「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 見えないものを見る~鈴木晴香『心がめあて』(左右社、2021年)  岡 英里奈

2022-02-20 11:23:10 | 短歌時評

 着る服を選ぶ。顔を洗う。髪を切る。毛を剃る。体の外側のことは、日々の中でよく考える。けれど、内側はどうか。
 この間、食あたりになり、しばらくのあいだおなかが痛かった。咳が出るとか、鼻水が出るとか、喉風邪、鼻風邪は少し重大に受け止められるが、おなかが痛い、は、なにかちょっとなめられていないか。ベンザブロックだって「熱」「のど」「鼻」はあるけれど、「腹」はない。はらいたに苦しめられながら、たかがはらいたでしょ(笑)、と世間に軽く見られているはらいたのことをちょっとかわいそうに思っていた。
 おなかが痛い、で、うんちが出ても、ほとんどの場合、それを他者に見られることはない。一方で、咳や鼻水は見える。熱も温度計でどれくらいの高さか可視化される。
 見えるもののことを、人はよく見る。見てくれる。だが、見えるものが多すぎて、見えないもののことを考えるすきまがない。
 鈴木晴香は、見えないものを見る。

歯がいつも濡れていること頬はその内側だけが濡れていること

 歯のことは、歯が痛くなったり、歯茎から血が出たりしないかぎり、そう意識しない。歯は忘れられている。頬のにきびは気にするけれど、その内側のことなど考えたこともない。でも、歯も頬も、本当はいつも、濡れているのだ。
 人体を描いた歌をつづいて紹介する。

横向きに眠ればそちらへ落ちてゆく内臓のすべてが濡れている

 人の体がかかえているいくつもの内臓が目に浮かぶ。「歯が……」の歌にも「横向きに……」の歌にも登場する「濡れている」という言葉が活きている。内臓の濡れたつややかさは、まるで鮮肉コーナーの肉のよう。ずっと忘れていたけれど、人間も、濡れた赤い肉のかたまりでできている。

 又吉直樹が本歌集の帯で「掴めないはずの感覚を捉えた瞬間の心地良さ」と述べているように、鈴木は人が「掴めないはずの」光景を捉える。その視点は、時に宇宙にまで伸びる。

眠っても眠ってもまだ上空で宇宙飛行士眠り続ける

 マンションでも、二段ベッドでも、地球でも、なんでもいいが、ひとつめの「眠っても」で〈下〉にいる人の眠りを、ふたつめの「眠っても」でさらに〈上〉にいる人の眠りを想像する。そのすべての状況を超越して、さらに「上空」で眠っているのが、宇宙飛行士だ。鈴木が描く遠い距離のことを思うと、なにもかも近視的にとらえてあれをやらなければこれをやらなければとぎゅうぎゅうに絞られたぞうきんのようになっているこころが、ふと、ゆるむ。

 手がとどかないものだけではなく、身近なものも、鈴木は見つめる。たとえば、他者とのあいだの距離。

君と見たどんな景色も結局はわたしひとりが見ていたものだ

 誰かと過ごしている間も、人は、自分の肉体を一人で生きるしかない。どれだけ心を共有しても、肉体は別々で、決して混じり合うことはない。一人で生まれて一人で死ぬ。それでも、誰かと一緒にいたい。

またここにふたりで来ようと言うときのここというのは、時間のこと


 次のような、美しい場面を描いた歌もある。

手品師と手品師の結婚式の客席すべて白い鳩たち

 客席にいるものは、人間ではない。友人でも、家族でも、同僚でも上司でもなく、自分達二人の商売道具、「白い鳩」だけが並んでいる。それにもかかわらず、孤独を感じさせるどころか、これ以上なく華々しいのがいい。
 普段、白い鳩を出して、客を喜ばせている手品師の二人。結婚式に客は一人もいない。ばさばさばさと白い鳩たちが飛びかうなか、二人は壇上にいる。誰に認められる必要もなく、二人だけで、互いの生を十分に祝福しあっている。

 最後に、本歌集の末尾に配置された歌を紹介する。

この手紙燃やしてほしいと思ったりしないもともと燃えているから

 情熱のこもった「燃えている」手紙、と読み取ることもできるが、星のかけらとして生まれたすべてのものが、いつか太陽が死ぬ頃、宇宙の塵に戻ると考えれば、最初から世界は燃えていると言ったっていい。
 なにかにあてて書かれた手紙は、最初からずっと燃えている。だからこそ、手紙を渡せること、手紙を書けることは、いま、ここの時点で奇跡である。数々の、燃えている三十一字の手紙が、いま、この時代にこの地球で生きてやがて燃えていく読者の心を震わせる。


短歌時評173回 「きみ」は誰だ? 『meal』冒頭の5首について。 大松 達知

2022-02-15 21:42:00 | 短歌時評

 

 山下翔『meal』(現代短歌社)の冒頭。

 「つま」とタイトルがある一連。
 「つま」ってなんだろう。歌集タイトルが『meal』なんだから食べ物を連想すべきで、刺身のツマみたいなものかな?いややはり、ふつうは妻かな?と思いながらすすむ。
 (実際には1秒もかかっていない思考だったけど。)

 1首目、つまり巻頭歌。

きみが手にからだあづけて眠りゐるみどりごあはき今朝のはつゆき

 ふむふむ。タイトルの「つま」は「作者の妻」だったのかと解した私。山下さん、いつの間にかご結婚されて、お子さんを持たれたのだな、と思った。
 第一歌集に続く、どっしりゆったりとしたリズム。いいなあ。堂々とした一冊の入り方である。近代短歌的と評されることを厭わず、「あはき今朝のはつゆき」と情感のこもった着地を決めている。「みどりごあはき」と読みそうになるところを、「みどりご」で一旦停止して、実景の「みどりご」に視点を置くところも巧い。きみ「の」手ではなく、きみ「」手、と あるのも、近代短歌的な良さを現代に復刻しようとしているのかもしれない。こういう存在は貴重だ。
そして、この先どんな家族詠が続くのかとニヤニヤした。(山下さん、おめでとう、と言語化しないまでも。)
 いい気持ちになってページをめくって2首目。

きみの児の生れたる朝のかがやきや君のよこがほをわれもよろこぶ

 ん?「きみの児」?「われの児」か「われらの児」ではないのかな?「われもよろこぶ」ってちょっと距離感あるんじゃないか?主人公は赤ん坊でなく女性なんだな。その女性の横顔をなにか心動かされながら眺めているんだな。
 (1首目から、赤ん坊を抱いているのは母親なのだと決めつけて読んでしまった自分を恥じたのは、あとになってのこと。ジェンダーの役割には気を付けていたつもりだけれど、だめである。)

 それに、一首の中に、「きみ」と「」とふたつの表記があるのはなぜかな?
 とにかく、赤ちゃん誕生の歌なのだ。おめでたい高揚感を分けてもらいながら読み進む。実際には、そんなに分析的に読んでいるわけではない。ほんの数秒のことだ。
 3首目。

みどりごの頭(かうべ)は垂れてきみが手に生れたる力あはれあたらし

 やっぱりなんか変だ。自分の妻を言うのならばこんなに「きみ」と続けるはずはなさそう。君の手にこれまでにはなかった種類の力が発生した感じがする、ああそれが新鮮だ、と解釈した私。力が生まれる、とわざわざ言うからには(男性に比べれば)非力(な人の多い感じのする)な女性が詠まれているとも思った。

 そうか、女性の友人の赤ちゃんを見たときの歌だろう。かつて付き合いの深かかったその女性。自分には甲斐性がなくて支え切れなかったけれど、幸せになってくれるならそれでいいと思ってる、みたいなよくあるドラマを妄想。
 たしかにそんな距離感があるな、と思った。母は強しと聞くなあ、いやそれは精神面のことかな。もしかして華奢だった女性の友人が心強く見えたのかな。

 というのは、あとから考えてみれば、ということになる。とにかく、いい歌だなあと思う。(短歌における虚構うんぬんの話になることはあるけれど、人の生老病死にフィクションは持ち込まないだろうという先入観もある。)

 そして、4・5首目。

さみしさはきみがとほくへ行くやうで妻と児と連れ立つてとほくへ
きみの時間に父の時間の加はりてわれはいつ会ふ次はいつ会ふ

 

あああ。ここで気づく。「きみ」とは男性の友人であるのか。前置きや特別な状況が察せられない場合、「」は異性を示すと思っていた自分を恥じる。でもここでは「きみ」という優しい表記だから、女性っぽいよなあ、と自分を慰める。

 上の歌は、「さみしさは」を受ける述語がはっきりとしない。それがさみしさのもやもやした心境の象徴かもしれない。この「とほく」は心理的な距離なんだろう。友人が妻子を得て、別の生活状況に入ってしまうことへのさみしさ。どこか取り残されたようなさみしさ。「妻と子と連れ」で切れ、「だつてとほくへ」とつなぐリズム。それが本当に遠くへ行ってしまう友人を寂しむような音感だ。巧い。
 そこを下の歌では、気丈に「われはいつ会ふ次はいつ会ふ」と盛り返すようなリズムで気持ちを繋ぎ止めようとするのが健気でいい。男の友情を信じる。そのあたりの人間関係の機微が読み取れる。

 そして、1首目に戻って読んだ。

きみが手にからだあづけて眠りゐるみどりごあはき今朝のはつゆき

 結婚して、父親になった友人。これまではいっしょにつるんであちこちで飲み飲み歩いていたのかもしれない。そんな親友が両手で赤ん坊を抱えている。新たな生命の誕生を祝う気持ちと、自分側の寂しさが合わさった気持ちが背後に込められていたのかもしれない。そう読めばいいのだろう。そう読んでもいい歌だ。

 ただ、やっぱりミスリーディングだよなあ、とも思う。
 この1首目が単独で読まれたとき、多くの人はどう読むのか。やはり短歌は背景知識がなければきちんと読めないのか。単独で読まれることと連作の中で読まれることは違う。だが、違っていいのか。あるいは論理的に考えてもしかたないことなのか。

 ほんの1分ほどの読書体験を後から思うとこんな感じになる。

 そのあと、7首目に、

捩子といふ雄、雌の別あることのその比喩のこと苦く思ふも

 が置かれているのは、深い意図があってのことか。ジェンダー問題に当事者として触れてゆく歌かもしれない。なんとなく、男性女性の区別を超越した人間同士の友情を詠もうとしていると感じる歌もある。今後、作者のプライベート面の研究が進んでゆくと、なにかわかることがあるかもしれない。
 だけど今は、わからないものはわからないままにしておこうと思う。