「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評136回「ねむらない樹」の扉をあけて -頭に浮かぶ先行作品-  大西久美子

2018-08-30 22:07:00 | 短歌時評
       

2018年6月2日(土)に開催された「現代短歌シンポジウム ニューウエーブ30年」(荻原裕幸氏、加藤治郎氏、西田政史氏、穂村弘氏)を「ねむらない樹」創刊号(2018年8月1日刊)が特集で再現している。
シンポジウムで分かったことは次の二つ。
一つ目は「ライトバースとニューウエーブの違い」、
二つ目は「ニューウエーブは荻原、加藤、西田、穂村の4人(のもの)」ということだ。
このシンポジウムで加藤氏が用意したニューウエーブ系の作品に
生きているだけで三万五千ポイント!!!!!!!!!笑うと倍!!!!!!!!!!
(石井僚一歌集『死ぬほど好きだから死なねーよ』)がある。
加藤氏は「これは本歌取りの歌」と紹介した後、石井氏に「どういうつもりで作ったの?」と尋ねた。
石井氏は「本歌取りではないです。思い付きで作りました」と即答、加藤氏は「とてもこわい。アナーキー」と反応されたが、オンサイトの聴講者の中にも、
言葉ではない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ラン!
(加藤治郎歌集『マイ・ロマンサー』)
が浮かんで衝撃を覚えた方がいただろう。石井氏は「影響は受けたかもしれません」と補足されたが「かも」なので着想時、先行作品の表現は、既に浸透しているツールとして取り入れたのだと思う。このやりとりを聞きながら、私は今後、新しい表現を探るとしたらそのドアノブはどこにあるのだろう、とふと思った。
同時に、本歌取りとは逆の発想として、制作者にとって偶発的に生まれた作品が、時空を遡り先行作品や歌集に到達、読者がその息吹き、生命力に出会う新しい試みの機会と考えられなくもない、とも思った。
それは「ねむらない樹」の編集委員である大森静佳氏の歌集『カミーユ』(2018年5月刊)により強く感じる。「短歌往来」九月号の岩内敏行氏の書評には大森氏が「河野裕子の生涯すべての歌集を精読し、その根幹をつかんだ」とあり、『カミーユ』の読み応えある情念の源に触れた思いがしたが、この歌集を手にした時、カミーユとロダンをテーマとした60首の連作を収録する加藤治郎歌集『雨の日の回顧展』(2008年5月刊)が頭に浮かんだのは私だけではないだろう。これは、ニューウエーブのひとり、西田政史氏の6月14日のTweet「加藤治郎さんの『雨の日の回顧展』が俄かに話題になっている」からも推測できる。
しかし『カミーユ』に明確なヒントはない。気付きは読者に委ねられている。そして。誰かがSNSでそっと呟く。これに目を留めた人が10年前に刊行された『雨の日の回顧展』を知り、Amazon等から入手する。・・・SNSを媒介として双方の歌集を響き合わせて読む読者が(多くはなくても)誕生したことは想像に難くない。
ちなみに両歌集とも5月刊行だが『雨の日の回顧展』は7日、『カミーユ』は15日である。ここに大森氏の先行歌集への密やかな敬意が込められているとみるのは深読みだろうか。










短歌相互評26 松村由利子から染野太朗「初恋」に寄せて 

2018-08-30 22:03:34 | 短歌相互評

作品 染野太朗「初恋」  http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2018-08-04-19370.html         
評者 松村由利子

 実に初々しく、恋の喜びや幸福感、そして痛みを伝えてくる連作だ。最初の二首では、恋を失った現在の苦しい思いが描かれる。
ひとの幸せを願へぬといふ罰ありきメロンパン口に乾きやまずき
くるしみを求めてたんだみづたまりに雨降るかぎり死ぬ水紋の

 「ひとの幸せ」は、かつての恋人の幸せである。メロンパンによる口中の渇きさえ、「罰」と感じられるのは、「くるしみを求め」るストイックな人物だからだろう。水たまりに広がり続ける波紋は繰り返し水面を刻み、波立たぬ水面のような心には戻れない悲しみが迫ってくる。
 アスタリスクで区切られた三首目以降は、回想の中の恋が濃やかに描かれる。その完璧にも近い至福の感情と昂揚は、失われたものゆえの輝きを思わせる。
きみがぼくに搬んだそれは夏だつた抱へたらもう海に出てゐた
聞きづらいときは顔寄せてくれることも灯台の灯(ひ)のやうで近づく
 
恋の喜びを「夏」と表現した一首目は、人称や指示詞が効果的に使われており、独自の文体となっている。平坦、冗長になりがちな口語を用いつつ、翻訳文のような文体によって魅力的な起伏と展開がもたらされていることには驚く。染野は多彩な文体の使い手であるが、この歌は口語短歌の一つの到達点と言えるのではないか。
 二首目は、古典和歌のような、なだらかで粘っこい韻律がいい。一首全体が結句の「近づく」を修飾するために詠まれており、ここで主体が「顔寄せてくれる」君から、作中主体に変わる。「近づく」はまるで大太鼓が曲のラストにどしりと一拍響かせるような効果を生み、歌に詠まれていない場面が余韻として読者に伝わってくる。
 両方とも喩の巧みさに魅了されるが、そこにとどまることなく、さらに文体が練られているところに特徴がある。染野にとって、喩は常に着地点ではなく、そこから飛躍するための美しい発見なのだろう。
海の色をあをとしか思へぬことのきみをしおもふ気持ちにも似て 
きみと来て食堂〈煮魚少年〉の味噌煮の鯖を箸にくづしつ
煮魚を食べつつきみと黙(もだ)すれどちよつと目の合ふ一瞬はある

「この人」と心に決める恋の必然性を「海の色」に喩えた美しさは、「あを」のイメージと共に果てしなく広がる。こうした大海原のような愛情を「食堂〈煮魚少年〉」の小さな卓に注ぎ込むところが、この歌人の巧さである。食堂名は非現実の世界を思わせ、そこで煮魚を食する二人の輪郭もやわらかい。人生も恋も短く、「ちよつと目の合ふ一瞬」こそが永遠である。そして、こんなにも愛おしい時間を過ごすにもかかわらず、作者は恋の終わりを予感する。
これもきつと最後の恋ぢやないけれど海風、奪へいつさいの声
 「最後の恋」ではないことの悲しみは、海風がさらってゆく。ここには、やがて訪れる別離への怖れはない。終わりがあるからこそ瞬間は輝くことを、この作者はよく知っている。十首を読み終えたとき、素晴らしい恋の結末をもう一度確かめようと、読者はアスタリスクの前に置かれた二首へ立ち戻らされる。小説のような歌集『人魚』を編んだ歌人の手並みは、ますます冴え渡っている。


松村由利子〈略歴〉一九六〇年福岡生まれ。沖縄・石垣島在住。「かりん」所属。最新歌集『耳ふたひら』。著書に『短歌を詠む科学者たち』など。

短歌相互評25 染野太朗から松村由利子「失くした鰭は」へ

2018-08-30 21:56:29 | 短歌相互評
作品 「失くした鰭は」松村由利子 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2018-08-04-19366.html
評者 染野太朗

 松村は社会や歴史を描く。俯瞰してそれらを見つめるだけでなく、それらと自らとのかかわりを正面から描く。57577のリズムをはっきりと感じさせる調べに、社会や歴史、そして自らを見つめる落ち着いた、ブレのない眼差しが練り込まれるから、松村の歌に対して幾度となくくりかえされているであろう「骨太」な歌、「批評」に富んだ歌、ということをまっさきに思う。「骨太」「批評」といった評語を読者として安易に引き寄せてしまうとき、僕たちはそれらと対極にある「繊細」だとか「心の揺らぎ」だとかいったことをそれらの歌に読もうとしなくなる。あるいは、それを忘れてしまう。評語が読者の眼差しや読みの言葉を曇らせることがある。僕は松村の歌に対してやはり「骨太」「批評」といったことを思う。「失くした鰭は」という今回の15首においてもそれを言うことができる。けれどもそれを松村の歌の本質としてしまうのはあまりにも安易なことなのだ。輪郭の濃い、迷いなくそこに据えられたような語と語のあいだから、繊細ということそのものがただよいでてくる。

  *   *   *

入念にだし巻き卵巻きながら 男を泣かせたこと二回ほど

 上の句と下の句のかかわりをいかに読むか、というところが読者の腕の見せどころなのだが、実はこの歌、そう簡単にそのかかわりを確定させることができない。かつて「男」に食べさせたことのある「だし巻き卵」、ということだろうか。それを作りながらふと男を泣かせた経験を思い出している。でも、食べさせたことがあるからと言って、なぜ今ここでそれを、しかもその回数を思い出すのだろう……と読んで、卵を割ったり出汁をくわえたり、油をうすく引いたりフライパンを何度も傾けたり、箸をこまやかに扱ったり、といったことを思うとき、また、焼くときの音やにおい、手や顔に感じる熱を思うとき、この「入念」という一語が負う情報量と体感におどろく。たったこれだけのシンプルな歌が、「泣かせた」ということと、「二回」という、それが多いのか少ないのかまずは判断を止めておかざるをえないその回数を、そしてその背後にあるドラマを、具体ではなく質・情感において、思いのほか色濃く提示する。一方で、「男」に対する潔い態度も見えてくる。骨太だけれど、読者は繊細に向き合う必要のある歌だと思う。

絶滅危惧種なること母に言いたれど鰻重届いてしまう帰省日

 僕はこの歌をとてもすぐれた「社会詠」だと感じる。ユーモアをにじませているようで、でも実はとても重い。絶滅危惧種だとわかっているから食べるのは避けたい。けれども母は娘を思ってそれを、むしろ無邪気に食べさせようとする。でも、これこそが〈現実〉なのだと思う。社会を見据えてそれなりの心がけや行動をしながら、それでも「鰻重届いてしまう」、そのような〈現実〉を僕たちは生きているのだと思う。とてもリアルな歌だ。

友達ではありませんかと問うてくる取り持ち女みたいなSNS
ぎんぎんと太陽沈む西の空町田康的深紅に染まり


 SNSと夕焼けが、それぞれ比喩をとおして描かれる。「取り持ち女」(売春婦と客との仲介役の女性)とつめたく言い放つようにして詠み据えられるSNS(「みたいな」という言い方がここではいかにも軽薄だ)と、あるひとりの作家の作品の世界観をまるごと背負ってそこにひろがる夕焼け。SNSに対する批評はあきらかだと思うが、加えて「女性/男性」という、対をなす隣り合った歌としても読むべきなのかもしれない。しかし、どちらの〈性〉も、かならずしも肯定的には描かれていないように思う。それにしても「取り持ち女」の登場は強烈だ。一連において「女」を単に「被害者」とか「弱者」とかいうふうに図式化させない表現のようにも思うし、一方で、ついに「加害者/被害者」「高潔/卑しさ」といった二項対立を軸にした表現から抜け出せない歯がゆさをも読者として感じるのだが、どうだろうか。それとも、〈性〉について読むのは、僕の行き過ぎだろうか。もっと単純に、違和感のみを読み取ればよいのか。いや、哀しみだろうか。……いや、そもそもそういったことを感じ取る読者としての僕自身とは、どのような読者なのだろう。

わたくしの失くした鰭は珊瑚いろ夕暮れどきの空に落とした

 連作はこのあたりから抽象度をぐんと増していく。「珊瑚いろ」のうつくしい「鰭」が失われた。「鰭」である以上、それを失くしたことによって「わたくし」は海をうまく泳げなくなる。この喪失感と、この世界の上下のありようとはさかさまに(すなわち海から空へと)「落とした」と表現される「鰭」。うつくしいが、しかし同時に、力の方向が逆であるところから、落とした、というよりも「空」の側に無理に奪われたような感じさえ僕は読んでしまった。しかしそれは、

プラスチックだらけの日々がなだれ込み亀の胃壁を目指すかなしみ
深海に死の灰のごと降り続くプラスチックのマイクロ破片


という歌の印象に引きずられすぎなのかもしれない。廃棄プラスチックが人間以外の生命を脅かしている。「プラスチックだらけの日々」は、そのような「日々」を送る人間への警鐘だろうし、「プラスチックのマイクロ破片」を「死の灰」=放射性降下物でたとえるこの認識はたいへんに重い。一首のすっきりとした構成によって、逆に見過ごしてしまうかもしれないけれど、やはり重い。こまかいことかもしれないが、降り「続く」、であることも怖ろしい。「骨太」な一首のたたずまいのなかに、読者として長く立ち止まるべき思考や批評が見えてくる。

東海道五十三次広重の腕太かりしこと確信す
湖底よりわれを呼ぶ声腕太きものの呼ぶ声 波紋広がる
取税人マタイ登りし木のように悲を抱きとる人となるべし
永遠を産んでしまった女たち水の匂いを滴らせつつ
からだどんどん古びてほつれゆく秋よ水の記憶は淡くなるのみ


 連作最後の五首。「失くした鰭は」というこの一連には、〈水〉のイメージが濃厚で、「海」や「湖」はもちろんだが、「雪」や、そして最後の二首のような、きわめて観念的・抽象的な「水」も登場する(もちろん上の「湖」も、「東海道五十三次」から想像するに浜名湖である可能性が高いが、そういった具体を超えて、観念的ではあると思う)。そういえば、冒頭の一首で描かれた男は泣いていた。涙という「水」がそこにはあった。それらの〈水〉同士がどのようにかかわり合うのか、つまりこの一連において〈水〉とはなにを象徴するものなのか、その解釈を確定させるのはたいへんにむずかしい。しかし「鰭」を失うということが、そういったあらゆる〈水〉から隔てられていく、疎外されていく、というイメージに重なるということを、あるいは読み取ることができるのかもしれない。「水の匂いを滴らせ」ながら、同時に、まさにその〈水〉から疎外される。ここに〈性〉をめぐる批評を読み取ろうとするのは恣意的に過ぎるだろうか。「腕太きもの」を男性に見立てるのも、図式的で安易な発想だろうか。また、とめどなく古びていく「からだ」の持ち主がもし「女たち」ならば、冒頭の一首の「男」から涙=〈水〉を奪った(奪った、と言ってよいのかどうか)その「二回」という数は、比べるまでもなくただ「少ない」ということなのかもしれない。

 「だし巻き卵」と「男」にまつわる個人的な経験に始まった連作が、社会批評を経て、抽象性をきわめて濃くした二首で終わる。冒頭に示した「骨太」ということ、そしてそこにあらわれた「具体」と「抽象」の振れ幅そのもの。そこに「骨太」と言うだけでは済まされない繊細を見る。
 手強い一連だった。

短歌評 わが短歌事始めⅡ 『塚本邦雄全歌集』 酒卷 英一郞 

2018-08-19 13:48:32 | 短歌時評
 『塚本邦雄全歌集』が白玉書房から版行されたのは一九七〇(昭和四十五年)、筆者二十歲の時であつた。旣刋六歌集、『水葬物語』に始まり前囘主に觸れた『裝飾樂句(カデンツア)』『日本人靈歌』『水銀傳說』『綠色硏究』『感幻樂』を收めた待望の、そして當時自分の所有してゐた書物の中で最も大事な一册であつた。これが短歌のすべてであり、いや世界の事象のことごとくがこの中に表現されてゐると信じて疑はなかつた。他の歌人たちは、この塚本が詠つた世界にこの上、なにを足すことがあるのだらうか、ここからなにを引去ると云ふ愚擧に出るのか。頁を手繰るごとに新しい世界が眼の前に啓かれ、胸に刻まれ、心に燒付けられた。この世界の全體像をしつかりと捕まへるために先づ行つた作業と言へば、塚本作品に登場する夥しい名詞、名辭、固有名詞の索引(インデックス)を作成することであつた。
 文學、音樂、美術、歴史、植物、動物、衣装、美食等々。あの黃金ノオト、詩的現象の解析表は一體どこへ行つてしまつたのだらうか。そもそもなんで作業は中斷されたのか。いまとなつては自己の心持ちを推し測るしか無いのだが、目眩く萬華鏡のやうな、しかも閒斷なき出現に、終ひには辟易し、たうたう放擲してしまつたのではなかつたか。これらを何ひとつとして眞に所有する、その世界を思想的に血肉化することは、終ぞ叶はないのではないか。ふと兆した不安は忽ち心を被ひ、黑雲は瞬く閒に全身を捉へた。
 先づは精華の數數を。

  つひにバベルの塔、水中に淡黃の燈(ひ)をともし――若き大工は死せり
  貴族らは夕日を 火夫はひるがほを 少女はひとで變へり。海にて
  夜會の燈(ひ)とほく隔ててたそがるる野に黑蝶のゆくしるべせよ
  みづうみに水ありし日の戀唄をまことしやかに彈くギタリスト
  ダマスクス生れの火夫がひと夜ねてかへる港の百合科植物
  遠い鹹湖の水のにほひを吸ひよせて裏側のしめりゐる銅版畫
  ゆきたくて誰もゆけない夏の野のソーダ・ファウンテンにあるレダの靴
  かりそめの戀をささやく玻璃窓にはるかな街の夜火事が映り

『水葬物語』


 『水葬物語』は前囘觸れたが、塚本三十一歲、一九五一(昭和二十六年)の處女歌集。これを繙くに後年の刋行となるが、盟友杉原一司との交友以前、「水葬物語以前」と銘打たれた『透明文法』から始めるのが常套であらうが、やはり『全歌集』との遭遇は決定的であつた。その濃密な假構と精緻なメトード、そしてロマネスクに彩られた花壇に異彩な數首が紛れ込んでゐる。

  銃身のやうな女に夜の明けるまで液狀の火藥塡(つ)めゐき
  寶石函につけて女帝へ鄭重にのびちぢみする合鍵獻ず
  迷路ゆく媚藥賣りらも榲桲(まるめろ)の果(み)を舐めてまた睡りにかへり


 まるで『俳風末摘花』擬きのあぶなゑ仕立てだが、喩的効果と適確な韻律とが、一首を低囘から牽き立ててゐる。

    *

  愕然と干潟照りをり目つむりてまづしき惡をたくらみゐしが
  水に卵うむ蜉蝣(かげろふ)よわれにまだ惡なさむための半生がある
  われの戰後の伴侶の一つ陰險に内部にしづくする洋傘(かうもり)も
  まづしくて薔薇に貝殻蟲がわき時經てほろび去るまでを見き
  賣るべきイエスわれにあらねば狐色の毛布にふかく沒して眠る
  ジャン・コクトーに肖たる自轉車乘りが負けある冬の日の競輪終る
  娶りちかき漁夫のこころに暗礁をふかく祕めたる錆色の沖
  硝子工くちびる荒れて吹く壜に音樂のごとこもれる氣泡
  腐敗ちかきレモンに煮湯そそぎつつ親しもよ輕騎兵ジュリアン
  道化師と道化師の妻 鐵漿色(かねいろ)の果(み)をへだてて眠る
  血紅(けつこう)の魚卵に鹽のきらめける眞夜にして胸に消ゆる裝飾樂句(カデンツア)

『裝飾樂句』


 『裝飾樂句』(カデンツア)創作期の作品に後に纏められた『驟雨修辭學』(昭和四十九年・大和書房刋)があり、いづれ甲乙つけ難き絕唱が竝ぶ。

    *

  日本脫出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも
  暗渠詰まりしかば春曉を奉仕せり噴泉(ラ・フオンテーヌ)・La Fontaine
  わが過去にすさまじきものはこびきて豪雨の中にうなだるる馬
  突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼
  世界の終焉(をはり)までにしづけき幾千の夜はあらむ黑き胡麻炒(い)れる母
  われまことに少女らに告ぐ朱夏いたり水苔のみづみづしき不姙
  われよりややつよき運命賜はりし鶸なり灼くる砂の上の屍(し)
  遠き一つの火災鎭めて今われにきたる猖猖緋の消防車
  桃太郞の眞紅の繪本ころがれる夜の疊、そこに時閒(とき)の斷涯(きりぎし)
  ロミオ洋品店春服の靑年像下半身無し***さらば靑春
  さむき睡りの中むらさきのほろほろ鳥(てう)小走りにさきの世の家族達
  不運つづく隣家がこよひ窓あけて眞緋(まひ)なまなまと耀(て)る雛の段
  ほほゑみさそふばかり安けくわがうちの古典の死、箱に光る鮎の屍(し)

『日本人霊歌』


 『日本人霊歌』一九五八(昭和三十三年)の制作年月は一九五六年夏から五八年夏への二年閒。作者三十六歲から三十八歲に當る。
 前作『裝飾樂句』を繼いで塚本獨自の社會性短歌のひとつの極みを遂げる。集中の作品群としては、表題作「日本人靈歌」全五十首に塚本にしてかなり直截的な表現が目立つ。この時何が起こつたのか。一九五六(昭和三十一年)十月、ハンガリー動亂勃發。ソ連邦によるハンガリー民主化の彈壓。スターリニズムの介入である。塚本は逸早く反應する。

  赤き菊の荷夜明けの市(いち)にほどかるる今、死に瀕しゐむハンガリア
  髮けむらせ繩跳ぶ少女 ハンガリア少女と遠く恐怖を頒(わか)ち
  運河、今朝油の蒼き膜にうつりハンガリア靑年の炎の眼
  ハンガリアのそののち知らず 怫然と若き蠺豆(そらまめ)煮をりコックは


 卷中、ハンガリアに言及した四首全てを擧げてみた。ここら邊りが塚本の社會性の極點ではないだらうか。ハンガリー動亂の日本思想界、文學界に及ぼした影響はその後の言動の分岐點ともなる。黑田寛一がこのスターリニズム糾彈の烽火を擧げた。埴谷雄高は反スターリニズムの行動原理の確立へ。
 一方、「ロミオ洋品店」にて靑春との訣別を果たし、靑年晩期と、壯年意識の濃厚な潤色、そして老年を見据える眼差しが交叉してゐる。

  靑年期疾(と)く過ぎゆくと汗ばみて見る灰綠(くわいりよく)のピカソの牧羊神(フオーヌ)
  老いは目くらむばかりのかなしみとおもふ暗がりに靑梅嚙む父よ
  はつなつのゆふべひたひを光らせて保險屋が遠き死を賣りにくる
  壯時(さかり)過ぎむとして遇ふ眞夏、手のとどく其處に血溜りのごとき日溜り
  冬の堅果(けんくわ)のごとき老年われは欲りここに黑き繪のフレンチ・カンカン


 無論、塚本が告發する日本の狀況と内部の情況とは次の一首のやうに異なる。

  われの危機、日本の危機とくひちがへども甘し内耳のごとき貝肉

 ゆゑにとはあまりに結論を急ぎすぎるだらうか。現狀からの、また自己の時閒の檻からの脫出願望は、卷頭一首(「日本脫出したし」)に象徴されるやうに全編を通じて通奏低音を奏でる。

  人無き埠頭にて極地への脫出の荷の中の周りやまざるミシン
  少女死するまで炎天の繩跳びのみづからの圓駈けぬけられぬ
  脫出ねがふわれをおほひて洋傘(かうもり)のうちがはのいたましき骨組
  檻に頰すりつけて火喰鳥見つつつひに空白の出日本記(しゆつにつぽんき)


    *

  燻製卵はるけき火事の香にみちて母がわれ生みたること恕(ゆる)す
  眼科醫、眼科醫と邂ひしかば空港のあかつきあかねさす水晶體
  菖蒲(あやめ)みのりてそのむなしき果(み)群るる季(とき)むらさきふかしわが嗜眠症(レタルギア)
  夏至の海くらくらとして過去よりの金靑(こんじやう)ぞ 溺死したるShelleyに
  おとろへて坐す黃昏(くわうこん)をコルシカの戀唄赤き針零(ふ)るごとし
  さらばみじかき夏の光りよ理髮師にわが禁慾の髮刈らすべく
  復活祭に往け 汝(な)がために縞蛇のたまごとおそるべき藍の天
  カナリア諸島地圖の旱りの海に泛(う)きわれかつて嬰兒(みどりご)をいだかず
  くちなしの實煮る妹よ鏖殺(あうさつ)ののちに來む世のはつなつのため
  曲馬團 死の前(さき)の夜のまなぶたの天幕に馬の影もつれつつ
  一束(ひとたば)の獨活(うど)ほどかれて胸を刺す香よ エルシノアのホレイショへ
  萬綠の中游ぐかにかへりきてここに左右の頰毆たるる愛
  抒情詩もて母鎭めむにあたらしき鋸の齒のかたみに反(そむ)く

『水銀傳說』


 『水銀傳說』一九六一(昭和三十六年)の山巓は、岡井隆をして「壯烈な失敗作」と嘆かしめたと云ふ表題作、ランボーとヴェルレーヌとの交感(コレスポンデンス)を、その愛憎劇として描いた百首に極まるか。先の『日本人靈歌』で飽和點に到達した塚本の短歌リアリズムが、脫出、さらなる飛躍を期しての兆戰であつた。Rimbaudに寄すとして五十首、Verlaineに寄すとして五十首の計百首。ふたりの現實的交歡を遙かに、その彼方の短歌詩形へと思ひを馳せ、中空に新しき韻文を刻む。この件り、碩學壽岳文章の「『水銀傳說』を読む」に委細が盡されてゐる。

    水銀傳說
     Rimbaudに寄す
  娶らざりしイエスを切に嘉しつつかなた葎の夭(わか)き蝮ら
  人を惡(にく)みて罪愛すれば山中に山火事のあとかぐはしきかな
  縊(くび)れし雉子(きじ)とわれらの前世紫金なしうつるスミルナの寺院(てら)の鏡よ
  にくしみもてこのにくしみをささへむと馬蹄型磁石なし寢るわれら
  印度大麻劑(ハシツシユ)のみて氷河の紅き花見むと髮燒けり幼妻の髮
  屍(し)は見ざれども暑き日をありありと哀れアルチュールが禾(のぎ)なす髮よ
    Verlaineに寄す
  こよひ巴里に蒼き霜ふり睡らざる惡童ランボーの惡の眼澄めり
  橘に靑銅の果(み)はきざしつつ死後のくにの夏のはじめ
  低くして眠る頭熱(づあつ)し 足の方はるか西域の彷徨(さまよ)ふみづうみ
  われ擊ちそこなひし拳銃 漆黑の蘂もつ花のごとく墜ちたり
  燠色(おきいろ)の夜の鷄頭にからだ觸れ立てりわれまた死の國の火夫
  一月十日 藍色に晴れヴェルレーヌの埋葬費用九百フラン


   *

  雉食へばましてしのばゆ再(ま)た娶りあかあかと冬も半裸のピカソ
  蕗煮つめたましひの贄(にへ)つくる妻、婚姻ののち千一夜經(へ)つ
  鵞鳥卵つめたしガルガンチュアの母生みしパパイヨ國の五月雨
  坐して針賣る老婆ここより西方へ千里タシケントは麵麭の町
  ギムナジウムと花屋のあはひ泥濘の屬領も昧爽(よあけ)までに亡ぶ
  揚雲雀そのかみ支那に耳斬りの刑ありてこの群靑の午(ひる)
  婚姻のいま世界には數知れぬ魔のゆふぐれを葱刈る農夫
  姦淫は母もつことにはじまりて酢の底となる皿の繪の鳥
  土曜日の父よ枇杷食ひハルーン・アル・ラシッドのその濡るる口髭
  ピレネー山脈戀ひて家出づ心臟のあたりわづかに紅き影曳き
  金婚は死後めぐり來む朴(ほほ)の花絕唱のごと蘂そそりたち
  ヴィヨン詩集瀕死の母のたをやかに鋭揚音記號(アクサン・テギユ)の楔形(けつけい)の棘

『綠色硏究』


 『綠色硏究』一九六五(昭和四十年)を語るのに變則的ながら、先づその著者の手による裝幀から愛でたい、と書き出して大いに悔しきことながら、この一册を所持してゐないのだ。つまり二十歲のころに入手した(正確な入手日は分からない)『感幻樂』以前の單行歌集の悉くを所有してゐない。さらに欲しさは彌增す。外凾の黑地に各色を配した章題の漢字レイアウトが絕妙で、まさしくこのデザインが塚本美學の象徴でもあり、歌集レイアウトとしては屈指の出來映えと言つてよい。このころより、なほ一層超絶技巧の名に恥ぢない古典格の作品が頻出し、村上一郞の「『綠色硏究』ノオト」によれば、「私には、塚本の歌を、モダニズムだとか、前衛短歌だとかいう人たちに、塚本の『最高の古典新古今和歌集』からの、(中略)ことばのつなぎに生れる連想の系譜を汲みとってもらいたいと希望する」と云ふことになる。

    *

  固きカラーに擦れし咽喉輪のくれなゐのさらばとは永久(とは)に男のことば
  雨の薊棘こまやかにひかりゐつ愛は創まらむとしてたゆたふに
  睡りの中に壯年(さかり)すぎつつはつなつのひかりは豹のごとわれを嚙む
  わが掌(て)のうちに螢は死して光りをりああ樹樹はその綠に倣ふ
  蚊の卵こころに顯ちてうすあかきベネディクタスのうすいたがらす
  睡れをとめらよ燈黃(たうくわう)の縞曳きて星隕つ おつるまで熟れしかな
  わがいだく寒卵うち赤からばピアノつくりしクリストフォリに
  言葉、靑葉のごとし かたみに潛然と濡れて世界の夕暮れに遇ふ
  わが愛のかたへに立ちて馬の目のこほる紫水晶體よ
  孔雀の屍(し)はこび去られし檻の秋のここに流さざりしわが血あり
  繭ごもる少女のために火の秋のバッハ平均率ピアノ曲集
  わが修羅のかなた曇れる水のうへに紅き頭韻の花ひらく蓮
  ほほゑみに肖てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一臺
  いもうとはつきくさの血につながるときのふ知りたること今朝おぼろ
  一人(いちにん)の刺客を措きてえらぶべき愛なくば 水の底の椿
  靑燕攣(つ)れつつ翔べば夢の世に井戶掘る邑をわれは過ぎしか
  瞋(いか)りこそこの世に遺す花としてたてがみに夜の霜ふれるかな
  秋は身の眞央(まなか)を水の奔りつつ弟切草(おとぎりさう)の黃のけふかぎり

『感幻樂』


 永らく塚本短歌の最高峰を『全歌集』直後の第七歌集『星餐圖』一九七一(昭和四十六年)と踏んできた。成熟と腐亂が綯交ぜに極みを爲し、叙情は内に微熱がごとく籠る。前歌集『感幻樂』を晴とすれば、まさしく表裏なす褻の一册である。久しぶりに讀み返してみて、はたして私の眼は曇つてゐたのであらうか。いまは閒違ひなく『感幻樂』一卷を、中でも「中・近世歌謠群の綠野を彷徨した」(『感幻樂』跋)隆達節によせる初七調組唄風カンタータとの副題をもつ「花曜」四十首と、憑かれたる帝王への頌歌として、後鳥羽院とネロに獻じられた「幻視繪雙六」計六十首のうち、特に前半の「菊花篇」三十首を塚本短歌の最高峰と斷じて惜しまない。

  花曜
    壹の章 むらあやでこもひよこたま
  いざ二人寢む早瀨の砂のさらさらにあとなきこころごころの淺葱
  おおはるかなる沖には雪のふるものを胡椒こぼれしあかときの皿
  雪はまひるの眉かざらむにひとが傘さすならわれも傘をささうよ
  きららきさらぎたれかは斬らむわが武者(むさ)の紺の狩襖(かりあを)はた戀のみち
  つね戀するはそらなる月とあげひばり 柊 ひとでなし 一節切(ひとよぎり)
  雪の上來しあたら長脛さやさやと杉の香はなつなれ好色漢(すきをとこ)
    貮の章 きづかさやよせさにしざひもお
  空蟬のうちに香もなきかなしみの充つるを天にむけし繪ひがさ
  まをとめの鈴蟲飼ふはひる月のひるがほの上(へ)にあるよりあはれ
  空色のかたびらあれは人買ひの買ひそこねたるははのぬけがら
  山どりの紺の風切羽(かぜきり)きみなくばやすらけく風の夜を寢みだれむ
  螢惑星(けいこくせい)を水に隕とせし誰がうたぞわれよりこゑ淸きほととぎす
  馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人戀はば人あやむるこころ
  籠(こ)には眠らふ雉子(きぎす)の卵いつの日かかへらなむ霜月のまぐはひ
  晝、抱擁の腕(かひな)ゆるめよ樹樹の閒ゆあらあらと放鷹樂(はうようがく)湧きくるを

    幻視繪雙六 
     Ⅰ 菊花變 後鳥羽院に寄す
  修羅はつなつの紺 ほととぎすあけぼのを逐ひわれは黃昏を怖れつ
  梔子一白(くちなしいつぱく) 死するをとこの目の二黑(じこく) ことば裂かるるとも肉觸れむ
  水無瀨瑠璃 熊野藍靑(らんじやう) 三碧(さんぺき)のあまれる隱岐に水脈(みを)奔るかな
  愛は終焉(をはり) 辛夷(こぶし)の空を橫裂きに雲雀翔つ世のほかなる時へ
  六白の雪をおもへばかまくらの沖うすずみの波の上の菊
  こころざし風の山査子(さんざし)花荒れて髮刈ればわがつむり新墾(にひばり)
  酢藏風花(すぐらかざはな)にはかにやみし催馬樂(さいばら)のをはりのこゑの死ねとひびきし
  心ほそるばかりに馬は麥食むを到りがたしわが詩歌の奈落



 この『全歌集』については忘れ得ぬふたつの插話(エピソード)がある。『全歌集』の監修校訂は須永朝彥氏が擔當した。漸くに一本が成り、氏曰く「校正には細心の注意を拂つたが、たつた一箇所、誤植が見つかつた」。
 聞けば、處女歌集『水葬物語』卷頭の、ランボーの佛文引用詩の冒頭部分に發音記號(アクサンテギュ)が重複してゐたとか。確かに「……私はありとある祭を、勝利を、劇を創つた……」に相當する「J、ai créé toutes les fête、……」の發音記號が重複してゐる。その時の須永氏の悔しさうな顏付き……。
 もうひとつの插話は詩人吉岡實との出會ひでもあつた。當時、東大安田講堂をめぐる官憲との攻防戰以後、學生運動は徐々に退潮の兆しがあつた。それ以前、私が通つてゐた母校でも、學内の民主化運動に端を發し、やがて産學共同路線粉碎から一氣に政治的スケヂュール鬪爭へと雪崩れ込んで行つた。だが、元よりノン・ポリティカル、政治意識の極めて希薄な非政治少年であつたから、バリケードスト突入からの長期休講は、幸ひなことにわが詩の季節の到來でもあつたのだ。時折しも、思潮社から『田村隆一詩集』を皮切りに「現代詩文庫」の刋行が始まる。續刋は谷川雁、岩田宏、清岡卓行、黒田喜夫、吉本隆明、鮎川信夫、飯島耕一等々。第1卷の『田村隆一詩集』に一九六八年一月一日第一刷の奧付があるが、第11卷の『天沢退二郎詩集』が同年七月一日、『吉岡実詩集』(第14卷)が同九月一日。全卷を所有してゐるわけではないので、若干の異同はあるだらうが、第18卷の『長谷川龍生詩集』は翌一九六九年一月七日の發行となつてゐる。因みに第30卷が『岡田隆彥詩集』で一九七〇年二月一日の發行。驚くべきハイペースで詩の季節が釀成されてゐた。列島に戰後詩・現代詩の旋風が卷起こつたと言つても過言ではない。どれも是も嬉しい限りの内容だが、シリーズ中、わが最高の一書といへば一九七一年刋の第45卷、『加藤郁乎詩集』を措いて他にはない。刋行時の全句集、全詩集でこれでたつたの三百二十圓。ここまで當初より定價は變つてゐない。非政治少年が遲ればせながら詩の季節を迎へてゐた。と同時に、いまも變はらず欲しいものに限りはない。食慾よりも性慾よりも言へば睡眠欲、そしてそれらを遙かに凌駕するかの物神崇拜。先の塚本索引もひとつの引き鐵であつたやも知れぬ。
 御茶ノ水驛の御茶ノ水橋口から明大通りを駿河臺下へ、途中、明治大學を經て右折、山の上(ヒルトップ)ホテルの前の小路を錦華公園へ下ると、その公園の裏手に淸水なんとか堂といふ文具店があつた。二階がなんとも不思議な構造で、室内を廻る圓形のバルコニーを圍んで三部屋の貸閒があつた。その一室があの傳說の漫畫雜誌ガロの發行元、青林堂の編集室であつた。創始者の長井勝一氏も健在で、ある朝「おい、御餅が燒けたよ」と、ご相伴に與つたことも。その隣室がわがアルバイト先の「荒魂書店」。この命名には石川淳のアナキスト群像を描いた長編「荒魂」が寄與してゐるとか、ゐないとか。
 神保町の古書街メインストリートからは大分奧まつた古本屋のアルバイトに、なぜ納まつたかについてはほとんど記憶がない。ただここの御店主についてはよく憶えてゐる。僅か二、三歳年上の店主I氏は、もともと駿河臺下の交差點を渡り切つた正面の三茶書房のいはゆる丁稚上り。二十代前半で獨立、件の店舗を起ち上げたが、當時「平凡パンチ」にも採り上げられたいはば古書店界の革命兒。轉じて後年アイドル寫眞集のブームを先驅けた。常客に發禁本の大家、城市郞氏。たびたびの寄り道で恐縮ながら、この城さんにも忘れ難き思ひ出が。――城さんが當店より高柳重信の『黑彌撒』をお購ひ上げ。この『黑彌撒』は昭和三十一年、楠本憲吉の琅玕洞による出版で、『蕗子』『伯爵領』に續く未刋の『罪囚植民地』を收め、「それまで二行から十数行まで様々に試みられていた多行形式が、ここで空白を含む四行へ収斂された句集」(澤好摩「高柳重信著書解題」『高柳重信読本』所收)としてその後の高柳重信の方向性、方法論を決定づけた重要な句集である。おそらく城さんからの以前よりの依賴か、店主の推薦品か。入手とほぼ同時に城さんの手に渡つた。しばらく店頭(正しくは店内)のガラスケースに收まつてゐたものなれば、早速、店番の閑に飽かせて、とつとと筆寫しやうものを。後日再來の折り、城さんを捕まへて『黑彌撒』の中身について執拗なほどにお尋ねしたところ、まるで鳩が鐵砲玉を喰らつたがごとき顏つき。城さんお歸へりののち、店主より「城さんに本の中身を聞いちや駄目だよ!!」。この意味が判るまでしばらくの時閒と幾許かの古本代を費やした。
 さうさう何を聞きつけてか、ある日突然、中井英夫が現れた。寺山修司が往時の『短歌硏究』第二囘新人賞に應募した「チェホフ祭」のモノローグは實は、ジュリアン・ソレルのそれであつた、と挨拶代はりの取つて置きの逸話を披露。天沢退二郎も中上哲夫も來た。
 話を戾さう。ある晝下がり、吉岡實がやつて來た。勤め先の筑摩書房は神田小川町、晝休みにひよつこり、、、、、と步いて來られた。出版されて閒もなくの『塚本邦雄全歌集』を求めに來たのだ。當店扱ひは、いはゆる新刋特價といふやつで、版元より定價の八掛けで仕入れた新刋を一割引きで販賣。名目は飽くまで古書販賣。察するところ、吉岡さんは著者塚本邦雄よりの獻呈寄贈を當て込んでゐたと思しい。しかしながらいつまで經つても肝心の書物は屆かない。さすがに痺れを切らして當店へと云つた次第か。噂に違はぬダンディぶりで誰かの人物評の、小柄で淺黑く、猛禽類を思はせるギョロ付いた目つき、と書くとまるで惡相となるが、その眼光からは明らかに詩人の慈愛が感じられた。オーダーメイドと思はれる背廣の上下に、やや太めの紺のストライプシャツ。吉岡さんが煙草を所望された。たまたま下の大家の文房具店が、煙草も商つてゐる。喜んで階下へ使ひ走りを買つて出る。銘柄は新生。この嗜好もまさに先の「詩文庫」で、高橋睦郎氏の「吉岡実氏に76の質問」に答えた方向性に合致。――たうたう西脇順三郎にも永田耕衣にも、生涯相見(まみ)えること叶はなかつたが、たつたそれも一度きり、吉岡實とほんの言葉を交はしたことは、大切な思ひ出となつてゐる。
 話はさらに遡るが、塚本書籍とのそもそもの不思議な廻り合ひにも、出遭ひの絕景ならぬ逆さ覗きの絡繰りが潛んでゐたのではと思ふことがある。早稻田古書店街に「文献堂」なる小さな古本屋があり、昔の閒尺にいささか不案内だが、差當り閒口三閒、奧行きもほぼ同樣で、昔時のことながら、冷暖房とて無く、一年を通して通りの扉は開けつ放し。錢湯の番臺よろしくいつも氣の弱さうな亭主が鎭座坐しましてゐる。中央を仕切る棚の右半分は、新左翼系の機關紙、理論書の類ひ。左半分が文系圖書で、僅かながら滅多にお目に掛かれない詩集、歌集が置かれてゐた。なぜか句集の類ひは記憶にない。その棚の一番上の左隅に塚本邦雄歌集『感幻樂』を發見した。「壯年のなみだはみだりがはしきを酢の壜のたてひとすぢのきず」一首揮毫入り。實に見事な細字サインペンによる流麗なる筆跡。ここでもわが未來は、壯年のみだりがはしきなみだを以て封じられてゐる。いかに惡筆の筆者と云へども一瞬目が釘付けとなり溜息が出る。無論その時まで、この一書の存在すら知らなかつたわけで、むしろ先方からわれを發見されたやうなもの。實の不思議はここからで、昭和四十四年九月九日、重陽の節句の日付で刋行された一册の定價は一二〇〇圓。いまでも裏の見返しに當時の鉛筆書きの値付けが殘つてゐるが、賣價は一八〇〇圓。旣に算術的魔境に入り込んでゐたものか、これを定價二〇〇〇圓の一割引きと單純に勘違ひしてしまつたのだ。實際は定價の五割增し。小學生でも分からうものを、しかしこの誤認がなければその後、限定本やごく少數の刋行物を除いて、市販の塚本本の大半を所有する端緖とはならなかつた。この倒錯的邂逅に感謝と云つたところで今囘は幕(ちよん)。

短歌時評135回 汎化と特化:「短歌とポピュラリティ」を考える 浅野大輝

2018-08-02 09:17:50 | 短歌時評

I

 平成最後の夏が来た。いつだって夏は一回きりの夏のはずだが、「平成最後の」という形容にはどうしたって時間の重みを感じとってしまうもので不思議である。
 そんな夏の暑さのなか、短歌界隈にも平成という時間を振り返り、総括するような企画が目立ってきている。角川「短歌」2018年7月号の論考特集「短歌とポピュラリティ(前編)」はそのなかにあって多少異質だが、しかしそのテーマは平成を語るものとして避けては通れない、重要な視座であるだろう。


 だが、こうも言えるのではないか。そもそも「短歌」と「ポピュラリティ」とは、相容れない、あるいは親和性の必ずしも大きくはないもの同士なのではなかったか、と。自作の短歌を公にするに当たって歌人は、ポピュラリティを求めるべきではない、少なくともそれを第一の目標とすべきではないだろう。もし求めるとしてもそれは、現時点における束の間のポピュラリティではなく、未来における永遠性を孕んだポピュラリティであるべきだ。おそらくこれは、あらゆる文学ジャンルについて、いや全ての藝術について言える、創作行為に携わる者に普遍的な在り方なのではないだろうか。
石井辰彦「ポピュラリティという名の不名誉」[1]


 石井は若い世代の歌人たちの作品や歌集が手軽に読めるようになった現代に、短歌のポピュラリティの獲得を見出し、「喜ぶべきこと」と素直に賞賛する。しかしその一方で、時流にのって広まる短歌作品の質については「これら今を時めく作品群が『文学』と呼んでもよい水準にあるものかどうか、取り敢えずは疑問である」と苦言を呈する。上の引用は、そのあとに続く一連である。
 「文学」というなにものかをヒエラルキーの高みに据え、それに到達するためのスタンスを「こうあるべき」として提示する論調には反発を覚えないこともない。ただ、そこはいわば現代や若い世代に対する一種のポーズであって、論の本質ではないだろう。論の後半ではプルーストを引き合いに出しながら、「同時代の読者の多くに理解される望みは棄て、稀有な精神を持つに至るであろう未来の読者に望みを託すほかはない。天才に恵まれた歌人とは、そうした存在だと覚悟すべきなのである」と石井は語っている。あくまでも、石井の論点は「未来における永遠性を孕んだポピュラリティ」にあるのである。ここには、作品は時間を超えて届くのだ、そのために作者としてやれることがもっとあるんじゃないのか、という創作者への檄があるように思う。時間を超えて届く作品を目指すという姿勢には、共感を覚える人も多いのではないか。
 他方、現在の時点におけるポピュラリティを退けながら、未来におけるポピュラリティを求めるという部分に、なんとなく屈折したものを感じてしまう。もちろん、「現時点における束の間のポピュラリティ」という共時的な読者獲得と、「未来における永遠性を孕んだポピュラリティ」という通時的な読者獲得には、明らかな性質の違いがある。ただ、読者を獲得したいという作者の願いが見える点においては、両者は同質であろう。「いまの時代にそんなわかってもらえなくともいいんだ」と語りつつ、「でも、きっとこの先わかってくれる人が一定数いるはずなんだよ」とも願っている。そう読めてしまうこともあって、わかるなあと共感する反面、屈折してるなあとも思う。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
/石川啄木『一握の砂』

 近代歌人のなかでもっとも愛誦歌の多い歌人はと尋ねられれば、誰もが迷うことなく啄木と答えるだろう。(中略)
 青春の感傷性が現在の目から見るとやや過剰な所作とともに詠われている。(中略)しかし、一歩引いて考えれば、ある種の愛誦性を獲得するためには、このような過剰なまでに人々の心にベタに訴えかけるような俗世が必要なのかもしれない。
 総じて、啄木はいわゆる専門家人からの評価は低い傾向があるが、それはこのような過剰な表現が、世間一般に受け入れられすぎているところに起因するのかもしれない。しかし、歌は人口に膾炙して、いつも口ずさまれるような一般性を持っていないと、後世に残っていかないことも事実なのである。あまりにも芸術的、文学性が高くて、一部の人々にしか理解されないといった作品は、多くの場合、時代を越えて生き残る確率が低いと言わざるを得ない。むずかしい問題である。


永田和宏『近代短歌』(岩波書店、2013年)


 ポピュラリティを得ることと、作品における俗をはなれた質を確保することの両立、という話を聞くと、上に引いた永田和宏の言を思い出す。永田は啄木を愛誦性のある作品を多く残した稀有な歌人と評価しつつも、その過剰性やある種の俗っぽさを指摘する。啄木の作品は他にも多く取り上げられているが、こうした苦々しさを感じる言及は他の作品についても見られ、例えば「たはむれに母を背負ひて/そのあまり軽きに泣きて/三歩あゆまず」については「同業者としては、本当はこの一歩手前で表現を抑制して欲しかった」と述べる。評価しつつ、でもちょっと俗っぽいよね、と苦言を文章化してしまいたくなる気持ちは共感してしまうところもあるが、でもよく考えるとこの感覚はなんなのだろう。何かしらの形で読まれたい、だからといって大衆に俗っぽく迎合したくはない。わかってもらいたい、けれどわかってもらいたくない、そんな微妙なゆれうごきが、歌人という存在のなかには蠢いているかもしれない。
 論考特集「短歌とポピュラリティ」は、すでにその後編が角川「短歌」2018年8月号に掲載されている。様々な歌人が行うポピュラリティへの考察を、ぜひ読んで欲しい。



 ところで、「短歌とポピュラリティ」は、短歌作品が一定のポピュラリティを獲得しうるということには触れるものの、短歌作品と同様に短歌の世界の少なからぬ部分を担っている短歌評論については、ほとんどそのポピュラリティを検討していない。テーマ設定も影響しているのだろうと思うが、少しもったいないような気がする。
 短歌評論におけるポピュラリティとは、どのようなものになるだろう。
 ポピュラリティという語を、例えば『大辞林』に従って「世に広く知られていること」と取ってみる。評論にとってどこまでが「世」なのかは様々な捉え方があるとは思うが、評論の読者が一般的にはその批評対象に関心がある者であることを鑑みるなら、ひとまずは批評対象に関わる界隈を評論にとっての「世」とみても、不自然ではないだろう。そう考えると、評論にとってのポピュラリティとは、批評対象に関係する界隈における評論の認知度・知名度ということになるように思われる。つまり、批評対象を扱う分野で知られたり、利用・引用されたりすることが増えれば増えるほど、評論はポピュラリティを獲得できたということができるのではないか。これは学術的な論文の影響力が、その論文の引用件数の多さで語られることがあるのと似ているかもしれない。
 このような意味でのポピュラリティを短歌評論は獲得しうるだろうか。いくつかの例を考えてみるなら、ポピュラリティは獲得できる、というのが答えになると私は感じる。


 レベル①「私」…一首の背後に感じられる「私」(=「視点の定点」「作中主体」)
 レベル②「私」…連作・歌集の背後に感じられる「私」(=「私像」)
 レベル③「私」…現実の生を生きる生身の「私」(=「作者」)


 普段曖昧に用いられている「私」という言葉をこのように三つの「私」に区別し、定義し直してみると、読者の「読み」の枠組の分析が容易になってくるだろう。

大辻隆弘「三つの『私』——近代短歌の範型」[2]


 例えば上に挙げた大辻の「私」のモデル化は、近年様々な批評・評論において引用・利用されている。原文を読んだことがなくとも、別の評論中でこの大辻の考えを読んだことがある、という人も多いのではないか。そう考えると、これはひとつの評論(正確には、その発想の一部)がポピュラリティを獲得しえている状況と言って良いように思われる。
 現代においても多く参照される評論というなら、他にも数多く例を挙げることができる。いまぱっと思いつくものであれば、穂村弘「〈わがまま〉について」(角川「短歌」1998年9月号)、小池光「句の溶接技術」(「短歌人」1981年7月号)、永田和宏「『問』と『答』の合わせ鏡I」(角川「短歌」1977年10月号)、岡井隆・金子兜太『短詩型文学論』(紀伊国屋書店、1963年)など。釈迢空の一連の女歌論や、斎藤茂吉「短歌に於ける写生の説」(「アララギ」1920年)、正岡子規「歌よみに与ふる書」(「日本」1898年)や、さらに遡って紀貫之「古今和歌集仮名序」もそうだろう。原文を読んでいなくとも、そのなかのフレーズや考え方などを別の文献を通して知っているということは非常に多い。これも一つのポピュラリティであると言えるだろう。
 これら評論がポピュラリティを獲得しているのはなぜか。少し考えてみると、これらはそれぞれ全く違う内容について論じていながら、ある共通の性質を持つことに気がつく。その性質とは、短歌の議論における汎用性である。つまりこのそれぞれの論には、短歌に向かう際の思考の枠組みを提供する部分がある。それが多くの論者にとって活用に耐えうるものであったがために、結果としてポピュラリティを獲得しえたのではないか。
 例として、もう一度大辻の「三つの『私』」を見返してみる。この「私」の分類は、時折指摘されるように大まかなものであってそのまま適用可能なものではないかもしれない。ただ、多くの人にこの「私」の分類が利用可能なのは、その大まかさや抽象性の高さによってこそなのではないだろうか。大まかに捉えているが故に、個別の事象の細やかさについて掬い上げることができないことはある。ただし、大まかに捉えているが故に、細やかな部分については、これを利用する各論者が自身の判断でさらにチューニングして利用することもできる。思考の枠組みの一つとして大辻の論があり、他の論者はそれを各自チューニングして活用することで、自身の論を構築しやすくなったのではないか。
 上に例示した他の論もまた、大辻の論と同様の構造でポピュラリティを得ているように私には思える。フレームワークとしての汎用性の高さが、論のポピュラリティにつながっているのである。
 論理的な思考を展開していくときの基本的なフレームワークとして、一般に演繹法と帰納法がよく挙げられる。演繹法は、何らかの一般的な法則や前提から出発して個別の結論を得る。対して帰納法は、複数の個別の事象から一般的な法則や前提を得る。前者は法則から事象へと特化していく思考であり、後者は事象から法則へと汎化していく思考であると言い換えることができる。この特化と汎化の両方向の動きを繰り返すなかから、汎用性のある理論や、個別の事象に対する細やかな着眼が生まれてくる。そして汎用性ある理論は、その汎用性ゆえに広く活用され、ポピュラリティを獲得し得るのではないか。



 翻って、現在の短歌評論の様相を見回してみる。
 大辻の「三つの『私』」のように、汎用性の高い論は少なからずある。ただ、現代においてそうした汎用性ある評論を生み出すことには、ある困難がつきまとっているように思えてならない。
 例えば、短歌とジェンダーの関わりについて評論を書こうとする。短歌というのもよく分からない大きな括りだが、ジェンダーというのもそのままでは非常に大雑把な括りであろう。一口にジェンダーと言ってみても、内実を見れば様々なジェンダーの視点がある。これらジェンダーの数々の視点を捉え、汎用性あるフレームワークを提供することは可能だろうか?
 あるいは、短歌と労働というテーマで評論を書こうとする。労働といっても、現代においてはその問題とするものが数多く存在する。それら諸問題を統合し、汎用性ある短歌の理論を構築することは可能だろうか?
 これらは決して不可能ではないのかもしれないが、非常に難しい課題となることだろう。一般に汎化すればするほど、その捉え方は大雑把なものになりやすい。汎化には汎化の弊害がある。もちろん、難しいからといって問題を放り出してはいけないのだが、多様性が拡大していく現代において、汎化の弊害は恐ろしい。多様になれば多様になるほど、そのそれぞれの差異を細やかに認識していくことが必要になる。その状況下において、「細やかな差異を見落としうる」という汎化の性質は、大きな抵抗感を持って受け止められるだろう。
 そうした視点で現在の評論を眺めてみる。それぞれの論者が知力を尽くして執筆している論ではあるのだが、必ずしもポピュラリティを獲得しうるような、汎用性あるものばかりではない。むしろ、上記のような汎化の弊害を避けるため、ひたすらに個別の事象の差異を細やかに認識しようとする特化の思考が強いのではないだろうか。それは各人の良識によるものでもあると思うが、本当に特化の思考を中心に据えて大丈夫なのだろうか?
 特化には特化の弊害がある。特化とは、基本的に汎用的であることから逃れていく思考である。それゆえその議論は、非常に限られた人々のみが受容・参加するものになりやすい。いわば議論の島宇宙化を促進する側面があるわけである。この状態で行われる議論は、いずれ袋故事に迷い込んでしまう危険性がある。
 こうした島宇宙化は、別の問題を引き起こすことにもなる。評論は多くの場合、自分が思考し理解するために書かれるだけではなく、他者に自分の思考を受容してもらうためにも書かれる。しかし、特化によって議論が島宇宙化することが進むと、必然的に評論を受容してもらえる機会は減少する。受容されることを求めながら、その受容が満たされないという負の状況に陥る構造がここにはある。この状態は受容されることの価値の高騰など、さらに別の困難を引き起こすことにもなるだろう。
 さもすれば特化重視に大きく偏りそうな多様性の時代ではあるが、多様であるからこそ汎化できる論点を意識的に探すということもまた、大切ではないだろうか。特化しきったものがなにか具体を超えて一般性を帯びるということももちろん考えられるのだが、そこにあるのもまた汎化の働きであろう。汎化するということは、いわば分断を拒否し、多くの人との共通理解を作り上げようとする試みでもある。特化によって対象を注視し、そこで浮かび上がってきたことがらのそれぞれを汎化によって俯瞰する。そのゆれうごきが、いつの時代も新鮮な論を形成する。短歌評論のポピュラリティは、そうした汎化と特化の振動に発生すると、私には思われる。



 汎化と特化という発想で再び短歌作品を眺めてみると、短歌という詩型それ自体が実は汎化と特化のぶつかりあう境界であったかのように見えてくる。
 短歌に特徴的なのは、5・7・5・7・7を基調とする定型の存在である。この定型の存在が短歌を短歌たらしめているが、一方でこの定型以外の部分では、短歌を短歌たらしめているようなルールのようなものが、あまり見当たらない。おまけに、この唯一のルールである定型でさえ、ざっくりと5・7・5・7・7のリズムを想起させるものであれば良い、というくらいの寛容なものである。言葉の拍数によるリズム、それをさらに拡大解釈して捉えていくような機能が定型にはあるが、こうした定型の抽象度の高さが、あらゆる個人の心情や発想を作品化するのに役立っている。定型というものを通して個人が個人を超えていくような、汎化のプロセスが存在しているとも言えるだろう。
 また、短歌作品を読者として読み解き、自身の言葉で語るという場面を考える。作品という汎化された存在を、ある読者の語りに落とし込むというのは、まさに特化のプロセスと呼べる。批評や評論が特化の思考をまといやすいのは、読みという行為自体が特化の方向に向かうものであるからと考えることもできる。
 汎化によって広く人々に伝播していくことを期待しながら、汎化の過程における細やかさの損失に疑問を感じて特化を求めたり、さらにその特化の弊害についてなんとか避けられないかと苦慮したりもする。短歌のポピュラリティを語る際に生じてくる心のゆれ——わかってもらいたい、けれどわかってもらいたくない、そんな微妙な心的振動は、短歌における汎化と特化のせめぎ合いに起因するのではないか。作品にせよ評論にせよ、自身のなかの汎化と特化の振動に対して意識的になることが、単なる共時的なポピュラリティという枠にとどまらない、豊かな作品・評論を生み出していく鍵なのかもしれない。

■註
[1]角川「短歌」2018年7月号・論考特集「短歌とポピュラリティ(前編)」所収
[2]大辻隆弘『近代短歌の範型』所収

■参考文献
[1]石井辰彦「ポピュラリティという名の不名誉」(角川「短歌」2018年7月号・論考特集「短歌とポピュラリティ(前編)」所収)
[2]永田和宏『近代短歌』(岩波書店、2013年)
[3]大辻隆弘『近代短歌の範型』(六花書林、2015年)