「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評 第109回 男子VS女子 柳澤美晴

2013-12-18 16:39:49 | 短歌時評
 十一月に北海道立文学館で、特別展「北海道の短歌100首」が開催された。それに関連したイベントとして十一月二十四日に行われた「若手女性歌人たちによる文学館歌会」にわたしも参加させていただいた。題詠「島」の無記名互選。題の発案者は、司会を務めた山田航である。山田曰く、題は、会場である北海道立文学館が中島公園内に位置すること、北海道自体が大きな島であることに由来するという。歌会に寄せられた歌は下記の六首。

 摺り足で島と私の境界を確かめながら夢から離れる 岡 美紗緒

 島が産み落とされるまでわたつみはたれの涙にもあらざるものを 柳澤 美晴

 目覚めたらあなたは島になるのだと渡される黄金の湯たんぽ 雪舟 えま

 種子抱く樹木をわれを抱きつつ紅葉しゆく島抱く湖 大塚 亜紀

 高島田の向こうに金のポプラ燃ゆ空の高さを言祝ぎながら 樋口 智子

 早朝は老人ゲートボーラーのシマと化したりはるにれ公園 中村 美智

 岡と雪舟ははからずも「夢」と共通したモチーフを扱っている。また、国産み神話をしのばせる柳澤の歌と自身が島に化身するという雪舟の歌も新生というテーマによって淡く重なるだろう。大塚の「抱く」という行為は島と自身の一体化を願うものであり、その一点に注目すると、雪舟の歌とのつながりが見えてくる。樋口が詠んだ花嫁の日本髪「高島田」も婚姻によって新たな命が育まれることを想うと、他の歌と全く関連がないものとして見過ごすことはできない。結局、「島」を縄張りを表す俗語の「シマ」としてやや斜めからとらえた中村以外の詠み人の歌はみなどこか通じるところがある。
 驚いたのは、六人のうちのだれ一人として社会的な事象を取り上げていないことだ。「島」という題を知らされた時、真っ先にわたしの脳裏にひらめいたのは、尖閣諸島、竹島、北方四島などわが国をめぐる領土問題であった。わたし個人に関して言えば、領土問題にふれるほど考えを深めきれていない現状があり、手を出すことを控えたのだが。言うまでもなく、領土問題は非常に繊細なものであり、言及するには表現者としての相当の教養と覚悟とを必要とする。多分、わたしと同じような理由で遠慮したひともいただろう。
しかし、仮にその場に男性の歌人がまじっていたらどうだったろうか。おそらく、果敢に領土問題を取り上げるものがいたのではないかと思うのだ。
 先述の六首を改めて見渡すに、女性の歌は自己への関心を足掛かりにして詠まれている印象が強い。自己を発想の中心に据えて周縁へあわあわと触手を這わせる。岡の歌の足で島の感触を確かめる行為はその徴に他ならず、また、雪舟の歌ではひとが島へと化身する過程において自己の輪郭を探りつつ種の越境を求めることが暗示されている。柳澤の歌の島になる前と後というのは区分けそのものであるし、大塚の、種子を抱く樹と自分とを抱く島を抱く湖という入れ子構造の歌も、等圧線のように境界線を重ねていくものと見ることができる。
そして、それぞれの歌に身体が詠みこまれていることにも注目したい。岡の歌の地面をざらざらこする足裏、雪舟の歌の湯たんぽにほんのりと温もる体、柳澤の歌の伊邪那美命のまぼろしの肉体と大塚の歌のまぼろしの島の腕。ここに、樋口の歌の高島田という女の命ともいうべき髪の毛の輝きを付け加えてもいいだろう。このように身体を起点として歌が成っているのを見ると、女性は子宮でものを考えるという謂いも信憑性があるもののように思えてくる。勿論、その反対に男性は頭でものを考えるから理性的であり、より社会的な生き物だという理屈があるのだが。「島」という題は巧まずして、女性性を炙り出すことにつながったように思う。それも、女性歌人だけが集まったからこそ、そこにはいない男性歌人との相違が明らかになったのだろう。
 ところで、先日、男性六人グループの同人誌「ネヲ」と女性四人グループの同人誌「口実」、女性ユニット北山川によるネットプリント「無銭飲食」を読んだのだが、やはり男性の作る冊子と女性の作る冊子とでは、スタンスにはっきりとした違いがあった。
 珍しいことに「ネヲ」は、短歌を詠むものと現代詩を綴るものの双方を擁している。短歌サイドは、三上春海、山田航、吉田恭大、藪内亮輔。現代詩サイドは、鈴木一平。久石ソナは短歌にも現代詩にも手を染めているから、案外このメンバーの選定には彼の意向が働いているのかも知れない。そして、この同人誌の一番の特色は短歌作品も詩作品も載せていないことだ。その代わりに好きな題材にそって評論とエッセイのあわいに楔を打ちこむような文章を思い思いに綴っている。鈴木の文章は日記形式だが、日によってはゴリゴリに自説を展開しているので、軽く評論の味つけをした日記と言えるだろうか。しかし、短歌作品も詩作品も載せないとは、なんとも潔い。短歌や詩では見せていない顔を見せたい、短歌や詩だけが自分たちの表現の場ではないという強い自負を感じさせる。
 どの文章もていねいな考察に基づいて書かれており、かつ、詩的な彩りがあって惹きつけられる。名文と思われる箇所には思わず傍線を引きかけた(が、本が汚れるのはいやなので引かなかった)。

 〈「死」とは「生」の終わりではない。「生」全体を上から照らし出す、光源なのである〉
「数学的・哲学的な詩学―萩原朔太郎「蛙の死」における詩空間について」藪内 亮輔


でも、たかだか好きなものを語るのに、こんなに綿密な理論立てをしなければいけないのかという疑問がよぎったのは、わたしが女だからだろうか。殊に、冒頭からレヴィナスの文章を引用して、素晴らしい書物の代表として聖書をあげ、自分には語る資格がない(でも語りたい、語らせてください)と延々と事由を求める三上を見ると、世間の目を気にして言い訳を必要とする男の悲しい性を感じてしまった。社会的な裏づけがないと不安なのだ。このあたり、「好きだから」という感覚的な思いこみで押し切ってしまえる女性からしたらちょっと理解しがたい。
それにつけても、互いに慣れあうことなく、むしろ文章によって一人立ち、真剣勝負を仕掛ける姿勢の雄々しさよ。女性が加わるとこうはいかない。なぜなら女性とは、つながりを求めてやまない生き物だからだ。
その証拠というか、「口実」にも「無銭飲食」にも共作がおさめられている。「口実」は、「かばん」に所属する人妻の集まり。などと書くとなにやらあやしい空気が醸されるが、巻末の自己紹介に人妻歴なるものが記されているのだ。それによると四人は結婚歴一年から二年の新妻らしく、そういう共通項もあってふだんから仲良くしているのだろう。メンバーは、鳥栖なおこ、雨宮真由、柴田瞳、温井ねむ。共作は、「同人全員既婚であるという共通点から考えた、作者をふせて妻目線の歌の連作をつくる」という「人妻短歌ミックス」。それに、「同人が書いた短歌から物語を綴り、さらにその末尾に短歌を添えて回してゆく」という「リレー歌物語」もコラボレーションと見做してもいいだろう。

 きみのゆびおもいだしてる部屋中に琉金ひらひら泳がせながら

 好きな色ちらして紙を染めてゆく互いに上げ膳据え膳しよう

 うらがえるくつしたひらいたままのドア きみは気配をおいて出てゆく
 
 襟のよれたシャツとシフォンのブラウスが洗濯層できつく絡まる

 またちゃんと体を拭かない風呂上がり 水に棲んでたこともあったね

「アイリスハイツ城池D棟―人妻短歌ミックス―」
雨宮 真由・柴田 瞳・鳥栖 なおこ・温井 ねむ


「アイリスハイツ城池D棟―人妻短歌ミックス―」では、アパートでひたすら夫の帰りを待つ主婦の日常が描かれている。夫の気配がみちる部屋で、夫の指を思い出しつつ洗濯をする。身を粉にして互いに尽くし合う上げ膳据え膳の関係になることを望み、水に棲んでいたねと前世の記憶を問うことで、絆の固さを確かめる。夫と妻との結びつきを確かめる作品を書くことで、メンバー四人の結びつきを強める、作品と作者のねじれた二重構造に他とつながることで自己を確認したいという女性の根源的な欲望が透けて見える。そういえば、「リレー歌物語」も全て恋人と自分との関係性をテーマにした作品だった。リレーなので、テーマに一貫性を持たせたのかも知れないが、切り取る角度がみな同じというのは、ふしぎな感じがした。この場合のテーマとは、恋人との別れと自立なのだが、濃密な結びつきを恋う心の裏返しだと思えば、「人妻短歌ミックス」において湧き出している願望と根本的には変わらない。
さて、「無銭飲食」に話をうつそう。「無銭飲食」は、北山あさひと山川藍のユニット「北山川」によるものである。出会いのきっかけはtwitterの書きこみだという。互いに「まひる野」所属だが、北山は先に「まひる野」に所属していた山川を追う形での入会になるので、主義をともにする同士というよりは、気のあうふたりで結成したユニットと見た方がいいだろう。だからというか、内容も短歌、物語風エッセイ、漫画、シュールな小説など多岐にわたり、かつ、ゆるゆるな空気がただよう。共作は、「上の句下の句往復ビンタ」。この命名がすでに悪ふざけというか、中学生みたいなノリでふたりの親密さがうかがえる。三重県の伊賀市にある忍者屋敷に向かう道中に行った付け句のようで、行きは上句を山川が下句を北山が、帰りは上句を北山が下句を山川がそれぞれ作っている。

 川を渡れば看板が待っていて私の中の水面が揺らぐ

 忍者ではなくとも渡れる川があり座ったままで越す四日市

行き(上句・山川/下句・北山)

 
 トイレの無い観光施設まわりつつ「もよおし」とあるパンフ気になる

 たくさんの駅にふるさと溢れてはいちいち興奮するね土産は

帰り(上句・北山/下句・山川)


 さすがに吟行なので周りの景色をよく見てはいるが、それが「私の中の水面」や鉄橋を渡る時に座席に伝わる響き、尿意、お土産を見てときめく胸のうちなど主体に還元して、客観描写に徹することはない。そういう作風ということも勿論あるだろう。それに加えて、ここには風景よりも体感を媒介にする方が、旅の思い出を深く刻みこむことができるという思いがあるように思う。詠みこまれた身体感覚を通路として、読み手は歌の中に入りこむことができる。ただ一度の時間を体験を焼きつけたいという強い願いが、風景画を鑑賞するような位置に読み手を置くことを拒むのではないか。思えば、ビンタによって身体の痛みを分かち合うと考えたら、意味深長なタイトルである。
 ちなみに、冊子の企画内容においても装丁においても、男性側よりも女性陣の方が遊び心において勝っている。殊に、「口実」の赤い糸を用いたミシン製本はスペシャリティな感じがしてよい。トレーシングペーパーのカバーがかかっているのも好ましく、思わず印刷所の名前を確かめたのだが、今、話題の「レトロ印刷JAM」が手掛けたものであった。そういえば、表紙の題字や柄の一部分が浮き上がった加工は、「レトロ印刷JAM」推奨のツヤプリ印刷であり、表紙をめくると、白インクで果物が描かれていたりとものすごく手がこんだ仕様だ。装丁の計算されたチープさは、「口実」のコンセプトのひとつと見てもいいだろう。わたしも「レトロ印刷JAM」のホームページを見て、同人誌を作るなら頼みたいと思っていただけに、「口実」メンバーの流行への感度のよさには感心した。こうした流行を先取りする感覚は、女性の方が上かも知れない。
男女共同参画社会の現在、「女流歌人」という呼称への疑問が囁かれている。また、それを裏づけるように若手歌人を中心に性差のあいまいな歌も見られるようになってきている。男女の区別などナンセンスだ、「女流歌人」というくくりは逆差別だという向きもあろう。しかし、やはり男性・女性という枠に当てはめ、かつ二項を対立させることで、はじめて見えてくる面があることは否定できない事実だ。よって、時代遅れのそしりを承知で言わせてもらうなら、歌を含めた歌人の歩みを分析するには、世代や性差を細かく見ていくべきであるように思う。性に着目することで、異世代間の美意識や価値観の違いも自ずと明らかになる。性という括りを設けぬのは、評の鉱脈のひとつを失うことであり、あまりに惜しい。
ただし、「女流歌人」という言い方には、わたしは若干の抵抗を覚える。「女流」という言葉は少々時代がかっており、今の風潮にそぐわないように思う。じゃあ、女性歌人と男性歌人と呼べばいいのかと言われたら、まあ、わたしはこれまでにもそう呼んできたし、一応の納得はできる。けれど、上記の「ネヲ」、「口実」、「無銭飲食」と学生時代のサークル的ノリを残した同人誌を読んでいると、男性・女性という成熟した大人に対する呼称ではどうも物足りなく感じられて仕方ない。そこで、思いついたのは、「男子歌人」、「女子歌人」という呼称である。作風によっては、男性歌人、女性歌人の方がしっくりくるひともいようが、おとなこどもの感覚をもつ歌人には、男子歌人、女子歌人という呼称の方がよほど似つかわしいように思う。思えば、すでに「短歌男子」という同人誌も存在する。と、言っても具体的に男子歌人、女子歌人と呼ぶべき歌人と例歌を挙げないと読者には納得いかないだろうが、長々と書きすぎてしまったので、この論についてはいつか機会があえばということでご容赦いただきたい。しかし、わたしの感覚からすると、最近の短歌界は男子歌人、女子歌人を中心に動いている印象がある。実は、穂村弘こそは元祖男子歌人ではないかとひそかに思っている。永井佑も男子歌人っぽいなと思う。元祖女子歌人は、東直子か早坂類か。とにかく、男子と女子の次なる一手に注目するとしよう。


短歌時評 第108回 歌集出版の多様化~新鋭短歌シリーズ出版記念会で浮き彫りになったこと~ 山崎聡子

2013-12-06 22:12:00 | 短歌時評
 2013年11月30日、日本出版クラブ会館(東京都新宿区)で行われた新鋭短歌シリーズ出版記念会に参加してきた。本会は、福岡の出版社・書肆侃侃房から発行された「新鋭短歌シリーズ」第1期12冊の出版を記念するもので、第一部として「歌集を出すかもしれないあなたへ~第一歌集のこれまでとこれから~」と銘打った加藤治郎・東直子・光森裕樹らの座談、第二部「短歌を遠くへ届けたい!」では木下龍也、嶋田さくらこ、陣崎草子、田中ましろら同シリーズ著者によるトークセッション、第三部は各歌集から抜粋した短歌の合評、という構成で進められた。全体的に、短歌、もとい歌集出版のいまがわかる充実した会であったが、本稿ではおもに第一部の内容をもとに、歌集出版の現在とこれからについて考えていきたい。
 改めて「新鋭短歌シリーズ」について説明をすると、本シリーズでは、加藤治郎、東直子の二人が監修者として新人の歌集出版をバックアップしており、選歌や解説文の執筆も含め、著者たちは加藤・東のどちらかのプロデュースのもと歌集を世に送り出すことになる。また、書肆侃侃房から出された公募による第二期の出版要綱を見ると(http://www.shintanka.com/shin-ei/apply/faq.html)、買い取りなどの諸条件はあるものの、形態としては商業出版に近い形式がとられていることがわかる。
 近年、ウェブや「うたつかい」「うたらば」等の独自の冊子媒体を舞台に、結社によらない短歌人口の層が厚くなりつつある。歌集出版の意義はひとまずここでは置いておくとして、たとえば、これからこのような媒体からでてきた書き手が歌集出版を考えたとき、結社等による従来の編集ノウハウがないなかでどのように歌集をまとめるのか。その一つの答えとして、「新鋭短歌シリーズ」の取り組みは興味深いものだと思う。
 このシリーズの新しさは、いままで“結社内”で蓄積されていたノウハウを、外部に向けて可視化したことにある。たとえば、出版社をどうみつけたらいいのか、どのように歌をまとめたらいいのか、解説や栞を誰に頼めばいいのか、贈呈や書店流通などの流れはどうなるのか……。
 筆者自身も昨年から歌集出版を検討してきたが、その時点では結社に入っておらず、また周囲に歌集を出版したという人間もさほど多くなかったため、手探りのなか準備をすすめていったという実感があった(もちろん、その過程ではたくさんの方のアドバイスをいただき、なんとか出版にこぎつけることができたが……)。また、光森が「後から“普通はこうするらしいよ”という歌壇のルールを聞かされて、“知りませんでした”って思った(要約)」と述べていたように、解説や帯文・栞文の位置づけなど、なかなか外からではわからない決まりごと(と思われること)も多い。しかし、新鋭短歌シリーズでは、いままで結社の先輩格が担ってきた選歌や解説・栞文の執筆などを加藤・東が担当することで、ある意味“疑似結社”のようなシステムの中で著者を導くような形がとられている。つまり、先輩歌人に選歌を受け、アドバイスをあおぎ、栞文や解説をかいてもらう、という一連の流れができあがっているという意味で、新鋭短歌シリーズは実は意外なほどオーソドックスな歌集出版の形態なのではないかと思う。また、田中ましろ、嶋田さくらこなど、従来のシステムの中ではおそらく歌集を出さなかっただろう(と思われる)歌人たちの歌集が出版されたことは、この形態ならではのものだろう。
 一方で、パネリストの光森自身もそうだが、結社的なシステムの外で、自分の美意識に沿った歌集を出す、という流れも存在する。光森の言葉で印象に残ったのが、歌集出版を目指す人に対するメッセージとしてあげられた、「ベンチャー的であってほしい」という一言だ。光森自身は歌集の出版自体が初めてという出版社・港の人から、活版印刷の美しい歌集『鈴を産むひばり』を出版した。同出版社からは今秋、堂園昌彦がやはり活版印刷で『やがて秋茄子へと到る』を出版し、こちらも評判になった。この二冊が完成度が高い魅力的な歌集であることは疑いがないが、従来歌集を手掛けていない出版社が手掛けることで、独自の営業ルートを活かした、書店での幅広い展開が可能となった部分もあるだろう。そのほか、光森の第二歌集『うずまき管だより』、あまねそうの『2月31日の空』のように電子版での歌集出版、という形態も今後は増えていくことが考えられる。
 「現代詩手帖」12月号で山田航は、今春の紀伊國屋書店新宿店の短歌フェアの盛況について、「これまで歌集・歌書は『売れない』『歌人のあいだでしか買われていない』と言われていた。しかし実際はそうでなく、歌人のあいだですら買われていなかったのである」と指摘している。確かに、これまで、贈呈文化の外にいる人間には歌集の出版を知ったり、実際に手に取ったりする機会は極端に少なく、新たな試みとして行われてきた「オンデマンド出版」もISBNコードがなく、書店での流通がなかなか望めないという意味で広がりが難しい部分があった。本会第一部の質疑応答のなかで、松村由利子が贈呈文化の不健全性を指摘したうえで「適正な価格で書店で歌集が買えるようになってほしい」と発言したが、新鋭短歌のようなシリーズ、または光森らが試みている新たな歌集出版への取り組みは、すでに短歌をやっている人への歌集へのアクセスを向上させるという意味では大きな意味があっただろう。しかし、この流れを一瞬の盛り上がりにせず、さらに外に向かって広げていくためには、短歌の側から読み物として面白いものを継続的に、粘り強く発信していくしかない。
 「歌集は“歌壇”ではなく、“世の中”に問うてほしい」(光森)、「結局は内容がすべて」(加藤)――。これら発言の意味をどう考えるか。本会では、短歌の“いま”が提示されたが、“これから”を考えたとき、その未来は極めてあいまいなものであるように思う。それを考えるのが、いま、短歌に足を踏み入れている私たちの役目だ、と本会は投げかけているような気がする。