「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評158回 「あなたの歌は寂しいね」 千葉 聡

2020-07-26 11:42:16 | 短歌時評

 高校で国語を教えている。その日々を短歌やエッセイに書き、発表してきた。
 本名で紙誌に書いているし、僕の本は高校図書館の入り口に並べてもらっているから、校内のすべての人が「ちばさとは歌人だ」と知っている。同僚は、何か面白いことがあると「これ、作品の題材にならないかなぁ」と言って、僕に教えてくれる。生徒たちは「いつかわたしたちのことを短歌に書いてください」と言ってくれる。
 学校でいいことがあると、帰り道も楽しい。「今夜はこのことを書くぞ」と意気込んで、早く家に帰ってパソコンの前に座りたくなる。バスの窓から夕暮れの町を眺めて「俺は本当に恵まれているなぁ」とつぶやく。
 だから、今までに書いた本は、だいたい同じ路線になった。「学校でいろいろなことがある。不慣れな教員『ちばさと』は失敗したり、苦労したり。それでも生徒や同僚にささえられ、最後には立ち直る」というパターン。実生活そのものだ。
 どの本も心をこめて書いた。自分のダメなところを思い切ってさらけ出した。個人情報保護のために出来事の設定を少し変えているものの、事実を曲げずに書いた。でも、だからこそ、どうしても同じパターンになってしまう。
 読後感がさわやかです。明るい短歌に元気をもらいました。熱血教師ですね。わたしもこんな学校に通いたかった……。みなさんからあたたかいご感想をいただいたが、自分としては「このまま同じようなトーンで書き続けていいんだろうか」と悩むこともあった。
 去年、短歌の会合で、ある先輩歌人から話しかけられた。
「ちばさとの歌って、とっても寂しいね」
 その先輩の顔をまじまじと見つめた。
「寂しい、ですか?」
「そう。あなたの歌は寂しい。とっても寂しい」
 何も言い返せなかった。寂しい? 本当に? その 逆だと思っていた。明るく元気な短歌が「ちばさと」の持ち味だと思っていたのに。
「どこが、どんなふうに寂しいと思われたのですか」
 口ごもった末に、僕がなんとか質問すると、先輩はほほえんだ。
「それはね……」

   *   *   *


 コロナウイルスの感染はおさまらないが、新しい歌集は次々と刊行されている。短歌という小さな定型詩が、どれだけ人々のささえになっているかを実感する。
 コロナ禍で出版された歌集には、「明るい」「寂しい」のような大きなことばでは括れない、どこか揺らぎがある通奏低音を感じる。
 小島なおの第三歌集『展開図』(柊書房)には驚いた。それまでの歌集では、若い感性を通過した透明感のある歌を前面に出していたが、この歌集で小島は、周囲をこまやかに見つめる歌に重きをおくようになった。

  思うひとなければ雪はこんなにも空のとおくを見せて降るんだ  小島なお『展開図』

  海に向く背中ばかりの海にきて海もまた後ろ姿と思う


 雪をもたらす白い空を「空のとおく」と詠む。今、この身に降りかかる雪のふるさとがどこにあるのか容易に認識できないほど「とおく」。「とおく」には、わからないままに「どこかとおく」と言っているような、子どもが果てしなさを知った瞬間のような心もとなさがにじむ。「空のとおく」が、空をただひたすら眺めたあとで得たひとことのように思えてくる。
 海を見て感傷的な気分になるというパターンの歌は多いが、海を「後ろ姿」と詠んだのは小島が初めてではないか。なんて大きな「後ろ姿」だろう。海、海を見ている人々、そしてそれらすべてを見ている人。「後ろ姿」ということばの寂寥感を、海と人々をじっと見つめているという、その行為のまっすぐさが、わずかに救っている。
 工藤吉生の第一歌集『世界で一番すばらしい俺』(短歌研究社)を二回読んだ。仕事から帰り、家の用事を済ませ、なにげなく歌集を手にしたら、途中でやめられなくなり、最後まで一気に読んだ。そして、二回目はじっくりと一首一首を味わうように読んだ。すぐれた短編小説集のような一冊だ。
 工藤は、くすんだ日々をなんとかやり過ごしている青年の姿を丁寧に描く。「自分がどんなにダメなのか」を詠むことは、時に露悪的にも偽悪的にもなる。


  田舎芝居「平謝り」を披露してそのブザマさにより許される  工藤吉生『世界で一番すばらしい俺』


  膝蹴りを暗い野原で受けている世界で一番すばらしい俺


 ダメな自分をくっきりと詠んだ二首を抜き出した。だが、この二首だけでは歌集全体の雰囲気を伝えきれない。描かれている青年は、ダメで、自らのダメさ加減をわかっていて、それでもしたたかに生き抜こうとする。この本を最初から読むと、多くの読者は途中までは「なんてダメな男だ」と軽くあしらおうとするだろう。だが、後半の連作「車にはねられました」あたりから、この青年の心模様が、読者自身の中にも確かにあると気づくだろう。最後の一首に至ったとき、読者はきっと、この青年をいとおしく思うようになる。一つの色に染め上げられない作品世界が、どんな姿かたちをとっていてもそれが自分らしさにつながっているしたたかさが、だんだんと心地よいものに思えてくるだろう。


   *   *   *


 短歌の先輩はどこか遠くを見るような顔をしながら話してくれた。
「ちばさとの短歌は、人を信頼する、人のいいところを認める、人を好きになる、という方向性が決められている。人をあたたかく見つめようとすると、その方向性に合わないものを排除しようという意識が強まる。わたしは、あなたの作品が強いプラスをめざせばめざすほど、あなたがあえて詠まない寂しさのほうを感じてしまうの。ちばさとの本は、明るさと元気さに満ちている。だからこそ寂しいの」
 先輩はさらりと言った。反論はできなかった。でも、何も言わないままでお別れするわけにはいかない。僕はマヌケな声で「ありがとうございます」とかなんとか言った気がする。
 他の人が話しかけてきた。先輩はそちらに挨拶をかえしたりして、なんとなくこの場は終わりになるような気がした。僕が立ち去ろうとすると、先輩は最後にこう言った。
「だからね、ちばさとは、思い切り今の方向に進んでみたら? まだ誰も進んでいない道かもしれないよ」
 そんな単純なことではないだろう。でも、創作者は常に考えている。どのように、何をめざして書いていくべきか。歌人なら、次に詠む一首によって、進むべき方向が見いだせるかもしれない。一首、また一首、詠んでいくしかない。その末に、先輩の示してくれた道もあるかもしれない(が、今はまだわからない)。
 こうして時評を書いていると、自分がしっかりした物書きであるかのように錯覚しそうになるが、とんでもない! 僕は今、迷い、悩み、なんとか書いている。
 新しい歌集を手にとるたび、「この人には負けられない」と思ったり、「短歌って、本当にいいなぁ」と泣きたくなったりしながら。