「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 「短歌批評」 橘上

2015-08-31 14:22:34 | 短歌時評
 短歌に関する文章をあつめ、一つのアンソロジーを編むという計画。そのためのアイディア。さまざまな〈他者の視線〉を通じて、短歌の現在を読み解くことが本稿の目的である。

 今を生きる歌人たちの声と活動を記録し、本来バラバラであるはずのそれらの点に何かしらの線を引くことによって、ひとつの(あるいは複数の)面(シーン)として可視化すること。
 だけど、実を言うと、わたしはこれまでそうしたマッピングはできるかぎり避けてきた。「ポスト××」「××チルドレン」「××世代」といった乱雑な名付けや線引きには、個々の歌人の魅力を蔑にし、結果として短歌を貧しいものに貶めてしまう危うさがあるのではないか? そう考えていたのだが、やってみよう、と思えるようになった。今こそ「批評」が求められている。作品単位での評価や感想という域を超えて、もっと大きな時間感覚をもってダイナミックに、しかし生きたものとして短歌を語ること。
 それまでの短歌批評の言語では、若者たちの作品は「描く世界が狭い」みたいに言われがちだったので、「いやいやそうじゃないよ」ということを示すために、批評言語自体も更新したかった。
 今、明らかに複数のジャンルからたっぷりの栄養―語彙や文法、フレームの切り取り方やその効果などーを吸収した才能が短歌に集まってるという実感がある。でもこれまでの短歌の歴史から完全に切断されているわけではなくて、おそらくそれまでに培われてきた短歌の遺伝子と、新しい血とが混ざり合って、突然変異的なヤバイものが出てきたんじゃないかと。
 いつの時代でも若い世代が正しい。更新されていく方法やスタイル、センス、そういったものを肯定していかないと、面白いものなんか生まれない。「何をやろうとしているのか」のヴィジョンを見ているつもりです。明確なヴィジョンを持っている人が幅を利かせられる時代なのかもしれませんけどね。でも、衝動で出来上がってしまうものはどんな時代にも必要とされているんじゃないかな。

  鈴を産むひばりが逃げたとねえさんが云ふでもこれでいいよねと云ふ

 よくいろんな歌人が「もっと短歌を読んでもらいたい!」と言うけど、じゃあ自分たちはどれだけ他のジャンルを、現代美術やインディペンデントな映画を見てるんだって話ですよね。僕は短歌以外ほとんど読まない。物理的、体力的、心の空き容量の問題として手を出せない人って結構いると思う。

  疑問符をはづせば答へになるような想ひを引き込むしゃぼん玉のなかに

 面白いものって単純なエンターテイメントには収まらなくて、クエスチョンが付いたり、完結しえないものだからこそ面白いんだけど、そういうものに四六時中浸るのは辛すぎる気もする。「芸術に興味を持っているのは全人類の三%ぐらいだ」って。読む人は最初から読むし、読まない人は何があっても読まない。

 批評は何らかのモチーフを対象にして営まれる行為である。
 視られるものまずがあり、つぎに視るものがそれを捉える。
 同時に、視るものが捉え、世にあらわした表現にも、それ自体の独立した価値が宿る。北斎の描いた「鮭と鼠」の絵画を熱心に鑑賞した人が、はたしておなじ熱心さで荒巻鮭や鼠を観察するだろうか?
 あらゆる事象はつねに時代を映す鏡であると喩えられる。そして、鏡の中の像には、それ自体の輝きがある。そこに価値を見出せない人は、短歌と言う人間のしわざにも無縁な人であろう。

  月ごとに流ると思ひします鏡西の空にも止まらざりけり


「宙ぶらりんからどのように着地するかを考えなければならないと思いつつも、このまま宙ぶらりんでもいいんじゃないか、という気分もある」
 
   天つ星道も宿りもありながら空に浮きても思ほゆるかな


 この文章にはターゲットがいない。批評は衰退よりはじまる。批評とはつまり、発見された他者を捉えようとする行為である。


  どの虹にも第一発見した者がゐることそれが僕でないこと


           ☆


  明日からの家族旅行を絵日記に書きをりすでに楽しかったこと
  目薬をさす手をとめるいま夢の覚め際にゐることに気付いて


 私の想像通りにことは進む。彼はいつも通りの彼であり、語り合う雰囲気も話す内容も、私があらかじめ思い描いていたこととほとんど変わりがない。それでも、起こっている「こと」は全体としては、やはり、新しい「こと」としかとらえられないのだ。寸分違わず想定通りだとしても、人が実際の現実に遭遇すると、一回限りの「こと」として、現在の「出来事」は推移することになる。起こった出来事には、想像できなかった要素が無数にあったのだ、ということではないのではないか。「現在のこと」はいかなる視点によっても分割できない流れの渦中にある。


  ああ苦しいとみんな云ふから今死にたくないとみんな云ふから

 人間ってそんなに感情や論理で動いてないと思うんですよ。性欲以外で人間って動かないんじゃないかと思って。例えば、食欲も性欲のバリエーションじゃないかな。触れたいとか見たいってことも。


  シールの跡をシールではがし悪くもない人をしづかに赦しはじめる

 たぶん何も信じてないんだろうな、人間というものを。どんなにすごいことを言っても、人間ってすぐ変わる。僕だって中高と吹奏楽に熱中していて、毎日七、八時間は吹いていたトランペットに今では一切触らなくなって、なんで吹いていたのかも分からなくなって。その時その時でしかないから、“全体としてはなんちゃって”にするみたいなところはあります。瞬間瞬間は本気ですけどね。だから、なかなかドラマチックにならない。


  生まれてからこれまで触れたスイッチの数が異なる人だと思ふ

 人らしいものを作ったら人のことがわかるかもしれないけれど、人が分からないと人らしいものは作れないし、人を写し出す鏡みたいなもんなんですよね。ロボットは。
 人間を人間たらしめている大きな要素は社会的な関係にあるので、どんなに自分が人間らしいと思っていても他人から人間らしいと思われなければそれは人間らしいと言えないんじゃないか。


  だとしてもきみが五月と呼ぶものが果たしてぼくにあったかどうか
  読みかたのわからぬ町を書きうつす封のうらより封のおもてに


 「父親」も「母親」も人間が決めた呼び名であって、そのフリをしている、と考えてみたいんです。
 物語化されてない、名づけられていないような、もっと不可解なものを捉えるために、ひとまず「フリ」をすると。 


  ワイシャツがあらかじめもつ形状の記憶に袖をとほす花冷え

 他人事を自分たちの感覚で理解して組み立てよう。


  それぞれの花火はつきてそれぞれの線香花火を探し始める

 その人にしか起こらないような固有の話なのに、最終的には全宇宙、全時間に至るまでの普遍性を獲得する。もしどんな言葉や空間にも「歌」を出現させるのが歌手だとしたら、紙の中に「歌」を込めるのが歌人だろう。


  はさまれし付箋にはつかふくらみて歌集は歌人の死をもて終はる



(註)
 本稿は以下の資料からの参照・引用・編集でのみ成り立っています
 また引用の際に「演劇」「落語」という言葉を「短歌」に、「作家」「演劇人」「役者」「劇作家」という言葉を「歌人」に、「演出家」という言葉を「歌手」に、「劇」という言葉を「歌」に書き換えてあります。

『文藝別冊 特集 平田オリザ』(河出書房新社)より
「東京ノート」のこと 松田正隆
 対談・「アンドロイドは人間の夢を見るか?」から 石黒浩、平田オリザの発言

『演劇最強論』(徳永京子、藤原ちから著 飛鳥新社)より
徳永京子、藤原ちから、柴幸男、松井周、中野成樹の発言、宮沢章夫に引用されたいとうせいこうの言葉

『落語を聴かなくても人生は生きられる』(松本尚久編)より
松本尚久の言葉

 引用歌については

月ごとに流ると思ひします鏡西の空にも止まらざりけり
天つ星道も宿りもありながら空に浮きても思ほゆるかな
の二首のみ菅原道真(『コレクション日本歌人選043 菅原道真』 菅原道真・佐藤真一著 笠間書院)からの引用

その他の短歌は
『鈴を産むひばり』(光森裕樹著 港の人)からの引用

※短歌の引用のみ赤字にしてあります