短歌講座のことを書こうと思う。
わたしは短歌を東直子さんの講座で始めた。
2011年に始まったNHK文化センターの講座でもう10年通っている。
その間、東さんの講座のほかに、穂村弘さんが2年だけやっていた慶應丸の内シティキャンパスの連続講座に行った。仕事が忙しくて途中で行けなくなってしまったけれど、堂薗昌彦さんの講座にも少し行っていたし、いまは中断している服部真里子さんの連続講座にも出ていた。
「半券」という同人誌を一緒につくっている山本夏子さんが誘ってくれて、大阪に日帰りで行って吉川宏志さんの単発の講座に出たこともある。
短歌の講座に生徒として出た経験が多い方だと思う。
短歌講座では、教え方が歌人によって大きくちがうように感じた。
東さんと穂村さんと堂薗さんと服部さんと吉川さんは、それぞれ違う切り口で説明をしていた。教え方が違うのは、作歌の方法が人ごとに違っていることの表れなのだと思う。
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木下龍也さんの『天才による凡人のための短歌教室』(ナナロク社、2020年)を読んだ。
短歌の講座は中学校の体育の授業に少し似ていると思う。
説明されてもわからない人にはわからないのではないかと思うのである。しかし、木下さんの本はそれをクリアカットに説明している。スキップができない人にスキップを説明するようなことに成功していると思う。
たとえば「余白に甘えるな」(48頁)という章で、木下さんはこのようにいう。
短歌が余白の多い詩型であることを前提としながらも、読者に対して、
「ここからお任せしますでは、つくる側としては向上がない。僕は短歌をつくるとき、僕の頭に浮かんでいる映像や絵とまったく同じものを読者の頭に浮かべたいと思いながらつくっている。喜怒哀楽のどの感情をどの程度動かしたいのか意識しながらつくっている。」
というのである。つまり、木下のいう「余白」は読者の読みにおいて偶然に現れるものではなく、作者が「余白」として提示したものが余白として伝わる、ということになる。
木下さんはこの本の「はじめに」に
「僕にとって僕は短歌の天才になりえない。なぜなら僕には僕の短歌の意図、構造、工夫がすべてわかってしまうからだ。」(6頁)
と書いている。意識的に作歌をしている歌人だということだ。
木下さんがこの後、各論として意図、構造、工夫を説明してくれるものが読みたいと思う。それは木下さんの工夫を明らかにするだけでなく、短歌の謎に迫る試みでもあると思う。
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東直子さんの講座は10年経って、最近大きな変化があったように思う。
最初の頃は、「鳥」「鍵」「歩く」などの題でつくっていたのだけれど、最近は「異化」を試みた一首、「連鎖」を試みた一首というような題が出されている。「公募ガイド」に東さんが持っている短歌欄のコラムを基にしていて、東さんは、「異化」について
ごちゃごちゃの思いあらたに加えつつ酢の香をたててかきまわす春 東直子『千年ごはん』
という歌を、「連鎖」について
それはひどい春風でしたみんなみんな水中バレエの踊り手だった 東直子『十階』
という歌を例歌として挙げる。
これらの題が講座で説明されるとき、クリアカットな説明が困難な作歌のプロセスが少し明らかになるように思う。短歌の講座には短歌が上手になりたいと思って通うところもあるけれど、歌人の作歌過程を知ることで、短歌の秘密の一端が言語化される場でもあると思うのである。