「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌相互評37 森本直樹から鷹山菜摘「時空」へ

2019-03-31 13:00:26 | 短歌時評
おかえりと言うように気をつけている あなたの来る日は靴もそろえて

あなたの来ない日であっても、おかえりと言うように気をつけている。どのタイミングでかと言えばおそらく帰宅してすぐなのでしょう。ただし、普段靴は揃えない。
あなたが来る時は、一緒に玄関に入り、おかえりと言うのでしょうか、その後に靴を揃えて。
関係性が見えて面白いと思いました。


終わったよ 頭をなでる触れかたで眠りを白いシュレッダーにも
シュレッダーかけるべきものかけ終えて私の統べる部屋は清潔


終わったよ、は自分に対してもシュレッダーに対しても。ボタンをしっかり押すと言うよりはタッチパネルみたいな微かに触れるだけで反応するような、そんなシュレッダーを思いました。
そして、シュレッダーをかけるべきものとは何でしょう。具体的なイメージはまだわいてきませんが、シュレッダーにかけられるものはみな過去のもので。それら全てがなくなることで、清潔さを取り戻す。それは部屋から不要なものが減ったというより、過去の清算を終えた今、現在の私の清潔さでもあるのでしょう。
清潔な部屋で、清潔な現在の私は眠る。


生理中一応ひかえていたものを食べるよろこび、本能的な


一応、程度なので食べようと思えばいくらでも食べられたでしょう。それでも食べずにいたのは理性によるものでしょうか。生理が終わり、我慢をせずにすむことも本能的な喜びであれば、好きなものを食べることも本能的な喜びで。


「お墓には相続税が課されません。」蛍光ペンで線を引く箇所


お墓、相続税というのは不思議なもので。近しいものの死と生きている私との間にあるどこまでも現実的なもの、とでもいいましょうか。蛍光ペンで引かれた線は、特筆すべき事項を分かりやすくするもの、というだけでなく。生きている私にとって決して遠い位置にいない死を輪郭づけるもののようにも思えるのです。


なんとなく映画が観たいなんかいいやつがないかをググる なかった


なかったんかーい! とツッコミをいれたくなりますが、よく分かる感覚で。映画が観たい、それもシネマで。しかし観たい映画がないけど観たい。もしかしたら、映画が観たいというよりは、映画館という日常から切り離された空間に身を置きたいのかもしれません。


Cセットサラダとスープ昼食を抜いた日だけの帳尻合わせ


昼食を抜いた日は晩御飯にサラダとスープがついたセットを追加で頼む。
二句目までの名詞をとつとつと重ねた感じは、言葉足らずで気になるような。あるいは帳尻合わせのルーティーンとして、食べたいかどうかも関係なく頼む無感情さのようにも思えるような。ちょっとした危うさも感じました。


帰り道そっと車がすぐ横に 私あのとき死んだのでしょう


車が横を通り過ぎるとともに感じる風。ふっと、自分の魂が持っていかれるような。不思議な感じに死を重ねたように、想像しました。
横にの後に隠されているのは、(来る)や(いる)みたいな言葉かな、と思います。車が自分の近くを通り抜ける時の、車が自分の横に来たその瞬間に、何かのスイッチが切り替わるような。「あの時」と「無数の死」を越えて今の私はいるでしょうか。


カレンダーアプリを月曜始まりに設定するよそれだけの夜

月曜始まりか日曜始まりか、それを変えるだけで今までの自分の中にあったスケジュール感覚とでも言うべきものが全てずれ込んでしまうような気がします。
今まで日曜始まりでやっていたのを何らかのきっかけで月曜始まりに変えたのか。あるいは、新しくいれたカレンダーアプリが日曜始まりだったので正したのか。
なんとなく前者に思えてならないのです。自分の感覚が狂うようなことに対しても、それだけのと言ってしまえる夜。


誰のことも心配せずに玄関のタイルを磨く真昼 まぶしい


タイルも昼の太陽も、そして私の心もきっとまぶしい。
そして、こうも直接的に「まぶしい」と言われてしまうと、どうしても影の存在を深読みしてしまうことをお許しください。

一首目の「あなた」以降で初めて、「誰」という他者を現す言葉が出てきました。

おかえりと言うように気をつけている


という一首目の上句。これはあなたが来た時にちゃんとおかえりといえるかなという心配があったのでしょう。そして、今、おかえりと言っていたであろう玄関で誰のことも心配していない。
この連作の時間軸の中であなたとの関係の変化を感じてしまいました。
もしかしたら、シュレッダーで清潔にしたものとは、カレンダーの設定を変えたのは、もう一度連作を読み直していった時に、いくつもの考えが新たに浮かんできます。


生きることや生活に関することには、一歩引いたというか理性的で。あるいは人為的な潔癖さとでも呼べそうな感覚が存在しているように思えました。一方で死にしては漠然とながらも手触りが生な感じで伝わってくるようでした。
最後に、一番好きだなと思った歌は、

「お墓には相続税が課されません。」蛍光ペンで線を引く箇所

でした。ありがとうございました。

短歌相互評36 鷹山菜摘から 森本直樹「からっぽ」へ

2019-03-31 12:54:35 | 短歌相互評
森本さんは私と同じ未来短歌会の方で、年齢も近いことを今回知りました。相互評を担当できて嬉しいです。

眠りたくなくて来ている喫茶店のケーキケースの下段からっぽ

閉店が近いのだろう。ケース下段のケーキたちは既に売り切れたか、片付けられてしまっている。カ行の連続のメロディにのせて、どんなケーキがあったのか想像させられる。連作「からっぽ」で展開する世界は、眠りたくないときに来るような、この喫茶店が出発地点となる。

ブレンドコーヒーフレッシュなしと書かれたる伝票用紙が折りたたまれる

いちばん文字数が多いために目立つ一首。破調部分は店員が注文内容を読み上げるように一気に読みたい。「ブレンドコーヒーフレッシュなし」という、短歌に使うには長い言葉だからこそ、伝票の折りたたまれている様子が表現されている。

シャッフルで流れる曲のあいみょんの愛称なんだと思っていた名前

これはそのまま「わかる」歌(私もアーティスト名と曲のイメージの差に驚いたひとり)。事実を知った以前・以後の自分ははっきり分かれてしまう。その分断を、偶然に曲が流れたとき噛みしめている。もう戻れない過去がある。

パチンコ屋の前に並んでいるうちの一人がマンホールを撫でている

実際にその光景を見たらぎょっとするはずだ。道路掃除でもないだろうし。験担ぎか何かでそういうのがあるのか。並んででもパチンコ屋に行く人の世界を目撃してしまった。

ペットボトルを捻り潰せば手のひらに浅くくい込むいくつかの尖り

普段のペットボトルは手にやさしい形なのに、ひねりつぶすと確かにバキバキになる。それでも凶器とはなり得ない。「浅く」を逃さなかった、手の感覚が敏感であることがわかる。

コインランドリーの手前のごみ箱にやたらと捨ててあるレジ袋

似たような場所を知っている。ごみを入れたレジ袋がたくさん捨ててあるのかと思ったが(地域によっては指定ごみ袋でなくてもいいところもある)、中身のないレジ袋自体が山積みになっているのかもしれない。人間がつくった便利さに人間がついていけていない世の中。どことなく全体的に白い歌。

古着屋の暗やみに立つマネキンがあまりに痩せているような気が

このマネキンはかわいそうなマネキンなのだろうか。それとも古着屋だから、暗いから、そんな気がするだけなのかと自分の感覚を疑う。「暗やみ」の表記にこだわりを感じる。

いつの間にか小雨が降っているなかの私の肩にシャツがはりつく

指を鳴らし損ねてしまう短めの息継ぎほどの音を残して
なんとなくうまくいかない毎日。現実に負けそうなとき、現実との間にすこし距離をとって、非現実感を混ぜることでほんのり夢をみているような感じ。連作の中の主人公として、そうやって人生に立ち向かっているんだな、という人物像が見えてくる。

コンビニの前に立ちたる逆光の人が誰かに手を振っている

私は大学時代にコンビニでアルバイトをしていたので、コンビニ関連の楽しい短歌が好きだ。姿のよく見えないふたりがコンビニで集合なのかコンビニで解散なのか(どちらもよく見るし、私もする)、どちらにせよほっとするやりとり。それを見ている、自分。「逆光の人」も「誰か」も、自分を含む誰もがそうでありまた誰でもない、というイメージが「コンビニ」の言葉に託されている

好きだった音楽が耳に馴染まないそんな時間が来る、唐突に

私の翼であったはずのものたとえば自転車あるいは珈琲
外部を描写する歌が多い中で自分自身の変化も描かれる。変化に気づいたときにはもう、既になにかが始まってしまっている。ケーキケースがからっぽだったことを思い出す。

鍵穴に鍵を差し込むひとときに傷つきあっている音がする
生ぬるい水道水にむせ返る気恥ずかしさが溢れるように
フライパンの底に圧されてたわみたる青白い色の炎を思う

帰宅してからも日常的な行為を冷静に捉え直している。鍵に暴力のイメージを重ねることはしばしばあるが、それは一方的なものではないと表現するのがこの主人公のパーソナリティである。むせるときのあの苦しさも、気恥ずかしさが溢れる現象だったのかと納得してしまう説得力がある。普段の暮らしの中で、自分にコントロールされている炎にひそむエネルギーを思うときの、何かが起きてしまいそうな予感を「思う」にとどめて連作は終わる。

すてきな作品でした。「からっぽ」というタイトルで、明るい言葉も出てこないのに、むなしさはない。逆に「いっぱい」になっていては何も出入りする余裕がなくて、これからを生きていけないからでしょう。からっぽなのは、地味な現実の先にある、これからやってくる運命を迎え入れるためだと受け取りました。私も人生の過渡期にある人間です。そのような境遇の主人公が、本人は気づいていないかもしれないけれど、自身の内部で静かな思いを燃やしていて、希望を感じられる連作です。

週末は冷蔵庫がからっぽな鷹山菜摘より
森本直樹様「からっぽ」によせて

短歌評 わが短歌事始め Ⅳ 岡井隆(承前) 酒卷 英一郞

2019-03-02 22:00:15 | 短歌時評
 岡井隆の歌業を、一九七二・昭和47年思潮社刋『岡井隆歌集』所收の初期作品「О(オー)」、第一歌集『斉唱』、『土地よ、痛みを負え』、『朝狩』、『眼底紀行』、そして以降の未完稿「天河庭園集」から、全卷を橫斷し、通底するテーマ別に俯瞰してきたが、今少し續けてみたい。
 ここまで見てきたのは、先づごく初期のアララギ系先行作品の模寫、その嫋やかな自然詠。

  布雲(ぬのぐも)の幾重(いくへ)の中に入りし日は残光あまた噴き上げにけり 『岡井隆歌集』「О」


 つぎに怒濤のごとき政治への熱い季節。とくに市民革命への幻想と幻滅。

  朝狩にいまたつらしも 拠点いくつふかい朝から狩りいだすべく 『朝狩』

 そして岡井作品のまさに中心的課題とも云ふべき性愛のテーマ。その眩暈(めくるめ)く變幻。

  知らぬまに昨日(きのう)暗黒とまぐわいしとぞ闇はそも性愛持てる 『朝狩』
  掌(て)のなかへ降(ふ)る精液の迅きかなアレキサンドリア種の曙に 『眼底紀行』
  女らは芝に坐りぬ性愛のかなしき襞をそこに拡げて
  一方(ひとかた)に過ぎ行く時や揚雲雀啼け性愛の限りつくして
 「天河庭園集」

 醫師の現場性、勞働と安息。

  労働へ、見よ、抒情的傍注のこのくわしさの淡きいつわり 『眼底紀行』

 また日常としての七曜、その喩的陰翳。

  漂々とある七曜のおわるころ穀倉ひとつ日を噴きて居し 『土地よ、痛みを負え』

 小禽類への愛情、山羊への偏愛。

  小綬鶏は唱いて丘をすぎしかば嬬(つま)よぶわれとすれちがいゆく 『土地よ、痛みを負え』
  昨夜(きぞのよ)は月あかあかと揚雲雀(あげひばり)鍼(はり)のごとくに群れのぼりけり 「天河庭園集」
  一月のテーマのために飼いならす剛直にして眸(まみ)くらき山羊 『朝狩』

 思念の定型〈フォルム〉としての雲。

  雲に雌雄ありや 地平にあい寄りて恥(やさ)しきいろをたたう夕ぐれ 『土地よ、痛みを負え』
  刃(は)をもちてわれは立てれば右ひだりおびただしき雲の死に遭(あ)う真昼 『朝狩』

 樹木愛、とりはけ楡と喩。ふたつの文字の形象的近似價に寄せる喩化。

  産みおうる一瞬母の四肢鳴りてあしたの丘のうらわかき楡 『土地よ、痛みを負え』
  暗緑(あんりよく)の林がひとつ走れるを夕まぐれ見き暁(あけ)にしずまる

 性の時閒をめぐる夜と異なるいまひとつの夜の孤影。

  匂いにも光沢(つや)あることをかなしみし一夜(ひとよ)につづく万(まん)の短夜(みじかよ)  『土地よ、痛みを負え』
  たましいの崩るる速さぬばたまの夜のひびきのなかにし病めば 『朝狩』
  四月二十九日の宵は深酒のかがやく家具に包まれて寝し 「天河庭園集」

 ここまでが前囘テーマのお浚ひであるが、設營された主旋律は、ときに伴奏し、共鳴し、反響する。止むことのない殘響を思ひつくままにいくつか拾つてみる。

 學究的一面は旣に觸れたが、さらにブッキッシュな側面が加はる。

  textの読み浅かりし口惜しさの蝶逐いつめており水際(みぎわ)まで  『土地よ、痛みを負え』
  つねに逐われつつ遊ぶかな一隠語ゆえ百科全書(エンシクロペヂア)を漁り
  むらさきのニーチェ潜(くぐ)りし昨(きぞ)の夜の肺胞ひとつづつ血まみれに 「天河庭園集」
  闘争記一を購(か)いたるゆきがかりそのあとのしどろもどろの別離
  カフカとは対話せざりき若ければそれだけで虹それだけで毒

  ばあらばらあばらぼねこそ響(な)りいずれ斎藤茂吉野坂昭如(あきゆき)

 「闘争記」一首は、今囘の隱れテーマとも云ふべきに直結するであらう「或る私的事情」(『岡井隆歌集』「書誌的解説とあとがき」)を匂はせるに充分であるし、「斎藤茂吉野坂昭如」は、その顚末の事後の咆哮、安堵でもあるのか。

 ブッキッシュ=書癡的であるとは、當然のごとく詩人の眞正面からの自畫像(ポルトㇾ)でもあるが、自づから言語への執着へと繫がる。

  一語に牽(ひ)かれ一語に搏(う)たれわれはゆくわがわたりゆく藍(あい)のあかつき 『朝狩』
  ちぎれては翔(か)ける言葉の風切の夕映えのなかはかなく高く 『眼底紀行』
  偽装して時のさなかをゆくときの言葉は何ぞみだりがわしき
  現実は悶えにもだえゆくものをくぐもりわたる言葉の鏡
  櫂(かい)二つ朝あわ雪に漕ぎいでて現象のかげことばのなだれ 「天河庭園集」
  優しさははずかしさかな捲きあがる水の裾から言葉を起こし

 それは眞直ぐに書くと言ふ行爲、その手際を、そして歌の調べそのものへと轉ずる。

  こころみだれてパン嚙むころぞ真日(まひ)くれてさわ立ちやまぬ歌の翼よ 『朝狩』
  夜をこめて歌の風切雨覆(かぜきりあまおおい)まなかいに見ゆ刃のごとく見ゆ
  書いて個を超えつつ書けば春はやき星の林の折れ曲る枝見ゆ 『眼底紀行』
  照らされてわが掌にあるは神経のはせくだる谷の模写ぞ鋭き
  左手で書きしずめいる詩の底へたとえば銃身のごとき心を

  曙の星を言葉にさしかえて唱(うた)うも今日をかぎりとやせむ 「天河庭園集」
  終着のとき告げている定型のややなまりある声ぞかなしき    
  以上簡潔に手ばやく叙し終りうすむらさきを祀(まつ)る夕ぐれ


 ことばはことばを呼び、重なり、連なる疊語(ルフラン)の細波、秋波。岡井の超絕技法。

  溺れつつかち渉(わた)りつつたどり来し道くれないの椅子に終れる『朝狩』
  すべて選みのそのひとときにかかりたるさゆらぎにつつさやぎつつ来む 『眼底紀行』
  五月五日午後五時ごろは飯をはむ風なかの花みだるる食思
  率寝(いね)てのちは芝が萌え出すじりじりと燃えつくしてはわが悔(くい)止まむ 「〈時〉の狭間にて」
  応和して遊戯(ゆうげ)して葛(くず)の目覚めよさめてゆく愛のさめゆく沢の霧雨
  しげりゆく卯月五月(さつき)のさわさわと青かきわけて生きて喘ぎて 「天河庭園集」
  重くまた狭く募(つの)ればこころよりこころへさやぐ枝架けゆかむ
  ひとたびふたたびみたびよたびまで声あげて寄る死の水際(みぎわ)まで

  

 書く行爲の基底には個の存在が。

  私(わたくし)のめぐりの葉のみくきやかに世界昏々と見えなくなりつ 『朝狩』
  存在が狩られるはつかなるときに白じらとわがこころの遠矢 『眼底紀行』
  存在を狩りて夕ぐれいちじろく鋭く澄みてゆく耳のある
  イコンからイデアへわたるいしのうえに橘ぞ濃き憂(うれい)ひろぐれ

  踏み込まむかの体験の丈余の土間 鞍部・残部・陰部・患部とこそ響(な)れ 「〈時〉の狭間にて」
  生きるとは匍匐後退にいばりのつくばつくづくおもいあぐねて 「天河庭園集」

 やがて個の存在が世界を圍繞する。歌の優しさ、鋭さ、翳りもて。

  世界しずかに飜(ひるが)えるとき垂りながら一房熟るる猛々しけれ 『眼底紀行』
  かたわらに鏡を置けば折り折りに見ゆ わが立てる世界の向う岸との曇る
  寄りがたき重き世界を築きたる死の周縁に一日(ひとひ)居りたる 「天河庭園集」
  此処(ここ)へ来(こ)よ此処へ時間に殉(したが)いてうらぎれるだけうらぎりながら

 世界を視つめ、自己存在を凝望する眼、眼、眼。

  眼もて射よリズムの罠をはりわたせ朝狩り立ちに遅れ来ぬれば 『眼底紀行』
  風景を渉る眼の群(むれ)のさやさや 山が来て青い地峡をかこむ時 「〈時〉の狭間にて」
  眼は耳の意志か小さきいかずちの聚(あつ)まるしたへ出でて撃たるる 「天河庭園集」

 慰藉としての音樂。作者を慰める音律。

  バルトークの太鼓ひびかう うなだれつつ浴槽(ゆぶね)までたどりつきて覗けば 『土地よ、痛みを負え』
  発(た)つべくはことごとく発(た)ちわが裡(うち)に絢(けん)らんと冬の楽(がく)充つるのみ 『朝狩』
  樂興(がくきよう)の刻(とき)は来にけり犇(ひしめ)きて花にしせまる硬葉(こわば)たのしく
  樂興のとき去りにつつ夕ぐれのたてがみ庭にみだれ乱るる 『眼底紀行』
  管弦のあめいろの音(ね)におびき出されて わがこころ優しければか遭う挟み撃ち
  日曜という空洞をうずめたる西欧楽(せいおうがく)のかぎりなき弦(げん) 「天河庭園集」
  ピアノとはおどろくばかりみだらなる音連(つ)らなめて夜半(よわ)をわたれる
  
 突然氣がついたことがある。岡井隆の語る部屋。部屋とは何か。〈個〉の身體的、精神的空隙(トポス)。時閒の暗箱。思索の容器(うつは)。ときに房内、男女の睦びの胎内。

  部屋をかえ椅子かえてなお読みがたし炎えわたりたるこの午すぎを 『眼底紀行』
  八偶(はちぐう)にあわきかげりを置きながら部屋はありありとわれを擁(いだ)けり 「天河庭園集」

 最後は岡井の雄性、丈夫(ますらを)振りと男の不條理について。

  藻類(そうるい)にしきり逢いたく雪の来る半時間前巷にいでつ 『朝狩』
  怒りつつ垂鉛(すいえん)をまたおろすかな遠き底辺の白微光(はくびこう)まで 『朝狩』
  火を焚いて男高わらう小路あれ満たさるるなき夕ぐれを行く 『眼底紀行』
  男とは常(つね)惹かれてよあさつきの朝粥の舌刺せば憶おゆ 「天河庭園集」
  飛ぶ雪の碓井(うすい)をすぎて昏みゆくいま紛れなき男のこころ
  欲望のささくれ立ちて声もなき群青(ぐんじよう)くらきまで煮つめたり
  此のあたりをかぎりなくかぐわしくせよ掻き立ててもかきたてても寂しがれば
  憂愁の午前黙(もだ)あるのみの午後杉綾(すぎあや)を着て寒(かん)の夜に逢う
  騒ぐなら国のかたぶくまで叛きてむ直腸に鉛沈めて


    *
 
 さていよいよこれからが本題である。前囘末尾で觸れた『岡井隆歌集』の「書誌的解説とあとがき」の「或る私的事情」について觸れなければならないのだが、怠惰な評者に時閒の切り賣りが可能とあらば、いま一度の延命を圖り次の機會を期したい。  (未完)

短歌時評第143回 欲望を超えるために 濱松哲朗 

2019-03-01 03:34:03 | 短歌時評


 結局はこの話をしなければいけないのだと思う。欲望についてである。
 東直子との共著『しびれる短歌』(ちくまプリマー新書、2019年1月)の中で、穂村弘はみずからが短歌を始めたバブル期を回想しながら次のように言う。

 短歌の世界に限定して言うと、俵さんとか加藤治郎とか僕がバラバラでありながら共通しているのは、欲望に対して肯定的だっていうこと。それが口語短歌と結びついていたから、初期に口語で出た歌人はみんなそうだと思われて、そんなにてらいなくていいのかお前らっていう、その違和感ですごく叩かれた。単に口語が異質だったっていうだけじゃなくて、その背後にあった欲望の肯定が受け入れられなかったんだと思う。
(『しびれる短歌』第六章「豊かさと貧しさと屈折と、お金の歌」p.157)

 80年代に登場した、いわゆるライト・ヴァースからニューウェーブに至る一連の作者たちの「ハイテンション」さについて、永井祐や斉藤斎藤といった後続世代が理解できないと述べる理由を考察する過程で穂村は、「僕らが岸上大作がなんであんなに青臭いのか理解できないっていうのと同じで、理解できないと言いつつ時代の中で見れば理解できるし、もちろん彼らだって時代の中で見た時の感触はわかると思う。だから「理解できない」というのは、自分たちには、受け入れがたいってことなんだよね」と指摘する(p.158-159)。その少し手前の箇所でも、戦後の土屋文明、バブル期の俵万智、平成の永井祐という三人を「時代の中で」読み解きながら、「土屋文明の頃はお金がないから、ほしいものや栄養価があるものが買えなくて、貧しくて苦しかった。単純に日本人の夢がかなった時代というのが八〇年代、俵万智さんの時代。そこから三十年たって、永井くんになると不思議な様相を帯びていて、もう一度、一周回った貧しさの中にいる。(…)大晦日にデニーズにいるというのが貧しいといえば貧しいし、豊かといえば豊かという」といった分析を見せている(p.140)。
 穂村のこうした見立てに、筆者は苦々しいほどの違和感を覚えずにはいられなかった。ここでは経済成長と「豊かさ」が純粋無垢なまでに順接で結ばれている。確かに平成の三十年とは、バブル崩壊後の深刻な不況、実感なき経済回復や格差の拡大といった右肩下がりの図式化によって語り得るものであり、だからこそ穂村は永井祐の作品を通じてこの時代を「貧しいといえば貧しいし、豊かといえば豊か」であると読み解いたわけだが、しかし「一周回った貧しさ」という認識は、本当に現代という時代に即したものとして、概念や認識を更新しつつ為されたものと果たして言えるだろうか。「永井くんは、そういう僕らの世代の口語の文体では、自分たちの生活実感は歌えないっていう確信があったと言っていて、それはそうだろうなと思う」という穂村の理解は、残念ながらバブル期という、経済成長のグラフにおける山の上から平成の永井祐を見下ろす形で為されたものでしかないのではないか。
 戦後の復興、高度経済成長を経てバブル期に至るまで見事な右肩上がりを描き、その後はバブルが弾けるとともに呆気なく下降するこのグラフは、経済的指標である以上に、穂村の言う「欲望の肯定」の度合いを世代や年代ごとに示したものであるようにも見える。だが、「貧しさ」と「豊かさ」の様相がそれまでの二項対立的把握に基づく言語では捉え切れなくなったというのに、このグラフはあくまで昔ながらの、戦後の香り漂う「貧しさ」や「豊かさ」で世界を切り取ろうとする。永井祐が先行世代の口語との文体的断絶に意識的であったのは、根底にある「欲望の肯定」の構造に対して賛同できないという静かな意思表示だったのではではないか。「豊かさ/貧しさ」という対立構造そのものが、経済不況の空気感を伴う形で脱構築されていったのが、平成という時代だったのではないか。その空気とは、例えば、こういうものである。

 現在四〇代である私たちの世代は、ロスジェネとか氷河期世代とか呼ばれた。非正規雇用率が高く、未婚率が高く、子どもを持つことの少なかった世代である。
 いちばん働きたかったとき、働くことから遠ざけられた。いちばん結婚したかったとき、異性とつがうことに向けて一歩を踏み出すにはあまりにも傷つき疲れていた。いちばん子どもを産むことに適していたとき、妊娠したら生活が破綻すると怯えた。(…)先行世代の女性学や男性学が扱ってきた「女性/男性であること」の痛みは、まるで贅沢品のようだった。正社員として会社に縛り付けられることさえかなわず、結婚も出産も経験しないまま年齢を重ねていく自分というものは、「型にはまった男性/女性」でさえあれず、そのような自分を抱えて生きるしんどさは言葉にならず、言葉にならないものは誰とも共有できず、孤独はらせん状に深まった。
 
(貴戸理恵「生きづらい女性と非モテ男性をつなぐ小説『軽薄』(金原ひとみ)から」「現代思想」2019年2月号)

 1978年生まれの社会学者である貴戸が示すのは、それまで当然のごとく受け入れられてきた「」が、バブル崩壊以降の平成不況の煽りを受ける形で一気に使い物にならなくなったという当事者的認識だ。これを読んだ上で、再度、「欲望の肯定」の最大値としてのバブル期という穂村の見立てに視線を戻してほしい。「豊かさ/貧しさ」や「欲望」といったグラフによって時代を見ようとすることそのものが、現代の多様かつ拡散した内情を見て取ろうとするのにはもはや不適合であると言わざるを得ないのではないか、という疑念がおのずと湧いてこないだろうか。
 一見理解を示しているように見えるが、実はその視点そのものが明らかな分断要因であった――。そうした事態を穂村の評論中における「歌語の開発」の中に見出したのが、寺井龍哉の評論「穂村弘の公式(フォーミュラ)―歌語の開発とその周辺」(「歌壇」2019年2月号)だった(声に出して読みたいタイトルの評論である)。「棒立ちの歌」や「武装解除」といった穂村流の批評用語や、「改作例」を示すことで「自説を補強する」穂村の方法は、前提として「読者と作者が作歌法に関する規範的な意識を共有することを要請」していると寺井は指摘する。

 穂村は「共通意識」のもとで互いに「武装」し、格闘することを期待していたのだ。そして裏切られた期待は、新たに登場してきた作品に「棒立ち」や「武装解除」の名を与え、その戦意の希薄さを特徴づけた。いずれの用語も争闘すべきものが争闘しようとしていない、という含みを多分に持つ。「共通意識」のうえで格闘することを望む穂村は、それを共有できず、かつ戦意も認められない「若者たち」の歌に苛立ち、迂遠なかたちで宣戦していたのだ。
(寺井龍哉「穂村弘の公式(フォーミュラ)―歌語の開発とその周辺」「歌壇」2019年2月号)

 闘ってくれる相手が見つかって良かったね、等と皮肉を言っている場合ではない。「共通意識」のもとで互いに「武装」し、格闘することを期待」するという行為は、換言すれば短歌的・批評的「欲望の肯定」の発露である。穂村の批評用語が「自身の批評の方法の挫折を契機として、異質なるものを位置づけるための命名の結果」として現れていること、それらの用語が「従来的な批評の方法が挫折させられてしまうことへの苛立ちと揶揄の調子を不可避的に含み込」んでいる事実を指摘する中で、寺井は穂村の言説に含まれる短歌的「欲望の肯定」を、視点の多元化を導入することで無効化しているのである。付言すれば、ここに見られる穂村の「共通意識」への希求や「武装」への意志は、「欲望の肯定」の最大値というある種の極点において自己を形成した者による、対象を見下ろす姿勢を含んだ言説として捉えられ得るものだ。そこには規範化ないし歴史化に対する純粋なまでの従順さと欲望とが含まれている点は、見逃してはならない傾向だろう。シンポジウム「ニューウェーブ30年」で、かつてニューウェーブが「まるでわれわれが意図した運動体であるかのように誤認され」たことがむしろ「われわれにとって好都合だった」(「ねむらない樹」vol.1、2018年8月)等と、極めてしたたかな発言をしていた根底には、穂村の「欲望の肯定」への意志が渦巻いていたと言えるのではないだろうか。
 「打開策はまず、問いの形式の転換だ」と寺井は言う。そして「なぜかつてはそうだったのか」を問いながら「過去の自明を現在の眼で解き明かすこと」が重要なのは、何も評論や批評に限った話ではない。例えば、ニューウェーブと同時代の女性歌人について「女性歌人はそういったくくりのなかには入らない、もっと自由に空を翔けていくような存在なんじゃないかと思う」、「天上的な存在」(「ねむらない樹」vol.1、2018年8月)等と言ってしまう加藤治郎は、男性中心主義の社会において錬成された「男の子の国」的欲望の肯定によって為される差別の再生産について、「現在の眼で解き明か」せては決していない(「男の子の国」の概念は斉藤美奈子『紅一点論』からの援用である)。「加藤治郎の「天上的な存在」という言葉は、葛原妙子を「幻視の女王」、山中智恵子を「現代の巫女」と呼んで封じ込めたものと同じ圧力を持っている」と、加藤や穂村と同世代である水原紫苑は一刀両断していた(「前を向こう」「ねむらない樹」vol.2、2019年2月)。
 残念ながら、筆者は『しびれる短歌』のライトな語り口にも、「欲望の肯定」の度合いの一番高いところから観測されているような違和感を覚えてしまった。そもそも第一章の「やっぱり基本は恋の歌」という章題や、そこに含まれた暗黙の相聞歌待望論、更には「抑圧されてないからテンションが上がらないということもあるけれども、何でそうはしゃぐようなことなんですか? みたいな感じでしょう。飢餓感がないというか」(穂村、p.35)、「私たちの時代は、恋への夢とか憧れとかはまだロマンがあったんだけど、恋愛があまりにもカジュアルになりすぎて、彼女たちにはもうそれがない感じですね」「ものすごく美味しいものを紙皿で食べてるみたいな気がしないでもない」(東、p.36)等という発言の端々に、穂村・東両名における「欲望の肯定」の意外なまでの深さと、後続世代との断絶の深さを思わずにはいられない。こういう話題になるとすぐに、岡崎裕美子の「したあとの朝日はだるい 自転車に撤去予告の赤紙は揺れ」(『発芽』所収、そういえばこの『しびれる短歌』には引用歌の出典表記が一切無い)が持ち出しされる、という図式そのものにも後続世代は既に飽きているだろう。
 そんな中で、錦見映理子が『めくるめく短歌たち』(書肆侃侃房、2018年12月)の中で、飯田有子『林檎貫通式』(2001年、BookPark)を穂村が評論「酸欠世界」(『短歌の友人』所収、初出は角川「短歌年鑑」2004年版)で提示した読みから解放する試みを示したことは、非常に意味のあることだった。錦見との巻末対談の中で、「歌集をまとめるというときに、初期や中期の作品は全部カットされていて、限定された世界を作っていた。そのときに彼女の決意を読み取るべきだったんだろうけど、僕もそこまでキャッチできなかった」と述べる穂村は、既に飯田有子に対して「現在の眼で解き明かす」作業を、錦見の飯田有子論を経由することで行っている。「現在の眼」はだから、決してある世代に特権的な視点ではなく、誰もが実践可能な考察と自省に対する方法の方法、メタ的な方法論であると言えよう。
 「わがまま」や「棒立ち」が90年代以降に登場した世代を括るような批評用語に必ずしもなり得なかったのは、「平成」という時代の著しい変化とともに「欲望の肯定」への姿勢が一変したことで新人たちの作品が敏感に反応した一方で、批評の側が「武装」の姿勢を変えなかったために、作品と批評、作者と評論家の間に深い断絶が生じていたからではないか。小説においてもここ最近、藤野千夜『少年と少女のポルカ』や松村栄子『僕はかぐや姫』といった、90年代に登場した作家の初期作品の文庫復刊が顕著だが、これらも歌壇の現状と同様、批評する言葉がようやく「作品」に追いついた、ということを意味していると筆者は考えている(そういえば「J文学」もマッピング的文芸の代表的失敗例だと言える)。「現在の眼」によって語る言葉を探る過程で、私たちはこれから言葉という最悪の構造と何度も刺し違えることになるだろうが、それでも、錆びかけの構造に追従することで、見失われ、貶められ、無かったことにされてしまうものが目の前にある限り、私たちは、これまでとは別の仕方で、言葉を紡いでいくことを願うだろう。
 私たちの言葉は、永遠の途上にある。

短歌時評第142回 2018年に読まれた歌集・歌書から-新しい扉- 大西久美子

2019-03-01 03:29:37 | 短歌時評

   
「短歌往来」2019年3月号の「50人に聞く2018年のベスト歌集歌書」は、50人の歌人各々が2018年に刊行された歌集歌書から3冊の歌集歌書をあげ、歌集歌書、あるいは、2018年の収穫についてコメントをつけ、内、一冊をタイトルとする特集である。 

今回、私も寄稿させていただき、加藤治郎歌集『Confusion』(書肆侃侃房)、谷岡亜紀著『言葉の位相-詩歌と言葉の謎をめぐって』(角川書店)、栗木京子歌集『ランプの精』(現代短歌社)をあげ、タイトルを『Confusion』加藤治郎歌集とした。

『Confusion』を開けば、大胆なレイアウトにまず、驚く。緩急、ではなく、急急。
視線が上下左右に絶え間なく動くデザインのレイアウトである。
読者は、自らの視神経、脳にかすれるような疲れを覚えながら、歌を追い続ける。この肉体の覚える疲れは、今、という時代に対する漠然とした(あるいははっきりとした)不安や不信を自覚する時にぶわーっと沸き起る感覚に近い。「いぬのせなか座」の計算されつくしたレイアウトマジックの効果により短歌作品が走り出し、時代の流れに急かされるような気持ちを覚える。

加藤治郎がレイアウトを「いぬのせなか座」に一任する際、再現可能としてほしい、という希望以外の注文は全くつけなかったという。それゆえ『Confusion』は、「いぬのせなか座」が感受し、解釈したというアピールの込められた歌集といえよう。読者は「いぬのせなか座」が施す視覚的なフィルター(レイアウト―読み取り―)を受け取る。そして共感、あるいは戸惑いながら否応なしに歌集の世界に巻き込まれてゆく。

晩白柚(ばんぺいゆ)喰うべかりけり家族いはひとつ平らな食卓がある       p40

検査機の後ろに青い穴がある1234(ワンツースリーフォー)ファイバースコープ p61

短歌作品に添える大きな太字のルビ、その衝撃性にも驚く。
強い意志を感じるルビの存在感に圧倒される。

「いぬのせなか座」の山本浩貴にレイアウトを依頼する始まり(依頼はTwitterを通して行われた)が歌集に納められている。ここから加藤治郎の仕事と「いぬのせなか座」の仕事がそれぞれ独立していることが分る。歌集の中でオープン化されているのだ。
分業ではない。ファクトリーの仕事でもない。レイアウトが施されたテキストが初めて「いぬのせなか座」から戻ってきた時の加藤治郎の驚きと喜びはいかばかりであったろう。

短歌史の議論はざらりすれ違い若き日は雲のかなたに薫る  p39

2018年5月に『Confusion』は刊行された。加藤治郎と「いぬのせなか座」の挑戦は衝撃を伴いながら読者に届いた。反応は様々だろうが、この挑戦に続く人々は今も生まれている。今後も、増えてゆくことだろう。
 
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2018年9月より、3回に渡り、「短歌時評」を担当させていただきました。
今回が最後となります。
ご高覧いただきましたことを感謝いたします。ありがとうございました。