「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評 第105回 作品としての評論/文学のリアル 山田消児

2013-10-21 21:32:38 | 短歌時評
 第31回現代短歌評論賞受賞作、久真八志「相聞の社会性──結婚を接点として」(「短歌研究」2013年10月号)を読む。が、いきなりつまずく。導入部の摑みがいかにもよくないのである。冒頭から少し引いてみよう。

 相聞歌と社会詠は区別されている。どちらも議論の対象となる大きなテーマであるが、同時に論じられる機会はほとんどない。その理由の一つとして、相聞歌は恋愛の感情を詠う私的なもの、社会詠は社会への認識を詠う公的なものといった前提がある。しかし公私の境とはそう厳密に線引きできるものだろうか。

 相聞歌と社会詠が別物なのは当たり前の話なので、たぶん、作者が言いたいのはそのこと自体ではなく、「同時に論じられる機会はほとんどない」→「だから自分が論じてみせる」ということなのだろう。次に、相聞歌は私的で社会詠は公的だとする見方が示される。だが、「私的」「公的」という分け方は、線引き云々を言う以前に、そもそも無理があるように思える。加えて「前提」の意味するところが曖昧なため、すんなり文章の趣旨を汲み取ることができない。さらに読み進めてみる

 たとえば恋愛のかたちは時代や地域ごとに異なることが知られている。また社会詠といえども、それはあくまで作者個人の社会への思いを表現するものだ。歌は個人と社会のかかわりを基盤として生まれるものである。

 このあと最初の改行が入る。ここではまず、「恋愛のかたちは時代や地域ごとに異なる」というのがピンと来ない。作者がどういうことを想定しているのかは、何となくわかる気がするが、具体的な説明もなしに「知られている」と言われると、「オレは知らねえよ」と拗ねてみたくもなってくる。
 本題に入る前の前置き的な記述はもう少し続く。だが、芯となるものが見えないせいか、おおむね常識的なことが書いてあるわりには、どうも信じきれない感じがしてならない。自前の言葉だと思って読んでいくと、「前提」とか「知られている」とか、参考文献にこう書いてあったとか、責任を人任せにするような言い方があとから出てきて作者が顔を隠してしまうのも、そういう印象を与える一因になっている。
 のっけから悪口ばかりになってしまったが、全体を読み終わってみれば、相聞歌に見られる社会性という主題は一貫しており、それはタイトルだけでなく、前置き部分においてすでに提示されていたことがあらためて確認できる。もっとも、相聞歌といっても、取り上げられるのは夫の立場から妻もしくは妻と自分のことを詠んだ歌にほぼ限られており、いわゆる社会詠については論考の対象にすらなっていないので、相聞歌対社会詠という図式を強調した冒頭の記述は、若干大風呂敷のように感じられなくもない。だが、それよりも問題なのは、明確な主題があるにもかかわらず、読者をそこへ招き入れるためのイントロダクションとして序論部分がうまく機能していないことだろう。つまり、呼び込みが下手なのである。
 では、肝心の中身はどうか。この文章で、作者は、複数の男性歌人が詠んだ妻の歌を多数取り上げ、私的なものと思われがちな相聞歌であっても、そのときどきの社会状況や詠み手が置かれた社会的な環境と無縁ではありえないことを、具体例に則して論じている。確固たる問題意識の下に一首一首きちんと論評していく進め方には誠実さが感じられ、内容的にも納得できるものが多い。だが、やはり何かが足りない。序論部分のつまらなさは、それだけで読んでくれる人を減らしてしまう重大な欠点だと思うし、本編の方も、さほど独自性があるとはいえない事例研究の列挙にとどまっていて、全体を一編として見たときの山場がどこにも見当たらない。だから、読んでいてあまり面白くない。これは中身の良否如何とは別の、書く技術の問題でもあるのだが。
 はたして、この文章は未知の読者を惹きつけるだけの“作品”としての魅力を持っているだろうか。賞の主催者あるいは短歌界の住人である私たちは、公募制評論賞の受賞作として、この文章を短歌界以外の一般世間に自信を持って押し出すことができるだろうか。これらは、今回に限らず、現代短歌評論賞の受賞作を読んで私が何度か抱いたことのある疑問である。読者ではなく選考委員の方に顔が向きがちなのは、賞への応募作である以上、しかたのない面もあるが、内容までが評論というより課題レポートに近く感じられてしまうのには、いつも物足りない思いを抱かされてきた。この賞では、応募要項でひとつだけ出される課題に則して論文を書くというのが決まりになっており、そのことが上述した傾向にいっそう拍車をかけているようにも思われる。
 ちなみに、今回の課題は「現代短歌の基盤」である。最近の傾向として、自由度の高い漠然とした課題が出されることも多く、そろそろルール自体が再考されるべき段階に来ているような気がしないでもない。与えられた課題に器用に対応する力よりも、自分で論じたいテーマを見つけ出す力の方が、魅力ある評論を生み出すためにはずっと大事だろう。歌壇内部の登竜門などではなく、外に向かってアピールできる賞であるために、何らかの工夫があってもいいのではなかろうか。
 さて、評論賞の結果発表目当てで買った「短歌研究」10月号だが、そこで私は思いがけずたいへん面白い記事に出会うことができた。小説家・綾辻行人と歌人・吉川宏志による対談「ミステリと短歌」である。ふたりは京大推理小説研究会(京大ミステリ研)の先輩・後輩にあたるとのこと。綾辻は短歌にはあまり詳しくないようだが、準備万端整えて臨んでいることが窺われ、吉川が参考作品として用意した本邦雄、葛原妙子らの歌にも触れながら、ミステリと短歌との関わりをめぐる多彩な話題が展開されていく。ミステリでは一人称による語りを読者が疑ってかかるのに対し、短歌では信用しすぎるくらい信用するという対比など、ジャンルの本質に触れた会話も多く、一見接点が少なそうに思える取り合わせにもかかわらず、最後まで見事なまでに話が嚙み合っているのに感心させられた。
 そんな中でも、特に私の印象に残ったのが、前衛短歌運動を支えた編集者としても知られる作家・中井英夫の長編小説『虚無への供物』について語り合った箇所である。といっても、この小説の中に短歌にまつわる話が出てくるわけではない。対談で吉川は次のように述べている。

 一九五四年の洞爺丸の遭難事故がこの小説では大きなモチーフになっているのですけれど、大事故による理由のない死・非人間的な死に抵抗するために、理由のある死、トリックを用いた、意味のある殺人を作り出そうとする一種の狂気が描かれていて、それがすごく怖かったです。そして、それが今回の大震災以後、とてもリアルに感じられました。

 私が『虚無への供物』を読んだのは30年以上も前のことで、記憶もだいぶ薄れてしまっているが、終盤で明らかになる殺人事件の真相が普通のミステリ小説におけるそれとは全く異質の思いもよらぬものであったことに激しく衝撃を受けたのは、今でも覚えている。社会的な事象を作品の主題や背景として取り込むことは、その事象を狭い作品世界の内部に閉じ込め、ある意味で矮小化することでもあると思うのだが、『虚無への供物』における海難事故は、現実ならではの不定形のパワーを損ねるどころか、むしろ途中から一気に増大させ、虚構とペダントリーによってきらびやかに飾られた小説の全体を丸ごと外側から包み込んで、怖ろしいまでの「リアル」へと変容させてしまうのである。
 ここには、事実と作品との関係、あるいは事実と虚構との関係のありように関わる重要な問題が見え隠れしている。こと文学の領域にあっては、事実はただ事実だからというだけでリアルたりうるわけでは決してない。事実が虚構をねじ伏せたかに見える『虚無への供物』だが、そこには、ねじ伏せられるにふさわしい魅力的な虚構を用意し、事実によってそれをねじ伏せてみせた中井英夫という作者の存在が不可欠であったことを忘れてはならないだろう。
 吉川がこの文脈で東日本大震災に言及していることにも、私は素直に共感できる。事情は短歌においても基本的に変わらないはずである。作品は事実のリアルさに寄りかかってはいけない。事実の力を借りて事実そのものとは違う文学としてのリアルさを生み出すのでなければ何の意味もないのだと思う。



 私の「短歌時評」はこれが最終回となる。サイトの特性を考え、他ジャンルとの関わりを特に意識して題材を選んできたつもりである。最後に、お別れの印として、虚構派を自認しつつ社会的テーマにも関心のある私自身の歌を一首ここに置いておく。

踏み越えてゆくよ鬼畜と言われても泥にまみれた屍(かばね)のうえを
(初出「詩と思想」2011年7月号)



山田消児(やまだしょうじ)
歌誌「遊子」「Es」同人
個人ホームページ:「うみねこ短歌館
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短歌時評 第104回 「女性性」という視点が取りこぼすもの 山崎聡子

2013-10-13 01:11:26 | 短歌時評
「女性性」という視点が取りこぼすもの
~野口あや子『夏にふれる』批評会と『にこたま』に思うこと

 『にこたま』(講談社刊)という漫画をご存じだろうか。『にこたま』は、つきあって九年目のアラサー同棲カップルを主人公にした人気コミックで、“物心ついたらデフレ”世代の心の揺れが、これでもか、というほど痛々しく描写される。主人公と同年代にあたる筆者にとっても、“家事労働を含むあらゆる義務を分担し合う”ことや“男女関係がフラットである”ことは、気づいたら否応なくそうなっていただけの話であり、主人公カップルの低体温ながら互いに義理を果しあう感じは、現代の恋愛関係のリアルな一面を確かに映し出していると思う。
 しかし、ある日、資生堂のPR誌「花椿」の穂村弘と作者・渡辺ペコの対談を読んで、そういう見方もあるのか、とちょっとだけおどろいた。なぜなら、穂村が、『にこたま』の主人公ふたりの関係を指して、「あまりにフェアな感じが恐ろしい」という趣旨の発言をしていたからだ。そのときは、なるほど、と軽く納得しかけたのだが、すこし腑に落ちない感覚が残ったのも事実である。
 前置きが長くなったが、なぜ短歌とは関係ない話をつらつら書いたかというと、野口あや子『夏にふれる』の批評会での女性性に関する議論に、「花椿」を読んだときに感じたかすかな違和感が頭をもたげてくるのを感じたからだ。批評会の席上、穂村は、野口の以下のような短歌に、「本来、主体性を確立しえない女性の生きづらさ」というキーワードで解説を加え、野口がときに投下する暴力的な自我を、「テロリズム・爆弾」と評した。

煙草いい? ジッポを出して聞かれたりいいよと答える前に火が付く   野口あや子
捩られたからだが戻らないとしてもそこから花粉をこぼしてはだめ    
精神を残して全部あげたからわたしのことはさん付けで呼べ       
こちらから抱き寄せたいといつも思うそのたびいつも風はおきたり
男より女が偉いと思うとき色とりどりのコンセント抜く


 野口の歌には、性愛的な描写が多いのは確かではあるし、もう一人のパネリスト・平岡直子が「裸身という衣装」という表現で指摘したように、自らの肉体のみを武器に切り込んでいくような危うさが、彼女の歌に凄味を与えていることは紛れもない。しかし、それは本当に、女性で、若く、小さく、権力がないゆえの虚勢なのだろうか? 主体性を確立しようというあがきの中から生まれてくる叫びなのだろうか?
 例えば、「年上の男性から軽んじられる若い女性の私」という文脈で読み解かれていた一首目のジッポの歌は、『にこたま』的文脈でいえば、お互いを軽んじ合えるような気の置けない関係、という読み方をすることもできる。また、「セックスのときに体を捩じられるのは女性」というのも、物理的にはそうかもしれないが、共犯的な親密さのなかで行われる行為であるがゆえに、どっちが上位・下位というのとはまた違う感じがする。

水族館にタカアシガニを見てゐしはいつか誰かの子を生む器        坂井修一
たれの子も産める体のかなしさに螢光に照る葡萄をほぐす         加藤治郎
夕顔のラッパは疾うに告げてゐる すべての女は代理母である      米川千嘉子

 坂井と加藤の類歌をあげるまでもなく、ある世代までの男性の短歌には、“受け入れる側”の性として女性が描かれることが多く、女性歌人の歌にも、それが受容であれ葛藤であれ、“産む性”であることのへの言及が意識的に盛り込まれてきた。また、その性差への強い意識と拘りが、“女性性”という薄ぼんやりとしたキーワードが用いられ語られてきた理由だろう。しかし、『にこたま』的空気を当たり前のように呼吸する世代では、女性側にも、男性側にもそのような意識は希薄になっているのではないだろうか。

米川 私たちのころは、女と男が一緒に生きていくときの、ある種の価値観の戦いとか
    すり合わせ、そして、いろいろな経験を経て望ましいものになっていくという、
    青春の物語みたいなのがあったというような気がします。そういうものは今は違
    うんでしょうね。感覚として。
大森 そうですね。歌に向かうときは自分が女性ということをあまり意識しないように
    しています。もっと透明なところから歌いたいという思いがあります。
  (中略)
大森 恋とか愛を考えるとき、性別、性を通り抜けて何もなしで考えることはできない
    ので、もちろん意識はするのですが、女性性を歌にすることへの抵抗があって、
    それがなぜなのか、自分でもよくわからない。

(「角川短歌」2013年8月号)


 以上は、今年、大森静佳と米川千嘉子との対談からの抜粋である。相聞歌というくくりで語られることが多い大森の歌にも、性愛はもちろん描かれる。しかし、それは、自我をもった人間の精神の表出であり、性愛はその他のあらゆる身体的な感覚と同列のこととして観念的なフィルターを通して描写される。世代でくくるのが乱暴であることは承知のうえで、米川の世代が、性をことさら意識し、“戦ってきた”感覚があるのに比して、大森は性差を受容し、フラットな状態にならしたうえで、性を歌に詠みこんでいる感じがある。
 例えば、このような歌に、それを強く感じる。

性欲に向きのあることかなしめりほの白く皺の寄る昼の月         大森静佳
産むことも産まれることもぼやぼやと飴玉が尖ってゆくまでの刻     

 野口本人の弁によると、彼女は、八百数十首、という非常にボリュームのあるこの歌集を、瞬間瞬間を切り取るように、“千本ノック形式で”編んだそうである。その言葉のとおり、『夏にふれる』の膨大な歌のなかには、第一歌集には見られなかった風景や景色、感覚や感情が重層的に描かれており、女性性、というくくりでは取りこぼしてしまうものの比重が厚みを増しているのを感じる。
 新人賞の批評等でも、相変わらず作者の性の別がことさら強調されたりする場面があるが、野口を含めた若い世代の歌を語るとき、フェアでフラットな『にこたま』的視点が必要ではないか。そもそも主体性を確立しようともがくのは、男女問わず、多くの人の人生についてまわる呪いのようなものなのだから。
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