「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 「詠む」ことと「読む」こと――松澤俊二『「よむ」ことの近代』を読む 田中庸介

2015-01-07 11:30:41 | 短歌時評
 若き俊英、松澤俊二氏の『「よむ」ことの近代 ~和歌・短歌の政治学』(青弓社)は、坪井秀人氏らの指導のもと、名古屋大学の博士論文としてまとめられた和歌・短歌に関する論考を、このほど一書として上梓した力作である。まずこの「よむ」というところが「読む」と「詠む」との掛けことばとなっており、これは読者の大半が歌人であるというような、この短歌というマイナー文学ジャンルの様相をよく象徴したものだろう。実際、「歌人が何を意図して作品を生み出したかはむろん重要な問題設定だが、それと同じ程度に、読者の「読み」の実践にも目を配るべきだろう」(25頁)とあるとおり、実作者のみならず、戦前の国家主義教育におけるその宣伝と受容の過程にも、十分な目配りを加えたことが本書の特徴である。松澤氏は石川美南氏らの超結社の短歌誌 「pool」 の同人でもあり、実作への深い思い入れがこのようなアカデミズムに資する文学社会学研究へとつながっていった営為を、まずは心からことほぎたい。
 本書の前半は、日本国家主義が天皇の神格化を統治の象徴として推し進めていった経緯に、和歌ないしは短歌の存在がどのようにかかわっていったかということを示す詳細な文献研究である。その過程において、明治天皇の東北行幸歌集『埋木廼花』の編者である高崎正風を中心に、戦前の短歌研究で触れられることの少ない「御製」について深く触れている第三章が特におもしろい。著者は高崎らの属する「旧派」(堂上派、桂園派、古典派など)による「大日本歌道奨励会」の結成をピークとしたその隆盛と、戦時中の突然の終焉について、豊富な史料をもとに深く考究している。「「言の葉のまことの道」「歌の道」をもって「君臣の情誼」をつなげる」(73頁)という高崎の「まこと」がおのずと限界を孕んでいたことが、「高崎ら「旧派」歌人たちとその和歌が「新派」に超克されていった理由の一端」である(75頁)、と著者は総括する。歌会始において本名であることが義務づけられていることについて、「これはその人の「内面」に基づく「まことの歌」=天皇の前での「同一性」の表明が、その場ではなお求められていることの一証左だろう」(同)と述べている箇所は、近年の新人賞問題で火を噴いた「虚構」性の否定が、なぜあれほど短歌というジャンルの中に今もって息づいているのかということのよい説明となろう。すなわちこれは「旧派」から現代短歌への意外な連続性の指摘として、アララギ派による「旧派」攻撃のバイアスからわれわれの「旧派」認識をある程度解き放つものであるとも言え、はなはだ興味深いものである。
 これに対して、「新派」からの「旧派」の最大の差異として、「旧派」における「題詠と本意との関係」の固定化を著者は指摘する(157頁)。「(本意とは)「和歌史のなかで繰り返し和歌に表現されることによって」、つまり堆積する作例のなかから「認知・共同化」された「事物・事象の典型的把握の仕方」であるという。そしてこの本意がいったん形成されてしまえば、題詠による「意味―価値の秩序」まで本意が定めることになる。要するにあるコト・モノを題として詠む場合、古人が累々と形成してきたその題の本意をきちんとふまえているかが重要になるわけで、もちろんそこには自らの感覚や感受性などを差し挟む余地は極めて少ない」。このようないわゆる「美の感覚の受売」(大宅壮一日記からの引用、121頁)になってしまったことにより、「旧派」がその輝きを失い、「「自己」の析出」を旨とする「新派」の短歌にとってかわられ、「身体と内面の「発見」」(177頁)が1910年代の根岸短歌会によってなされたのだという見解を著者は支持している。
 これらの論理展開はまことに悠揚かつ整然としており、わが国の詩歌が、旧来の頭の堅い美学から西洋近代の 「アート」 の枠組みによってどのようにして解放されていったかという過程について、それを説得力のある筋道で跡付けるものである。しかし著者は、さらに現代まで一世紀にもわたる短歌の消長を、終わりのたった三章によってのみ論じようとしており、この部分ではかなり駆け足になってしまったことが惜しまれる。そこには、もし丁寧に論じればあと二冊あるいは三冊分の書物にはできるだろう貴重な著者独自のアイデアが詰まっているのであって、今後この分野へのさらなる考究が期待される。具体的には、佐々木信綱における「旧派」から「新派」、そして「「国家」への理路」 への歌論の変遷を忠実にたどった八章、戦前の「愛国百人一首」の文献研究とその受容論を試みる九章、ヒロシマの原爆詠とその継承における政治性を、大口玲子らの秀歌を引きながら論じた十章である。これらの章が提起する大きな喫緊の課題はやはり、個人主義と全体主義の関係に類するものがあろうかと評者は考える。それがもし歴史の一方向的な進化のようにしてではなく、循環するうねりのようにして幾度も再来してくるようなことがあった場合に、わたしたちは「知」の力によってどのようにそれを乗り切っていくことができるのか。すなわち戦前戦中期において、「新派」の理論によっていったん解放されたかのようにみえた個人の「まこと」そのものが、そのまま全体主義を支える道具に転化すべく教導されたというこのアイロニカルな短歌の歴史こそは、社会不安の高まりによって、リベラリズムの論理が持つある種のもろさがあっけなく露呈したよい例と考えることもできよう。あるいは、人類の無意識を極限まで解放した場合に出現するかもしれない「野蛮」に対して、シュルレアリズムの詩学はどこまでそれを肯定しつづけられるのか、という課題にそれをおきかえることも可能だろう。
 かような人類の文明における普遍的な課題に対して、本書で著者が採用したようなカルチュラル・スタディーズ的な示唆は、まさに正鵠を射たものであるはずだ。たとえば、社会的なうねりの存在を無視しては、なぜ個人主義的だったはずの 「新派」の短歌が、かくも簡単に国家主義的な価値観に組み込まれていったのかということは説明できない。また、このようなアプローチを行なうに当たっては、できるだけマージナルな立場から物事を考えたほうが有効なのであり、タイトル、第十章やあとがきにおいて示されたような、著者自身の内面における実作者と研究者の自我同一性の分裂 (「詠む」ことと「読む」こと)こそは、まさにその条件を支えているものなのかもしれない。いずれの章もまず著者随一の着想から出発し、ユニークな一次史料に自ら果敢にアプローチし、そしてそれを読み解くことによって新たな命題に到達しようとしている。このような著者の人文科学的な態度は、数ある現代の歌論のなかにあって抜きん出てアカデミックなものであり、 その結果として、たとえば近代短歌における「歌人」と「作中主体」の同一性の形成がどのようにしてなされていったかというような、評者のごとき歌壇外の短歌読者がまず抱きがちな同時代的な疑問に対しても、本書は豊富な示唆と新たな視点を提示するに至っている。すなわちこれは、短歌のまったく新しい切り口の入門書であると同時に、今後の著者の国文学思想のさらなる深化と発展に、大いに期待を抱かせる一冊である。

短歌評 “私”を包み込むもの 佐峰存

2015-01-05 10:44:01 | 短歌時評
 平日は深夜に帰宅することが多い。最近引っ越して、バス停から自宅まで歩く距離が伸びた。静かなコンクリートの上を歩いていると自ずと空に目がいく。寒々としたアパートの窓の明かり、街の光が薄らぐ地点で星が垂れている。小さく尖った炎が闇を渡っている。
 星といえば、大森静佳氏の歌を思い出す。

皿の上に葡萄の骨格のみ静か 柩のような星にねむりぬ
(大森静佳、「一角」、2013年)


 その歌が纏うのは、私達人間の肉体の宿す物質本来の静けさだ。食された葡萄の残った部分は「骨格」と表され、「葡萄」は人間の比喩となる。“私”は“食すもの”、“食されたもの”、それに“聞き耳を立てるもの”、の三つの姿を同時に持って「柩のような星」へとかえって(帰って・還って)いく。肉体の避けられない結末を暗示しつつも、それを宇宙の広がりで包み込むことで、“私”は穏やかな心境へと導かれる。
 星々の下、私達に与えられた時間は一瞬だ。そのような心持ちになるとき、私は無性に短歌に触れたくなる。短歌の定型は“私達の瞬き”すなわち私達の心象風景をとらえる上でよい大きさの器だと思う。こうした認識もあり私は新しい歌を数多く読んでいるが、詠い手が自身の中の“私”もしくは人間全般の心を凝視するような、内省的な歌がとりわけ目に留まる。 心許ないものとして人の心や存在が描写され、描写と共に誰へともなく問いかけが行われる。
 まずは詠い手が自身の心のありようを問うた歌を見てみたい。

春のはなびらを冷凍保存しておいたものですふれればくづれる
(薮内亮輔、「率」7号、2014年)


薄氷の上に置かれた猟銃をきみのこころと読んだのはきのう
(平岡直子、同上)


 薮内氏の歌は人が心にひた隠す希求に肉を与える。“私”は春に見つけた美しさをずっと手元に置いておきたいと、自然から切り離し、無機質な冷蔵庫に入れる。花は本来の場を失いつつ、“私”の執着に生きながらえる。人工的に保たれた美しさは、文字通り、“不自然な”美しさだ。「ふれればくづれる」という字余りの表現は、愛おしい「はなびら」を失いたくないと思う、“私”の張り裂けんばかりの心だ。“私”は自然界にあるべきものを、あるべきでないところに持ってきてしまった。“私”はその行為に一種の罪悪感、後ろめたさを感じている。それでも、抗い貫き通したい願望、そしてその行為がより根源的な部分では正当な行為であるとの実感を同時に有している。だから“私がやったのです”と半ば開き直った口調で自白する。美しさに依存せざるを得なくなった心を真っ向から否定出来るだろうか。
 平岡氏の歌は“私”の心象風景を危ういまでに隠喩的に表現している。その危うさが寧ろ吸引力を作り出している。「薄氷」の下には耐え難い冷たい海洋があるのだろう。 「きみ」の鉄の図体は今にも氷を割って、底なしの苦役に沈んでいきそうだ。 「きみ」は「猟銃」で、生き物の命を狙い得る暴力的な側面と、社会の要請によって企図され生まれた利便的な側面を併せ持っている。その姿を“私”は見つめていた。そして今はもう見つめていない。“私”は「きみ」により近付けたのか、遠ざかったのか。そのどちらであってもこの歌を貫いているのは“私”の物憂げな息遣いだ。“私”の心の移ろい易さこそが、歌を通じて外に示されねばならないものだったのだろう。

見渡してごらんからだを 大きくて君はとってもよい袋だね
(狩野悠佳子、「早稲田短歌」41号、2012年)


  狩野氏のこの作品では、“私”による他者に対する認識のあり方が直接的に問われている。“私”は他者である「」に優しい口調で語り出し、最後で突き放す。「」は「見渡してごらん」という親密さに富んだ囁きで包まれたかと思うと、「からだ」ばかりが重視されていることに気付くだろう。最後には「」にされてしまう。“私”の「」に対する畳み掛けは滑稽であると同時に、“私”から問題にされない「」の心の孤立を思うと不穏でもある。では、“私”は「」に対する自らの仕打ちをどう捉えているのか。“私の心はそう出来てしまっている、そうせざるを得ないのだ”という開き直った声が聞こえるが、同時に“君も私をそう見ているでしょう”といった声も聞こえてきそうだ。 “私”の自身あるいは「」に対する疑問が憤りと共に燻っている。同時にこの疑問が歌の形で世の審判に晒されている点に注目したい。突き詰めていくと、詠い手が問題にしているのは“私”そのものなのかも知れない。“私”の一つの出発点は他者との隔たりにあるからだ。
 他者との隔たりが大きくなると、当然ながら他者の心や存在に対する実感が湧きにくくなる。その隔たりが個人をこえて集団間で共有されると複雑なことになる。その様子を省みようと、短歌の焦点も日本国内の日常から、さらに大きな闇が蔓延る遠い国々へと繋がっていく。2015年現在も世界各地で紛争が絶えないが、中東では特にそれが顕著だ。中東と生活上何らかの関わりを持つ歌人の同人誌『中東短歌』がアンテナを張っている。

死者の数簡潔に伝えらるる夜の器ふるふる豆腐ふるわす
(齋藤芳生、「中東短歌」3号、2014年)


サハラとは砂漠の意味とこの子には教えるだろう遠い春の日
(柴田瞳、同上)


  齋藤氏の歌は、それ自体が震えている。“私”はおそらく食卓で中東の動向を伝えるニュース番組を見ているのだろう。歌の芯となっている言葉は「夜の器」で、そこに“私”の感覚が集中する。震える手が持つ器の感触が“私”と世界を繋いでいる。器の重量と共に世界も揺れている。「死者の数」が「簡潔」に報じられること自体はさほど珍しいことではなくなってしまった。しかし、そこに“震え”が紐付けられた瞬間、それらの事実は私達の身体に飛び込んでくるようになる。爆発や銃撃にせよ、またそれらの目撃にせよ、全ての事象は震えの中で起きる。そのような実感は新聞に掲載される詳細ルポタージュのような“情報”のみでは伝わらない。短歌という、詠い手と読み手が同じ“私”を共有出来る媒体の可能性を感じた。
 また、柴田氏の歌からも中東の手の施しようのない状況が伝わってくる。大きな期待と共に打ち上げられた“アラブの春”は上空で失速し、民主化に向けた動きは混迷している。地名にはその地域で営む人々の心情を込める働きが備わっているが、「サハラ」は必ずしも希望を意味する言葉ではなくなってしまった。“私”は率直に反応する。「サハラ」を砂漠に戻してしまうことで、一旦言葉によって編まれた“オアシス”を閉鎖してしまう。人が移住するにはまだ早い。彼らの心の準備が出来ていない。おそらく子供の世代まで、時間がかかるだろう。この“人の心”に対する気付き自体は、よりよい将来に向けた確かな前進であって、そこからより現実的な解を求めていけばよい。それが一番の近道だ。そのような強い自覚が見て取れる。
 短歌の定型に込められた感覚の密度は、(中東に限らず)総じて“不安なところ”である世界を“不安なところ”として私に認識させる。私の中で、初めて腑に落ちる何かがある。齋藤氏・柴田氏の作品から得られる感覚は、二十年程前に発表された荻原裕幸氏の、世界から目を背けることを拒否する歌と同じ方角からやって来る。

世界の縁にゐる退屈を思ふなら「耳栓」を取れ!▼▼▼▼▼BOMB!
(荻原裕幸、『あるまじろん』、1993年、沖積舎)


 世界の状況を真っ直ぐに見つめた結果、日本語の文字で発声出来ない「」が飛び出してくる。辞書にある言葉ではないが、「▼▼▼▼▼」が何であるか既に知っていると私は感じた。私達の見知った現在の世界でも常に視界の隅で蠢いているものだ。その感覚は、黒瀬珂瀾氏の次の歌にも繋がっていくように思う。

ディストピアとは何処ならむしろたへの雪ふる果ての我が眼の底か
(黒瀬珂瀾、『空庭』、2009年、本阿弥書店)


 「ディストピア」、人々が良かれと作り上げた社会や制度が軋轢を生む。これらを設計する衝動は私達自身の衣食住を欲する身体からくるはずなのに、結果として私達をがんじがらめにする。かつて啄木が空を高く飛ぶ飛行機に見た技術進歩の朗らかさはここには見られない。生の実感は“しんどさ”として身体中の器官に行き渡る。「我が眼」の見ている雪の白と眼球そのものの白が重なる。“私”にとって、世界はひたすら白く、美しく、そして苦しい。住人である“私”の感覚とどこかが決定的にずれたまま、恐ろしい銀世界が延々と広がり続いていく。
 幸いなことに、恐ろしいものが実感されるところには、反動として解放の情景も生まれる。大森氏の作品に再び接したい。自然に回帰することで一つの道を指し示す。

憎むにせよ秋では駄目だ 遠景のみてごらん木々があんなに燃えて
(大森静佳、『てのひらを燃やす』、2013年、角川学芸出版)


 超然と鮮やかさを放つ木々。ここで「燃えて」いるのは戦乱の街ではなく葉の色彩だ。飛び出そうとする憎しみ(「憎むにせよ」として字余り)を、「木々が」(「みてごらん」と連なって字余り)押し戻そうとする。“私”の葛藤する心は、自然の基調音に外から包み込まれることで平穏へと揺り戻されていく。これらの「木々」の燃え方は、私達の心や存在が孕む脆さを乗り越えていくヒントとなるのではないか。ふと『古今和歌集』の一首を想起する。

世の中のうけくにあきぬ 奥山のこの葉にふれるゆきやけなまし
(よみびとしらず、『古今和歌集』[#954])


 『古今和歌集』が編まれたときから現代にいたるまで、自然は常に私達を包み込むものとして存在し続けてきた。現代の短歌を見ると、様々な詠い手がそれぞれの生活で浮かび上がった“私”の特異な体温を明らかにするような歌が流れを作っているように感じられる。内省的な歌の中で見え隠れする“私”の揺らぎも、自然との関係性を改めて問う契機になるかも知れない。

カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン
(小原奈実、「短歌」2010年11月号、角川学芸出版)


 例えば「」を通じて、“私”と自然が繋がれる瞬間。夜が明けた暁の、「カーテン」の向こうの空に“いのち”が重なって見えてくる。

短歌時評 第113回 それでも〈私〉は「文学」である 西巻真 

2015-01-02 01:21:12 | 短歌時評
 2014年度の短歌研究新人賞受賞作は、総合誌で、ツイッターで、結社誌で、と、短歌界のあちこちで大きな騒動を招くこととなった。今さら説明する必要もないだろうが、石井僚一の「父親のような雨に打たれて」である。

 経緯の説明をする時期は過ぎたと思う。加藤治郎がいち早くこの問題を取り上げて、大きな「虚構」の論争騒ぎをツイッターで巻き起こしたし、既に若手の論客のなかでも、斉藤斎藤、黒瀬珂瀾、石川美南といった気鋭の論者たちが立て続けに新聞や総合誌の時評でこの問題を取り上げ、文書化された問題提起を調べて読むだけでも大変なことになってしまっている。

 一体どうしてこんなことになっているのか、私には最初、問題の所在がよくわからなかった。というより受賞作品そのものをまず「いい」と思わなかった。

 私は大学でテクスト論というものを学んで来たということもあって、短歌というジャンルにおいても、作者と作品は切り離して読むべきものだと思っていた。一番新しい、私の初読の感想に近い時評は江田浩司の2015年「短歌研究」1月号で、「私は創作者とテクストの関係を二次的なものとして、基本的に表現(テクスト)のみを重視する立場に立っている。」と言う論及がある。こういえば、すべて問題が収まるもの、と思った。

 なんやかんや言っていても、短歌だって文学だよ。
 今回の場合も、他のジャンルと同じように、作品がフィクションであろうがなかろうが、そんなの関係ないね。

 と言ってしまえば、問題は簡単でいい。

 これが私がこの問題を一瞥したときの最初の印象であった。

 ところが、で、ある。

 私がこの時評を書くことになって、あちこちの批評を整理している時点で、問題はそんなに単純ではないということに気がついた。

 石川美南が2015年の「現代短歌」の1月号で、「全員が飽きるまで考えても損はない話題だと思う」と繰り返し論及するに及んで、一体何をそんなに、と、考えていったとき、「あれ?」と思ったのである。

  今回の場合は、まず匿名の新人賞で受賞作が決まった。「都会的でスピード感のある現代の(父への)挽歌である」。と選考委員は評価した。

 ところが、授賞式で父親が存命であることが発覚し、その翌月号で選考委員の一人加藤治郎が問題を投げかけた。

 これだけの事象を簡単に並べると、作品の評価そのものよりも、問題になっているのは作者が勝手に自分の生きている父親を作品の上で殺した、という作品の「外」の出来事のように見える。

 したがって、そもそもこれは作者の問題であって、「文学」の問題ではない。作者が問題になるのは、短歌が「文学」として随分遅れているからだ。

 と一蹴することも、一見、出来るだろう。

 ところが、斉藤、黒瀬、石川の三者とも、何に反応しているかということは、それぞれの時評を読み比べれば、簡単に共通解が見つかってしまう。

あえて言えば 「虚構問題」は短歌界が前近代的だから生じるのではない。短歌という定型詩型がその特質として「虚構問題」を内包していると時評子は考える。俳句よりは長く、大部分の自由詩よりは短い、三十一音という絶妙の容量が喚起する詩型の特質であり、虚構に対して是非を抱えつつ煩悶する精神を無化してしまうなら、短歌が短歌たる必然性の大部分を失うのではないか。」
黒瀬珂瀾「とてつもなき嘘を読むべし?」角川「短歌」11月号 2014年


短歌は作者の現実と、何らかの形でつながっているほうがいい。しかし作者が現実とのつながりを意識し過ぎると、現実二割増の虚構めいた歌になり、かえって現実から離れてしまう。短歌における現実と虚構の関係は、かくもデリケートだ。
 だから短歌はこれからも、現実と虚構の間で綱渡りを続けるだろう。どっちの向きに油断しても、奈落の底に落ちてゆく。
 その緊張感を忘れなければ、短歌は大丈夫だ。
」 
「現実と虚構の綱渡り」斉藤斎藤「短歌月評」東京新聞 2014年12月13日夕刊


石川「現代短歌というものがフィクションと現実の強さという、虚実両方を抱き込む形で深化してきたということは、全くその通りです。肉親の死に限った問題ではなく、虚構と現実をどうせめぎ合わせていくかが大切なのだと思います。」
石川美南 加藤治郎「肉親の死の虚構、短歌に許される?」「東京新聞」2014年11月26日夕刊


それにしても、この話題がここまで長引くとは……と不思議な感慨に浸っているが、これは単に石井個人の問題ではなく、現代短歌が常に「虚構と現実のせめぎ合い」や「私(わたくし)」の問題を抱えて深化してきたことの証なのだろう
石川美南 「虚構の提示/「桟橋」終刊」「現代短歌」2015年1月号


 三人ともやや時系列的には少し前後するが、立て続けに同じような発言をしている。黒瀬が「虚構に対して是非を抱えつつ煩悶する精神」といい、斉藤が「現実と虚構の間で綱渡りを続ける~その緊張感」といい、石川が「虚構と現実のせめぎ合い」と言う言葉で表現するものはほぼ同じものだろう。

 簡単に言えば、歌人であるからには虚実皮膜を使い分ける作法をうまく心得ていないと、大変なことになるぞ、ということなのだろう。一般論としては賛成だ。

 短歌にフィクションを持ち込むことの是非については、おそらくほとんどの歌人がリアルが100%がいい、フィクションが100%がいいなどとは思っていない。短歌にフィクションを持ち込むとき、その都度その都度で、どのくらいのパーセンテージがいいかは「よく考えてください」くらいのことしか言えない。

 ただ、小説のように、冒頭で紹介した私の初読の印象で、作者が勝手にリアルでは生きている父親を作品の上で殺すことを、作者の問題にしてしまうことは、短歌というジャンルに深くコミットしている人間にとっては、かなりスジの悪い話になってしまう。

  短歌は「私」を中心とした一人称の詩形であり、「作者=私」という形で捉えられることが圧倒的に多い。それゆえ、その内容が虚構なのか現実なのかということは昔から度々問題になってきた。ただ、今回のようにそれが何かの賞を受賞した作品で、わかりやすく作品の上で父親が死んだ、そして直後に実は生きていたとわかったというケースは、なかった。加藤治郎が「虚をつかれた」と石川美南との対談で発言したのは、かなり本音であると思う。

 それにしても、うかつに作者と作品は別であるとか、虚構の議論が解決済みであるなどと口にすると、かなりのバッシングをくらってしまう、この発言しにくい空気感は一体何だろう。

 この空気感の原因については、当の加藤治郎本人にも多くの責任がある。

 2014年の短歌研究10月号「虚構の議論へ」で加藤は一通り読解をした上で、「祖父の死を父の死に置き換える有効性はあるのか、ありのまま祖父として歌う以上の何かが得られたのか。虚構の動機がわからないのである」とし、「虚構という方法を通じて新しい〈私〉を見出さなければ、ただ空疎なのではないか」と述べた。

 10月号の時点での加藤の言い回しには、私にもそれは当然だよな、と思うような説得力があった。

 この点で穂村弘は短歌研究の12月号「短歌年鑑」座談会で加藤治郎に的確な援護射撃をしている。的確だと思うので引用したい。

穂村「この問題は、たぶん短歌の歴史性や固有性とかかわっていて、加藤さんの文章も我々なら何を言っているのかわかるけれど、短歌をよく知らない人はたぶん言われている意味がわらないだろうと思う。近代以降の短歌の「わたくし」性を軸にした文体は事実性とセットになってきていて、前衛短歌における「わたくし」の拡張はあったけれども、それはセットになる文体自体の革命でもあったということですよね。ところが今回の受賞作の場合は、「わたくし」の位置づけとセットになるはずの文体の創出がないじゃないかと。従来の、我々が知っているものに近い文体で書かれていますから。」
佐佐木幸綱、三枝昴之、栗木京子、小島ゆかり、穂村弘「現代短歌の虚構・匿名性について」短歌研究(2014年、12月号)


 加藤は加藤自身が述べている「前衛短歌のような鮮烈で香り高い虚構」を石井の文体と比較するといった、より難しいが正道に近い検証の仕方はいくらでも出来たはずだ。

 ところが加藤は途中から、斉藤斎藤の「短歌には、自分や身内の生老病死についてリアルな虚構を作らない、暗黙のルールが存在する」という時評の一文に完全にのっかってしまう。

 加藤は、日経新聞の2014年12月28日の時評でこの一文に対して、次のように述べている。

共通認識と言ってもよいだろう。肉親の死は最も感情を揺り動かす領域である。大切にしたいというのが自然な思いである。
 短歌は小説とは違う。少数の作家の文学ではない。何十万人という作者のいる文学なのである。自分と向き合い日々の思いを歌っている。この有りようは世界的に見れば希有(けう)なことであり、貴重な日本の文化なのである
」。
(「虚構の是非が話題に-ジャンル越境「私」を摸索」日本経済新聞12月28日)


  加藤の解釈によると、この暗黙のルールは共通認識であり、自分と向き合い日々の思いを歌うことは、貴重な日本の文化、なのだそうだ。

 一体斉藤の時評の何処をどう読めば、こういう解釈になるのだろうか。

 これははっきり言って、加藤の思考停止としか言いようがない。自ら作品ベースで「虚構の動機がわからない」ということを言っていた加藤が、途中から議論をすり替え、なぜ「共通認識」であるかのように「ルール」を吹聴するようなことをやっているのか。これは、単なる権威主義と見られても仕方があるまい。

 この「ルールがある」という曲解は、石川美南が現代短歌の1月号の時評で丁寧に誤解を説こうとしている。

 斉藤斎藤の時評、東京新聞の11月11日の夕刊「番狂わせについて」では、確かに「自分や身内の生老病死についてはリアルな虚構を作らない、暗黙のルールが存在する」と述べられていた。

 ざっくりいうと、斉藤は「荒削りな歌はすべて疑ってかかるとすれば、いい歌の基準は技術や発想力だけになる。短歌はずいぶん退屈になるだろうな、と思う。

 として、技術や発想だけではない短歌の精神の迫真性の部分も大切だと言うことを主張している。私はこれを斉藤の提案のように受け取った。もちろん、これは権威主義的なルールがある「べきだ」という議論ではない。
 そもそも、暗黙のルールなどというものは何処にも存在しない。

 この加藤の曲解が、全く違う問題を生じさせてしまう可能性に、加藤は気付いているのだろうか。

 つまり、これはルール違反をした石井の受賞作が悪い。

 という何か倫理の問題のような、騙し騙された的なモラル問題のような、作品の問題とは違う次元での、石井バッシングを生じさせてしまうような結果になってしまうだろう。
 ひたむきに自分と向き合うこと「だけ」が短歌の作品世界を豊かにするという考えの「事実重視派・内面重視派」から見れば、この加藤の発言はモラル問題のように捉えられてしまう。それが日本の文化なのだと言われれば、なおさら勢いづくだろう。

 私はこういったルールを吹聴することが、この問題について発言しにくい「空気」を作っているという点で、斉藤の時評に対する加藤の曲解は全く認めない。

 加藤はより議論を深化させる形で、もう一度原点に立ち戻って、作品の問題をまずしっかりと検証すべきだろう。

             ※

 さて、一通りの「発言しにくい」問題は一応クリアにしたところで、石井作品の評価という文学的な観点から軽く私見をのべようかとおもう。

 本音を言ってしまえば、私の立場は加藤の立場とそんなにずれているとは思わない。

 もう一度短歌研究2014年10月号の「時点」での加藤の主張を繰り返すが、加藤は「虚構という方法通じて新し〈私〉を見出さなければ、ただ空疎なのではないか

 といっている。この一文のほうがはるかに重要だ。

  もし石井の短歌観のなかで、虚構に対する方法意識が明確にあったのなら、この作品をただの「挽歌」にはしなかっただろう。

 「父の死」、あるいは父親殺しというテーマを取り扱うのなら、もっと現代の社会にコミットした象徴的な「父」を取り扱うような、そういう連作の可能性も想像することが出来たはずだ。

 石川は「プライベートな動機から出発する虚構というのもあるのだ。
石川美南「虚構の議論、なのか」「現代短歌」2014年11月号

 と石井を擁護しているが、

  作者にいくら内的必然性があったことは認められても、「父の死」が虚構とわかった時点で、何かそれ以上の価値をもたらす大きな短歌史上のインパクトや強さと言ったものが、作品に必要ではなかったか。それが、加藤の言う「ありのまま祖父として歌う以上の何か」ではないかと思う。

 新人の石井にそこまで要求するのは酷な話かもしれないが、短歌を文学として自立させたいと考える私のような読者からすると、もの足りない印象はぬぐえない。

  つまりは、作者に必然性があるかという問題ではなく、 それが短歌という詩形にどれだけ影響を与えられるか、そういう水準で加藤は読解をしているし、選考委員もおそらくそうだと思う。だからこそ加藤も、虚実皮膜の駆け引きをまったく考慮に入れていない「虚構」だとわかったときの失望感は深かったのであろう。

 もう一点、文体の問題にも触れておかなければならない。石川、加藤、穂村に限らず多くの読者が既に気付いていることだと思うが、あたかもドキュメンタリーのように書かれているこの連作はどう考えてもリアルのようにしか見えないし、特異な文体を創出しているようにも見えない。

 スピードは守れと吐きし老人がハンドルをむずと握るベッドで

 父危篤の報受けし宵缶ビール一本分の速度違反を

 ネクタイは締めるものではなく解(ほど)くものだと言いし父の横顔


  選考でもあったが、挽歌の文体としてはリアリティがあって、これはこれでいい。自動車のことを通じて、「父」の実像に迫っていく。これはドキュメンタリー的な手法だろう。

 こういうわかる歌がある一方で、石井作品の場合は、読解に苦しむ歌も多かった。これは歌の表現が雑なだけで、特異な文体の創出ではない。

 己が青春に造りし道路を守らんと徘徊老人車に開(はだ)かり

 「はだかる」というのは手や足を大きくひろげて立ちふさがるという意味だそうだが、まずこの歌は己(おのれ)なのか己(おの)なのか、どちらでも読めそうな歌だし、下の句の「徘徊老人車に」は、徘徊老人で切れるのか、もしかすると老人車というものがあるのか、という時点で大きく読解につまづく。おのれとおのにルビを振らないというのは、韻律的な問題に作者が全く無頓着であるという証拠だし、句の継ぎ方に至っては未熟さを読者に委ねているような印象だ。

 ふた裏のヨーグルトさえ執心を持つ御棺には縋りそびれた
 
 選考でも盛んに切れ目が議論されていたが、この歌の場合、そもそも、「ふた裏」とは何だろう。「ふたの裏」ならわかるが、二裏かもしれないと一瞬考えさせてしまう、という時点で、無用な混乱を読者に生じさせる言葉の繋ぎ方だ。言葉使いは正確にしたほうがいいとおもう。ヨーグルトさえ執心を持つに至っては、ヨーグルトにさえ執心を持つのか、そのまま字義通りヨーグルトさえも執心を持つのかがわからないし、これは栗木京子の「ふたの裏についたヨーグルトさえスプーンで掬って舐めるぐらい執着心のある自分なのに、父の御棺には縋ることさえできなかった

 という丁寧な読解を読むまでは、何を歌っているのかさえわからなかった。

 たとえ前衛短歌にまで遡らなくても、ここ十年の作品を読んでみればわかるのだが、優れた短歌の手法や文体は、おそらく、多くの歌人に引用され、流用され、拡散していく。その作者を中心にして、あるコミュニティを形成することすら、現代短歌にはある。

 ところが石井の文体にはそういう媚薬のような文体の新たな付加価値がない。短歌の表現として未熟で、読解にしばしばつかえる。

 現時点の石井の短歌は、例えばあまりにも素敵だから私も思わずマネしたくて父親を殺してみた、という歌人が今後現れるのか、という点でも疑問だ。

 私は作品を「作者のポテンシャル」とか「伸びしろ」とか、訳のわからないもので評価したくない。

 新人賞という門をくぐった地点で、石井僚一はもう投稿歌人ではないのだ。是非、作品の完成度を上げる努力を今後していって欲しいと思う。無論、石井の作品が倫理的にどうかとか、事実に即してないからどうか、などということを問題にするつもりはない。そういう読者がいれば全力で石井を擁護する準備はこちらにはある。石井の作品のこれからに大いに期待している。