「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 永遠でないほうの短歌、その輝き~井上法子歌集『永遠でないほうの火』 田中庸介

2016-06-29 22:54:42 | 短歌時評
 井上法子さんの第一歌集として出版された『永遠でないほうの火』(書肆侃侃房、新鋭短歌シリーズ25)は、まずは体温の高いウエットな歌集であり、心理的な圧のようなものが全体からひしひしと感じられる。苦悩、贖罪、絶望。そして実存とその救済――。

  煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火
  日々は泡 記憶はなつかしい炉にくべる薪 愛はたくさんの火
  こうしていてもほら、陽だまりはちゃんとある 戻ろう めぐるときのさかなに


 第一首は歌集のタイトルを含む。もし「永遠でないほうの火」が台所の煮炊きの火なら、それでは「永遠の火」とはなんだろうかと考えてしまうが、シンプルに考えてこれは「プロメテウスの火」すなわち原子力である。「煮えたぎる鍋」がメルトダウンする原子炉じゃなくて、「現実」のガスコンロの上に完成しつつあるおいしいきょうの料理だということをあらためて自分に確認する。そうやってひとつずつ、3.11の恐怖の記憶に結びつくイメージを自分の中にポジティブなものとして再定位し、恐怖へのオペラント条件付けを外して自らの心の傷をいやそうとする。そんな逡巡する作中主体の心理がよく描かれている。
 この歌集を通して、直接的に震災や原発事故を歌った歌は見当たらないが、第二首の「記憶はなつかしい炉にくべる薪」、第三首の「戻ろう」というところにも、筆者が福島の被災地出身であることを思うと格別の含意を感じてしまう。「だいじょうぶ」「愛はたくさんの火」「陽だまりはちゃんとある」などの表現は、やはりポジティブな実存の確認を通して、恐怖の記憶の連鎖からの救済を直接的に示唆するものであって、その意味するところは、深い。それは茂吉のいうところの「精神力動的」な何か、あるいは実存の暗喩として記されているように思うのだが、その「実存」がほんまもんに切実な場合に、ことばはこんなつぶやきのような様相を取ることもある。

  耳ではなくこころで憶えているんだね潮騒、風の色づく町を
  透明なせかいのまなこ疲れたら芽をつみなさい わたしのでいい
  押しつけるせかいではなくこれはただいとしいひとが置いてった傘


 これらのポップな歌のポイントは「受け身」ということ。それが「押しつけるせかいではなく」とか「耳ではなくこころで憶えている」とか「疲れたら芽をつみなさい」という表現になって心からあふれてくる。「風の色づく」というところの調べがとてもいいが、これは「耳ではなく」と「く」の音が響きあっていることも一因であろう。第二首は「疲れたら」と「つみなさい」の頭韻、第三首は「せかい」と「」の「か」の音が響きあっている。というところから「耳ではなく」とはいいつつも、大変調べのよい歌が多い。そして抒情に流れるぎりぎりのところを「置いてった」などと小気味の良い日常口語のリズムの中へと切り取っていくところには、ポップスの歌詞のような相当の言葉あしらいの技術が使われていると思う。

  こころにも膜があるならにんげんのいちばん痛いところに皮ふを
  ときに写実はこころのかたき海道の燃えるもえてゆくくろまつ
  きみがきみでなくなった日の遠い崖 かじかんでどうしても行けない
  白布。こころのたまり場になる白書。でも破れそうなら歴史をあげる
  ひかりながらこれが、さいごの水門のはずだと さようならまっ白な水門


 これらの歌群は挽歌として読める。「こころの」「かたき」「海道の」「くろまつ」と頭韻のK音をそろえた実験的な第二首は、「燃えるもえてゆく」の魔術的なリフレインによって、詩の範疇へと旅立っていく。第四首の「」や第五首の「水門」の繰り返しにも同様の効果が見て取れる。これらの「調べ」にやや流れる作り方は、しかし正岡豊、東直子、錦見映理子らを経験した現代短歌にとってはもはや何ら異端でも特殊でもないだろう。第一首の「あるなら」や第四首の「でも」などの意味のうすい接続語の多用とあいまって、かちかちの論理性をあえて脱臼させたゆるい意味のたゆたいのなか、幻想的でポエティックな身体性を立ち上げていく。だが朝の光の中では、それは要するによくできた美しい「ポエム」なんじゃないの、というさめた見方も一瞬こみあげてくる。それに応えるかのようにして、最後の連作を中心とした歌群がある。

  畔には泡の逢瀬があるようにひとにはひとの夜が来ること
  どうしても花弁をほぐすのが苦行どうしても悪になりきれぬひと
  ためらわず花の匂いのゆびさきに 頬に ほとばしるわたしたち
  性愛を匂わす影にひとひらの花弁を置いて感じないふり
  墜ちてゆく河のようだね黒猫の目をうつくしい雨が濡らして
  いつまでもやまない驟雨 拾ってはいけない語彙が散らばってゆく
  かたくなな火はありますかわたくしの春にひとつの運河が消えて


 第一首は初句七音が光る技巧的な相聞歌であり、上の句を旧かなで読めばすべて「あ」の頭韻と下の句の「ひ」の頭韻が「逢ひ」たいとのメッセージをつたえる他愛のないもの。春の畦道を行く文学少女が眼に浮かぶ。第二首はにがい性愛の描写とテクスト批評などの文学行為の隠喩が二重写しになった佳作。第三首もまた性愛の描写と考えてよく「ほとばしる」の語源にあらためて感心を覚える。第四首第五首「感じないふり」「墜ちてゆく」というポルノグラフィカルな「拾ってはいけない語彙」(第六首)が歌のなかに散らばっていくという、よくできた自己言及の構造であろう。そして第七首。これは姿がよい別離の歌である。「水に書くことばは水に消えながら月には月の運河あるべし」(佐藤弓生)の「運河」をふと思い出す。観覧車、うどん、花曇り、群青、あかり、など、語彙の好みが評者とかぶっているところも個人的には心地よく読めた。



 自分のメインジャンルじゃないところでの状況論には特に慎重でなければならないけれど、この歌集のタイトル『永遠でないほうの火』をもう一度見直してみると、この「」は、どうも短歌そのものの隠喩でもあると読めてしかたがない。

  呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる  穂村弘

 という秀歌もあるが、「」とは呼吸する生命の輝きそのもの。そして一瞬の輝きを永遠のものとして紙の上に定着させた短歌の一首のことである。また「永遠」というのは、現代口語短歌の歌枕ともいっていいほどのキーワードである。八十~九十年代の穂村弘・錦見映理子・正岡豊・伊津野重美・早坂類・東直子・笹井宏之・佐藤弓生らによって極限的にまで強く定式化された「永遠」と「救済」にかかる世紀末的なオブセッションは、まだ記憶に新しい。そこでは「永遠」の希求が、ことにアララギ派の第二芸術的な「現実」本位の生活短歌に差をつけるための現代性の記号として機能しており、現実感のうすさをそのまま芸術性の担保とするシンプルな図式によって、詩がそのまま成立していたとも言えるのである。正岡豊の「きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる舟がある」というすぐれた一首は、精霊流しの場面を描いたものかとも思うが、「永遠」を希求する彼らの視線は、つねに彼岸を向いていた。穂村弘の、「生き延びる」のではなく「生きる」ことが本当のアートだ、というような現代短歌の定義は、日常を離れて永遠性を希求する文学的な距離感こそが、歌人に要求される創作態度だと強く主張するものだった。
 そこで「永遠でないほうの火」すなわち「永遠」を希求しない短歌を書いたとして、それでも歌人は高い芸術性を持ち続けられるだろうか――。これが、本作における作者の捨て身の挑戦であったように感じた。「永遠」というのは言ってしまえば《さまざまな意匠》のひとつであるに過ぎず、このような前提を外してその素材を現実の「精神力動性」に近い側にふたたび振ったとしても、これまでつちかわれた現代詩歌のポップで堅牢なメタファーの詩学(と、震災後の同時代性の空気)をもってすれば、近代短歌などとはまったく違った地点で、心の「」すなわち高い芸術性をわれわれは表現しつづけられるはずだ、というのを、本作における詩学的なテーゼとして読んでみたい。これは演劇その他のジャンルとも幅広く交通する、ものすごく現代性の高いテーマだ。そしてぼくらがやりたいのも、まさにそれだ。作者のその挑戦がここにおいてはたして成功したかはぜひ本書を買ってご自分の眼で確かめていただきたいが、この重要な問いを短歌の世界に投げかけた画期的な一冊として、本書とそのタイトルはここから長い間、ぼくらの記憶に残るだろう。

短歌時評第121回 文語短歌の今日的意義――渡辺松男短歌をめぐって 春野りりん

2016-06-25 10:00:39 | 短歌時評
 困難な時代状況を抉り出すような歌を多く目にするなかで、中津昌子の歌壇時評(角川短歌2016年5月号)に同感した。
 「…深く心に届こうとするのが、東北の自然を歌った歌、破壊しながらふたたびわたしたちを深く包む、人知を超えて存在するものであることを改めて思う。ここに引用したような歌をもっと読みたい、と思った。それは自身を省みるに栄養を求めるような気持ちであることに気づく。人間は悲惨なものばかりを突きつけられては生きてゆけない。状況が悪ければ悪いほど、それを正確に認識すると共に、一方で力を与えるものが必要であるはずだ。短歌という文芸はその両面を担えるものであろう。」「人間の息が浅いと言われる現代、やはりわたしたちには息づき深い厚みがある歌が必要なのではないかと思うのだ。

 ところで、昨年出版された川野里子『七十年の孤独-戦後短歌からの問い』は、「短歌を定点として観測した『私』と『われわれ』の精神史」(「はじめに」より引用)を論じた好著である。川野は〈私〉論及び文語と口語の問題に言及し、万葉調の擬古文体が戦意を高揚する文体として広がった危惧を取り上げつつも、なお文語が滅びない理由を考察する。そのなかで
軽い混交文体が主流である今日は、怒りや怨みといったネガティブな情を普遍的な問いに変換することの難しい時代だ。〈私〉の日常を超えにくく、怨はただちに〈私〉怨となってしまう。まして過去の歴史に自らの心情を通わせることは難しい。それに対して文語はその厚みの内に〈私〉を超えた心の歴史を蓄えている。独自の宇宙を構成できる力があるのだ。」「哀しみや怨みが小さな〈私〉を超え、もっと普遍的な広がりとなることを願い、また過去の哀しみに連なろうとするとき、文語は必要とされた。
という指摘がとりわけ印象に残った。

 また、同著の最終章「『ありがとう』と言う者―渡辺松男の〈私〉」で、川野は次のように述べる。
渡辺の世界の〈私〉は『人生』のような限界をもたず、質量ももたず、無味無臭であるようにさえ見える。同時に近代的な〈私〉も前衛短歌におけるような〈われわれ〉もとうに通じぬ『存在としての悲哀』とでも呼びたくなるものを抱え込んでいる。」「渡辺の世界における主語は、すでに発語主体としての固定した位置をもっていない。〈私〉と〈われわれ〉の境界はなく、〈私〉はさまざまな発語の瞬間瞬間に立ち現れる。そしてまさにそのような位相からしか語り得ない人間の存在としての尊さ、哀しさ、孤独、が掬い取られるのだ。」「渡辺はこのように、きわめて独自な感覚から森羅万象を存在させている普遍的な真実まで一気に貫く。独自性から普遍性までのその振れ幅のダイナミックさ、大きさはおそらくこれまでの短歌になかったものだろう。

 2014年と今年刊行された渡辺松男歌集『きなげつの魚』、『雨(ふ)る』の2冊も、川野の述べるような位相から詠まれている。

 われの呼気われともいへぬそよかぜのえながやまがらこならとあそぶ 『きなげつの魚』

 ひらきたる眼は牢の門 対岸はゆふぐも照るを自転車がゆく 『雨(ふ)る』

 身体的に痛切な状況にあるかどうかにかかわらず、ひとは肉体という牢に囚われている。そこでは「私」が他者ないし外界から隔絶した存在として認識される。しかし、外界は自らの鏡であり、互いに映し合っていると識るとき「私」という境界が失われる。

 かなしみは深空となりてあが瑠璃のかがみのからだヒマラヤ映す 『きなげつの魚』

 れいれいとまひるの星のくまなきをわがそとそのままわがうちの空 『雨(ふ)る』

 をみなてふあをいかがみに逢ひにけりおもてながるるせせらぎのおと 

 おそろしきことながら紅葉ちりゆくはむしろ歓喜として個をもたず 『きなげつの魚』

 われはわれ以外にあらずとめちやくちやなことおもへる日臼は石臼

 一首目、かなしみが透き通りヒマラヤの瑠璃色の空として感じられるとき、自分自身もそれを映して瑠璃色の空となる。二首目、肉体の眼には映らない真昼の満天の星空は、自らのうちにも広がる宇宙なのだ。また三首目では、青い鏡のように清心な女性が、肉体の眼に見え耳に聞こえるものであるかはともかく、女性の外を流れる涼やかなせせらぎを映し出している。四首目、「私」という個をもたないことは、歓喜なのだという(なお、一首では「桜」ではなく「紅葉」の散る様子が選択され、かつ「おそろしきことながら」と付言されている)。五首目、渡辺はむしろ「私」が私でしかないと思うことのほうが道理に合わないのだと詠う。存在そのものとしてたびたび渡辺に詠われる臼は、「私」が個に囚われるとき、ただの石臼という物体に変じてしまうのである。

 めじろ眼をとぢておちけりわがいのちひとひのびなば鳥いくつおつ 『きなげつの魚』

 大き蠅うち殺したりそのせつな翅生えてわれのなにかが飛びぬ 『雨(ふ)る』

 鮎一尾焼きて夕餉とするときにだれかが泣きぬわたしのなかの 

 ここの蜘蛛殺さばあそこの蜘蛛もきゆ無限連関のどこかにわが死 

 渡辺は、この無限連関、存在のつらなりという主題を繰り返し詠う。すべての存在がつながり合っていることを強く感取するとき、「私」は「私」をはみだし、あらゆる存在を、あるいは空間そのものを「私」として感得する。そこでは、互いに存在し合って響き合うことが、鈴の音のようにかなしく聞こえるのだ。

 かれ枝ゆ枯えだへとぶ鳥かげのわれながらときにわれをはみだす 『雨(ふ)る』

 みじかかる世を鳴きたてし春蟬のすべてがわれかおちて仰臥す 『きなげつの魚』

 くうかんを ちぢめ くうかんを ひろげ 銀河に芥子にわがみひびく身

 雪の明けに鈴のやうねといふきみよしいんとひびく木も家も鈴 『雨(ふ)る』 

 鈴がなり河骨咲きぬおもひでになるまへのここ水惑星に 『きなげつの魚』

 このように響き合うのは、あらゆるものが「ひかりの水」と名づけうる本質によって存在するからだと詠われる。

 この世ならぬひかりのみづをつつみたる桃はゆふぐれどきに食むもの 『雨(ふ)る』

 みえぬみづながれてゐたり竹伐りてあかるくなりし分のせせらぎ 『きなげつの魚』

 この世の輪郭が薄らぐ夕ぐれどきの桃は、この世の果実であることを超え、「ひかりの水」という本質そのものを差し出す。竹がなくなった空間に差す光は、桃のうちに包まれる「ひかりの水」と同じものであろう。息の深い渡辺の歌を通じて「ひかりの水」に触れるとき、得も言われぬ懐かしい平安に包まれる心地がする。
 さらに、心が落ち着き深い平安のなかにあるとき、存在は響き合いを超えて融け合い、かたちを失う。

 木に凭れこころおちつかせてをればとほい空ちかい空ととけあふ 『雨(ふ)る』

 ひととひと融けあふやうなやすらぎのああこれだサラシナシヨウマの匂ひ 

 五月はおもふ自分が窓でありし日の風通らせてゐしここちよさ
 

 風を通わせて外界をそのままに映す窓は、鏡と同様に確固たる「私」の対極にある。これは、「まど」を筆名としたまど・みちおの世界にも通じるものである。

 リンゴ   まど・みちお 

 リンゴを ひとつ
 ここに おくと
 りんごの
 この 大きさは
 この リンゴだけで
 いっぱいだ

 リンゴが ひとつ
 ここに ある
 ほかには
 なんにも ない

 ああ ここで
 あることと
 ないことが
 まぶしいように
 ぴったりだ


 この「リンゴ」の詩は、渡辺の歌にたびたび存在そのものとして現れる「臼」を想起させる。

 臼ここにあるゆゑなんのわけもなくかなしいここにあるといふこと 『きなげつの魚』

 臼をただ臼とし永くみてをれば臼のかたちの無のあらはるる
 

 病苦に限らないことだが、「私」という肉体の牢のうちにいてこの世の体験をすることも、肉体を離れる日を受け入れることも、ときに艱難を極める。そうだとしても、夢というべきこの世が須臾であるからこそ、光を享けてこの世界に輝くものは、このうえなく美しい。「私」とは「私」を超えた存在だと認識しているからこそ、ここに形をもって個として存在する須臾のひかりは、かぎりなくかなしい。

 春昼といふおほけむりたちぬればたゆたひてたれもゆめのうちがは 『きなげつの魚』

 あぢさゐのみえざるひかりうけて咲みひかりさやげばあぢさゐのきゆ 

 気づきたるとき今生にわれのゐておどろきの手を夕虹にふる 『雨(ふ)る』

 庭すみのおちば溜りにゐる猫は、ゐしねこは、眼光のみ残したり  

 ひかりほどのおもさをうけてちるはなのはなのひとつのまだちらぬとき 

 残照によばれたる葉はうらがへりとりかへしつかぬこともかがやく 

 祖母のたべこぼしたるごはんつぶひろひさびしくなりぬ貴石のやうで

 渡辺の位相は、深い洞察と人生体験から育まれたものかもしれない。けれども、シラネアフヒの一首を読むとき、それは「私」が「私」であるという力を抜くことによって得られるのではないか、とも思うのだ。

 いちぬけしときゆなんばんぎせる愛(は)しやまひえて天球秘曲もきこゆ 『きなげつの魚』

 無力はもいかなるちからすずしさをおもひぬシラネアフヒのいろの 

 川野が前掲書で「〈私〉論の核には、常に戦時中を含む近代を、いかに克服するのかという宿題が孕まれている。」と指摘するように、時代の舵がどちらに切られるかという切実な問いは、短歌という場においては「私」や「われわれ」の問題として、文語、口語の問題と絡めて論じられる。まど・みちおが、わずかとはいえ戦争協力詩を作った例を持ち出すまでもなく、「私」という個の超越はきわめて慎重を要する問題である。しかし、「私」を閉ざして孤絶する方向ではなく、時間や空間、さらには新たな宇宙という大きなものへと開くあり方を模索することが、現代の抱える深刻な断絶や閉塞感を脱却するひとつの道なのかもしれない。短歌においては、現在の困難な状況を正確に映し出す口語短歌とともに、開かれた新たな共同性に届きうる息の深い文語短歌の意義を、いま改めて論じる必要があろう。


略歴
春野りりん(はるのりりん)
短歌人会同人。歌集『ここからが空』(本阿弥書店)