「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評「わたくしの消去」について / 「東海歌壇 岡井隆講演」 夏嶋真子(中家菜津子) 

2014-04-03 21:14:46 | 短歌時評
わたくしの消去~「提案前夜」堀合昇平のリアリズムと「あそこ」望月裕二郎のノンセンス/3月30日東海歌壇 岡井隆講演会

 強力で特異な『私』というあり方は強力で特異であるがゆえに、消え去り見なくなる
『ウィトゲンシュタイン「私」は消去できるか』入不二基義


 昨年、書肆侃侃房から刊行された新鋭短歌シリーズ(本シリーズの概略と歌集出版の現在については、「時評第108回歌集出版の多様化~新鋭短歌シリーズ出版記念会で浮き彫りになったこと~山崎聡子」ぜひとも参照してほしい。)は筆者たちの活躍するフィールドがバラエティーに富んでいる。結社、同人誌、ネット投稿型フリーペーパー、学生短歌会(出身)など多岐に渡りそれぞれが強い個性を打ち出す。これまでの伝統的な短歌の場であった結社と、それ以外の場に所属することで作品そのものへ影響は強く表れるのだろうか。12冊を通読してそんな疑問が湧き、全く正反対の性質を持つ2冊の歌集が一冊は結社、もう一冊は学生短歌会出身で同人を活躍の場にする作者であることに気付いた。

 行間を読まねば読めぬ陽に焼けた手順書だったぺらぺらだった
 サワヤカナアサノクウキヲスイコンデラジオタイソウダイイチハジメ
 譲れない思いなどではないことを議論の最中気づくのでした
 反骨者(パンクス)のようにフロアを歩こうよネクタイ首に巻きつけながら
 失注の予感をぬぐう旋律を奏でて永久にあれシド・ヴィシャス
 一礼を終えて見上げた冬空に飛行機雲の交差するまで
 翳りゆく夏の路肩に置き去りのペットボトルに異国の水は
 剃刀の記憶のままにあてがえば微かに沁みる左の頬は
 市場にはデッキブラシの音だけが響いてふいに夏の気配が
 いっかいてーんにかいてーんさんかいてーんといいながら半回転をつづけるむすめ

堀合昇平『提案前夜』



 堀合氏の歌を十首読んだだけで、ネクタイを締め髭をそり、手順書や議論や失注に奔走するサラリーマンの姿がくっきりと浮び上がってくる。詩人の山田亮太氏は現代詩手帖2013年9月号で「歌を作ることと生活することとの幸福な連帯がここにある。優れたドキュメンタリー歌集だ」と評している。また、解説に加藤治郎氏はこのように書いている。

 今日この現実に生きて居る人間自体を、そのままに打ち出し得る歌」を「新しい歌」と近藤芳実が規定したのは一九四七年のことである。「この現実」とは何か。「そのまま」とはどういうことか。現代短歌はこのマニフェストに十分応えただろうか。(中略)
 未来すなわちリアリズムの磁場に堀合が引き寄せられたことは偶然とは思えない。そして、そのことを自覚したところからこの歌集は始まっているのである。


 実は、上の十首は秀歌を選んで抜き出したのではない。末尾が0となるページの一首目を機械的に並べたのだ。こうすることで見えるものがある。
例えば一首であれば、或いは連作であれば自分と全く違う者に成りかわって詠むこともできるだろう。しかし、数年、時には十年をかけて歌集は紡がれる。その時間経過を、自分を包み隠さず詩の真っ芯におくことで堀合氏は貫いている。一冊を通して読んだとき彼が歌集中のどの歌でも常に強力にわたくしであるがゆえに、逆に私という領域線が消え去って現代社会を生きるサラリーマンにまで普遍化されているのである。なぜそんなことができるのか。

 採血を待つ間に読めばポジディブにポジティブにあり日経WOMAN
堀合昇平『提案前夜』


 採血を待つ間に日経ウーマンを読んだ。男性が女性誌を読む姿はどこかユーモラスではあるがそれだけではこの歌は詩として成り立たない。「ポジティブに」のリフレインが雑誌の持つ肯定性を強烈に浮かび上がらせ、その影によって自身が否定される。しかし光源は眩くはあるが憧れではない、空疎なポジティブさへの批判精神に現代的な真のユーモアが含まれている。
 無私な観察により事実を「美しく」詠んだとしても、記録の域を脱出することはできない。堀合氏は現実の出来事の中から事実ではなくひとつの詩想とひとつの真実を見つめている、社会へと大きく開かれた目をもって。それを独自の文体で描くことでサラリーマン生活という日常が、詩性の備わったリアリズムへと昇華される。その集積が現代社会へ通じる普遍性をもたらしているのだろう。

 一 方で全く逆の立場をとる歌人として早稲田短歌会出身、同人誌「町」の望月裕二郎氏をあげたい。同じく新鋭短歌シリーズの「あそこ」を読むと作品からは、わたくしが注意深く消し去られている。
 その解説に東直子氏はこう記す。

 短歌が培ってきた肉体的なリアリティーに対する挑戦として言葉の裏をめくり、異空間に繋がる独自の世界を探りつづけているのだ。
 これが短歌なのか?と眉間に皺を寄せる人もいれば、これが短歌なのか!と膝を打つ人もいるだろう。いずれにしても現代短歌に風穴を空ける存在であるに違いない。


 リアリズムに根底に置く短歌よりも、むしろ現代詩に彼の思索との共鳴を感じた。本題からはややそれるが、歌人に馴染みの深い人名が現代詩ではどう書かれているか、吉増剛造氏の詩集「ごろごろ」から引用する。

モーキツ(茂吉)ハ、ク、チ、ブ、エ、ヲ(尾)、フ、イタ、ロー、カシ、ラ、…。
茂吉(モーキツ)ノ、ク、チツ、キ、デ=ク、チブ。エ、……


 この詩集は意味らしい意味を追うことができない。意味が言葉を使役するのではなく、まるで吉増氏の脳内が裏返ってごろごろと言葉の転がる広野を晒しているような圧倒感がある。シニフィエからシニフィアンを剥離して立ち上がってくる彼の内的世界の渦は言葉でありながら意味によらす形象を形象のまま手渡そうとしているかのようだ。望月氏の作品にはこれとは別の方法であるが、言葉に対する純粋な思索がみられる。

 短歌の評ではよく、「わかる、わからない」という言葉が使われる。歌を始めてから非常に驚いたことのひとつだ。一語一語まで厳しく分析して主題を捉えてゆく歌の評の明晰さには感銘を受けたし、詩と比べるとはっきりとした良し悪しの基準があり、わからないということはその歌は不十分なのだ。しかし歌を言語による表現として一つ外側の枠で眺めたときに、一見わからなくても従来の価値観を破り言葉そのものを揺るがすような作品が必ずあるはすだ。

 もう少しわかりやすいところで、みなさんはノンセンス詩というジャンルをご存じだろうか。ルイス・キャロルやマザーグースといえばお分かりになる方も多いだろう。詩の中に高度な押韻や言葉遊びが散りばめられ、明確な意味や主張は持っていない。すいすいと泳ぐような韻律に由来するユーモアがあるのだが、無意味といっても抽象概念や曖昧な情緒ではなく具体的な事柄によって批判性を持ってそれは語られる。

 一切空ちゅうお婆さんがどこかしらにござった。
 豆っちょろのお家に納まり反ってござった。
 そこへ誰だかがぬうと出で、
 くわっと口をあけ、すう、ぱくり。
 お家もお婆さんも一切空。

マザーグース 北原白秋訳



一切空とはNothing-at-allにあてられた訳である。そういう名のお婆さんが誰かに食べられてあとには空が残った。虚無をぱくりと食べて笑い飛ばすことができるのは、それより外側に立つ批判精神ではなかろうか。

 なでさするきもちがいつも電柱でござる自分をあいしてよいか
 繰り返し自分の名前をつぶやけばそれは自分の名前でなくなる
 玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって
 分析というかだまって無意識をみてるだけ(って虫がなくかよ)
 おもうからあるのだそこにわたくしはいないいないばあこれが顔だよ
 <きれいな眼、お母さん似> 羽虫とのキスで始まる春の静けさ
 百万歩ゆずって犬はやめにしようゆずるのに半年はかかるが
 あそこに首があったんだってはねられるまえにふけった思索のうるさい
 吉野家の向いの客が食べ終わりほぼ同じ客がその席につく
 君は本を読まないけれどものすごく美しくレモンティーを注ぐよ

望月裕二郎 「あそこ」

 

 少し乱暴ではあるが、望月氏の作品を私はノンセンス短歌と位置付けたい。日本語で韻律を書き表そうとしたときに短歌はまたとない詩型だ。器は作らなくてもすでにある。望月氏はそこに主体によるリアルな物語ではなく、注意深く言葉のもつ手触りを生かしながら、自己を一つ外側から見た批判精神を注いだのではないだろうか。彼の作品は慣用句や文学作品、短歌的な具体描写や本歌取りのような名言からの引用、様々なものを散りばめることで、読者との共通認識をつくり、その上で意味を言葉から乖離させている。短歌の韻律の上に独特の語調を重ねてユニークなリズムをつくりだし、わたくしの肉感をすっかり消し去ることにより、ノンセンスな言葉の思索の中で存在への疑問をつきつけることができるのだ。そして無意味さや空虚さに諦念や抒情を加えるのではなく、マザーグースの引用の詩のように皮肉めいたユーモアを喚起して批判精神を生み出す。無意味さはけして出鱈目ではないのだ。彼自身は読者にことばを丁寧に手渡している。わかる/わからない/意味/無意味の壁を取り去って、言葉のあてどない世界をあなたは探求できるだろうか。そもそも人の生はあてどないものなのだ。
言葉に植え付けられた意味からの軽やかな離反。「あそこ」はどこにあるのだろうか?タブーのラベルをぺらっと剥がして、捲れた世界にはっきりとした「あそこ」を彼は用意してくれている。

 リアリズムの堀合昇平氏は強力に私を押し出すことで、逆に私という枠を消し去り社会の中へ普遍化した。ノンセンスの望月裕二郎氏は断固として私を消し去ることで、言語の中への私の普遍化を試みたのではないだろうか。二人とも批判精神とユーモアを携えて。

 歌集につていは一区切りして。

 
3月30日に朝日新聞社主催の「東海歌壇 岡井隆講演会」が開かれた。聞き手は加藤治郎氏である。岡井氏は東海歌壇とその前身のあいち歌壇の選者を35年間務め、今春、加藤氏にバトンが渡った。その記念の講演会だ。ここでは講演の中で、この時評の読者であろう若い世代に向けられた岡井氏の発言の趣旨をお伝えしたい。

現在、若い世代の間では短歌を詠み、投稿し、歌会を開き、発行物を発表する場がネットを媒介として様々な形で開かれる。こうした流れは短歌の裾野を広げる上で流行というよりは、もはや欠かせない存在だ。個人個人の繋がりである関係は自由で束縛もないが誰かの企画力に依存する側面も大きい。短歌を継続して学んでいきたいと思った時に結社に入るというのは一つの有効な方法である。
岡井氏はせっかく短歌の情報の宝庫である結社を自分の知識を深めるためになぜ活用しないのかと語り、結社を誰にでも開かれた教育機関と位置付ける。例えば両氏が所属している未来には、毎月の歌の選を受ける以外にも第一線で活躍する歌人も参加する歌会、批評会や新年会、大会など濃厚な学びの場が用意されている。結社は結社誌に歌を載せるためだけの機関では決してないのだ。加藤氏は入会した頃、先輩方の雑談の中に伊藤左千夫、社会性といったキーワードをひろい、家に帰ってそれを勉強したのだという。結社は港のようなもの。自由に暴れていつでも帰ってこられる場所なのだと語る。結社がデータバンクとしてあるいは人と歌、人と人を結ぶ場所として有効であるという点に関して、師弟関係でもある二人の意見は一致した。その絆は強いものがあるようだ。

岡井氏は現在をどう見ているのか。2000年代~の短歌については、革新の気風が失われ、生温いというか穏やかで細やかな歌が多くなったと感想を漏らす。短歌に限らず音楽や文学、あらゆる文化にその傾向がみられる。それは決して悪いことではないが、とやや不満をのぞかせた。前衛短歌の旗手として常に時代をリードしてきた岡井氏が現状を淋しく思うのは当然のことだ。これに対し加藤氏は、現在を多様性と豊かさの時代と返す。それはまさに新鋭短歌シリーズの示すところでもある。私は結社を伝統の場としたが、今が真に多様性の時代であるならば結社で革新を目指すという手もありではないだろうか。

 若い歌人が第一歌集を出しても次がなかなか続かないことがある、一生短歌を続けようという気概をどうしたら持ち続けられるだろうかという岡井氏の投げかけには、加藤氏から個人の表現への欲求にとどまらず、現代短歌というモチーフそのものへの情熱が必要なのではないかという問題提起がなされた。

岡井氏はきっぱりと言う。「短歌詩型とは一体何なのか」そのことを思索していってほしいと。

最後に次の言葉をみなさんにお届けしてこの文を結びたい。東海歌壇の前身であるあいち歌壇の選者となった岡井氏のはじめてのあいさつの言葉である。
講演会の資料としてこの記事を見た岡井氏は過去の自分の言葉が今の自分の指針になることもあると語った。

 旅をしてよその土地へ行くと、なんでもない人の動きや風景が、ひどく新鮮にみえることがあります。短歌のような短い詩の場合、大切なのはそういう小さなものに対する新鮮な心の動きだと思います。いつも新しい気持ちで風景や物や人にむかいあっている。そうするためには、現実を旅するのもいいが例え旅をしなくても心の中で見慣れた家や家族や職場の一隅(ひとすみ)をゆっくりと幻想旅行するのも一つの方法でしょうか。
岡井隆 1979年3月25日朝日新聞あいち歌壇選者のことば

短歌評 有名歌人になりたい――千葉聡『今日の放課後、短歌部へ!』 田中庸介

2014-04-03 00:25:22 | 短歌時評
 角川学芸出版からこのたび青春短歌エッセイ『今日の放課後、短歌部へ!』を上梓した「ちばさと」こと千葉聡さんは1968年9月生まれだから、ぼくと同学年の45歳。枡野浩一さん、飯田有子さん、中沢直人さん、大松達知さん、あるいは吉川宏志さんなどとも、ほぼ同世代の歌人である。ぼくらの世代にはなぜか、実際の歌の表現の地平にたどりつくまでに、二重三重の社会的バリアを突破しなければならない人々が多く、みんなすごく苦労しているように感じる。千葉さんも枡野さんも「歌人である」ということに対する世間の眼を過剰なまでに意識し、「見られる自分」と「見せる自分」との乖離のおもしろさに、その表現の焦点が当たっている。つまり≪世間一般大向こうが「短歌」というものに対してもっている誤った既成観念の打破をしなければ、じぶん(たち)の表現の地平は決して現れてこない≫というメタ的「地ならし」の作業が、彼らのアイデンティティをまず規定しているのだ。
帯文に「熱血”歌人”先生「ちばさと」の奮闘を描いた青春短歌エッセイ!」とある通り、横浜市立戸塚高校の国語科教諭として勤務した五年間のことを、たくさんの引用歌と、新作の短歌連作をはさみながらまとめた一冊である。文学論、世代論、教育論などの要素も豊富にとりまぜたこの作品は、文体が実にいきいきしており、最後まで一気に面白く読ませてもらった。ことに人物描写が巧みであり、全体を流れる教育界の暗くせつないトーンには深く考えさせられる部分も多く、千葉さんが超弩級の散文の名手になりつつあることがよくわかる。
 古典的なアララギ派の考え方からすれば、職業人が自分の人生を「写生」するという透徹した眼にこそ、短歌表現の本質がある。左千夫や茂吉のような酪農家とか精神科医というプロフェッショナルの渋い「職業人」は、だからこそ文学の「偉大なる素人」としての実作者となりうる。千葉さんが身をもってこの構造にアタックするポイントは、やはり彼が生きる「教員歌人」としての日常である。だがそれは、「有名歌人になりたい」という個人的欲望を、生徒の前で素直に告白してしまえるような、マージナルでアナーキーな「自由人」に近い職業なのだ。千葉さんは要するに宮沢賢治のように、何でもやりたいし、何でもできる。国語教科書を執筆し教育界をリードする存在であると同時に、高校では生徒に慕われるお兄さんのような熱血先生であり、そうかと思えば、作家の卵であり、作曲家でもあり、歌人でもあり……。マヨネーズのようにいろいろな仕事をマルチに混ぜちゃう感じが、岡井隆さんが短歌と現代詩と散文を混ぜる感じと一脈通じる、ある種の現代性をかもしだしている。

 一面に風のかたちを抱きしめてすぐに手放す春のプールは    (「光の大河」)

 これは「すぐに」のところに口語的緊張感のある秀歌。「春のプール」というのは、叙景であるとともに、教員としての自分の姿を比喩的に描いたものかと思われるけれども、「風の又三郎」ならぬ「風のかたち」をした生徒たちを、ある年限あずかって「すぐに手放す」しかないやるせなさ、せつなさ。そんなものとともに、学校の春はまためぐってくる。
本書における教員歌人の「ちばさと」は、短歌を教員室の前の掲示板に毎朝書き込んだり、古典の授業で紀貫之の歌に作曲して生徒に合唱させたりと、すごく「熱心」な先生の役割を演じている。けれど、いろいろ気にかかることがつねにあって、教員としても歌人としても、目の前のことに没入したいわゆる「フロー体験」(チクセントミハイ)に入っていくことができない。学校勤務によって短歌のために時間を割ききれない自分のふがいなさや、「授業に真正面から取り組むことを避け、好きな短歌を安易にお守りがわりに使ってしまった、俺の弱さ」への失望が、その心にはうずまいている。だが、そのようなネガティブな感情を丁寧に書きとめていくことで、本作はすでに安岡章太郎の「サアカスの犬」のような、一種の劣等生文学の域にまで達しているとも言える。つまり「熱血」と帯には書いてあるけれど、それは「熱血でいなければならない自分」という高すぎる理想にしばられているというだけのこと。その自己の理想像と現実とのへだたりが、つねに主人公に悲劇の色を帯びさせているのだ。そして、そのような自分の心の弱さを、クールな視線で見つめている、もうひとりの醒めた自分をも、著者はたしかに持っている。
 千葉さんはことさらに自分の技術力について語ることはないけれども、現代短歌のかなり高度なテクニックを駆使した彼の作品は、徐々に人気があがり、総合雑誌や新聞に載ったり、あるいはNHKの番組で紹介されたりするようになってきている。そして、「万智ちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校」(『サラダ記念日』)の俵万智さんのそのあとを引き継ぐように、現役の「教員歌人」として売り出し、さらにどんどん「有名」になっていく登り調子の時期にある。もちろんそんな「ギミック」(藤原龍一郎氏)には、ある種のあざとさがつきまとうものだが、それも鋭すぎるシャイな美意識でいち早く察知し、先生でありながら「歌人でもある」ことを、あえて露悪的自嘲的に笑いのネタにしてしまうバイタリティ。「この李徴って奴は詩人になりたかったが、才能がなかったんだ。俺も物書きのハシクレだから、この苦しみはよくわかる。俺も有名歌人になりたいよ」とやさぐれて中島敦の『山月記』を講じ、ついにはまっすぐな女子生徒にたしなめられてしまうという「ジョー、ジュディ、アンの友達」の章は、ちょっと心に刺さった。
ぼくらの世代の歌人たちは、すぐ上のニューウェーブ世代を十分にリスペクトしつつ、そのぎらぎらしたバブリーな世界観をどこか醒めた眼でみているところがある。巻末の鼎談に呼ばれている「かばんの会」の先達の穂村弘さん(1962~)東直子さん(1963~)らは「有名性」と「前衛性」の追究を車の両輪のようにして、歌壇のみならずマスメディアでも精力的に活動してきた。しかし、その五年下のぼくらは、経済バブルがはじけた時代から出発し、オウム事件や阪神淡路大震災を原体験として共有しており(そしてまたフクシマ!)、形あるものへのむなしさの感情を心の奥底にしずめている。それゆえに、「有名性」をかっこにくくり、「前衛性」をかっこにくくり、そうしたら何が残るんだ、とつい考えてしまうような、潔癖すぎるともとられかねないある種の思いがある。
 実際、千葉さんはご母堂に「人は、心が若ければ若い」と言われてしまったほどらしい。その修羅の若さ。青さ。また苦さ。転勤してまた「新人」からやり始めるのだ、という決意からこの本ははじまっているが、それだけでなく著者は独自の倫理観から、永遠に人生の「新人」でありつづけようとしているようにさえ見える。先人の意匠を受け継ぐのではなく、まったくの「無」(吉本隆明氏)のところから、つねに書きはじめる。体育館の床にバスケのドリブルをたたきつけるようにして、いちいち生のことばをつむいでいかなければ、納得がいかない。そんな、ややもすると高すぎる倫理観のハードルを、千葉さんは過剰なまでに自分に課してしまっている。それは、かたちあるものの崩壊を目の当たりにした心の傷への防衛機制がまだ残っているだけなのかもしれないけれど、この「人生の永遠の新人であれ」という価値観こそが、いみじくもこの「新人類」と呼ばれた世代の、ポストモダンの物書きとしての新しい倫理観のあらわれだと感じる。
 だから、東直子さんが巻末対談であげている「きみに逢う以前のぼくに逢いたくて海へのバスに揺られていたり」という永田和宏さんの歌のふうわりした演劇的な時間性、歴史性は、千葉さんの歌のなかにはまったく見られない。千葉さんはこの世代の象徴であるかのように、四十代になっても、まだその「きみに逢う以前のぼく」の「いま、ここ」のみの時間を、永久に、前向きに、死ぬまで生き続けようとしている稀有な人である。それゆえに、ルサンチマンや柔らかい季節の抒情ではなく、ボールが体育館の床を叩く、あるいはプールが風を手放すような、そんな苦闘の刹那を描く硬派な瞬発力の歌こそが、もっとも説得力をもつこととなる。

 「声を出せ」誰かが言うと一斉に「声出せ」「声だ」という声が燃える  (「アクエリの日」)
 完璧な静寂 この夜国語科のエアコンを切った「ピ」の音のあと     (「光る廊下、追試、くちぶえ」)
 息が咲くタイムアウトの選手たち 声を立たせてコートに戻る      (「第二顧問」)

 闇に咲く、燃え上がる一輪の花のように、こんなにも「音」に敏感な著者の耳がある。穂村・東さんらには『短歌があるじゃないか』という本もあったが、ピアノも得意な千葉さんには「音楽があるじゃないか」。この「声」には肉体性があるから、はずかしくない。声を出している間だけは、そこに居場所ができて、生のオブセッションから救われる。含羞のあまり付け加えられたいろいろの眼くらまし装置によって、なかなかそうは見てもらえないかもしれないけれど、やはり本書は著者四十五歳のおそい青春の、満を持した新歌集にほかならない。
 さあ、堂々の、この千葉聡第四作を読もう。

短歌時評 第110回  どういうふうに今の時代を生きている事を納得するのか 岸原さや

2014-04-01 19:53:49 | 短歌時評
どういうふうに今の時代を生きている事を納得するのか
 ~同人誌『一角』を読みながら~ 


 このごろ読んだ小説で妙に気になったものが二つあった。ひとつは『群像』3月号(2014年・講談社)に掲載された小池昌代「たまもの」。もうひとつは平野啓一郎の『空白を満たしなさい』(2012年11月刊・講談社)である。
「たまもの」のあらすじは混み入っていて説明しづらいのだが、この中で特に印象に残った会話があった。主人公の女性の恩師の七十代の老先生が、神楽坂の路地の店で次のように言う。

 「東京には、こういう思いがけない狭いスペースに、ひっそり商っている店があって、しかし自分にとってのいい店を探すのは大変時間がかかるものです。町を長く知っても、なかなか行きつけない。この店は嗅ぎあてたんですよ。火災でもあったら、このあたりも、みんなもろともに焼けてしまうでしょう。こんなに密集していてはね。でもそれでいいとおそらく思っているんだ。地震が来ようが津波におそわれようが、ここで死んでいくのだからと、諦めとも覚悟とも思える気持ちで、東京の住民たちは今いるここを選んで暮らしているんでしょう」

 いっぽう『空白を満たしなさい』は、死んだ人が全国各地で生き返ってくるという小説である。そのうちの一人の男性が主人公で、妻から「あなたは自殺したのだ」と告げられる。しかし主人公には心当たりがなく、自分は殺されたのではないかと思って、真相をつきとめていこうとする。生き返った人間が、死後の3年間の存在空白をどう埋めていくのか。困惑する家族や社会の壁に直面しながら、人間が生きることと死ぬことのテーマが掘り下げられていく。
 平野の父は36歳で亡くなった。以前から平野は自分がその年齢を越える時に死と生をテーマに小説を書きたいと思っていたが、丁度そのタイミングに東日本大震災が起こり「人が生きるということ、死ぬということ」について、深く考えさせられたという。
 以下は平野が語った主旨の一部である。(ユーチューブで直接、彼の語りを聴くことができる)

 人間は基本的に全員が例外なく遺族である、いつかは親しい人が亡くなって残された人間になる。誰もそれを避けることはできない。何のために自分は生きているのか、自分の生き甲斐は何なのか、そういう実存に関することを何かの拍子に人間は考えてしまう。そういう時にどういうふうに今の時代を生きている事を納得するのか、ということを考えたかった。なんでかというと、ぼく自身が納得したいってことが一番大きい。

 短歌時評なのに、なぜこれらに言及したのかというと、ひとつには東日本大震災や原発のことが短歌で採り上げられる時に「これは震災詠としてどうか」「作者は当事者かそうでないのか」……そんなカテゴライズや区分けが細密に行われることに、ある種の違和感を覚えてきたからだ。3.11の日を境に非日常が現れ、私たちの死生観は揺さぶられた。あのはりつめた日々を無かったことにはできない。あの津波の映像を見なかった人は僅かだろうし、原発事故による被爆と汚染の恐怖におびえなかった人もいないだろう。だれもが死と生について考えただろう。大江健三郎の小説に『洪水はわが魂に及び』という名の小説があったが、このタイトルのように、あの日、深いところで私たちは傷を負ったのではなかろうか。こう言うと今も現実で苛酷な状況に置かれたままの人たちの苦悩を冒涜する気がしてためらわれるのだが、3.11後を生きる私たちの意識はその前と後ではやはり決定的に違ってしまったのだと思う。そして平野が言うように「どういうふうに今の時代を生きている事を納得するのか」が一人一人の問題として侵食してくる。逆説的にいうと「今の時代を生きている事を納得できない」空虚さが私たちの意識の底に少なからずあると思う。
 
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 今回初めて短歌時評を書かせていただくに際し、短歌誌の時評や作品季評、同人誌や歌人のブログなどをいろいろ読ませていただいた。そして壮年以上の歌人から若手世代への戸惑いの評言が少なからずあることに驚いた。私自身は遅くに短歌を始めた人間なので、言わば遅れて来た新人である。世代的には若くはない。ただ若手の歌人集団で横並びに歩んできたのでその感性や表現に何の違和感も覚えずにきたのだった。
 まず「短歌研究」2013年12月号の「歌壇展望座談会」。この中の一部には「外への発信のない世代」の小題がついている。※敬称略

 みんな歌は上手で、魅力的な歌がいろいろあるんですけど、全体的なイメージが似ている。ツイッターを文学にしているような感じがする(小島ゆかり)

 「ツイッターを文学にしているような感じ」についての説明はなく、「テーマがないから、そうなるのかなと思ったり、あるいは、それが現代の姿なのかなと思ったり」とある。

 そして今年年初の『短歌研究』1月号の時評で川野里子がこの発言をとりあげ、次のように書いている。

 彼等は「私」であろうとする、「私」だけの表現を求めるという欲望それ自体が大したものではないことをあらかじめ知ってしまっている、というのだろうか、自らの欲望さえ相対化している、そのことがむしろ今日の若手があらかじめ纏っている静かな悲劇性のようにも感じられるのだ。この「私」への欲望の濃淡、ことに不思議なほどに「私」への欲望の淡く見える世代の登場に今読者は戸惑っているのではないか。それは彼らの作家意識の低さだとは思わない。むしろ何か表現の背景にある社会や世界のような我々を包んでいるものが知らぬ間にぐしゃりと組み替わったと思った方がいいのかもしれない。

 そして次の二首を紹介する。

 ああむこう側にいるのかこの蠅はこちら側なら殺せるのにな 木下龍也『つむじ風、ここにあります』
 慣性の法則はもう壊れたし動いていいよ奈良の大仏              〃

 川野は一首めに「鋭さと危うさが突出してくる感覚」を感じ、「世界を瞬間と無意味に変換してゆくかなり破壊的な文学性を秘めている」と評価したうえで、それが二首目のような滑らかな失望にすり替わることも指摘する。

 瞬間の感覚を突出させたものの背後に息づくものを現すことなく、瞬間を瞬間としてツイッター的な瞬間世界に投げ込むことによって一つ一つの作品が閉じられているのではないかと思うのだ。その作品の瞬間の完結性がたったひとりの「私」が背負うべき文脈の成立を難しくしているということはないのか。(中略)何か見えないものが苛酷に彼らをそうさせているように思えてならない。

 この「たったひとりの『私』が背負うべき文脈」とは、先の小島の言う「テーマ」に近いものだろうか。

 また、吉川宏志は『短歌往来』2013年1月号の特集「若い世代の歌を読む」の中で、『短歌往来』の「promissing」に順次掲載された若い歌人(その時点では22人)の作品を読んだ印象について述べた。

 突出した歌がないことにとまどってしまった。これは、私の理解力が及んでいないせいかもしれないが、何かすごく低空飛行的な感じがした。(中略)一見明るいように見えて、底が無いような空虚感があるのかもしれない。そんなやるせない空気を共有できる若さが、おそらくあるのだろう。そしてそれが他の世代にはうまく伝わらないという面もあるのだと思う。

 これら「静かな悲劇性」「低空飛行的な感じ」「底が無いような空虚感」の評には説得力を感じる。

 短歌は歌集・短歌の月刊誌・同人誌・歌会・ネットプリントなど多様な発表がされていてどの場から歌を採り上げるかによって、傾向性が強く出てしまう。そのことをことわったうえで、ここでは主に短歌新人賞受賞者や候補者で構成された同人誌『一角』から、作品をとりあげてみたい。

 同人誌『一角』(土岐友浩・編集発行)は2013年11月4日に発行され、文学フリマや発行人への購入申し込みなどで流通した。7人の20首連作のほかに「五島諭の一角」という特集で構成されている。連作から引いてみる。※印はルビ。。

 ほんとうは誰の痛みのそのなかでかすかに燃えていたかったのか      小林朗人「終点」
 楽園(※オアシス)を避けながら生きてゆくやがて激情になる花を枯らせて          〃
 皿の上に葡萄の骨格のみ静か 柩のような星にねむりぬ          大森静佳「きれいな地獄」
 あなたはわたしの墓なのだから うつくしい釦をとめてよく眠ってね      〃
 少年の、季節は問わず公園でしてはいけない球技と花火          
吉田恭大「私信は届かないところ」

 君だって中々死んでゆかれないから夜毎に喰えぬクッキーを焼く        〃

 1首目。自分が自分の主体として在ることよりも、誰かの存在の痛みのなかに棲み自分をかすかに燃やすことを望んでいた。でも、いったい誰のなかで…と自問する観念的な歌。存在の寂しさの内の揺らぎが美しい。
 2首目も観念的・哲学的な全体喩の歌。「楽園を避けながら生きてゆく」とは静かな決意か。「楽園」とは現世の成功を幻影と見なす言葉だろうか。自分はそこに吸引されない、回避するのだという。でも「激情になる花」が自分の胸にあり、放っておくと咲こうとしてしまう。それを枯らして生きてゆくのだという。具体情報はないがストイックな在り方が伝わる。歌の景色としては上の句で「楽園」の残像を読み手に想起させつつ、その残像のうちに鮮烈な花を激しく見せた刹那、強制終了のように枯らせる。一首の中に序破急がある。
 3首目、皿の上の葡萄は粒を食べ終わって枝(というのだろうか)だけが残っている。それを「骨格」と見立てることで房から実をもがれた葡萄に静かで小さな死を見ている。下の句では「星」という大きな視点にカメラが引く。地球は「柩」で、そこに眠ったという。死を「骨」「柩」の硬質な質感でとらえる。
 4首目では「あなた」を自分の墓と呼ぶ。墓は硬質で、もっとも確かな箱だろう。「あなた」=「墓」=不変、の約束の歌。「あなた」は揺るぎない永劫の容れ物であって、だからその身を損なってはならない。パジャマの釦をうつくしくとめて健全に眠ってねと願う。死から逆照射して現在の「あなた」と二人の関係を永遠性へとやわらかく拘束する。
 5首目、「少年の、」という初句と読点で初々しさをキレよく出したのち、公園での禁止事項を叙述する。それが「球技と花火」だという指摘にはっとする。少年がしたい遊びの筆頭は球技と花火だろうに。公園は管理されている。少年に思い切り遊べる場所はない。「問わず」「公園で」「球技」「花火」のズ・デ・ギ・ビ、の濁点がしらべのうえでも息苦しさを醸している。
 6首目、「君」がまずいクッキーを毎夜焼くという行為に、「君だって中々死んでゆかれないから」とくぐもった呟きをかぶせている。生きたいという欲望が自分にも「君」にもない。さりとて死ぬだけの切迫したエネルギーもない。そんなやるせなさを五七七の二音字余りの上の句にこめているように思われる。言いたいことは上の句にある。下の句は暮らしの動作の表現であれば入れ替え可能だろうが、「死んでゆかれないから夜毎に喰えぬクッキーを焼く」の「ゆ」、「夜毎に」の「よ」、「焼く」の「や」で「やゆよ」の音を調えている点や、「喰えぬクッキーを焼く」の「喰」「ク」「く」のク音の飛び石的配置によって上の破調とのバランスを巧く保っているように思う。

 上記三つの連作タイトルは「終点」「きれいな地獄」「私信は届かないところ」。どのタイトルにも終末感覚や不全感が色濃い。

 なぜこんな大虐殺のじゃこを見てわしのこころは動かへんのか        吉岡太朗「こころ」
 薄闇にちらばっているLEDライトの計算された郷愁             東郷真波「越境」
 乗客は乗り込んだのに雨の日のドアをしばらく開けているバス        土岐友浩「blue blood」
 つけたままするテレビの向こうでは少女が感情的に叫ぶ声 ウォール・マリアの壁は崩され
川島信敬「文学がしたい」
      
 こいびととして君のかたわらに立つ日々の、泡 あるいはうたかたの、日々    〃、  
                                    
 1首目、小さくて黒目がびっしり目立つ「じゃこ」。イワシなどの稚魚を干したものだが単体では「じゃこ」と呼ばない。それを大虐殺されたじゃこ、と捉えなおす。ではそこに痛ましさを感じるかというとそうではなく心は無感動で、解離的である。いつから心はそんな風になったのか。「大虐殺」の語は人類の過去現在未来の大量殺戮を連想させるが、無力感が先立つ。
 2首目、省エネ・ローコストの具現のLEDライトが「薄闇にちらばっている」という。今ひとつ状況が読み切れない描写だが、どこか大きな公園かテーマパークか大規模マンションの庭園だろうか。薄い闇の中の一見ランダムな灯りに郷愁を感じるものの、それも誰かの設計による配置で、自分の心の動きも設計者の脳内の計算のうちにあると気づく。あらかじめ奪われているという感覚だろう。
 3首目、バスは定刻運行のため、乗客がもういないのにドアを開けたままでいる。バス内の乗客はその数秒あるいは数十秒を黙って待つ。雨音や雨の冷気や街路の音がドアから入る。システムの内側に生じる余白じみた時間と空間を書き留めている。
 4首目、「つけたまま/するテレビの/向こうでは/少女が感情/的に叫ぶ声」という句跨り。ここまでで五六五八八の三十二音だが、こののちの「ウォール・マリアの壁は崩され」に注目する。『進撃の巨人』という漫画が2009年から少年マガジンに連載され、そのテレビアニメ版が2013年4月から放映された。人間を捕食する巨人から人類最後の場所を護るため、高さ50メートルの外周壁がある。100年余り何事もなかったのでいつともなく過去の惨事を忘れて人々は過ごしていた。だがある日予想外の、50メートルを超える大きさの巨人が現われて壁を壊して内側に入り、少年少女とその家族を次々喰らう。前触れもなく防護壁を超えてやってくる圧倒的な厄災というイメージは、東日本大震災の津波および原発事故のイメージにかぶさる。この歌では上の句の性愛と過剰な破調が、死との隣接を思わせる。
 5首目は同じ作者の儚く美しい歌。「泡」「うたかた」の語に、君とすごす日々が消えていく予感が孕まれている。

 こうした歌群を見ると、共通して死や終末の感覚・痛みへの鋭敏さ・システムに囲まれた感覚が研ぎ澄まされているように思う。
ここでは「私」という存在は何かに当たって砕けるのではなく、すでに砕かれた存在としてある。
 原因は複合的にあるだろう。長く続いた不況・厳しい雇用状況、より安いモノとヒトを求めて世界経済は動き、人間もモノ化されている。地球上の戦争や内戦の動画はネット上で日常的に見ることができるし、国と国との軋轢による軍事化への動きも世界を駆け巡る。東日本大震災の衝撃とその後の昏迷、次の震災までの時間を生きる漠たる不安も生きることの根源を揺るがす。
 このような中で、特に若い世代が10年後、5年後、3年後の「私」を生き生きと思い描くのは難しい。集団や組織への同調圧力も強い。二つの歌集から、作品を挙げてみる。

 コンビニのバックヤードでミサイルを補充しているような感覚    
木下龍也『つむじ風、ここにあります』

 戦争はビジネスだよとつぶやいて彼はひとりで平和になった           〃
 じっとしているのではない全方位から押されてて動けないのだ          〃

 もし徴兵されてミサイルを補充する時が来たら、そのとき青年は逆に「コンビニのバックヤードでペットボトルを補充しているような感覚」を思うのかもしれない。戦争は「最終経済」と言われ、大量の物と人と金を消費し尽くす。

 手に塩をのせてこぼさずわたりきるにはあまりにもとおいわたくし       望月裕二郎『あそこ』
 あかねさすわたしはやりたいことがないお金を払ってお寺を巡る          〃

 「いま、ここにあるかけがえのない私」がいるという幻想は色褪せてしまい、今は「閉じられた世界の交換可能な私」がいて世界も自分もどこか遠くのもののように感じられているのではないか。モノっぽい痛覚を起点として。この空虚さが「低空飛行」な感じとなって現われる。以上が私の所感、あるいは仮説である。

 ここからどんな方向に現代の口語短歌が向かっていくのか。作者一人一人がどういうふうに今の時代を生きている事を納得するのか。世界への通路はあるか。ゲリラ的に世界の瞬間瞬間の間隙を突いていくのか。哲学的・存在論的な抽象度の高い世界を追求するのか。言語美や詩型の韻律に純化していくのか。存在が危機にさらされているからこそ、今後新しい表現が摸索されていく可能性もまたあるように思う。

 ちなみに上記作品に続く特集では、五島諭の長歌と反歌、そして五島作品へのエールを込めた鑑賞文(服部真里子「『どの歌が好き?』と訊かれたら」・平岡直子「シュノーケルの記憶」)と、彼の中学高校の同級生である関澤哲郎の「わたしの五島さん」が掲載されている。ひとつの青春群像の記録のように受けとめた。

 五島の作品は「長歌と反歌」。長歌は成績の5段階評価を歌にして並べている。「10月、前期分の成績処理を終えて」という詞書がある。評定5と1を引用する。

通知票 評定5は 当該の 科目について 将来を 嘱望される 抜群の 資質を有し そしてまた その能力を 涵養し 伸長すべく 最大に 努力をし、かつ さまざまに その才覚を 発揮して 活躍したと 判定される ことを意味する

通知票 評定1は 当該の 科目について 必要な わざや知識を 身につけて いると見なせる 材料を ほとんど何も 残さずに 学期を終えた ことを意味する 

 学校に恵みの秋がやってきて静かになって涼しくなった
         五島 諭「長歌と反歌」
 
 学校という疑似社会(プレ社会)の節目、教師には成績をつける仕事がある。この評定の文言には醒めたユーモアがある。作者はこうした文言を思いつつ淡々と成績処理を終えたのだろう。ひとりの社会人として。秋は学校行事や定期考査などで忙しい。「恵みの秋」「静か」「涼しくなった」の語からはようやくひと段落ついたという感慨のほかに、青春の静かな終わりとどこかしら安堵に近い感情が伝わるように思う。『一角』のひりひりする作品群の最終に置かれたこの反歌に、鎮静剤のような落ちついた趣きを感じたこともまた記しておきたい。


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 岸原さや 2007年「未来短歌会」に入会、彗星集に所属。2013年、歌集『声、あるいは音のような』(書肆侃侃房)発行。