「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌相互評第39回 笹川諒から上篠かける「春の」へ

2019-06-01 02:30:29 | 短歌相互評

 

作品 上篠かける「春の」 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2019-05-04-20051.html

 評者 笹川諒

 

抵抗のように膨らむ蕾からこぼれてしまう花だとしたら

蕾が膨らんでやがて花ひらくことは、ほとんど絶対的に、喜ばしいことだと考えられている。けれど、本当にそうなのか。仮に咲きたいとは思わない花がいたとしても、定められた時期が来たら咲く以外の選択肢はない。世間一般から望ましいと考えられる生き方というのが、人生という時間の中のそれぞれの段階に、かならず用意されている。そのことに対して違和を感じる主体が、この一首から浮かび上がってくるように思う。

 

花の死を告げる動詞に新しくぼくの名前を加えてあげる

花の死を告げる動詞といえば「散る」、「枯れる」、「萎れる」等があるだろうか。いずれも花以外のことにも使われ、総じて負の意味を持つ動詞だ。そこに、自分の名前を加えるという。この連作の作者は上篠かけるさんなので「駆ける」かな、と思ったが(「駆ける」という動詞は六首目に出てくる)、深読みかもしれない。いずれにせよ、花の死=マイナスという固定概念を棄却したいという意志を感じる。

 

生前の風を遮る窓ですが歌はとおして死後にしてゆく

この「窓」は実際の窓というより、主体の意識を覆うフィルターのようなものを想像した。生前と死後という二つの相が常に意識下にある揺れやすい主体にとって、生前の世界に吹く風はあまりにも粗野で、冷たい。その風から自分の身を守るために必死に拵えた窓から、ほんの一握りの自分の波長に合うもの(たとえば、歌)を慎重に自分の内へと通す。けれどもその窓の内側こそが死後である、と断言してしまう主体の感じている疎外感は、計り知れない。

 

やがて死ぬさだめの春の昼間にも物干し竿にゆれるパーカー

ベランダの実際の景を詠んだ歌だろうか。「パーカー」からは少し頼りない印象を受け、「やがて死ぬさだめの春」という主体の認識と、マッチしている。

 

灰皿の缶は青さにくらむ空の異物になれず欄干のうえ

「異物になれず」というところに、心情が表れている。主体が喫煙者なのかは分からないが、主体が心を寄せる「灰皿の缶」は、まるで主体の社会に対する精一杯のプロテストの象徴のようでもある。しかし残念なことにその抵抗は上手くいかず、「欄干のうえ」というきわめてギリギリのところへと追い詰められてしまっている。

 

少しずつ解散してゆく春の雪もバンドもアイドルも季節を駆ける

「春の雪」も「バンド」も「アイドル」もすぐに消えてしまうはかないものの例として並べられている。何かが終わること(その最たるものとして「死」が念頭にあるだろう)に、主体は永遠性を見出していて、憧れを感じてもいる。春という季節特有の滅びの感覚に対して、既存の道具立てに頼ることのない独自の把握がある。

 

圏外へ 自家中毒の電線で月を切断して遠くまで

主体は「ここではないどこか」への強い希求があると同時に、自分を「他のどこでもないここ」へ縛っているのもまた、自家中毒的な自意識であるという自覚がある。「月を切断して」の隠喩の解釈は難しいけれど、たとえばマネキンの頭部を切断するかのような、残酷なイメージは伝わってくる。「圏外へ」という言葉からは、SNS等に対して主体が感じている閉塞感も読み取れる。

 

蜂蜜のような光に触れてしまうそしてぼくだと気づいてしまう

「蜂蜜のような光」は少し漠然としているが、何かプリミティブなものという印象を受ける。そういう原初的な何かに意図せずして触れてしまったがために、七首目で「遠く」の別の自分を目指していた主体は、結局自分は自分以外の何者にもなれないのだと気付いてしまったのだろうか。

 

体重の変化しやすいぼくたちの夜は明ければまた夜だった

たましいと肉体の差異。われわれの体重はたった一日の間でも細かく変化している。しかし、たましいの器である肉体がどれだけ勝手に変化しようとも、肝心のたましいがそれに伴って変容するということはない。「夜は明ければまた夜だった」からは自暴自棄にも近い諦念を感じるが、詩的なフレーズでもある。

 

雨の降る街は塗り絵で透明を塗り重ねればあなたが浮かぶ

「雨の降る街は塗り絵」と言われると、まるで雨によって一旦すべての世界の色が捨象されてしまったかのようだ。「透明」を塗り重ねて、言わば「あなた」を世界から遮蔽することで、逆説的に「あなた」の存在が確かなものになる、ということを言っているのだろうか。だとすると、透明を塗り重ねない限り、「あなた」の存在はきわめて脆弱だということになる。ここでの「あなた」は、特定の他者であると同時に、主体自身のことでもあるのかもしれない。


短歌相互評第38回 上篠かけるから笹川諒「涅槃雪」へ

2019-06-01 02:19:30 | 短歌相互評

 

作品 笹川諒 涅槃雪 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2019-05-04-20055.html

評者 上條かける

 

子供の頃、怒った父親によって物置に閉じ込められたことがある。

このとき、ぼくは何に閉じ込められていたのだろう。言うまでもなく、物置という場所に閉じ込められていた。身体的に隔離された、と言い換えてもいい。そうして、もうひとつ、ぼくはぼくに閉じ込められていた。「なぜこんな仕打ちを受けるのか」「かなしいこの今はいつまで続くのか」、くらやみの中でぼくは時間に溶けてしまったぼくと対話した。精神的な隔離、あるいは時間からの隔離と言ってもいい。二重に隔離されたぼくはというと、憧れた。外の光、外の時間に。それはある種の絶望を含んだ懐かしさへの希求であった。

笹川さんの短歌をよむと、いつもこの感覚を思い出すのである。

 

鳥の声が一瞬あなたの声に似てカーペンターズを今日は選んだ

 

おそらく遠くへ飛び立ってしまったあなたの声を幻聴する。そうしてiPodかウォークマンか、いつも持ち歩いている音楽再生機器からカーペンターズを選曲して、イヤホンを耳に詰める。ぼくはこの行為に「あなたの声を聞きたい」「あなたの声を聞きたくない」という矛盾した感情を感じとってしまう。この矛盾律を解消、あるいは矛盾のまま受け止める唯一の手段は「あなた」を捨象することなのかもしれない。カーペンターズというスローテンポなバラードに「あなた」を押し込めること。そうすることで「あなた」は死に、同時に生きる。

 

いい感じに仲良くしたいよれよれのトートバッグに鮫を飼うひと

 

「よれよれ」なんだから材質が安いのか、あるいは気に入られてずっと使われているのか、どちらにせよある程度無頓着で、けれど愛をもった人に使われている鮫のトートバッグだ。それにしても「いい感じ」にとはどういうことだろう。「あの人いい感じ」というときには肯定的に使われるけれど、「ああ、あのバンドいい感じだよね」とあいまいな感情をとりあえず措定するときにも使われる。やわらかい距離が、そこにはある。ほんのりとしたあたたかさのある歌、ほどよい好意に身を委ねられる歌だと思う。でも、もしかしてこの人、仲良くしたいのは、親近感を抱いているのは「ひと」ではなくて、「よれよれのトートバッグ」の方なんじゃないか、という仄かなさみしさもある。

 

何周も一緒に池を回ったら好きな季節をちょうど訊かれた

 

「ちょうど」は何が「ちょうど」なのか。ちょうど季節の話をしたかったのか、あるいはちょうど何かを話そうとするタイミングだったのか。「回ったら」である。「回るうち」ではない。さなかにいるわけでない。まるで「ドアを5回叩いたら花子さんが出た」といったような、ゲームの達成条件の俯瞰みたいじゃないかと思う。きっと何周も池を回って話している間、わたしと「あなた」は時計の長針と短針のように少しずつずれていたのだ。それはある意味で幸福だろうし、ある意味で苦行だ。作業ゲーのように時間が過ぎていき、とうとつに正午が、針の重なる刹那が訪れる。ぴったりと息の合う瞬間が訪れる。その、ほんの一瞬の奇跡の素描なのだ。

 

処世術ではなくラスク二袋が似合う気がして買ってしまった

きらきらのラスク美味しいこの夜のあなたは作り物ではないね

 

なんという自己充足感、あえて悪い言葉を使うなら自己本位だろう、と思う。世渡りの方法なんかよりも、自分のお腹が、そうして目が満足するほうがずっと重要なのだ。このラスクは「あなた」と分け合ったのだろうか。何せ二袋買ったのだから、分け合いっこしてもいいはずである。もしかしたらひとりで食べたのかもしれないし、あげたのかもしれない。けれど、どちらにせよ、このラスクは自分のために消費されたのだろう。池を周りつづけたあとの一瞬のように、「あなた」をしっかりと感じられたのも「この夜」という限定的な瞬間なのだ。その一瞬はラスクによってもたらされた。このラスクはある人には「酒」であろうし、ある人には「麻薬」であろう。「作り物」ではない現実を認識するためには、何かその媒介となるものが必要なのだ。これはかなしみなのではないかと思う。

 

涅槃雪 許していたいひとがいてその名前から許しはじめる

 

「涅槃雪」、別称「名残りの雪」。あの歌謡曲は別れの歌だった。涅槃、ニルヴァーナ。そういえば以前、鈴木大拙の本を読んだときに、大意で涅槃は大乗仏教の最終目標であると書かれていた。それは全と一の合一である。これをぐっとポピュラーに、誤読的に言い換えるならば、わたしとあなたの一体化である。それは春に降る雪がすぐにとけて、大地に染み入るような、そうしてその水が蛇口から刀のように飛び出して、あなたやわたしの体の一部となるような、そうした「境界/隔離/分節の否定」である。その水のイメージから飛び出す動詞は「許す」であった。安直な直喩を使えば「雪解け」だ。きっとこの許すは宗教的な赦しに近いのだろう。ぼくはこの短歌をよんで、万葉集の「籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜採ます児 家聞かな 告らさね」を真っ先に思い出した。それは神による、合一の宣告であった。

 

 

笹川さんの歌は疎外を是としているように思える。けれど、是は、必ず非をもともなう。分節された世界から、そうでない世界を憧憬し、ひとつになろうと人間のもつ「言葉」というたよりない武具をかかえて生きるひと。あるいはそういう歌。これを詩性というんじゃないかと思う。


短歌相互評36 鷹山菜摘から 森本直樹「からっぽ」へ

2019-03-31 12:54:35 | 短歌相互評
森本さんは私と同じ未来短歌会の方で、年齢も近いことを今回知りました。相互評を担当できて嬉しいです。

眠りたくなくて来ている喫茶店のケーキケースの下段からっぽ

閉店が近いのだろう。ケース下段のケーキたちは既に売り切れたか、片付けられてしまっている。カ行の連続のメロディにのせて、どんなケーキがあったのか想像させられる。連作「からっぽ」で展開する世界は、眠りたくないときに来るような、この喫茶店が出発地点となる。

ブレンドコーヒーフレッシュなしと書かれたる伝票用紙が折りたたまれる

いちばん文字数が多いために目立つ一首。破調部分は店員が注文内容を読み上げるように一気に読みたい。「ブレンドコーヒーフレッシュなし」という、短歌に使うには長い言葉だからこそ、伝票の折りたたまれている様子が表現されている。

シャッフルで流れる曲のあいみょんの愛称なんだと思っていた名前

これはそのまま「わかる」歌(私もアーティスト名と曲のイメージの差に驚いたひとり)。事実を知った以前・以後の自分ははっきり分かれてしまう。その分断を、偶然に曲が流れたとき噛みしめている。もう戻れない過去がある。

パチンコ屋の前に並んでいるうちの一人がマンホールを撫でている

実際にその光景を見たらぎょっとするはずだ。道路掃除でもないだろうし。験担ぎか何かでそういうのがあるのか。並んででもパチンコ屋に行く人の世界を目撃してしまった。

ペットボトルを捻り潰せば手のひらに浅くくい込むいくつかの尖り

普段のペットボトルは手にやさしい形なのに、ひねりつぶすと確かにバキバキになる。それでも凶器とはなり得ない。「浅く」を逃さなかった、手の感覚が敏感であることがわかる。

コインランドリーの手前のごみ箱にやたらと捨ててあるレジ袋

似たような場所を知っている。ごみを入れたレジ袋がたくさん捨ててあるのかと思ったが(地域によっては指定ごみ袋でなくてもいいところもある)、中身のないレジ袋自体が山積みになっているのかもしれない。人間がつくった便利さに人間がついていけていない世の中。どことなく全体的に白い歌。

古着屋の暗やみに立つマネキンがあまりに痩せているような気が

このマネキンはかわいそうなマネキンなのだろうか。それとも古着屋だから、暗いから、そんな気がするだけなのかと自分の感覚を疑う。「暗やみ」の表記にこだわりを感じる。

いつの間にか小雨が降っているなかの私の肩にシャツがはりつく

指を鳴らし損ねてしまう短めの息継ぎほどの音を残して
なんとなくうまくいかない毎日。現実に負けそうなとき、現実との間にすこし距離をとって、非現実感を混ぜることでほんのり夢をみているような感じ。連作の中の主人公として、そうやって人生に立ち向かっているんだな、という人物像が見えてくる。

コンビニの前に立ちたる逆光の人が誰かに手を振っている

私は大学時代にコンビニでアルバイトをしていたので、コンビニ関連の楽しい短歌が好きだ。姿のよく見えないふたりがコンビニで集合なのかコンビニで解散なのか(どちらもよく見るし、私もする)、どちらにせよほっとするやりとり。それを見ている、自分。「逆光の人」も「誰か」も、自分を含む誰もがそうでありまた誰でもない、というイメージが「コンビニ」の言葉に託されている

好きだった音楽が耳に馴染まないそんな時間が来る、唐突に

私の翼であったはずのものたとえば自転車あるいは珈琲
外部を描写する歌が多い中で自分自身の変化も描かれる。変化に気づいたときにはもう、既になにかが始まってしまっている。ケーキケースがからっぽだったことを思い出す。

鍵穴に鍵を差し込むひとときに傷つきあっている音がする
生ぬるい水道水にむせ返る気恥ずかしさが溢れるように
フライパンの底に圧されてたわみたる青白い色の炎を思う

帰宅してからも日常的な行為を冷静に捉え直している。鍵に暴力のイメージを重ねることはしばしばあるが、それは一方的なものではないと表現するのがこの主人公のパーソナリティである。むせるときのあの苦しさも、気恥ずかしさが溢れる現象だったのかと納得してしまう説得力がある。普段の暮らしの中で、自分にコントロールされている炎にひそむエネルギーを思うときの、何かが起きてしまいそうな予感を「思う」にとどめて連作は終わる。

すてきな作品でした。「からっぽ」というタイトルで、明るい言葉も出てこないのに、むなしさはない。逆に「いっぱい」になっていては何も出入りする余裕がなくて、これからを生きていけないからでしょう。からっぽなのは、地味な現実の先にある、これからやってくる運命を迎え入れるためだと受け取りました。私も人生の過渡期にある人間です。そのような境遇の主人公が、本人は気づいていないかもしれないけれど、自身の内部で静かな思いを燃やしていて、希望を感じられる連作です。

週末は冷蔵庫がからっぽな鷹山菜摘より
森本直樹様「からっぽ」によせて

短歌相互評第34回 本多真弓から阿部圭吾「手のひらの海」 へ

2019-03-01 03:12:05 | 短歌相互評

作品 阿部圭吾「手のひらの海」http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2019-02-02-19854.html

評者 本多真弓

 水族館(すいぞっかん)、と言うとき君の喉元を光りつつゆくイルカのジャンプ


「すいぞっかん」のルビに、くらくらした。これまで「水族館」という文字を見た時、わたしの脳内で再生される音はいつも「すいぞくかん」だったから。


あらためて声に出してみる。たしかに「く」の音は明瞭にはあらわれない。わたしはこの言葉を他者にむけて発話する時、そうとは意識することなく「すいぞっかん」と発音し続けてきたのだ。大袈裟に言えば、この歌と出会うことで、わたしの人生は、すいぞっかん以前/以後に分けられてしまった。


耳のいい作者である。鍵かっこなしで、目の前にいる「君」が発声した言葉だとわかる、すいぞっかん。


  車窓から本当の海を眺めつつ海に似ている場所へ向かった
  潮風は吹くけど帰る場所がないここで生まれたという子アザラシ



この一連を統べるのは、Aに限りなく近いがAではない、【A´】のトーンだと思う。


海を眺めながら、実際に向かうのはあくまでも海に似ている場所。子アザラシが生まれた場所は、これからも生きていける環境ではあるが、アザラシ本来の棲息地ではない。


そこが君とでかける、すいぞっかん、なのだ。


  退化だね、って君と笑って潜りゆく水族館は命のにおい
  マグロ回遊水槽ゆがむ群泳の痛いくらいに光、まぶしい



初句七音にも関わらず「退化だね」の歌は軽やかである。ふたつの促音が弾むリズムを作り出す。
「マグロ回遊水槽」の歌は一転、どこで切るべきかわかりにくい、すりあしで進むようなべったりとした韻律だ。それが結句の「光、まぶしい」で、意味とともにぱっと開花する。鮮やかだ。


  水槽に触れてかすかな深海がたしかに手のひらにあったこと


ひとのからだのままでは潜ることのできない深い深い海。この歌では深海魚用の水槽にぺたりと手のひらをつけることで、かすかな深海を手に入れた瞬間が描かれる。水槽に手を触れても、水そのものに触れるわけではない。ここにも【A´】のトーンがあるように思う。


それから「たしかに手のひらにあったこと」という、自分に言い聞かせるかのような歌いおさめ方。わたしはここに、淡いかなしみのようなものを感じてしまう。おそらく作者には、かなしみの意識はなく、かなしみを感じたのは、わたしの残り時間の少なさのせいだろう。


  たましいのようにクラゲは揺れていて本当は溺れているかもしれない


今回、一番好きだった歌。たましいは見たことがないけれど、この歌の「ように」にはすんなり説得される。下の句の大幅な字余りの不安定さも、計算されたものだろう。「溺れているかもしれない」ものは、クラゲでもあり、ふたりのたましいでもある。


  ペンギンのにおいをかげば思い出す記憶として君とここにあること


「君とここにあること」の現在性がパッケージ化された、面白さとかなしさがある。未来においてこの記憶を思い出す時、はたして「君」は、いまと同じようにそばにいるのだろうか。


  生まれ直すようにのぼった階段で名付けあうところから始めたい


「名付けあう」というフラットな関係が涼やかだ。名付ける/名付けられるという世界からの解放。それも「始めよう」という他者への呼びかけではなく「始めたい」という。ごくささやかな願いが美しい。


  手のひらの海であなたに触れるとき遠くで生まれ続ける波の


この歌にも、不思議な【A´】感がある。あなたに触れるのは、手のひらそのものではなく、手のひらの海。触れている、という距離にもかかわらず、波が生まれ続けるのは遠い場所なのだ。「波の」のあとに続く情景も感情も、読者にゆだねられたまま、この一連は終わる。


春になったらわたしも、すいぞっかん、へ行こうと思う。作者からゆだねられたものを壊さないよう、ゆったりと胸に抱えて。

短歌相互評 第33回遠藤由季から辻聡之「権力と花山椒」へ

2019-02-01 11:33:07 | 短歌相互評

作品 辻聡之「権力と花山椒」http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2019-01-05-19804.html
評者 遠藤由季



拝啓 蝋梅の香りのするこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
先般拝読した辻さんの二十首にも「蝋梅」が詠われている一首がありましたね。

  知らぬ家の蝋梅に鼻寄せおれば賑わしく小学生ら過ぎたり

 辻さんの歌には時おり懐かしい場面が出てきます。そして、懐かしいけれど、「今」である場面。小学生たちの賑やかな登校時間(職場へ行く途中だと思うので、下校時間ではないですよね?)は、今の世も変わらずにある朝の一場面なのだろうと思います。そこを歌として切り取るところが辻さんの特徴のひとつなのでしょう。そして蝋梅に鼻を寄せる行為も、どことなく文学者めきつつ、作られた姿ではないものなのだろうと思います。
かりんに入会された頃とは、かなり言葉も文体も変わられたように感じます。たとえば「寄席おれば」の「おれば」や、「過ぎたり」の「たり」など、ごく何気なく繰り出されるところ。初期の辻さんの歌にはなかった動詞・助動詞ではないでしょうか。
 その一方で、下二句の句割れ・句跨りを駆使した、揺り返しの起こるようなリズムは現代の短歌において定着・浸透している技法で、それをさりげなく(そしてほんのりと戦略的に)繰り出しているところが、第一歌集『あしたの孵化』から継続されている辻さんのリズム感なのだ、と感じました。

 蝋梅の歌のお話が長くなりましたね。そうそう、食べ物とその周辺の詠み込まれている歌に辻さんのうまさを感じました。さすが、名古屋一のコメダニストですね!

  ドライアイスのごとく痩せゆく後輩のそれくらい仕事してくれ頼む
  大人は努力きらいだもんね 和三盆に似たる議論をさくさく終えぬ
  ぼくたちのまだ倫理観つたなくて口の端からこぼすタピオカ
  守衛のおじさんがくれたるおみやげの人形焼がみな無表情
  お歳暮のフルーツゼリーゆうかげに透かせば翳りはじめる果肉


 「ドライアイス」は食べ物ではないけれど、今という時代の職場に働く先輩後輩の〈生〉な姿が見えるようです。この「後輩」はなにか仕事以外のことに夢中になったり、悩んでいる人なのか。その仕事以外のことに力を注ぐように仕事してくれ、と願う〈われ〉という先輩も、きっとがつがつ仕事をするタイプではなく、「大人は努力きらいだもんね」とちらっと思いつつ、やるべきことばさくっと終わらせる人なのでしょう。「和三盆」なんていう、しゃれて意外性のある和菓子を持ってきて職場の議論の場面、その心情を描くところが独特です。いいですね。「守衛のおじさん」がくれた「人形焼」の表情に注目したところも、辻さんらしい目配りの細やかさがあって、うまい!と思います。初句から二句にかけての、字足らずのような、句割れ句跨りのようななんともいえないリズム感を、三句から結句までのきっちりした定型に収めてゆく展開で、最終的には安定したリズム感を感じさせながらまとめる技も、効いていると思います。「蝋梅」の歌もそうでしたが、連作のところどころにこういった リズム感の緩急があって、単調にならないように読ませる工夫の一つになっています。
 「タピオカ」や「ゼリー」の歌は、辻さんらしいちょっとナイーブな面が出ていますね。「タピオカ」にはどこか不器用な内面が滲んでいますし、「ゼリー」の透けた感じは馴染みやすいポエジーです。どちらも辻さんが歌に表しやすい素質で、初期の頃から楽しませてもらっていた歌い方です。そういった面ばかりを詠い継いでいくのには不安を感じますが、大切に持ち続けながら、もっと深みのある内面や独自のポエジーを追及されてゆくと、ぐんと面白くなるのだろうな、と思います。

  課長になるまでの時間のはるかなる梢にメンフクロウの沈黙

 この歌を読んだ時、『あしたの孵化』に詠まれている「望まれるように形を変えてゆく〈主任〉はどんな声で話せば」という一首を思い出しました。今の世の中、出世自体があまりありがたいことではなく、責任の重い管理職を敬遠する気分が若者にあると聞いたことがあります。一方で上の世代が多くて出世もままならないという事実もあって、非常に複雑な職場環境に多くの働く人たちが身を置いています。そんな「今」を風通しのよい詩性で詠ったのがこの一首だと思います。「メンフクロウ」という生き物の、職場からは遠くて少し不思議な存在が、今まで多くの歌人に詠まれてきた職場の歌にはない、異空間へ誘う広がりを生み出し、辻さん独自の詠い方になっています。今回の一連の中でのわたしの一押しです。

  半透明人間ぼくもここにいて街路に花山椒のいろどり

 おそらくこの「ぼく」は「ぼく」自身のことを、「半透明人間」のようにいるのかいないのかあやふやな存在だと感じながらも、「ここにいて」と表明し、きっちりと己の歩を進めてゆこうとしているのだろうと思います。花山椒の細やかな花、そして一粒でもぴりりと辛い実。まさにそういう「ぼく」を詠わんとしているように感じます。山椒といえば「うなぎ」ですね。
五月に開かれる、歌集『あしたの孵化』批評会も楽しみにしております。平和園とコメダに通いながら、どうぞお元気で。

敬具
遠藤由季

二〇一九年一月とある晴れの日に