「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評 第117回 田丸まひる氏の「詩客」短歌時評への感想文 遠野 真

2015-10-23 13:39:19 | 短歌時評
 未来短歌会の先輩である田丸まひる氏が「詩客」短歌時評において拙作「さなぎの議題」を取り上げて下さった。

 短歌時評 第116回 遠野真「さなぎの議題」と「設定」について 田丸まひる 

 今回の時評に二つ気になる主張があったので、それぞれについて拙いながら感想を書いてみようと思う。
 
 まず一件目。時評から一文引く。
虐待は舞台設定の小道具にするようなテーマではない。
 何気なく書かれたように見える一文だが(このことについて時評内でのさらなる言及はない)、僕はここで立ち止まった。
 この言葉は作品の内容よりも、作者の作歌態度を戒めているのだろうが、本当に〈虐待は舞台設定の小道具にするようなテーマではない〉のだろうか。受賞作である「さなぎの議題」について言っているわけではないと断った上で、僕はこの意見に反対する。
 理由は二点ある。
 すぐに思い浮かんだのは、「○○は舞台設定の小道具にするようなテーマではない」という規範を広げて適用した時に、実際の創作の現場において、ダブルスタンダードに耐えられなくなるのではないか、ということである。○○には、簡単に思いつくところでは「殺人事件」や「他人の不幸」が代入できる。僕なら耐えきれないだろう。
 もう一点は、虐待を受けた人物がその虐待を小さく扱ってはならないというルールはない、ということである。「虐待を受けた人物」の人生には「虐待の苦痛」以外描くことがないのかというと、常識的に考えて、そうではない。
 簡単に思いつく例では、虐待を受けた人物に〈それ以上の不幸〉や〈それすら隅においやるほどの大きな目標〉があったっておかしくはない。それらの状況が発生した時に、虐待が小さなものとして表出されることはある。また、「虐待が舞台設定の小道具のように見える作品はあり得る」。
 〈虐待は小道具にするようなテーマではない〉という発言は、虐待が小さなテーマとして扱われるような人生や物語を否定してはいないか。僕はその否定に、また、仮にその否定が当たり前に受け入れられるような状況があるのだとしたら、そこにも不快感を訴えたい。



 さて、もう一件は作者が〈自身を刺すこと〉についてである。
 時評中、田丸氏は作者が〈自身を刺す〉ということが具体的にどんな行為であるかを一切説明していない。
 また〈自身を刺すことから逃れ〉るということについて、「作者が自身を刺していない」のか、「作者が自身を刺していないように田丸氏には読めた」のかについても、判然としなかった。時評中では、次のように書かれている。

しかし、自身を刺すこと(あくまでも表現での話だが)から逃れてしまうと、その連作の痛みは表面的なものにとどまり、ナイフが刺さらずに皮膚の上を滑っていくようになってしまう。

 〈表現での話〉とは、どの話だろう。表現する作者の話なのか、表現された内容の話なのか、ここからは読み取れない。
  この一文において、田丸氏は作者である僕自身について、「現実の創作レベルで、自身を刺すことから逃れた」と批判しているように僕には読めた。
 そうだと仮定して、また〈自身を刺す〉という行為を「表現に際して生じる痛みを恐れずに引き出し、作品に乗せること」と解釈すれば、田丸氏の批判は的を外れたものであると言える。しかも、どのように外れているのか説明する義務が僕にはない。それは作品と批評を超えた、現実の人間の問題だからだ。
 それでもあえて言うならば、僕は、僕自身を犠牲にする相当な痛みと覚悟をもって「さなぎの議題」を書いた。そのことについて疑念を向けられたところで、邪推の域を出ないし、返答する価値を感じない。

 当然のことだが、時評中で述べられている〈手触りや実感〉は、作者が〈自身を刺す〉ことによって齎されるとは限らない。作者の気分や、修辞の洗練のために推敲された或る作品が、「作者自身を刺す」ことなく、「より深いリアルの手触りを持った」作品に変化することはあり得る。
 推敲によって変化する「作品のリアルさ」の由来について、読者が作品を読んで正確に指摘することなど不可能だ。
 また、田丸氏は「さなぎの議題」の〈肉親の殴打に耐えた腕と手でテストに刻みつける正答〉という一首について、次のように評している。

家族からの暴力を、暗示ではなくはっきりと提示している。「肉親の殴打」という、こなれていない表現のために、より「設定」されているという印象を明確にしてしまっている。

 ここでは、田丸氏自身が、言葉の使い方、修辞上の未熟によってリアルの手触りを損ねていることを指摘している。換言すれば、修辞のレベルによってリアルの手触りは増減する、ということでもあるだろう。しかし、その後につづく文章は〈自身を刺すことを逃れ〉ることが〈連作の痛みが表面的なことにとどま〉ることの原因であると、作者の実情の話に着地しているのだ。
 前掲の田丸氏の指摘の通り、「作品のリアルさ」や「作り物っぽさ」は修辞の技術によってその質を変えるし、作者の機微によって推敲され変化するだろう。繰り返すが、作品から読み取れる「リアルの手触り」が、作者自身の痛みや覚悟に由来しているとは限らない。また、作者が自身を刺したからといって、より深い「リアルの手触り」を有した作品が必ず生まれるとも限らない。
 一般論として、作者が「自身を刺した」としても、それを支える修辞がなければ読者にリアルの感触を持って読まれることはない、ということならば言えるだろう。そのような説明を欠いたまま〈さなぎの議題の作者は痛みをもって書くことから逃げた〉るという、曖昧ながら否定的なニュアンスを匂わせるのに十分な言葉を使い、作者の「作り方」や「在り方」のレベルに踏み込んで、「さなぎの議題の作者は痛みをもって書くことから逃げた」と読めるように言及したのは、田丸氏の勇み足であったと僕は考えるが、どうだろう。

五臓のつかれの歌~沖ななも歌集『白湯』を読む 田中庸介

2015-10-01 10:51:15 | 短歌時評
 沖ななもさんの第九歌集『白湯』(北冬舎)を読む。これは茂吉や方代を多く思い出させる調べのよさにつらぬかれており、あるときは《日常》の鬱の果てしなさを歌った泥のような歌集かと思えば、ところどころには強烈なぬけ感のある歌も含まれていて、そのテンションの乱高下が読むものの体の芯をぎらぎらとしびれさせるような、きわめて中毒性の高い一冊である。タイトルの『白湯』からしてこれは何も味のついていないお湯という意味の「さゆ」なのか、味が濃く白濁した中華スープの「パイタン」なのか要領を得ず、造本やあとがきからすると作者ご本人は枯淡の境地をめざしたものらしいが、この歌集がそんなものではまったくないことは、全くあきらかである。いくつか読んでみよう。

  無聊(以上2字傍点)サンプルさしあげますとマヌカンのけだるき声が耳をかすめる

 この歌は《無料サンプル》の聞き間違いの面白さから発想したもの。「けだるき声」が「無聊(ぶりょう)サンプル」と言うというのは、声の質もけだるいしおすすめしている内容もけだるいということ。声と内容は同じようでいて断じて同じではない。だが作者の〈そらみみ〉はそれをむりやり一緒にしているのだという詩歌の《構造》が読者に垣間見えた瞬間、マヌカンの写生がすぽんと抜け落ち、絵が真空状態となる。

  笑顔にて近づきて来る男あり笑顔のままに通り過ぎたり

 目の前で、ものすごいことが起ころうとしているのだが、誰も何も言えずにそのことがそのまま起こってしまうということがある。上の句と下の句の《差分》が限りなくゼロに近い衝撃的な作り方は、歌われている意識の真空をそのままことばの上でもなぞったものである。

  朝夕に目薬をさす目薬にうるおう眼(まなこ)ふたつをもてり

 二句切れの歌である。「目薬」のリフレインがくせもの。上の句は日常のみずからの言動の写生だが、下の句はその行為の対象物をあらためて見つめなおしたときの離人的な気分をあらわすようになる。「目薬にうるおう眼ふたつ」を自分は所有しているのだと気づいたときの強烈な違和感。

  〈神経は死んでいます〉と歯科医師は告げたりわれのはじめての死を

 これも同様に、歯の神経の「」が、どうしてもみずからの「」の喩として思えてしまう強烈な体験を詠んだものである。

  いっしんにひとりの男の振り下ろす金鍬のさき春を耕す

 上の句は男性的な労働の情景を詠んだものだが、「金鍬のさき春を耕す」の結句は、そのまま性的な豊穣の喩になっている。この「さき」への集中がこの作者の本領である。

  くされ声あまやかな声もつれつつ夜のとばりに消えてゆきたり

 痴話げんかを詠んだ一首のようだ。「もつれつつ」の「」音の多用と、「とばり」「ゆきたり」の「」音の脚韻が姿のよさをかもしだしている。「」から「」へ。なにか横のものが縦になるさまを描いたものか。

  朝夕に花を見んとてねんごろに朝顔植えぬ夕顔植えぬ

 朝顔と夕顔を植えれば、たしかに朝と夕とに似たような花が見られるはずなのである。いろいろな、ほかの花もあるだろうに、とにかく朝な夕なに花を見るということがしてみたくなったので、この朝顔と夕顔を植える。そんな、とんがってはいるがどこかアンバランスな発想の持ち主が描かれている。

  靄けむる山のむこうにうっすらとみゆる山影(すがた)のあのせつなさの
  わが肩に来て止まりたるひとつ蝶これも縁(えにし)と歩をゆるませる


 これらの歌の「山影(すがた)」や「縁(えにし)」、あるいは「あのせつなさの」といったたおやかな詩語は、それまでのぶっちぎりに強い視線をマスクし、演歌的な臭みのある抒情をかもし出している。

  もっちりと寄り添いて来るひだる(以上3字傍点)神五臓のつかれをともないてくる

 「ひだる(以上3字傍点)神」は「人間に空腹感をもたらす憑き物で、行逢神または餓鬼憑きの一種」とウィキペディアにある。どの歌もすっきりと姿がよいのに、内容を読めば内臓のゆがんだ感じを赤裸々に歌ったものが多いことの理由は、この「五臓のつかれ」にありそうだと思った。

※引用中丸括弧はルビです。