「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評153回 「プレバト!!」短歌の才能査定ランキングは可能か 泳二

2020-02-29 17:01:37 | 短歌時評

 ダウンタウンの浜ちゃんこと浜田雅功が甲高い声で「才能なし!」と叫ぶと、俳句の作者の落ち込む顔が画面に大写しになり、他の出演者たちがドッと笑う。貼り出された俳句に俳人の夏井いつき氏が歯に衣着せず評をしながら朱筆を入れて添削すると、出来の悪かった句が見違えるように良い句に生まれ変わる。毎日放送制作の「プレバト!!」というバラエティ番組「俳句の才能査定ランキング」コーナーの光景である。俳句を作るのはお笑い芸人や歌手、タレントであり、俳句の出来によって「才能アリ」「凡人」「才能ナシ」にランク付けされる。中には良い成績を残して特待生や名人と呼ばれる人もいる。
 私はこの番組を初めて観た時、かなりの嫌悪感を持った。バラエティとはいえ俳句の作者を「才能ナシ」「凡人」と断じてそれを見て笑うという構図が非常に不快だったのだ。しかし私の家族はこれが好きらしく、放送時刻に帰宅すると必ずこのチャンネルがついており、私はしぶしぶ食事をしながらそれを観るのである。
 しかし、実は今では私もこの番組がそれほど嫌いではない。帰宅してテレビに映っていても文句を言わずに観ることにしている(元々文句は言っていないが)。出演者の作る俳句は素人目にも感心するものが多い。何より作品に対する夏井氏の添削が非常にわかりやすく、氏が手を加えるだけで、見違えるほどに印象が変わり、確かに格段に良い句になるのは面白い。毒舌も含めてそれは夏井氏の優れたタレント性であろう。それを第三者が「才能なし」と笑うのは未だに好きになれないが、添削を受けるタレントの方ももちろんそれを受け入れ、笑われるところまで含めてのバラエティ番組なのだろう。
 短歌時評でいきなり俳句の(しかもバラエティ番組の)話を始めたが、私がしたいのは短歌の話である。私はこの番組を観ると「この企画は短歌でもできるだろうか」と考えてしまうのだ。
 タレントが作った短歌を弁の立つ歌人(例えば、というのはやめておく)が良い歌かどうかを判定し、才能アリ/ナシとランク付けし朱筆でサラサラと添削改作すると、悪かった歌がたちまち良い歌に生まれ変わる。そんな番組はあり得るだろうか。私には直感的にそのような光景は想像できないのだ。なぜだろうか。
 念のため、私は俳句と短歌のどちらが人気があるか、というような比較をしたいわけではない。この番組を手掛かりに、短歌の性質について少し考えてみようと思う。
 さて直感的に、と書いたが、もう少し分析すると、主に

・テレビ番組として視聴率が取れるか、
・企画として成立するか

 という二点によりそう感じるのだ。

 まず一つ目のテレビ番組として視聴者を獲得できるかという点であるが、これは俳句と短歌のポピュラリティの問題である。
 俳句人口、短歌人口というものは明らかではないが、一説によると短歌は25万人、俳句は300万人とも言われているようである。ただし信用に足るソースがあるわけではない。しかしデータを参照しなくとも、多くの書店の詩歌コーナーには俳句の書籍は歳時記を含めたいてい数冊は並んでいるが、短歌の書籍がある書店は少ない。授業や遊びも含めて一度でも俳句を作ったことがある人と短歌を作ったことがある人を比べれば、前者が圧倒的に多いだろう。知人に短歌を作っていることを知られると「ここで一句」と振られることは有名な「歌人あるある」だ。これらのことから実作者の総人口の比較をするのはもちろん短絡的だが、少なくとも「興味がある(始めたい、作ってみたい)」と思っている人口は短歌よりも俳句の方が多いようだ。そしてテレビ番組の場合それらの層が視聴者のある程度の割合を占め、視聴率を左右することは容易に想像できる。
 ようするに短歌でそのような番組を作っても「観る人そんなにいないんじゃないの?」ということである。本評ではポピュラリティの考察はこの辺りで止めておく。

 次にバラエティ番組の企画として成立するか、という点を考えてみる。
 「プレバト!!」には俳句以外にも料理、水彩画、生け花など同様の査定ランキングのコーナーがあるが(俳句がダントツの人気らしい)、いずれも肝は何と言っても講師によるランク付けと添削である。
 結論から言うと、私は短歌ではこれが成立しないのではないかと思う。一首の短歌の良し悪しを一人の評者が短時間で判定してその作者を「才能あり・なし」とランク付けし、添削する、ということはおそらくテレビ番組では不可能だと思えるのだ。
 短歌ではなぜ成立しないかの前にまず「俳句ではなぜ成立し得るか」を考えてみたいが、試みに角川俳句2020年2月号の読者投句欄より兼題「過」で特選とされた句を引用してみる。選者は番組と同じ夏井いつきだが、これは私の作為ではなく全くの偶然である。

  小惑星たりし過去持ち春の山       大槻ファンタジア

  電線の深部は病めり颱風過        田島静

  石蕗咲くや灯ともるまでの過ごし方   大隈みちる

 私は俳句に関しては全くの素人であるが、(短歌もほぼ素人だが)、なるほどこれらの句は良いように思える。大槻の句は春の山という大きな対象にさらに大きな視点を重ねたスケール感が面白い。田島の句の見えないものを描写した説得力に感心する。大隈は自然を描写しながらもそこに視線をやる人の姿が見えてくる。私はこれ以上鑑賞する力を持たないが、いずれもその良さは鮮やかで直感的である。具体であれ抽象であれ、作者が描きたいものが読者の中に浮かび上がり、言わば作者の意図が私のような素人にも明確であるように感じる。これが一般的な俳句の評価軸だとすれば、時間の限られたテレビ番組では有利な特徴であると思われる。
 一方短歌ではどうだろうか。

  生きてあり死んで亡くなる時があり先行きのこと憂えて過ごす 鈴木佑子

  ピアノからポンっと芽吹く音がして我の心に吹く春の風     住吉和歌子

  アルバイトではありませんわたくしは有期雇用の契約社員   紺野ちあき

 例示が恣意的にならないよう、手元にある短歌研究の同じく2020年2月号から「短歌研究詠草」欄の高野公彦による特選(鈴木)と準特選二作(住吉、紺野)のそれぞれ五首より一首目を引用した。
 いずれの歌も鑑賞には前掲の俳句の場合よりももう少し言葉を必要とするように思われる。五首一連の一首目を引用したということもあるが、投稿規定によると連作である必要はないので無作為に一首を引いたと考えて良いだろう。私は作者の(あるいは主体の)境遇や背景を知らないが、これらの歌は読者である私に想像を広げさせる。鈴木の歌の主体はきっと若くはないだろう。四句までをやや冗長気味に述懐しながら結句でシンプルに憂えて過ごすことを言い切ることで漠然とした不安が感じられる。住吉の歌の「」はピアノが近くにある環境にいる。学校だろうか、自宅だろうか。自分が弾いているのではなさそうだ。想像の余地が歌の明るさと相まって広がりを感じさせる。紺野の歌では主体の境遇は直截に説明されているが、逆に説明だけで一首が成立していて、そこに描写されていない「わたくし」の心情が浮かび上がるようである。
 端的に言ってしまえば、一般に短歌はより物語的でありその鑑賞は叙述的である。歌の作られた背景、物語、心境に思いを巡らすことで鑑賞が深まり徐々に評価が確立する。複数の読者で鑑賞を深めるうちに歌の印象が変化し、評価が高まって行くことは歌会などでもしばしば経験することだ。読解という行為を経ないテキスト単体としての短歌では価値は確定し難いことが多い。このような評価の不確定性は短歌の短所というわけではなく、特性と呼ぶべきだろう。しかし話を戻すと、短歌に親しみのない視聴者が観るテレビのバラエティ番組としてはこの特性は短所として働くのではないだろうか。

 そしてもうひとつ、添削についてである。
 創作物(とりわけ詩歌)の添削は極めてセンシティブな行為である。それをエンターテインメントとして成立させた点はこの番組の手柄と言えるだろうし、夏井氏のタレント性によるところが大きいと思われる。しかし、それらを差し引いても(つまり短歌界に夏井氏がいたとしても)短歌の添削をテレビ番組として成立させることは難しいのではないだろうか。
 短歌で添削が成立しないというわけではない。韻律を整えたり文法の誤りを正すことは短時間でも可能だろう。しかしこの番組で求められるのはそのような添削ではない。それらの瑕疵の無さは良い短歌の要素のひとつではあるだろうが、当然ながら本質ではないからだ。
 創作には必ず作者の意図が存在する。そして添削のためには添削者による作者の意図の理解が前提となる。作者の意図が明確であるからこそ、それに沿った添削が可能なのである。作者の意図の表出が詩の目的であるとすれば、目的の達成度が詩の完成度と言える。添削によって詩の完成度を高めるためには、添削者による作者の意図の共有が必須であり、それが十分にできていない添削はもはや作者の手を離れた添削者による二次創作とでも呼ぶべきものになる恐れがある。もちろん仮に作者の意図から外れたとしても添削によって結果的に作者の意図していなかった良さが生まれる場合があることも否定しない。
 結社や投稿欄では選者による添削がされることもあると聞くが、それには作者の選者への深い信頼の下で成立しているに違いない。しかしその上でも選者による添削が作者または第三者から見て前述の意味で常に納得のいくものかどうかは私にはわからない。
 ちなみに番組での夏井氏の添削でもこの点には配慮されており、「もし作者の意図がここにあるのならば、こう直しましょう」という趣旨の発言は時々見られる。それも含めて俳句であればこそ可能なのではないだろうか。

 繰り返すが、短歌がバラエティ番組にそぐわないから悪いということではなく、逆に私はこのような特性に短歌の面白さがあると思っている。だから、もし短歌でこのような企画を行うならば、一首にたっぷり時間をかけて鑑賞し、作者の意図を確認しながらああでもないこうでもないと添削をする、ということが必要になるかもしれない。そして世間的には少数派であろう短歌を好む人種の私としては、たとえ視聴率が取れないとしてもそんな番組も観てみたいような気がする。

 というようなことをテレビを観ながらつらつら考えているといつの間にか「プレバト!!」の放送時間は終了し、すでに次の番組が始まっているのである。

 

略歴
泳二(えいじ)
大阪府出身。空き時間歌会、深緑歌会、歌集を読む会、Twitter企画「短詩の風」「CDTNK(カウントダウン短歌)」等を主催。
Twitterアカウント:@Ejshimada


短歌評 表現か内容か。プロレタリア短歌を読む 谷村 行海

2020-02-21 11:00:02 | 短歌時評

 先日、現代俳句協会青年部主催の勉強会「『寺田京子全句集』を読む」に参加してきた。勉強会では中西亮太による発表が興味深く、京子句に多々見られる技法のひとつとして字余りを分析していた。以下の引用は同勉強会における中西亮太の資料「〈生〉の源泉としての自己――作品・形式・技法――」による。

 一般に字余りや破調の句は独特のリズム感や句の解釈に効果をもたらす技法とされている。その一方で、いわゆる5・7・5定型を崩すという意味で、その約束された安心感ではない、積極的な必然性が要求される。
 例えば「オルガン運ぶ」の句[オルガン運ぶそのあとをゆき静かな冬:引用者註]には、「オルガンを運ぶ」その動きをしっかりと想像させる必要があったのだろう。がたがたと準備をし、そのあとを追いかける人。オルガンと彼らが(あるいはその中に京子もいるのかもしれないが、)いなくなった後のぽかんと空いた静けさが想起できる。中七までの文字が詰まった様子、あるいは発音時の上五に現れる音感は、人やオルガンが狭い空間の中にごちゃごちゃと存在している様子を比喩的に表現しているのではないだろうか。

 積極的な必然性の要求、このことばに私は深く共感を覚えた。寺田京子は長年病に苦しみ、「生きぬく方法としてえらんだ俳句が、いまは作るためにのみ生きてゐるやうになりました」とのことば(※1)も残している。生き抜く、作るための字余りの必然性。病と向き合い、闘い続ける生のエネルギーが、字余りによって表された京子句の内部からひしひしと湧き上がってくるような印象も受ける。
 以上、前置きが大分長くなってしまったが、この勉強会のあと、私はプロレタリア短歌のことを思い出していた。プロレタリア短歌は賃金労働者、無産者視点から詠まれた歌で、その多くは1928年の新興歌人連盟の発足から1932年のプロレタリア歌人同盟の解散までのごく短期間の間に詠まれてきた。この期間には労働争議や小作争議が頻発したり、昭和恐慌によって失業者が増加したりと日本の経済事情は芳しくなかった。結果、労働者を搾取する支配階級への抗議の声が高まり、歌壇においてもプロレタリア文学の動きが巻き起こったのだった。
この歌群の技法面での特徴として真っ先に挙げられるのは、寺田京子の句と同様に字余りの傾向だ。以下、昨年の1月に笠間書院から刊行された松澤俊二『プロレタリア短歌』掲載の歌からいくつか歌を引用していく(※2)。

  プレスにねもとまでやられた一本の指の値が八十円だとぬかす

石塚栄之助

 初出はプロレタリア短歌初期の1928年12月の「短歌戦線」。「値」を「」として読んで短歌定型に即して解釈した場合、13(プレスにねもとまでやられた)・5・(一本の)・9(指の値が八十)・7(円だと抜かす)のリズムとなるだろうか。前半は字数の上では一音だけの字余りだが、初句と二句が連続して一つのまとまりを生み出している。また、三句目で一度定型に歌を収め、下の句でまた定型からずらしていく。この結果、リズムとしては不思議な響きが生じている。

  夜業よなべだの副業だのをするだけさせてかたぱしから搾り取つておいて、けがらはブラジルへ行けだ

林田茂雄

 先ほどの歌の場合は定型から外れてはいたが、ある程度の定型意識は感じられた。では、この歌の場合はどうであろうか。初出はマルクス書房が1930年に刊行した『プロレタリア短歌集.1930年版』。初句・二句こそ定型を守ってはいるものの、以降は大幅に形が崩れ、字数は17音オーバーの48字となっている。
 現代で考えてみると、これほどまでに大きな破調の歌を数多く詠んでいる歌人として真っ先に浮かぶのはフラワーしげるだろうか。

  星に自分の名前がつくのと病気に自分の名前がつくのとどっちがいいと恋人がきいてきて 冬の海だ 

フラワーしげる『ビットとデシベル』

 フラワーしげるのこちらの歌は54音で字数は23字オーバー。単純な字数だけでみると破調のレベルは同程度だ。しかし、林田茂雄の歌と比べてみると、より短歌らしさを感じられるのはフラワーしげるの歌のほうだろう。フラワーしげるの鑑賞でこれまで何度か指摘されてきたように(※3)、この歌の場合では「自分の名前がつくのと」のリフレインによってある一定のリズムが生み出されている。また、歌全体に内容面での想像の余地が残っているため、散文のようには感じにくい。一方、林田茂雄の歌では一首のなかで内容が完結し、きわめて散文に近い印象を受ける。
フラワーしげるは表現、林田茂雄、ひいてはプロレタリア短歌は内容による破調を中心に据えていると言えるだろう。フラワーしげるの場合は表現として選択された破調と考えられるから、あえて定型に収める必要は薄そうだ。では、内容重視であるプロレタリア短歌のほうは定型に収めても問題はないのだろうか。私はそのようには思えなかった。

  がらんとした湯槽ゆぶねの中にクビになつたばかりの首、お前とおれの首がうかんでゐる、笑ひごつちやないぜお前

坪野哲久

 出典は同じく『プロレタリア短歌集.1930年版』。こちらの歌も初句が一音字余りになってはいるものの、二句目まではおおむね定型を遵守している。しかし、同様に途中から字余りが発生してしまう。読点によって「クビになつたばかりの首」「お前とおれの首がうかんでゐる」「笑ひごつちやないぜお前」のように三句目以降を順にわけていくと、強烈なフレーズが畳みかけられていく。もしも無理やり定型に収めようとして「がらんとした湯槽にクビの首二つ~」などとつなげていくと内容が大人しくなってしまい、そこまで強烈な印象を受けないのではないだろうか。
また、先述の林田茂雄の歌のほうも「だの」「~て」とことばを矢継ぎ早に投げかけ、声に出してみると徐々に語気が強まっていくような感覚を覚える。最初は短歌を詠むという明確な意識から出発したために定型が守られ、徐々に過酷な現実に対する鬱憤の噴出によってことばがオーバードライブを起こし、破調が生じてしまったかのような錯覚まで受けてしまう。つまり何が言いたいかというと、プロレタリア短歌の破調は中西亮太の発表にあったような「積極的な要求」、心の奥深くに眠る感情の吐露が作り出したものととらえられる。
 石塚栄之助の歌もそうだ。前述のように定型意識があり、独特のリズムからかなり技巧的な印象はある。しかし、最後の最後に登場する「ぬかす」という荒々しいことば。詩に使うにしては俗すぎることばの選択により、これまでの技巧的な破調の印象が一転して内容重視の破調のように感じられてくる。

   靴音
  深夜の靴音
  制止する監守の声の下から
  あちらでも、こちらでも
  静かに静かに湧き上る、独房の歌声

槇本楠郎

 しかし、破調が度を超えてしまうと問題が生じてくる。1930年11月の『プロレタリア短歌』に発表されたこの歌ははたして短歌と言えるのだろうか。「短歌」という前提を排し、作者名、さらには歴史的経緯を無視して純粋にこの言葉の羅列を見たとき、ポエジーのようなものを感じても短歌だとは思うことができないのではないか。それは当のプロレタリア歌人たちも思ったことで、結局この運動の純粋な「短歌」としての潮流は廃れることになってしまった。
廃れはしたものの、定型詩の世界で戦うものにたちにとって、表現をとるべきか内容をとるべきかは重要な問題の1つだろう。そのうえで2020年を生きる私たちにもプロレタリア短歌は重要な意味を与えてくれるようにあらためて思う。

 

※1
『寺田京子全句集』収録の寺田京子第一句集『冬の匙』序文

※2
同書に準じ、引用歌にはカッコでルビを付した

※3
以下の記事に詳しい
東郷雄二のウェブサイト「橄欖追放」の「第167回フラワーしげる『ビットとデシベル』」
http://petalismos.net/tanka/kanran/kanran167.html
詩客「短歌時評 第119回 フラワーしげるの短歌はどのように短歌なのか 田丸まひる」
https://blog.goo.ne.jp/sikyakutammka/e/607f61f7b5d9fcf5843ba0f7984cba25