「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評159回  問題山積みで静かな歌 大松 達知

2020-08-24 22:11:30 | 短歌時評
 高橋源一郎は、『「読む」って、どんなこと?』(NHK出版・2020年7月刊)の中で、『AV女優』(永沢光雄のインタビュー集)を主な6冊のうちの1冊に取り上げる。明治学院大学の講義の教材としてずっと使っていたと明かし、「学校では教えない文章」が載っているからだとその理由を述べる。そのあと、


たくさん問題を産み出せば産み出すほど、別のいいかたをするなら、問題山積みの文章こそ「いい文章」だ、ということです。つまり、その文章は、問題山積みのために、それを読む読者をずっと考えつづけさせてくれることができるのです。


問題山積みの文章だけが、「危険! 近くな!」と標識が出ているような文章だけが、それを「読む」読者、つまり、わたしやあなたたちを変える力を持っている、わたしは、そう考えています。


と、わかりやすく挑発している。
 こういう文章論を扱ったものを読むとき、短歌作者なら詩歌の状況と比較してしまうのではないだろうか。この場合も、「問題山積みの歌こそいい歌だ」と置き換えて、どんな作品が該当するのか思いをめぐらせるかもしれない。現在ならたとえば、斉藤斎藤や瀬戸夏子などを思うだろうか。あるいは水原紫苑や川野芽生を連想するかもしれない。さかのぼれば、前衛短歌は「危険! 近くな!」の標識に近かったのだろう。たしかに、彼らの歌はわれわれを(そして短歌そのものを)変える強い力を持っていたのだ。


 しかし、同じ本の中で高橋源一郎は鶴見俊輔の最晩年の日記『「もうろく帖」後篇』(編集グループSURE)もテキストとして使う。例えば鶴見の89歳のときの記述。


「二〇一〇年一二月二〇日


 私は若いときから老人を馬鹿にしたことがない。だから、いま、自分が老人になっても、私は自分を馬鹿にしない。」


「二〇一一年五月二〇日


 自分が遠い。」


「二〇一一年一〇月二一日


 私の生死の境にたつとき、私の意見をたずねてもいいが、私は、私の生死を妻の決断にまかせたい。」


などを引く。そして、


どうですか。すごく静かな文章だと思いませんか。逆にいうなら、世間や社会で生きているわたしたち、学校で教わっているわたしたちが読む文章は、ちょっとうるさすぎるのかもしれません。
 それは、おそらく、「社会」で生きている人たちに向けて書かれた文章ばかり読んでいるからじゃないでしょうか。


 社会には、たくさんの人がいて、いろいろとおしゃべりをしている。その中で書かれた文章は、おしゃべりの中でも聴こえるように、ちょっと「大きな声」で書かれているからなのかもしれません。


 これも、現在の短歌をめぐる状況を考えさせる。ただ、このごろの新作短歌が必ずしも「うるさすぎる」とも「大きな声」だとも思えない。そもそも韻文への評としては、うるさい、大きな声、は合わないのだろう。そもそも短歌は「社会」で生きている人たちに向けられているとも限らない。どちらかと言えば、日記のような役割にも近い。
 高橋は読者を混乱させ鼓舞しようとする書き手。前出の「問題山積みの文章」「すごく静かな文章」の両者を良しとすることの矛盾はどうでもいいことなのだ。


 いや、その両者は韻文であれば両立するのかもしれない。
 近刊の中では、工藤吉生『世界でいちばんすばらしい俺』(短歌研究社)が、とてもよかった。短歌のストレートな力のあり方を思い出させてくれた。ブンガク的な試行とかナントカ論のようなややこしさを抜きにした、短歌と向き合う原初的で素朴な感情が前面に出ている。作者の内的な圧力が昇華されているようであった。(前々回の千葉聡さんの時評でも取り上げられていたけれど。)
(歌の頭の数字はページ番号を示す。)


  028 うしろまえ逆に着ていたTシャツがしばし生きづらかった原因
  064 N君の家が床屋であることをどうして笑ったんだろオレは


 このあたりの自意識の出し方は、短歌の伝統を継ぐ。
 一首目。「生きづらかった」は通常はもっと長い時間を指す言葉だ。例えば、実家暮らしのころは生きづらかったけれど今はなんとかうまくやっている、のように。それを「しばし」のあとにつけて直近の時間(5分くらいかな)を愛おしむ。たとえ5分でも人間の貴重な時間ではあるし、50分とも5時間とも、軽重ははない。一瞬を大切に思う心が見える。かつて宮柊二が言った「生の証明」に直接つながる視点だ。もちろん「生きづらかった」をさらっと使える背景には、じっさいにもっと長い期間を「生きづらかった」という感じていたにちがいない。


 二首目。子供のころの自分をよく記憶して恥じている。反省しているというよりも直感的に驚いている。そのナマの瞬間をそのまま記しているのがいい。考えすぎていない(ように見える)言葉だから読者にもそのざらっとして置き所のない心が伝わるのだろう。


  027 パトカーが一台混ざりぼくたちはなんにもしてませんの二車線
  086 考えず腕組みをして不機嫌に見えそうだなと思ってほどく
  088 全身に力こめれば少しだけ時間を止められないこともなくない
  097 坂道でアイス食べてもいいかねえだめかねえもう三十八歳
  120 ストローで飲み終えた後しばらくはスースースースー吸う男性だ


 これらも「自意識」がわかりやすい歌。解釈は不要だろう。


  この客はよくヨーグルト買う客と思われておらむ、ほどの自意識 永田紅『ぼんやりしているうちに』

を引くまでもない。わざわざ短歌で表現しようとすることが自意識のカタマリが為せるものなのだ。ただし、表現するときに言葉面での工夫をしないと歌としての品が保てない。その一方、表現面を工夫しすぎると意味が伝わりにくいこともある。そのバランスが短歌の永遠のテーマのひとつだろう。工藤作品はわずかな恥じらいを隠さず、しかし結局はすべて言ってしまう。その潔さ(ノーガードでパンチを受け続けるボクサーのような)が、俗な言い方だが、心を抉るのである。


 その反対は、伝わる人を限定する(つまり、伝わらない人を切り捨てる)とか、故意に謎を残して楽しませようとする方向である。高橋千恵『ホタルがいるよ』の跋で三枝昂之が「全体をわざと欠いたままのこうした歌の表現法は東直子あたりから広がったように思うが」と書いている。(高橋の歌はその対極にあるのだが。)うまくゆくと(あるいは読み手の性向によっては)力を発揮するのだが、このごろはやや「やり過ぎ」の傾向が強いように思う。近刊では、千種創一『千夜曳獏』、阿波野巧也『ビギナーズラック』、榊原紘『悪友』、などにそう感じる。


 それらと対置すると工藤の歌集は、ある意味では「問題山積み」でありながら、かえって「すごく静か」に見えてくる。


 さて、小島なお『展開図』(柊書房)も、千葉聡さんが前回の時評で触れている。彼女の歌は抽象度が高く、謎を含む。しかし、一首のどこかに現実とつながる回路が明確に書き込まれていて、「やり過ぎ」ではない。どれもじゅうぶんに筋の通った解釈はできるし、読者を限定しないし置き去りにもしない。適度な重石がついていると言ってもいい。
 例えばこんな歌。


  081 体内に三十二個の夏があり十七個目がときおり光る


 先日、同人誌「コクーン」の仲間十五人ほどでZoom読書会(十首挙げてコメントをつける)でも評判だった歌。32回の夏を過ごしたうちのある夏がなぜ光るのかは書かれていない。高校生としての恋愛や失恋や旅行などのさまざまな思い出を読者は想像するだろう。巧い歌である。(32が6つの数字で割り切れるのに対して17は素数。31回個の夏のうちの16個目ではだめなのだ。)
 しかし、私はそれ以上に結句の「ときおり光る」がたいせつな重石になっていると思う。仮に、今現在光っているという表現やずっと光っているという表現(「あかるく光る」「しずかに光る」「白く光れり」、どれも最悪だけど)にすると「強すぎる」のだ。
 ここはそっと気付かないうちに必要な瞬間(自分が生き方に迷うとき、不安を抱えるときなど)にときおり光ってくれる、という抑えが効いているのだと思う。それが歌全体に説得力を与えているのである。


  063 ふりだしに戻る、のような秋のそら鞄を下げてバスを待つとき


 この歌にも同様のことを思う。「鞄を下げて」は、読者との身体感覚の共有を容易にさせる地味な一句だ。が、それ入ることによって、上の句の大柄な比喩に実感を与えているのだ。もしかすると、千種創一や榊原紘の歌に私が欲するのはそういう「重石」(説得力と言ってもいい)なのかもしれない。


  033 雪を踏むローファーの脚後ろから見ている自分を椿と気づく 『展開図』
  072 缶詰をあければ満ちる海の私語わからないけど立ったまま聞く
  084 呼び出し音鳴りやむまでを電話機の非通知の文字箸持って見る
  135 丸椅子に足を垂らして身体はすこし透けるという時のある


 蛇足になるが、これらの「ローファー」「立ったまま」「箸持って」「丸椅子」はそれぞれ、主役級の俳優が脇役を演じているような存在感がある。彼らに居てもらうことで画面が引き締まる感じだ。短歌のうまさとはこういう出し入れの技術も大きいのだなと感心した次第。強引に言えば、こうした技術が、わたしたちを変えるほどの問題山積みの表現でありながらも、すごく静かな一首に変えているようだ。
 高橋源一郎さんは穂村弘を世に出した人である。(たしかに、穂村さんの初期作品は「問題山積み」で「静か」な秀作揃いであった。)工藤吉生や小島なおの作品をどう読むだろうか。
(2020.8)



短歌評 世界に対する生々しい声が脳内に響く。『ホスト万葉集』を読む 谷村行海

2020-08-10 12:18:01 | 短歌時評

  札束が入りきらないATM退職金も入らぬホスト 鳳堂義人

 ホストと聞くとどのような姿を思い浮かべるだろうか? 女性に囲まれ、大金に埋まりながら、煌びやかな世界で暮らす姿を想像する人の方が多いことだろう。とは言え、それはあくまでもホストの一面にしか過ぎず、現実はかなり厳しい。
 先月、Smappa! Group会長の手塚マキ氏と在籍ホスト75名によるアンソロジー歌集『ホスト万葉集』(短歌研究社発行、講談社発売)が出版され、今ここでその短歌評を書いているわけだが、正直なところ、最初はすぐ読もうとは思わなかった。カバーに掲載されている短歌を読むと、お世辞にも「うまい短歌」とは思えなかったからだ。今年の夏は矢継ぎ早に歌集が出版されており、たとえ読むにしても後回しにしてしまおうと考えていた。
 そんな考えを抱いていた折に、書店でこの本を目にし、ぱっと開いたページに載っていたのが冒頭の一首だ。上の句だけを見ると、世間一般にイメージされるリッチなホスト像が想起される。しかし、下の句は衝撃的だ。よくよく考えてみると、ホストは店やグループに所属してはいるものの、その実態は個人事業主でしかない。たとえ今が豊かな日々を送れていても、人気に翳りが出始めた頃には、生活の保障などない。店やグループにもよるだろうが、一般的な会社員と同じように退職金が手に入ることも少ない。そう考えると、この一首には、世間でイメージされるホスト像ではなく、その現場の真に「リアル」なホストの姿が落とし込まれていることとなる。
 そうなると、ホストの生の声はどのようなものかを俄然知りたいという気持ちが募り、真っ先にこの歌集を読んでいくことにした。

  スーパーの野菜の値段ケチるけど飲んでる酒は定価十倍 藍之助

 この歌では、もてなす側の目線から客の注文した酒を冷静に分析している。オフの日には野菜の値段を少しでも安くしたいと思う主体だからこそ、店側が提供している酒の値段に驚愕してしまう。ホストとしての主体と一個人としての主体とが綯交ぜになった歌だ。また、さらっと流して書かれてはいるが、「野菜の値段ケチる」という以上は、まだ売れていないホストとしての人物像も見えてくる。
 余談だが、二年ほど前に歌舞伎町にある二郎インスパイア系ラーメン店、佐藤製麺所を訪れた際、なぜかシャンパンがメニューに鎮座しており、確か一万円近い値段がつけられていた。ラーメン店だからこそ高いと感じたが、ホストクラブでは普通の値段なのだろう。これもあくまでも客側として見た場合ではあるが。

  キッチンでグラスひたすら洗いつつ余ったシャンパン片手に晩酌 芝
  

  ムカつくよ! 初回で使う博多弁あいつモテすぎ! 禿げそうマジで 朋夜

  新人を叱る先輩売れてない人の振り見て我が振り直せ SHUN

  お茶を引く肩身のせまい新人は指名欲しさに初回バリアン

 私はホストの世界に詳しくないのだが、ホストの世界は人の移り変わりが激しいとよく耳にする。私の友人に北九州のホストクラブで働いていた者がいるが、彼も一か月で店をあとにしていた。そんな移り変わりの激しい世界だからこそ、売れるホストになるための競争も手厳しい。
 一首目の歌は、場内で接待を行うのではなく、主にヘルプなどにつくホストのものだろうか。華々しい世界の裏でひたすら雑用に回される日々。先ほど挙げた友人は、ヘルプに入ると客を盛り上げるために多量に酒を呑むはめになり、毎日泥酔してそれがつらかったと言っていた。しかし、この歌では裏方で「晩酌」をしている。酒を味わっているのだ。ひょっとすると、もう酒など見たくないほど呑んだかもしれないのに。余ったシャンパンを冷静に味わうことで、いつかは自分の力で客から指名を受けて注文を取り、これを呑んでやるのだという静かな闘志のようなものがうかがえる。
 または、作者が完全な裏方に徹している可能性もある。ホストの厳しさに反し、少し落ち着いた世界の様子がやはり「晩酌」に描かれ、少しアイロニカルな印象を落としている。
 二首目は中堅ホストのものだろうか。新人が入ってきたのだが、その新人がどうにも接客術に長けている。しかも、博多弁まで携えて。私見だが、ほかの方言に比べて博多弁は間延びした耳障りがあり、ほのぼのとしたポジティブな印象を受ける。煌びやかな場内の雰囲気ともマッチし、この方言は強力な武器になりうる。もしかすると、今後ナンバーが付くホストに育つかもしれない。そんな主体の危機感が、激しい言葉遣いと感嘆符の多様として歌の中にあらわれる。これらの言葉遣いをただ単に多用するだけであれば、雑にとられるかもしれないが、最後の「禿げそう」のインパクトにはそれを打ち消す力強さもある。ユーモアを交えているが、ホストにとっての禿げは死活問題だ。
 続く三首目は新人目線のもの。この歌を見たとき、毎週日曜の昼に放送されている『ザ・ノンフィクション』に登場したホスト、伯爵のことを思い出さずにはいられなかった。伯爵は昔売れっ子であったが、加齢とともに人気は低迷し、ホストしての収入もごくわずかなものとなっている。しかし、過去の栄光を忘れることができず、新人に日々当たり散らしてしまう。まさにそうした先輩ホストに対する本心をこの歌は描いている。また、ホストの世界だけでなく、この歌の内容を拡張して別の世界に置き換えたときにも通じる普遍的な心理を描くことにもなっているのではないだろうか。後半の表現は慣用的で歌の言葉として弱いが、前半の内容は詠もうと思ってもなかなか詠みにくく、これだけで成功している印象がある。
 四首目は新人を俯瞰してみた短歌。なにかの番組で見たのだが、この歌に描かれた情景をアフターですぐに行うと、逆に客が離れてしまう可能性があり、最後の手段に使うホストもいるのだとか。この新人は果たしてその後に指名を手に入れることはできたのだろうか。ところで、この短歌には詠み手の名前が書かれていない。『ホスト万葉集』には、Smappa! Groupの各店舗に設置された「投げ歌箱」に投稿された歌や、グループをすでに退店したホストの歌も収録されており、それらには作者名が付されていない。この歌が前者と後者のどちらかはわからないが、後者だとすれば、この俯瞰していたホストもすでに過去の人間となってしまったこととなる。作者名無記名の歌が連続するページもあり、読み進めるうちにホスト業界の移り変わりの激しさも実感されてしまう。

  呑みたいな 今日もたくさん 呑みたいな気分がいいから 今日はシャンパン 江川冬依

 ここまで見てきたのは、どれも新人・中堅(と思われる)ホストの短歌。上に挙げた短歌の作者は、Smappa! Groupの1つであるOPUSTの店長。店長から見る世界では、接客業だけに従事するホストと世界の見方も変わってくるのだろう。
 最初、『ホスト万葉集』を最初から最後まで通読したとき、この短歌には一切目を向けなかった。しかし、読後に短歌を作ったホストたちがどのような人物なのか知りたい気持ちが募り、調べてみたところ、作者が店長であることを知り、それをふまえると歌の印象が180度変わることとなった。
 最初に読んだときは、コールのようなものを想起し、内容がいささかストレートすぎると感じてしまった。しかし、店長であることをふまえてみると、一字空けの多用が、店に点在する客やホストの言葉の集積のように読めてくるではないか。ホストとして接客業だけに従事していた時代から変わり、店長になった今、店を俯瞰してみているのだ。その目に映る店の世界は、煌びやかなものか、それとも一夜で消えてしまう夢のように儚いものなのか。

  良い匂いどこの香水つけてるの 気づけよこれは俺のフェロモン Ryo-Ma

 最後に、明るめの歌を一首引いてみる。先に挙げた歌はどれもホストの境涯詠とでも言うべきか、どこか暗い印象もあった。私がホスト世界の厳しさに踏み込んだ内容の歌に惹かれたということもある。だが、この歌の場合、私には絶対に詠むことができないフレーズの力強さに惹かれてしまった。一般の歌会に「気づけよこれは俺のフェロモン」というフレーズを含んだ歌を出した場合、失笑の声が漏れ聞こえてくるのではないだろうか。しかし、こんなフレーズは今までにあっただろうか。ナルシシズムを肯定することで、歌を一歩先の世界に持ってきていると見ることもできる。ホストという立場だからこそ、歌を詠む「我」を前面に押し出すことができ、容易にはできない芸当の1つだ。


 以上、『ホスト万葉集』掲載の300首ほどの歌からいくつかを引いてみた。
 冒頭でもふれたとおり、技術的には弱い部分が目立つ。しかし、詠まれた世界、歌にあらわれる言葉の一つ一つはどれもが初めて目にするものばかり。技術は後からでもついてくる(と私は信じている)。人が詠めない世界を詠みあげることも重要ではないのか。
 日常に埋没してしまった感性を復活させ、世界に対するまなざしを研ぎ澄まさせてくれるには十分な一冊と言える。