「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評 第90回 言葉を運ぶやり方、いくつか オカザキなを

2013-03-29 00:00:00 | 短歌時評
 紀伊國屋書店新宿本店で3月1日から31日まで、「この短歌を読め! 春の大短歌祭り」というフェアが行われていると聞いて、足を運びました。
 エスカレーターを上がった脇の本棚3列には短歌関連書籍がぎっちり。眺めているだけで短歌について語りかけられるようで、自然と気持ちがはずんできます。手に取ったり、めくったり、表紙を眺めたりしているうちに、そこにある書籍は全て書籍という仲間のようで、実際にはいくつかに分けられると気づきました。

その1)本、雑誌
 本や雑誌はさらにISBNコードが入っているものと入っていないものに分けられます。ISBNコードが入っているものは全国のどこの書店からでも取り寄せられるけれど、コードのないものは、発行元に連絡をしない限りたいていは手に入りません。

その2)同人誌
 印刷所に頼んで刷ったもの、自分たちでプリントしたものなど、その形態はさまざま。なかには本と変わらない立派な装丁のものもあります。
 共通しているのはいずれもISBNコードがないという点。ISBNコードのない本や雑誌と同じく、発行元に連絡をしない限り手に入りません。ただし、年数回、発行者たちが集まって同人誌を即売するイベントに行けば入手できることも。

その3)フリーペーパー、ちらし
 書店などで自由に持って帰れるけれど、発行元が配布した場所でしか手にいれることはできません。ページ数は1~3枚とごく少ないものがほとんどで、気軽に手に入れて気軽に読むためのものといえるでしょう。

 「短歌関連の読み物」というと、たいていはこの3つがイメージされるはず。それに追加して、その後、ちょっとユニークな媒体をコンビニで受け取りました。

その4)ネットプリント

 入手経路はコンビニの片隅に置かれたマルチコピー機。タッチパネルにある数字を入力し、お金を投入してしばらく待つと、数枚の紙がコピー機からプリントアウトされてきました。

 この日私が出力したのは、しんくわ・田丸まひるの同人誌「ぺんぎんぱんつの紙」と、船坂真桜の8P折本歌集『型抜き』。
 利用したのはセブンイレブンの「ネットプリント」です。これはもともと、プリンターを持たない人が書類などを出力するためのシステム。ウェブサイトでプリントアウトしたいファイルを登録すると、予約番号が発行されます。この予約番号を全国のセブンイレブンのマルチコピー機に入力すると、誰がどこにいても、同じファイルを出力することができるというわけ。

 「ぺんぎんぱんつの紙」も『型抜き』も、プリンター代わりの「ネットプリント」を自分の短歌を発信する手立てとした面白い試みです。セブンイレブンさえ近所にあれば誰でも入手ができる上、数十円のプリント料金しかかからないというのもこの不景気な今はありがたいこと。作り手もお金はかかりません。
 3人の作風も、それぞれこの媒体に見合ったポップな印象です。

五月雨を集めて速し最上川僕のシャッフルはもっと速い 
しんくわ「ぺんぎんぱんつの紙」

凍蝶が焼けていたのはたぶん朝 隙間をさぐるように手をつないだ 
田丸まひる「ぺんぎんぱんつの紙」


遠足を終えた帰りの自損事故忘れるまでが恋です注意 
船坂真桜『型抜き』


***

 いくつかの媒体に触れたところで、最近また違う媒体のお知らせをいただきました。電子書籍です。

その5)電子書籍
 デジタルデータをパソコンや専用端末から読む電子書籍。すでにamazonのKindleについては2013年2月10日更新の時評で田中濯氏が詳しく書かれているので、以下、実体験に基づいて簡単に触れることとします。

 先日、あまねそう歌集『2月31日の空』の謹呈のためのダウンロードのご連絡ハガキが届きました。amazonの電子書籍リーダー「Kindle」で読める電子書籍として、このたび歌集を発刊したのだとか。なんでも5日間の無料期間を設けることで、謹呈と代えたそうです。残念ながら私はKindleは持っていないため入手できずにいるものの、無料期間を設けることで謹呈に代えるというのはなんともユニークなやり方です。

 Kindleは世界的に有名な電子書籍リーダーです。
 今のところこのKindle版電子書籍が一般的になっていくかどうかはわからないものの、紙媒体と違って製作コストはゼロ。メールやカスタマーレビューなどを通して読者の反応も受け取りやすいでしょう。
 ただし、Kindleを使うにはアカウントが必要。購入するのは読む権利であってデジタルデータ自体ではない、などの欠点もあります。

 どのパソコンでも読めるようにしたいのなら、PDFで配布するというのも手です。
 たとえば2010年には、中島裕介間奏歌集『予測変換機能による(コンタクト)インプロヴィゼーション/oval』+Right EyeのPDF版が、部数限定で配布されました。同名の小冊子も作っていたので、紙媒体と電子書籍の双方を媒体として利用した例といえるでしょう。

日に焼けている週刊誌の群れのうち一冊は出エジプト記になれ 
中島裕介 冊子版「予測変換機能による(コンタクト)インプロヴィゼーション/oval』


***

 Kindleが上陸する直前に「電子書籍が普及するとこれまでの書籍文化が廃れるのではないか」と言う意見を聞いたことがあります。そうした意見を耳にすると、あたかも電子書籍が悪者で紙媒体が被害者のように見えかねませんが、言葉を運ぶ媒体に善も悪もありません。

 過去を振り返ってみます。
 例えば書物といえば手書きで写し取るしかなかったのに、印刷技術が生まれることで多数の同じ書物を生み出すことができるようになった。当時にしてみれば、これも大きな媒体の変動だったことでしょう。
 でも、書物の価格が下がっても、書物自体の魅力や価値は下がらなかったのではないでしょうか。なぜなら、媒体の価値が変わったとしても、それによって運ばれるのが言葉である限り、言葉の力は変わらないからです。
 媒体によって言語表現が変わるのではないか、という意見もあるかもしれません。とはいえ、真面目に作られたものであれば、表現が変化しても浅くはならないはずです。

 なお、今は2008年のリーマンショック以来就職率が回復しておらず、大学を出ても契約社員で働いている人が多い時代。そのため、本を作るにはお金が足りない人もたくさんいます。
 電子書籍はそんな人にも、自分自身で発信するきっかけを与えてくれるでしょう。コストを抑えることは機会を広げることだからです。

 紙媒体には紙ならではの手触り、物としての存在感があり、電子書籍は読み取るパソコン・端末さえあれば手軽に持ち歩けるという良さがあります。さらに紙媒体にも電子書籍にもいくつかの種類があり、それぞれに特徴が違います。
 それぞれの媒体については、言葉を届けたいと思っている各個人が考え、どれを選ぶかを決めるべきでしょう。いくつかの媒体を試してみて、身をもってその手応えを感じていくのもひとつの方法です。
 今回あげた紙媒体や電子書籍のほかにも、朗読会や展覧会で短歌を提示していくというやり方もあります。私が気づいていない方法も、たぶんまだまだあることでしょう。

 今はさまざまな媒体を選ぶことができる時代です。
 だからこそ、何を用いて言葉を運ぶのかを考えることも大事ではないでしょうか。ネット中心の人も結社誌中心の人も、今使っている媒体に依存するのではなく、自分の短歌がその媒体に合っているのか、別の媒体でできることはないのかを考えることは、表現を続けるうえで決して無駄にはならない。自分自身のこの先の活動も考えつつ、そう思うのです。
コメント

短歌時評 第89回 短歌と四人称 山田消児

2013-03-15 00:00:00 | 短歌時評

 藤井貞和の評論集『人類の詩』(思潮社、2012.10)を読んでいて「四人称」という言葉に出会った。「一人称」「二人称」「三人称」までなら誰もが知っているところだが、アイヌ語にはそのどれとも違う「四人称」というもうひとつの人称が存在するというのである。まずは、この「四人称」について同書中で最もわかりやすく説明してある箇所を引いておこう。

  たとえば、「僕は、今日、顔を洗うのを忘れて学校に行きました」。この「僕」は一人称ですよね。ところが、「友達が言ってたよ、『僕は、今日、顔を洗うのを忘れて学校に行きました』って」となりますと、これは引用で、この中の「僕」というのは一人称でなくなる。別の人称で呼ばねばならない。これが四人称です。
「引用と人称(四人称をめぐり)」

 アイヌ語で「お腹がすく」は、一人称だと「ク・イペルスイ」だが、引用されるときは「イペルスイ・アン」に変わる、という別の項で紹介されている実例を引き合いに出してみれば、その意味はさらにはっきりするだろう。一瞬、英語の間接話法を連想しそうになるが、それとは全く異なり、アイヌ語では引用すなわち直接話法なのに人称を表す接辞が変化する(上の例で言えば接頭辞「ク」が接尾辞「アン」に変わる)のである。
 本書で藤井は、英雄叙事詩をはじめとするアイヌ語の物語の多くが四人称で語られることに大きな関心を示している。そしてさらに、その関心を、文法的には四人称のない日本語の中にも見出せる「四人称性」へと向けていく。上で引いたのと同じ文章で、彼は、紀貫之の和歌「思ひかね妹(いも)がり行けば、冬の夜の河風寒み、千鳥なくなり」(読点は藤井独自のルールによる)を取り上げ、次のように述べている。

  このうたは貫之の作歌で、屏風歌ですから、貫之その人が本当に思いに耐えかねて、自分の恋人のところを訪ねてゆくなんてことはないです。じゃあ、作者はいないのかというと、作り手(貫之)はちゃんとそこにいるでしょう。その作り手に人称があってよい。それと別に、会いたくて、寒いなかをがたがた震えながら出かけていって、千鳥が自分と同じ思いで鳴くのを聞いている、作中の男の人称とはどんな関係にあるのか。
「同上」


 屏風歌というのは、屏風に描かれた絵の内容に合わせ、フィクションとして創作された歌であり、それゆえ、実際の作者と歌中の主体とははじめから異なっている。それを人称の違いとして捉えたうえで、藤井は、そのような「従来の人称概念に支えられている、文法では説明できないところ」を「四人称」という言葉で言い表している。この貫之の歌における作り手の人称は、それが作品の内側ではなく外側にいる「私」である点において、アイヌ語における引用の一人称としての四人称とはその位相を異にしているように見える。つまり、藤井はここで、一人称から三人称までに収まらないそれ以外の人称の存在を、アイヌ語の四人称だけに限らず広く視野に入れるものの見方を提示しようとしているのである。

  日本語のなかにも四人称性とでもいうべき、在り方があるのではないか。この四人称性が、物語や、古典詩歌が豊かな物語性を形成してゆくうえで、力を持っているのではないか。これは現代詩の持つ、フィクション性とか、書き手が書きながら自分を自由にひらいていったり、朗読のなかで思いもしなかったところからもう一人の自分が立ち現れたりする、そんな姿に出会うといった問題と、関係してくるのではないかと思います。
「同上」


 上記文中の「現代詩」を「短歌」に代えて読んでみたとき、胸中に何か思い当たるものを感じる短歌実作者は少なくないのではなかろうか。私自身は、もともとフィクションとしての短歌を標榜する立場なので、逆に今さらというところもなくはないのだが、自分語りの歌を作っている人であっても基本的な事情はあまり変わらないはずである。
 実は、藤井は、『人類の詩』と同時期に刊行されたもう一冊の著書『文法的詩学』(笠間書院、2012.11)でも、物語論の文脈の中でたびたび四人称に言及している。また、内容的に『文法的詩学』の前身ともいえる『物語理論講義』(東京大学出版会、2004.8)においても、やはり四人称を取り上げている。
 震災後の世界をも視野に入れ、多角的な視点から社会と文学を語った『人類の詩』は、広い意味での詩論集と呼んで差し支えない本だと思うが、一方の『文法的詩学』は、日本語文法の理論を駆使して物語や詩歌の本質を解き明かそうという特別な意図に貫かれた専門的論文集である。著者はそこで「四人称」のほかにも「物語人称」「無人称」「ゼロ人称」「自然称」など人称に関わるいくつもの用語を駆使して、詳細な分析を展開してみせる。その全貌を理解するのはなかなか容易なことではないが、しかし、そこには短歌における「私」をめぐる問題の決して単純であるはずがない本質に近づくための重要な手掛かりが隠されているように思えるのである。
『文法的詩学』で、藤井は、屏風歌のような物語歌と純粋な抒情歌とを区別し、後者については四人称を想定しない考え方のもとに整理を行っている。ここは私の実感と合わない部分なので、それについて少し書いておきたい。
 たとえば、日常のとある場面で一言「悲しくてたまらない」と口にしたとき、それは感情の言語化であり、主体はまぎれもない一人称である。では、その同じ言葉を文字にしてタイトルと作者名をつけてみたらどうなるか。

   短い詩
              山田消児
悲しくてたまらない


 そのとき、言葉は「作品」になる。と同時に、人称は一人称から四人称へと変化したことになるのではないか。自己吐露型の作者にとっての作歌とは、本人が意識しているかどうかは別として、これと同方向の変換作業を、修辞によって言葉を動かし、五七五七七の定型に嵌め込むという、もっと複雑で創作行為としての内実を伴った方法で行うことにほかならない。
 普通に思いを述べることと短歌で述べることとの間には見かけ以上に深い溝が横たわっており、作中のどんな「私」も作者その人と完全に同一ではありえない。そのことは、まさに自分語りの歌においてこそ、より一層重要な意味を持っているのではないだろうか。
 一人称だとばかり思っていた「私」がもしかすると四人称なのかもしれないと考えるだけで、短歌というものの姿がだいぶ違って見えてくる。一人称の文学と言われることの多い短歌の書き手にとって、藤井の人称論から得られるものは決して小さくないと思うのである。



山田消児(やまだしょうじ)
歌誌「遊子」「Es」同人
個人ホームページ:「うみねこ短歌館
コメント

短歌時評 第88回 「中東短歌」について 牧野芝草

2013-03-01 00:00:00 | 短歌時評
 同人誌「中東短歌1」が2013年1月15日に発行された(注1)。「はじめに」に

 日本にとって馴染みの薄い中東。(中略)アラブ世界では伝統的に詩の地位が高く、今でも詩の朗読番組や朗読大会が盛んだ。
 我々「中東短歌」参加者一同は、そうした中東の紹介を通じて、短歌とは何か、文学とは何か、ということを再考できればと思い、ここに集った。ずるずるとやるつもりはない。三号までで終わらせる。それまで読者のみなさまも、どうかお付き合い頂ければ幸甚である。

 とあるように、明確な目的と潔さをもって立ち上げられた同人誌だ。参加者は、それぞれ中東に縁のある、齋藤芳生(さいとう よしき)、柴田瞳(しばた ひとみ)、千種創一(ちぐさ そういち)、町川匙(まちかわ さじ)、三井修(みつい おさむ)、幸瑞(ゆき みずき)の6名である。

 参加者それぞれの短歌作品と、中東の歌一首評、企画「ヨルダンを観る、エジプトを観る」で構成された、シンプルで美しい小冊子だ。

 中東に関する筆者の知識は非常に少なく、きちんと読めるのか不安に思いながら手に取ったが、目次のつぎに中東・北アフリカの概略図が載せられており、作品の舞台となっている場所をひとつひとつ押さえながら読むことができた。また、企画(ヨルダンの吟行)については拡大した地図や写真が添えられており、読者のレベルを想定した配慮がありがたかった。

 掲載された作品で特に印象に残った、発行者である千種創一の”Small Talk”25首から作品を引く。

デッキの白い机のピザへ降ってくる初めての雨、冬のはじまり
絨毯のすみであなたは火を守るように両手で紅茶をすする
いちじくの冷たさへ指めりこんで、ごめん、はときに拒絶のことば
すすき梅雨、あなたが車列に降る雨をそう美しい名で呼んだこと
下がってく水位があって、だめだな、あなたと朝を迎えるたびに

 この一連が印象的だったのは、「中東短歌」に所収されていながら、中東(この連作ではヨルダン)の情景に寄りかかりすぎていないことと、そのなかで詠われる「あなた」に対する「寄り添う相聞歌」の美しさだ。

 短期間の滞在ではない経験が一首目の「初めての雨、冬のはじまり」を導き、「中東=砂漠・乾燥・暑さ」という読者のステレオタイプなイメージを連作の始まりで覆してみせる。しかし、この一首に読者を驚かそうという手つきはあまり感じられない。それは、「冬=雨期」という認識が作者の中ですでに当然のこととして成立しており、この一首における作中主体の驚きは「デッキでピザを食べていたら雨が降ってきてしまった」という事実だけに依っているからなのだと筆者は思う。同じ驚きは例えば東京のカフェのテラス席にいても発生し得るものであり、「ヨルダンに雨が降ったこと」に驚いているわけではない。

 同様に、二首目で「火を守るように」と形容される紅茶の熱さは、その場の気温が高くない(おそらくは肌寒い)ことを示しているし、三首目の「いちじく」は(他の歌に詠まれている柘榴やオレンジジュースなどを含めて)現地の実りの豊かさを象徴している(「いちじく」には女体を連想させる機能もあるが、その機能も「指がめりこむ」というやわらかさの描写によって十全に発揮されている)。

 同人誌のなかで、ひとつの(一人の)作品がこれほど突出してしまうのがよいことなのかどうか、という点は疑問に思う。しかし、この一連が非常に充実した一連であり、これを掲載する場として「中東短歌」1号を選んだというのはこの同人誌にとって幸せなことだったのではないか。

 一方、この冊子では、中東に関連する歌の一首評をいずれも興味深く読んだ。取り上げられている歌もそれに対する評も新鮮だったが、ここでは柴田瞳による

()百倍、数千倍を(あや)め来て「報復」を言ふ(くち)こそ裂けめ 
高島裕『嬬問ひ』(2002年)

の評を取り上げる。

 柴田は、この歌が出された歌会に参加していたことに触れ、9.11の同時多発テロの当時を回想しつつ

 時事詠は難しい。(中略)歌意は読者の想像の余地が少なく、どうしても俗っぽくなりやすく、ポエジーを持たせるには骨が折れる。しかし高島のアルカイダの歌は、そうした難を超越したところにある。(中略)何よりも作者の心の烈しさが、この歌の詩情を担保している。(中略)ある種デリケートなモチーフの取り扱いに際し何ら恐れず、テロ事件においては被害者であるアメリカを断罪する姿勢はいっそ清々しく、歌詠みとしての矜持を感じる。こんな詠いかたが自分にはできるのだろうかと、この歌に出会って十一年経つ今も、心のどこかで自問し続けている。

 と述べている。時事詠の難しさについても、当該の一首における高島の姿勢についても、筆者は柴田に同意する。さらに柴田自身が高島の歌の評として述べた内容に通じるものが柴田のこの文章自体にもあるように筆者には思え、非常に好感を持って読んだ。

                       *

 このように見てきた「中東短歌」だが、印刷部数が非常に限られているそうで、現在は一般には頒布されていない。4月に大阪で開催される文学フリマ(注2)での販売を予定しているとのことだが、通信販売はないとも聞いている。

 どのような事情があるにせよ、はじめから「三号まで」と限定した活動であるにも関わらず、また、短歌に関する新たな取り組みとして重要な位置を占めると思われるこの冊子が、ごく限られた(別の言い方をすれば「選ばれた」)読者にしか届かないというのは大変残念なことだ。WebにPDFを掲載するなどの方法でもよいので、多くの読み手に届くような工夫がなされることを切に願う。

■注1:http://chuutoutanka.blog.fc2.com/

■注2:文学フリマ in 大阪 http://bunfree.net/?16th_bun
コメント