特徴を〈五感の総動員〉と言い直してみせた。

五感の総動員。たしかに「ヘイヘイ」から溢れ出す真のテーマも〈あの感覚を、カラダが今でも覚えている〉といった告白だ。しかもそれは非常にあっけらかんとした告白であり、個人的心情の内部にたてこもったそれではない。あるいは感傷へ深入りしそうなときも、己のアクションでもってそれを阻むのである。

燃えがらのような雲だけういている沈んでいるまた起き上がるから

八月になってもなにも起こらない線路の前に立っている影

はちみつ色の道をゆき
ゼリーの壁を指でおす
ヘイヘイというあんただれ
顔があったら見せてくれ

流浪の象徴である「雲」が「燃えがらのよう」になったという空の把握。もう何も起こらない(あの夏はそうではなかった)「線路」の前にすっと立つ「影」という地の把握。作中人物の記憶している〈あの夏〉は天地のどこにも存在しない。

だが無論「ヘイヘイ」は失われた時間の旧懐がそのストーリーの本意なのではない。むしろ記憶の背後に感慨すべきものなどなにもないといった、クールな認識がこの作品の語っていることだ。「ヘイヘイ」において、記憶とは人生の蜃気楼であり、まるで心を置き去りにするかのように、カラダだけがそれを覚えている。まただからこそ「ヘイヘイというあんただれ/顔があったら見せてくれ」と加藤は書くのだろう。そっと幽霊に、語りかけるように。

どんなあしたがこようが俺は生きてやる ガリガリくんはソーダ味だな

ヘイヘイという、あの夏に立つ蜃気楼。最後の一首で作中人物は、その歌声が喚起する行き場のない感傷をアクションで振り切ってしまう。もちろんそのアクションとはガリガリ君を噛むことだ。この夏のゆうぐれの風景の中で。
 
 
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短歌評 俳句の国から短歌国探訪(2)穂村弘と言う短歌 丑丸 敬史

2017-08-14 22:42:20 | 短歌時評

(1)はじめに

 俳句実作者である筆者の短歌国探訪記の今回が4回中の2回目となる。

 前回、短歌と俳句の違いとその理由について思うところを「短歌評 俳句の国から短歌国探訪(1)短歌は若者の器か」として書いた。

 その要点を纏める。

(短歌に関して)
1. 「31文字」は日本人にとって「マジックナンバー」であり、恋に限らず何物かを伸びやかに歌うのに過不足がない。
2. 鬱屈した熱き思いを抱く若者がその思いを伸びやかに開放する、短歌はそれを受け止める器として最も相応しい青春の詩文学である。
3. 現在の若手世代のライトバース、ニューウェーヴの洗礼を受けた短歌世界では描かれる世界は軽い。ライトバースは軽妙な内容の文学にこそ合う。盛り付けるものが軽いものであれば、盛り付ける器も軽いものを選ばねばならぬ。
4. 短歌が口語化したのはライトバース化との連動があったからこそである。短歌の描く世界が軽くなったからである。軽い世界を殊更に軽く描く。それが若者に歓迎された。言葉を尽くせる短歌は内容が軽くとも力で読ませることができる。ライトバースは短歌に適する。
5. 日本が続き、そこに若者がいる限り、短歌の未来は決して暗くはない。
6. 日本人であるならば全ての詩人は短歌を詠める筈である。短歌を歌わない手はない。

(俳句に関して)
1. 有季定型伝統俳句は俳句の一ジャンルに過ぎない。現代俳句のウイングはもっともっと広い。
2. 角川「俳句」は初心者向けの俳句入門書であり、これを手引きにしたのでは俳句の重要な流れを見落としてしまう。
3. 「一読分かる俳句が良い俳句」ではない。読解力を必要とする良い俳句は存在する。
4. 俳句は伸びやかに歌うことのできない鬱屈した奇矯の文学型式である。
5. 満たされない中にこそ充足を感じようとする俳句、それは侘びの精神的支柱を持ってして初めて成った。伸びやかに歌えないのではなく、伸びやかに歌わない、そこにこそ俳句の美学がある。俳句は内省的な文学である。
6. 鬱屈した若者に鬱屈した詩形式は合わない。抑制的に歌うことを運命付けられた俳句は若者の熱狂を呼べない。
7. この窮屈な俳句美学を理解し愛するためには、ある程度人生を生きる必要がある。斯して俳句は老成の文学化する。
8. 大方の俳句はライトバース化していない。抑制的な老成文学であるという俳句の特性にライトバースは馴染まない。言葉を尽くせない俳句でさらに内容が軽くなると目も当てられない。

 前回、なぜ自分は俳句を書くが短歌を書かないかの理由を省みた。現在の短歌シーンの有り様に共感できないからである。ただ、歌人が俳句シーンに対してその中央値しか見えないように、俳人である筆者も短歌シーンに対しても同じであろう。

(2)穂村短歌

 その現在の短歌の中央値として今回は穂村弘短歌を採り上げる。穂村は短歌界では知らぬ者もいないほどの人気ぶりだが、筆者の短歌の知識は高校までの教科書止まりであったから、申し訳ないことに短歌を勉強するまで筆者は知らなかった。「ダ・ヴィンチ」も読まないので穂村の人気コーナー「短歌ください」もついぞ知らなかった。
 今回、彼の第一歌集『シンジケート』を読んだ。それに加えて、歌人の山田航が穂村短歌50首を選んで鑑賞した『世界中が夕焼け』を参考にした。本書は、もともと山田が自身のブログ「穂村弘百首鑑賞」で鑑賞した100首から50首を厳選して書籍化したものである。本書中で、山田の鑑賞に穂村がさらにコメントを寄せるという輪環構造を持っているのが興味深い。鑑賞に対するコメントという形を取っているものの、自歌自註になっている。あとがきで穂村自身が用心深く語っているように、自歌自註は面白くならないことが多いが、穂村がどのような作家態度(の表明)で作品を世に出しているのかという参考にはなろう。

 穂村弘は平成最大の歌人だ。穂村弘以前・以後とすら言えるほど、現代短歌に与えた影響は大きい。どんなかたちであれ、穂村弘の磁場を離れて存在している現代歌人はいない。第一歌集『シンジケート』は、もはや古典と呼べる一冊だ。

 これは山田の巻頭文である。のっけからかなりの持ち上げ方である。穂村が革命的な歌人であり、短歌の啓蒙者として現代をリードしている現状を述べている。本書は、上述のような経緯で誕生したため、書籍化する意図もなく、一ファンとして山田が穂村短歌を鑑賞したものであり、穂村短歌言祝ぎの書である。山田には穂村短歌へのリスペクトとともに愛が溢れている。ただし、そのためどうしても彼の歌を批評的に鑑賞することはできていない。穂村短歌の一つの重要な特色が「露悪的」であるにもかかわらず露悪的に鑑賞することができない。ファンによる作品鑑賞は得てしてこうなる。
 今回、筆者はことさら「露悪的」な読みを穂村短歌に施そうという意図というよりは、山田の読みの足りない部分を補完する読みを心掛けた。

(3)<降りますランプ>に取り囲まれて

 終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて

 この歌が『世界中が夕焼け』の冒頭に置かれている。本歌に対して山田は「人口に膾炙した代表的な一首。甘やかな相聞歌である。」とした上で、額田王の<あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る>のイメージを重ねている、とする。そして、「終バスは、この先どこに行くのかわからないふたりの未来を暗示している。年の中に一瞬生まれた幻想空間のなかでふたりは逃避するように眠るのだ」と鑑賞している。
 フィクションは短歌にとってお手の物だが、これもフィクションの恋愛想望歌である。短歌は演劇の舞台設定を描くことに昔から長けている。本歌のこの2人は<降りますランプ>を押すこともなく終点まで静かに眠り続けることであろう。つまり、本歌は「終バス」で「終点」に向かう愛の形を描いている。山田は逃避愛のように読み込んでいるが、「」が逆に成就することのない恋愛を暗示する。いや、そもそも終点もない行き先もないマボロシのバス。寒色系の「」もそれを暗示する。古代貴重な「」は富貴の象徴であったかもしれないが、紫が貴重でもなくなった現在、額田王の「」と穂村の「」は同列ではなく、穂村は「」のマイナスのイメージの寒々しさを強調する。

 終バスにふたりは眠るバラ色の<降りますランプ>に取り囲まれて
 
 なら歌の雰囲気はガラリと変わる。
 本歌は「甘やかな相聞歌」なのではなく、漱石の『それから』のように、祝福されない、成就もしない哀歌なのである。見た目の美しさに惑わされてはならない。穂村短歌は見た目ほど「甘」くない。穂村が額田王の歌を本歌取として作ったようにも筆者には思えないが、ともあれ、本歌は洒落た歌である。
 穂村はこのような歌が作れるものの、彼の中ではセンターではない。穂村の短歌は多面的である。次に見るような歌にこそ彼の真骨頂がある。

(4)シンジケートをつくろうよ

 子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」

 第一歌集『シンジケート』の題名にもなった歌。本歌に対しての山田の次のような鑑賞は天真爛漫過ぎる。これは山田の穂村短歌鑑賞の瑕疵が分かりやすい形で表出したものである。

 表題歌にもなっているこの歌で表明されているのは、家庭を持つことで自分たちの恋愛が社会性を帯びることの拒否である。これは『シンジケート』という歌集全体のペースに置かれているテーゼであり、己の存在が社会化してゆくことへの拒否と嫌悪の共同体こそがニューウエーブ短歌運動だったのかもしれない。

 『世界中が夕焼け』で穂村はこの歌にこのようにコメントを寄せている。

 「シンジケート」って言葉は妙ですよね。違う言葉でもありうると思うんだけどあまりポピュラーな言葉じゃないし、なぜここで「シンジケート」だったのか、わからないですね、今となっては。「壁に向かって手をあげなさい」っていうのは、まあ、「FBIだ。壁に向かって手をあげろ」みたいなイメージなんだろうけど、でも、必ずしも接続しているわけじゃないよね。ホールドアップの場面でもないわけだから、なぜ下の句でそうなのか。だから、意外とこれわかんないね、自分でも。この歌は歌集を作る時、落とそうとしたんです。(中略)林あまりさんに原稿を見せたときに、それを入れなきゃダメだと言われて。そのとき、「悪い歌が歌集に入ることより、いい歌を落とすことを恐れなさい」って言われて納得しました。僕もそのあとは、誰か新人にアドバイスを求められると、「誰かに一度でも引用された歌は全部入れるように」ってふうに言ってます。でも、タイトルの歌って絶対タイトルの歌だって思って読まれるに決まってるから、それが気にいらないっていうのは、ちょっと嫌なことなんですよね。ただ、どの歌が注目されて人に知られていくかは、作者も選ぶことができないので。選ばれている、みんながよく知っている歌が必ずしも好きな歌ってわけじゃないですよね。この歌は本当は好きじゃないですね。好きじゃなかったから落とそうとしたんです。でも、誰かに引用されるとか、取り上げられると褒められるって、すごく「選べない」ことなんだよね。

 作者はこの歌の成立過程に関しては覚えていないと口を濁しているため、筆者が代わりに穂村弘のなりきりで語ろう。

 テレビドラマなんかでFBIが相手に向かって「壁に向かって手をあげろ!」なんて言って壁に手をつけさせて相手を捕縛する。そんなシーンってよくありますよね。でもこの行為って、壁に手をつけさせて女性と後背位で交わろうとする男の行為、そのものでもありますよね。「壁に手をついて」とか言ったりして。その際、ギャングめかして(ギャグめかして)「壁に向かって手をあげろ」と女性の耳元で囁いたりする。「死にたくなければ俺の言う通りにしろ」とか言ってね。セックスって本来なら子供を作ることにつながる行為だけど、子供ができちゃ困るケースでのセックスの方が実際には多いわけです。だから「子供をつくろうよ」なんて言いながらすることはないし、じゃ何をつくるために俺たちやってるの?って思ったりもするわけです。で、ここはごっこ遊びのていで、実際に痴戯にはそんな側面ありますよね、壁に向かって手をついて、これからやる儀式は子供をつくるためのもんなんかじゃなくて、我々二人が秘密結社(シンジケート)をつくるための儀式なんだよ、って感じの歌にしたかった。「子供(なんかつくるより)よりシンジケートをつくろうよ」ってね。でもこの歌の発表後に、この歌の持つ生々しさというか、露悪的なところが自分では鼻について最初は歌集の初稿では落としたんです。でも、他の方の短歌評を読むと、意外にもこの歌のそういう側面に触れられずに読まれているんですよね。気づいてて好意的に気づかないふりをしてくれているだけかもしれないんですが。山田さんも林あまりさんもそうは読んでいない。なので、林さんにも言われたことだし、ということで歌集に入れました。愛着のない歌だったわけじゃなかったから、歌集の題名にもしたんです。

 自歌(自作)自註で作者が真実を語るとは限らないことは銘記すべきである。

 「この歌は歌集を作る時、落とそうとしたんです。(中略)林あまりさんに原稿を見せたときに、それを入れなきゃダメだと言われて。そのとき、「悪い歌が歌集に入ることより、いい歌を落とすことを恐れなさい」って言われて納得しました。」と穂村が言っている下りは、間接的ではあるが明瞭に、穂村自身この歌が「いい歌」であるということを自覚していたことを示す(こう言う風に間接的に自歌を褒める穂村さんて素敵、笑)。詰まるところ、この歌は自信作であったのだが、当初歌集の草稿からは落としていたのだ、ということを彼自身が語っている。自信作であるとわかっていながら落とさざるを得なかった理由として、穂村がこの歌に対して迷いを持っていたことが示される。それは他人の評価である。自信作が世に認められるとは限らない。筆者なぞは、本歌は穂村を語る代名詞にしてもいいと思うくらい銘品であると思うのだが、当の穂村はこの句のポルノグラフィックなところに躊躇いがあり当初は除いていた節がある。この歌が含んでいる毒を考えれば、読み手から嫌悪される可能性だって十分にあった。こう言う毒のある歌が好きな読者もいるだろうが、無難な路線を行くのが大人の選択である。穂村が目指す短歌は、現代の「大衆による、大衆のための、大衆の歌」であるところの流行歌なのだから。

(5)朝顔(べんき)に転がる黄緑の玉

 女の腹なぐり続けて夏のあさ朝顔(べんき)に転がる黄緑の玉

本歌も『世界中が夕焼け』の50首鑑賞に採り上げられている。実は上掲の《子供より……》は『世界中が夕焼け』の見出し50首には含まれておらず、本歌の解説の中で引用という形で鑑賞されている。つまり、残念ながら山田は《子供より……》に関しての本質を理解せず、表面的な露悪さで分かりやすい本歌を採ってしまった形だ。本歌に関しての山田の鑑賞は次のよう。

 女の腹をなぐり続けるのは、おそらくは堕胎させようとしているのだろう。そして自分に子供ができるということへの嫌悪感から吐き気を覚え、元気に向かって吐く。そのときに見えたのが黄緑の玉。便器に消臭剤として転がっている樟脳のことである。嗅覚に訴えかけることで作中主体のどうしようもない嫌悪感が伝わってくるのである。

 男性は小便も精液も同じ陰茎から出す。樟脳の玉が転がる便器に用を足していて、腹をなぐり続けた彼女のお腹の中に放出したかつての自分の精液を思い出し、その原因を作った自分に怒り「自己嫌悪」に陥る。山田の解釈の「嫌悪」が「自己嫌悪」を指しているのかは曖昧である。加えて「黄緑の玉」が睾丸の隠喩であることも指摘しておかねばなるまい。これも「女」の妊娠を想起させる仕掛けである。
 このような筆者の鑑賞は深読み、穿ち過ぎの類ではない。穂村自身からしたらこのような読みを誘う仕掛けを鏤めて作っている。それを誘うところが穂村短歌である。軽佻浮薄なライトな穂村短歌のイメージがあるとしたらそれは、世界戦略を目論む穂村が戦略的に作りだしているイメージであり(大衆による大衆のための大衆の歌)、穂村短歌の本質はずっと深いところにある。穂村短歌を侮ってはいけない。

 体温計加えて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ

 「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」

 「猫投げるくらいがなによ本気出して怒りゃハミガキしぼりきるわよ」

 「耳で飛ぶ象がほんとにいるのならおそろしいよねそいつのうんこ」

 ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。

 A・Sは誰のイニシャルAsは砒素A・Sは誰のイニシャル

 ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり

 夜のあちこちでTAXIがドア開く飛び発つかぶと虫の真似して

 筆者はこのような機知で読ませるライトな歌は好きではない。この手の歌はその時代の風潮に乗りいっときは持て囃されるかもしれないが、その分廃れるのも早い。ただ、穂村短歌に1986年にスポットが当たってからすでに30年経ったものの、彼の短歌は未だに短歌界のセンターに君臨し続けている。彼の短歌は古びないのか。全ての芸術作品を後世に受け渡すだけのキャパシティーを人類は有していない。時間は厳しく(偶然も加味されて)芸術作品を濾し取って作品を古典とする。穂村短歌が山田の言うように古典になるのか(なったとは言うのは早計である)、それとも一時代の徒花、とまでは言わなくとも一時代を画した作風として総括されるものに終わるのか、今は分からない。
 詩歌の古典は人(短歌に関しては日本人)に愛誦され続けられるものの謂である。この人とは一般人のことである。一般人が愛誦したくなるような短歌とは何か。それを考えるに、「子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」」が100年先に愛誦歌が足り得ているとは筆者には思えない。山田航はそこまで深くは考えずに「歌人ための古典」というくらいの意味で「古典」という言葉を使ったのであろうか。穂村の露悪的なところのない(の見えない)繊細な叙情歌だけがもし古典たり得たとしても当の穂村自身は少しも譽れには感じないだろう。俵万智のセンターの歌は古典となり、穂村弘のセンターの歌は古典とならないとしてもそれは仕方ない。
 先鋭的な歌人は一般人が古典と思う歌をつくることを目指している訳ではないし、先鋭的な詩歌は一般人が受け入れられないことの方が多い。吉岡実は詩人にとっては超超有名な一流詩人であるが、彼の作品は未だに一般人にとっての古典ではない。恐らくこの先も。しかし、吉岡を知る人間には吉岡は至宝である。穂村の歌が玄人好みの歌であるかと問われれば、筆者にはそう思える。モーツァルトの「素人も喜び、玄人も唸らせる」と同様な作品づくりを穂村に感じる。

(6)「十二階かんむり売り場でございます」

 「十二階かんむり売り場でございます」月のあかりの屋上に出る

 『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』収録。本歌も『世界中が夕焼け』から。山田も穂村も触れていないが、種明かしをすれば、これはかの「冠位十二階」から思いついた短歌である。冠位十二階は、日本で604年に制定された日本で初めての冠位・位階であり、朝廷に仕える臣下を12の等級に分けた。「冠位十二階」「十二階冠位」「十二階冠売り場」となる。言葉遊び、筆者はこのようなタイプの言葉遊びをヒントにできた作品は嫌いではない。本歌は馬鹿馬鹿しいと言えばそうかもしれないが、単なる言葉遊びに終わらないしっとりした叙情を湛えている。下記の歌も叙情歌である。

 抱き寄せる腕に背きて月光の中に丸まる水銀のごと

 孵るものなしと知ってもほおずきの混沌(カオス)を揉めば暗き海鳴り

 「水銀のごと」が儚くも怪しい。「暗き海鳴り」と歌の陰影の冥さをます。今更、天真爛漫に多幸的な叙情歌を歌ってどうすんの的なふてぶてしさは穂村のポリシーでもある。

(7)終わりに

 穂村短歌が一筋縄ではいかないことはごく僅かな例を引くことによってすら、明瞭に理解できる。理知的なイロニカルな叙情性の万華鏡としての穂村の歌は現代性を短歌にどのように持ち込めば良いかというテクニカルな豊富な実例を歌人に示している。これに触発されて次々の多様な穂村チルドレンが誕生したことを筆者はいとも簡単に信じられるのである。
 俳句界には穂村のように俳句の革新に向けてマスメディアを通じてマルチにカリスマ的に影響力を発信し続けている若手俳人はいない(ある程度年齢が行っている「若手」も含め)。それは、前回の「短歌は若者の器か」に書かせていただいた俳句と短歌の本質的な差異によるところが大であろう。短歌が若手の歌であるからこそ若手の騎手も容易に現れる。一方、俳句ではなかなかにそうはいかない。ただ、戦中戦後の若手俳人による俳句の革新がなされたことを思い出すならば、俳句にそのような負の特性はあるとしても、やはり革新は常に若手から起こることは俳句に関しても間違ってはいないであろう。穂村短歌が俳人に与うる啓示があるとしたら、それはこの仮説を支持するものになるであろう。

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短歌相互評⑧ 西藤定から川島結佳子「たぶん」へ

2017-08-03 00:45:41 | 短歌相互評

 

作品 川島結佳子「たぶん」  http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-07-01-18583.html

評者 西藤定

 

青春は気味悪くあり錆びついた傘差し向かう同窓会へ

女だが女装してゆく鉄黒のタイツ私の脚細く見せ

 「気味悪い」は、単なる不快ではなく未知のものへの得体のしれない不安を含む感覚だ。同窓会に参加する作中主体にとって「青春」は自分自身が歩んできた過去のはずだ。それは今でも得体のしれないものなのだ。

 二首目の「女装」は武装なのだと思わされる。ともすればマウントの取り合いになりがちな同窓会で、精一杯の防御としての装いなのかもしれない。一方で「錆びついた傘」と、装いに徹しきれない主体も表れている。

 

手すりにも掴まらず立つおばあさんの体重支えるくるぶしの骨

 先の二首目とこの四首目に共通するのは「論理の視覚化」ではないかと思う。二首目「脚細く見せ」、四首目「体重支える」は、たとえば目に見えるものの描写に徹して歌を詠もうとするなら、省略して構わない部分だ。なぜ同窓会に行くにあたって「鉄黒のタイツ」を履くのか、なぜおばあさんは「手すりにも掴まらず立」っているのか、川島さんはそれを読者に想像で補わせず、主体が頭の中で行っている論理付けをそのまま押し出してくる。

 「そこまで言うのか」とも思が、これは決して蛇足ではないだろう。これらの表現は、主体の内面の理屈付けを、むしろ目に見えるもののように描写に組み込んでいる。連作前半をつらぬく冷淡で無骨な文体(「を」の助詞抜きや言い差しの多用など)によるところもあるだろうが、まるで剝き出しの「くるぶしの骨」がそこに見えているような不思議な迫力が感じられる。

 

ドライフラワーなのか私は出会う人出会う人皆「変わらない」と言い

蜘蛛ならば巣を張る隅を陣取った私にも生ビールは注がれ

 自己卑下でシンパシーを誘いつつ、同時に発想の鮮やかさで興を誘おうというのなら、それは「自虐ネタ」だ。しかしこの六首目と七首目、見かけ上は「自虐ネタ」の型に沿っていながら、興を誘うどころか恨み言を真正面から突き付けてくるような凄みがある。「ドライフラワーなのか私は」と初句字余りで大仰に「ツッコミ」を打ち出したあと、三句目からすっと落ち着いたまじめなトーンに帰り、そして結句は字余りと言い差しで粘っこく締める。七首目も上句の「陣取った」がおそらく一番力の入るところで、そこから急に「素」に戻り、最後は字余りと言い差しで終わる。

 これらの歌も二首目、四首目と同様に、歌に流れる理屈が明晰で、読者が自由に解釈の幅を広げる余地はない。だからひとたび「突きつけられた」と感じたら、もうそれを躱す手立てがない。

 

「つまんない女だ」君と私とで笑う私のつまらなさなど

膝に痣残したままで雪みたく忘れてゆける私だ たぶん

 連作終わりに近づくと、逆にふんだんに省略を効かせた歌も表れてくる。八首目、「つまんない女だ」と言ったのは君か私か、言われたのは君か私か、文面だけから一意に定めることはできない。ただ「君」と「私」と「つまんない女」の三項が宙づりで浮かんでいて、それだけが読後に長く尾を引く。

 十首目、痣は残るのに膝をぶつけたこととその痛みは雪が溶けるように忘れてしまう、と解釈することができるが、ほかの読み方も可能だろう。「忘れてゆける」対象は同窓会での会話や、さかのぼって学生時代そのものへと広がっていく。一字空けのあと「たぶん」の音が重く響いて、痣の存在を思い出させるようだ。同窓会での会話によって、主体はどんな「痣」を付けたのだろうか。

 それでも、主体は同窓会に欠席はしなかったのだ、と最後に思った。

 

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短歌相互評⑦ 川島結佳子から西藤定「Spoken, Written and Printed」へ

2017-08-03 00:40:52 | 短歌相互評

 

作品 西藤定「Spoken, Written and Printed」  http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-07-01-18578.html

評者 川島結佳子

 

 一読して就職活動中の連作であろう、と思う。美大に通いポーズでしか就職活動をしていなかった私にとって、就職活動がどのくらい大変なのかは想像するしかないのだが、社会に出る第一歩としてとても重要な場面であるはずだ。

待ち合わす大手町駅ありえない方から風が実際に吹く

 大手町駅は広く、迷路のようであり、出口もたくさんある。オフィス街であり何処も似たような景色だ。同じような広い駅でも渋谷ならハチ公、新宿ならアルタ前など待ち合わせとなる目印となる場所があるが大手町にはそれがない。そこを待ち合わせ場所にするということは恐らく親密な誰かとの待ち合わせなのだろう。また、迷路のような駅であることから何処から風が吹いてもおかしくはない。「ありえない方」の言葉に特別な期待感がある。


「おい、じじい」ときみは呼びくる藤色のUSBを差し出しながら

 「おい、じじい」の呼び方で一首目の親密さが強調される。作者がどういう人物であるのかも想像できる。USBというアイテムは現代的でありながらも「藤色」であることが初句のあだ名と響きあっている。


自立する書類カバンに買い替えて公衆トイレでそこを見ていた

 自立する書類カバンに自分を重ねている。公衆トイレは不特定多数人が使う場所であり、自分が「個」から不特定多数に混ざっていくような印象を受ける。「そこ」とは何処の事だろう。自立している未来だろうか。


きみが善いことをしたからにんべんのなかのなかむらさんからはがき

 「きみが善いことをした」と言いきる作者に優しさを感じる。「にんべんのなか」のにんべんを発見できるのも作者の人柄の良さが出ている。


読むために書くのだろうか履歴書の性別欄を最初に埋めて

 全体の連作の中で一番「はっ」とさせられたのがこの一首である。履歴書は誰かに「読まれる」ために書くのであり自分で「読むために書く」と考えた事がなかった。確かに履歴書を書くと今までの自分の歴史を改めて振り返ることが出来る。性別欄を埋めるのは履歴書を書く上で最も簡単な作業である。昔、テストを受ける時に「簡単な問題から解いていきなさい」と言われた時のような懐かしさを感じる。


買いたいと思ったらもう買っているおはぎ、おはぎは米の惑星

 「おはぎは米の惑星」という比喩に脱帽する。確かに形、表面のでこぼこさは惑星によく似ている。「買いたいと思ったらもう買っている」にスピード感がある。おはぎは手軽に支配できる惑星なのかもしれない。


間がわるく手で押し返す自動ドアその手ごたえで「やれます」と言う

 これは分かる!恐らくあるあるである。回転式の自動ドアであろう。手で押している人を何回も見たことあるし、私も実際に押したことがある。自動ドアを手で押すことは世の中の流れに任せず自分で生きていく、という決意であろうか。結句の「やれます」というきっぱりとした物言いに気持ちが表現されている。
 

花びらが流れてきてもこれは豪、あなたが見たいのは神田川

 この「豪」は恐らく皇居の堀の事であろう。堀に浮かぶ花びらは何処へも行くことが出来ない。「神田川」と聞くと南こうせつとかぐや姫の「神田川」を思い出す。作者は何も怖くないのだろう。あなたの優しさ以外は。

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短歌時評 第129回 悦子の部屋にいくぞ 柳本々々

2017-08-02 13:24:06 | 短歌時評

小津夜景×関悦史「悦子の部屋」イベントを聴いてきた。下北沢のB&Bは思い出の場所で、わたしは三年前はじめてこの本屋のイベントで、西原天気さんや田島健一さんや鴇田智哉さんや宮本佳世乃さんに(一方的に)お会いした(そのころは、こそこそしていたので)。このときおもったのは、あえるひとにはあえるのではないかということだ。わたしはこのほんやで、会える哲学のようなものを教わった。そのころそれを夜景さんに話したが、まさか三年くらいたって夜景さんがそこでトークショーをすることになるとは、と思った。けっきょくわたしはこんかいのイベントで三年前とおなじ位置のおなじ椅子にすわった。わたしはけものか、と思ったが、なにかふあんなことがあるたびにドラム式洗濯機のうえから動かなくなる猫のきもちがなんとなくわかった。やぎもと・とまと…。

イベントで心に残った夜景さんの言葉(「ふわふわしてるが深刻」「前衛様式になると…」は関悦史さんの言葉。ちなみに私が当日速記でノートに走り書きしたものなので、夜景さんや関さんの本意とずれている場合があります)。

「賞のときはパーソナリティーを出す。句集の時は完成度をあげる」

「詩は立つことだけが価値ではない」

「前衛様式になるとどうしても自由律の俺が俺がになる場合がある」

「ある年を過ぎると自分自分はもういいと思う」

「ふわふわしてるが深刻」

「書いた以上のことは考えてないからわからない」

「空き家も建築であることによって構造からは逃げられていない」

「子音は痕跡としてからだにのこる」

「B級要素が私には必要だと思った」

「屹立が許される年齢がある」

「フラワーズ・カンフーという連作は女子高生として詠んでいる」

「けっこう吟行してる」

「ぷるんぷるんの句は写生句。はじめて俳句をおもしろいなと思えた句」

「フランスに住むようになってわからない言葉の中でゆったりしていられるようになった」

 

     ※

 短歌をつくる人間として、定型にかんしてこのイベントをとおしておもったことを書いてみよう。

フランス語の中で暮らしていて、わからない言葉のなかでもゆったりできるようになった」という夜景さんの言葉が印象的だったのだが、短詩=定型ってそもそもそういう〈ちょっとやそっとわからない言葉があっても動じない耐性を身につける〉ようなとこがあるのではないか

大事なのは、わかる/わからないには実は階層なんてない事だ。本当は意味生成はその二つを往還しサイクルする。岩松了の言葉を思い出そう。「わかりたいとは人間誰しも思うわけです。思うわけですが、『わかる』ということが『わからない』ということに勝るとは、ゆめゆめ思って欲しくない、と私は思うわけです

鶴見俊輔は「ハクスリーの『ルダンの悪魔』では、突然「天啓を受けた」と言って、みんなが見ている前で弟の首を切ってしまう。人間にはそういう衝動につき動かされるというものがあって、その歴史が繰り返されている」と述べたが、これも「わかる/わからない」の二項対立を超えたものだ。超わかると超わからないの拮抗というか。それを小津夜景はフランスという異言語をとおして、生の文法や語法として、学んだ。小津夜景にとってフランスとは言語認知がテーマ化される場所でもあったのだ。

定型詩は、よく口のきもちよさのようなことが言われるけれど、わからないことのきもちよさときもちわるさの原っぱを腹ばいですすんでいくようなところもあるのではないか。そうしてね、ずっとそのわかる/わからないの階梯を考えていく。どこでその「/」が揺れ動くかを臨床してゆく。定型詩人は、ことばの臨床医になる。みじかいことばで。

 

 

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