「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 俳句の国から短歌国探訪(4)電気羊の夢も醒めるころ 丑丸 敬史

2018-02-18 12:57:29 | 短歌時評

(1)はじめに

 俳句実作者である筆者の短歌国探訪記の今回が4回中の最終回である。

 第一回では、短歌がなぜ若者に共感を呼ぶ詩型であるのかを「短歌評 俳句の国から短歌国探訪(1)短歌は若者の器か」として書いた。そして、第二回は「短歌評 俳句の国から短歌国探訪(2)穂村弘と言う短歌」で、穂村短歌を通して現代短歌の流れの原点を見ようとした。そして、第三回は「短歌評 俳句の国から短歌国探訪(3)透きとおりゆく世界の中の短歌」で、『桜前線開架宣言』を通して現代の若者から発信される歌に耳を澄ました。

 これまで3回に跨って、筆者は自分の俳句のスタンスで短歌を眺めてきた。自分の俳句のスタンスとはどんなものであるか、それを示すに、自作の俳句を示すより、自分の好きな俳句を列挙する方がよかろう。それは「短歌評 俳句の国から短歌国探訪(1)短歌は若者の器か」でも採り上げた俳句群である。一部抜粋する。

  きらきらと蝶が壊れて痕もなし       
高屋窓秋
  抽斗の国旗しづかにはためけり       神生彩史

  冷凍魚
  おもはずも跳ね
  ひび割れたり
               髙柳重信

  轢死者の直前葡萄透きとおる        赤尾兜子
  最澄の瞑目つづく冬の畦          宇佐美魚目
  薄氷や我を出で入る美少年         永田耕衣
  鶏むしるそこより枯野ひろがれり      山下洋史
  前世より煮〆めてゐたる牛蒡かな      たむらちせい
  しばらくは葦のかたちに混み合えり     津沢マサ子
  春鳶は垂らすや空の長手紙         安井浩司
  野菊まで行くに四五人斃れけり       河原枇杷男
  綿虫や柩は人を入れ替える         柿本多映
  天地創造了り蜆の動き出す         小林貴子
  白百合の途中は空家ばかりなり       森川麗子
  こうこうと死後の長さを照らす紐      高岡修
  空蟬のなかの嗚咽がこみあげる       谷口慎也
  陰裂に冬の稻妻走りけり          高橋龍
  何度でも殺されにゆく桜かな        嵯峨根鈴子
  気絶して千年凍る鯨かな          冨田拓也

 このような自分の俳句のスタンスはそれとして、このような自分の俳句趣味で短歌を読み込んできて、この読み方では到底良質な短歌を拾い切れないことを、今更ながら、遅まきながら、気付き始めた。

 第一回ですでに述べていた。短歌が思い(想い)を伝えるのに必要十分な長さを持っているのに(伸びやかに枝を伸ばす自然の松のように)、極短の俳句は言いたいことを矯めて切り詰めてその断片を提示する詩型である(人工的に切り詰められた茶花のように)。その違いは、オーケストラ曲とピアノ曲くらいの違いがあるように感じる。オーケストラ曲とピアノ曲とで求めるものが違えば作曲法も自ずと異なる。短歌、俳句、両刀遣いの名手はほぼいない。これは、そこら辺が理解されていないか、理解しても対応ができないかであろう。モーツァルトが全てのジャンルで名手であったことを思えば、こちらの菲才を嘆くしかない。

(2)東郷雄二「橄欖追放」

 どこにいい短歌が隠れているか門外漢が探すことは、他所者がある街に来ていい居酒屋を探すより数段難しい。部外者には到底知り得ない。今回は、ウエッブ上で東郷雄二の「橄欖追放」を読んだ。彼のサイトは主に歌集単位で短歌・歌人を評価している。膨大な数の歌集を鑑賞しており、それがそのまま現代シーンの一端を垣間見せてくれる。その評価眼の良し悪しは部外者には分からないものの、現在の短歌を採取するのにはとても利便性が高く今回、利用させていただいた。

 その前に少々脱線。短歌は歌集で読むもの読まれるものであり、歌人は歌集で評価される(べき)、という固定観念がどこか短歌界にはあるように見える。これは所謂短歌の「連作」という所作にも通じる。その作者の作品をまとめて鑑賞することで、より総合的に的確にその作者の資質を捉えることができるというのはその通りである。しかし、一作品では鑑賞はできないのか? 好きな作品を見つければ、その作者の別の作品も見たくなる。それは自然だが、短歌の場合、ある程度の数の作品から作者の資質を推量し、それを持って作品に逆流させ鑑賞している感がある。俳句における一句鑑賞の作法から見ると短歌の読まれ方は不思議である。

 筆者が所属する俳句同人誌LOTUSも「五十句合評会」なるもので、同人作品(およびその作者の全体像を)を批評鑑賞している。しかし、筆者が、同人が、戸惑うのは、作者はある1つの特性(キーワード)で括れるようなものではなく、むしろ色々な方向性の総体であり、敢えてそれに限定的な言葉を与えて縛ってしまうことはその作者の多様性に箍を嵌めることになってしまうものである。筆者は「五十句合評会」でも、一句一句を独立作品としてそれを鑑賞する。自分の好みに照らして良いものは拾い上げる、ただそれだけである。短歌の場合でも同じであろう。単色な同じような歌ばかり歌う歌人はいまい。一冊の歌集の中にも多様性があり、鑑賞者は自分に響く作品をピックアップして銘記すれば良い。個々の作品から投射して作者の特質を斟酌するのは分を越える行為である。そもそも、作品の作り手を総合的に批評する必要はあるのか? 作品を鑑賞することと作家を論じることは別儀である。歌集、句集としての作品鑑賞についてはまた別稿に譲りたい。

(3)@のみずたまり越ゆ

 今回も自分の好みの短歌を鑑賞する。

  花の名を封じ込めたるアドレスの@のみずたまり越ゆ          杉谷麻衣
  爪に残る木炭ばかり気になって完成しない風の横顔
  教室に向かう廊下は今日もまた私が歩くときだけ螺旋
  深海の珊瑚のことをおもいつつ指は探せり君の背骨を
  傘もまた骨のみ残すいきものか憶えていたき日はすべて雨


 以前の自分なら決して目を留めることのなかったであろう短歌である。一首目、メアドの@を波紋を湛えた水溜りに見立てたのが眼目。それにより雨上がりのキラキラした花の姿が立ち上がる仕掛けである。二首目、「風の横顔」に惹かれた。デッサンで描いている「風の横顔」。おそらく永遠に完成しまい。それが青春というもの。三首目、楽しいことの待っていない教室に向かうアンニュイな感じ。四首目、これこそ、愛を歌うに長けた短歌ならではの見本のような現代の若者の恋歌。俳句で下手に真似をすれば黛まどかになるのがオチ。彼氏の背中に回した手の感触に深海の珊瑚を感じたという。珊瑚は深海には存在しないよ、なんて言う野暮なことを言うつもりはない。もし深海に珊瑚があればそれは白化した珊瑚であり、それこそ白骨を想起させる。そこまで考えて詠まれていたならば、これは気味の悪い歌として鑑賞されることになるが、恐らく作者はただ皮膚の奥底にある骨、という程度で「深海」という言葉を想起したのであろう。五首目、これもたまたま骨。前の歌を引き継ぐものではないが、骨にこそ永遠がある、という作者の思いを感じた。『青を泳ぐ。』より。

  この街にもつと横断歩道あれ此岸に満つるかなしみのため       田村元
  東京市と呼べば親しき川魚の眠りにわれは落ちて行くなり
  くれなゐのキリンラガーよわが内の驟雨を希釈していつてくれ


 これらの歌を単に現代サラリーマンの悲歌と呼ぶには躊躇する。一首目、横断歩道を此岸と彼岸を分かつ橋と見る。短歌が人生を盛るにふさわしい器であることは確かに信じられる。これらの歌が証明している。芸術家には悲しい自画像が似合う。二首目、東京という捉えどころのない茫漠とした鵼的な街。しかし、それを敢えて「東京市」とつぶやくで、自分が捉えられる把握できる限定されたものになる。「親しき川魚」とあるが、これは鮒であろうか、読み手が好きな魚を思い描けば良い。あくまでも自分はその作品から立ち上がるもののみを見たいし、作家の来歴を前書きのようにして読むことに関してはそれを嫌う主義である。だから、この作者がどのような来歴で東京市に流れ着いた(川魚のように)かは興味の範囲外である。ただ、この作者が余所者であり都会に対して疎外感を持っていることは感得できる。三首目、すでに自分に降り注ぐ悲哀という名の驟雨を痛飲するビールで「希釈」するサラリーマン。こんなビールでは希釈できないことは本人が百も承知の筈であるがこのように嘯くしかない。将来、これらは防人の悲歌となるのであろうか。『北二十二条西七丁目』より。

  烏瓜の揺れしずかなり死ののちに語られることはみな物語       松村正直

 これは筆者の俳句の好みに近い。しかし、だからこそ一言言いたくなってしまう。俳人の尺度から見ればこれは言い過ぎである。そこまで言っちゃあ、おしめえよ。「烏瓜しずかに揺れて死後のこと」、「烏瓜しずかに揺れて死後のごと」と即興で俳句に改変した。比較して欲しい。思いを述べることが短歌の一大美質であり、俳句は敢えて言わない文学である(これを大人の文学と言う)。『風のおとうと』より。

  親指はかすかにしずみ月面を拓くここちで梨を剥く夜         國森晴野

 確かに!、膝を打たせ、なぜ自分がこれを発見できず、他人に先に描かせてしまったのか、と悔やませる歌に出会う。離れた2つの事象の本質の類似性、相似性の発見は短歌のもっとも得意なジャンルの1つである。言われてみれば、長十郎系の梨の表面は月面である。月面の内部に瑞々しい風景が広がっていることをも夢想させもする。『いちまいの羊歯』より。

  火の酒を口移されぬ たましひの冥き韻きを雁渡りゆき        今川美幸

 強い酒を口移しされそれが胃の腑に落ちてゆく際の強烈な感覚とその後の酩酊を、「たましひの冥き韻き」と雁の渡りに喩えた。この歌の好ましいところは、上五七の恋人との情事(明らさまな情事は描かれていない)の一瞬を、鮮やかに幻想世界に転じたところ。自分の体の中に広がる暗い夜空を思い、そこを渡り行く雁(酒が流れてゆく様、もしくは自分を貫く雷鳴のような恍惚感)を想起した。この後、恍惚となった作中主体が雁となって冥府を渡って行くのであろう。『雁渡りゆき』より。

 再び脱線する。短歌で言うところの「作中主体」。自由詩でも俳句でも馴染みのない言葉である。伝統的な結社誌の句誌に「母死にて」とでも書こうものなら、お悔やみのメールが来る。つまり、そこではノンフィクションがお約束であるから。しかし、とっくに、現代俳句はそこから脱却している。筆者の同人誌でもそうである。フィクションであるかノンフィクションであるか、そこは大事ではない。フィクション短歌に目くじらを立てる大御所(?)歌人がいるらしいが、それは短歌を狭める行為である。
本歌にあっても、今川美幸がこの歌の本人であるか否か筆者には関心はなく、これが実際にあったことかすらどうでも良いことである。例えば、これを男性が作ったならば、それは女性の気持ちに仮託した歌として見られるであろう。なまじ、これを妙齢の女性が作ると、作者を作品に重ねて読んでしまう。これは歌人の悪い癖である。作品は作者から独立したものである。作品から作者を引き剝がし、虚心坦懐にその一作品のみを眺める、という態度で作品を読むという行為が短歌を広げる。

  たましひのほの暗きこと思はせて金魚を容れし袋に影あり       西橋美保

 形のない「たましひ」を古来、詩人(歌人、俳人)は様々なものに喩えてきた。今川の歌に比べれば、本歌は分かりやすい比喩の歌である。最後の「影あり」という発見で、金魚袋より逆から発想し、魂に影があると想起したことで味わいが出た。『うはの空』より。

(4)翡翠のようにかみさまはひとり

  透明なせかいのまなこに疲れたら芽をつみなさい わたしのでいい   井上法子
  ふいに雨 そう、運命はつまずいて、翡翠のようにかみさまはひとり

 一首目、第三回で採り上げた、雪舟えまの<もう歌は出尽くし僕ら透きとおり宇宙の風に湯ざめしてゆく>を想起させた。若者の持つ不安な気持ちを象徴する「透明」というキーワード。透明な世界を敢えて目を凝らして眺めれば目も心も疲れる。ここでもその不安な若者(男性)の心情と、それに寄り添い慰撫する「わたし」がいる。「芽をつみなさい」が品の良いエロスを読者に感じさせることをもちろん作者は計算して本歌を提出している。エロスを読みとった読者は素直である。キリストよりマリアを敬慕する人は多かろうが、マリア様のような清らかな無償の慈愛の前に男性は為す術はない。二首目、「ふいに雨」から「そう、運命はつまずいて」のつながりはありがちであるが、それに続く下七七の「翡翠のようにかみさまはひとり」の展開は劇的。喩えの技法として、皆が当たり前とは思っていないものをあたかもそれを前提として、別のものを喩えるという技法がある。「かみさまのように翡翠は一羽」では当たり前過ぎて詩はない。雨の中から突然現れる翡翠の美しい姿が印象的である。『永遠でないほうの火』より。

  豆を煮る とおいむかしの生き物を甦らせる作業のように       天野慶
  アルコール・ランプに点火するときの緊張感で(わたしにふれて)
  もう電気羊の夢も醒めるころ未来の消費期限も過ぎて
  愛されるほど甘くなる桃の実にからだの糖度を思いはじめる


 一首目、豆を煮る行為がどことなく魔女が秘薬をグツグツ煮ているようで呪術めく。かつて錬金術で母を蘇らせようとした兄弟がいたが、この行為者も等価交換で何物かを失う運命にある。二首目、実は筆者にとってアルコール・ランプは馴染みのあるものなので扱うときにも全く緊張はないのだが(笑)、ここでは「点火」がキーワード。優しく、でも緊張感を持って、私に触れて私の心に火を灯して、という女性の気持ち。三首目、最近(2017年)、リバイバルされた『ブレードランナー』の原作であるフィリップ・K ・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』、その「電気羊の夢」、電気羊が出てくる夢とも読めるし、電気羊が見る夢とも読める。しかし、ここは文脈から素直に前者の読みをする。アンドロイドのように自分も電気羊の夢を、長い夢を見ていたような気がするが、その夢ももはや色褪せて後には喪失感しか残っていない。「未来の消費期限」が眼目。四首目、<愛されるほど甘くなるからだの糖度を思いはじめる>であればベタで、あーそうですかとなるだけ。しかし、その中央部に「桃の実に」を挿入したことで歌が屈折して、文脈が乱され、読み手の読みを立ち止まらせる仕組み。『つぎの物語がはじまるまで』より。

  ガウディの仰ぎし空よ骨盤に背骨つみあげわれをこしらふ       春野りりん
  方舟に乗せてもらへぬ幼らの悲鳴のやうな朝焼けを浴ぶ

 一首目、ガウディが建設を始めたサグラダファミリア教会を下敷きにして、それに匹敵する大伽藍として自分を眺めている。「われをこしらふ」の主語が明示されていないが、神とも呼べる大いなるものの存在を感じ取っている。そしてまた、創造物である自分も仰がれる存在であり、その自分もさらに大きなる空(巨大な建造物も幻視される)を仰ぎみる、という複層的な大きな歌である。二首目、これもたまたまキリスト教を下敷きにした歌である。朝焼けに狂気を感じる感覚は稀ではなかろうが、感じた悲鳴を方舟に乗せてもらえなかった幼子達のものに聞き做したというところが尋常ではない。『ここからが空』より。

  にりん草いずれか先に散りゆきて残れる花に夕日ただよう       宇佐美ゆくえ
  砂肝にかすかな砂を溜めながら鳥渡りゆくゆうぐれの空        吉川宏志
  古生代いかなる音の満ちゐしか鳥の囀りなき世界とは         経塚朋子

 一首目、「二輪草」の先に散る花に悲哀を見るのは常であるが、残った花にこそ悲哀があると詠む。もちろん、男女のカップル(夫婦)の未来をそこに重ねて見ている。男女の関係をものに仮託することは和歌の伝統であるが、その喩えに可憐なスプリングエフェメラルである二輪草を選んだのが手柄。結句の「夕日ただよう」で残った花の悲哀が増した。『夷隅川』より。
 二首目、「鳥渡る」は俳句の秋の季語でもある。北からの渡り鳥が日本列島に渡って来る、という季語であり、「鳥帰る」は春の季語。「鳥渡りゆく」となると鳥が北帰する様であるが、その鳥の砂肝の中に溜まる砂が触れ合いながら寂しい微かな音を立てる情景を想起する繊細な歌。鳥の悲しみを感じる。『鳥の見しもの』より。
 三首目、古生代(5億4千万年前〜2億4千万年前)はカンブリア紀(アノマノカリスでよく知られるカンブリア爆発で有名、陸上にまだ動物は出現していない)、オルドビス紀(三葉虫やオウムガイ、陸上にまだ動物は出現していない)、シルル紀(ムカデ等の節足動物が地上に初めて進出)、デボン紀(両生類が地上に進出)、石炭紀(巨大な鱗木が繁茂、巨大トンボが出現、爬虫類、哺乳類の祖先が誕生)、ペルム紀(エダフォサウルスを始め大型の爬虫類が繁栄)からなる。作者はこの地質時代に鳥がまだ出現していないことを知り、その世界に満ちる両生類、爬虫類、大型昆虫の鳴き声に思いを馳せている。ただし、恐らく具体的な生物種を想起してこの歌を詠んだのでなかろう。鳥の鳴き声がない世界で暴力的な荒々しい鳴き声だけが満ちている世界を想像するのかもしれないが、案外長閑な鳴き声に満ちていたのかも、と読者の想像を膨らませてくれる。『カミツレを摘め』より。

 短歌が若者の歌であることはすでに述べた。加えて、今回「橄欖追放」からこのように自分の惹かれる短歌を抜粋すると女性作者のものが多いことに気づいた。感性勝負とも言える現代短歌は女性に相性が良いのではなかろうか。女性が伸びやかにその感性を歌うのに短歌は絶好の器なのであろう。一方、作ることを「ひねる」ともいう俳句はどこか技巧臭が漂う。俳句に携わる者として、これが直ちにマイナスになるとは思わないが、屈折した文学である俳句は、伸びやかな若い女性の感性を十分に受け止められないのではないかと危惧する。

(5)火星人が脱皮するなら

  ストローで顔の映つた水を吸ひそのまま顔ごと吸ひ込んでしまふ    西橋美保
  火星人が脱皮するならこんなものか夜ふかぶかとパンストを脱ぐ

 ただ笑って読めば良い。こればっかりの一冊の歌集を読むのは骨が折れそうであるが、数首なら楽しい。『漂砂鉱床』より。

  鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい      木下龍也
  生前は無名であった鶏がからあげクンとして蘇る
  なぜ人は飛び降りるとき靴を脱ぎ揃えておくのだろうか鳩よ


ウイットで包んだところで切なさは包みきれない。『つむじ風、ここにあります』より。<花束を抱えて乗ってきた人のためにみんなでつくる空間>のような歌もある。

  いくたびか掴みし乳房うづもるるほど投げ入れよしらぎくのはな     吉田隼人
  人形義眼(ドールアイ)なべて硝子と聞きしかばふるさと暗き花ざかりかな
  姉はつね隠喩としての域にありにせあかしやの雨ふりやまず
  恋すてふてふてふ飛んだままつがひ生者も死者も燃ゆる七月
  さざなみはすなをひたせど海彼よりみればわれらはこのよのはたて

 一首目、漱石が好きな女性の死去に際して作った俳句<有る程の菊抛げ入れよ棺の中>を下敷きにして、エロスを加えての技巧的な作品。和歌は膨大な歴史を持ち、その歴史と対話するための本歌取がある。古の作品と時空を超えて交歓し作品に奥行きを与える。俳句にもなくはないが、和歌・短歌の歴史に比べればひよっ子であり、本歌取が褒められることもあまりない(この俳句の本歌取に対する冷遇には不満がある)。二首目、金子兜太の<人体冷えて東北白い花盛り>を想起させる。ここでは人体が人形に変換されている。三首目、ちあきなおみの「アカシアの雨がやむとき」を想起させるが、このようにすべての歌が「何かの本歌取か?」と勘ぐりながら恐る恐る読まなければならなくなり、意地が悪い。もちろん、これが作者の狙い。
 四首目、「恋すてふ」が蝶々(てふてふ)を導き、それがつがう(まぐわう)に戻ってくる。そして、その後、性と生死の問題に急に関連させる。死があるから生が、性の営みが輝く、という真理を上質の歌に結晶させた歌と言えよう。技巧的である。ここで「七月」を選んだセンスについて。ベタな短歌や俳句では「八月」を選んでしまいそうだが、八月は先の大戦の印象が強すぎベタになり歌の普遍性を損なう恐れがある。作者はそれを忌避したのである。五首目は、死者からの視線が痛い。『忘却のための試論』より。

 本歌取はもっと積極的に現代歌人が試みるべき課題かと思う。寺山修司の<マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや>が、富沢赤黄男の<一本のマッチをすれば湖は霧>の剽窃じゃね? 騒動がかつてあった。原作のイメージをどこまで引用して良いかに関して明確な線引き、足切りラインはない。私見を言えば、寺山の歌は下の句を引き出すための舞台装置であり、それを拝借しただけに過ぎない。オマージュとして鑑賞しても良い。ただし、これが成立するためには、鑑賞者が赤黄男の俳句を知っていることが前提となるが、当時寺山の短歌を審査した歌人は赤黄男の俳句を知らなかったらしく、それが問題となった(審査員が知らなかったことが問題じゃね?とも思うが昔から短歌と俳句は疎遠だったようだ)。

(6)最後に

 以前、詩客で自由詩の鑑賞をさせていただき、今回は連載で短歌鑑賞をさせていただいた。今回の短歌鑑賞で短歌の楽しみ方を伺い知れたことは望外の喜びであり刺激的な体験であった。今回、何冊かアンソロジーを購入し最近の動向を把握しようと努めたものの、個々人の歌集を読み込む段階までには至らなかった。短歌という城壁の城門の前に立ち中の街を門の外から眺めたに過ぎない。
 しかし、その限られた体験の中からでも好きな作家を見つけることができた。特に、第三回で採り上げた雪舟えまの歌の感性には惹かれた。短歌は感性勝負の文芸である。この連載が契機で彼女の歌集『たんぽるぽる』を購入した。ただ、前回取り上げた、<もう歌は出尽くし僕ら透きとおり宇宙の風に湯ざめしてゆく>、<小さい林で小林ですというときの白樺林にふみこむ気持ち>、<ホクレンのマーク、あの木が風にゆれ子どもの頃からずっと眠たい>、この三首以上に好きな歌は見つけられなかった。これらの歌には及ばなかったたくさんの歌の頂きに上記三首があり、これらの歌は彼女の資質が最上に結晶化したものと感じた(彼女の違うタイプの歌は残念ながら好きにはなれなかったことを告白する)。

 二つの文芸の求める方向は明らかに違う。短歌から敢えて離反して生じた俳句である。短歌は「言いたがり」の文芸である(自由詩も)。言わなきゃ伝わらない。作者の思いを大事にする文芸である。俳句では本当に大事なことは隠される。飯田龍太の<一月の川一月の谷の中>で作者が何を感じたかは敢えて伏せられる。読者はそれを脳内補完して詠む。

 短歌と同様な分かりやすさ、人懐っこさを俳句が求めても、俳句の特性は活かせない。塚本らが目指した革新があっても、短歌はどこまでも思いを外に開く文芸なのに対して、革新がなされた俳句は内に内にと向かう求道的な文芸となった。他者に開かれた短歌と、自己に閉じた俳句と言っても良い。筆者が私淑する永田耕衣しかり、安井浩司しかり。彼らの俳句は他者には容易には理解されない。いや、真に優れた俳句は当の作者にも理解できない。

  花鶏ども流れる宇宙も化粧して                     安井浩司

 自句自解は俳句にあってもっとも忌避されるべきものである。一句の世界を逆に狭めるだけでなく、ミスリーディングをもたらす。提出された作品はもはや作者の占有物ではない。様々な読みを許容する俳句こそ良質な俳句である。

 短歌を経ずに俳句に入る人は、短歌と俳句のそれぞれの特性を知らずに俳句を作り始めることになる。短歌を読み込んでこそ、俳句の特異性が理解され、その長所を伸ばせ、短所に気づき回避することができる。俳人にとって短歌は必須の履修科目である。
 では歌人にとって俳句を学ぶ必要はないのか? ない。歌人は俳句を学ばずともこれまでのようにおおらかに感性の赴くままに歌えば良い。俳句が出現する前から短歌(和歌)はずっとそうしてきた。下手に俳句のように技巧を使役すれば感性を矯めることになる。それゆえ、短歌の感覚で安易に俳句に越境してはいけない。短歌の感覚で俳句を詠めば、黛まどかの俳句のような目も当てられない俳句になってしまう。俳句を詠むなら、俳句の書法の習得が必要である。
 この近くて遠い、二つの文芸。今もほとんど交わることはなく、今後も交わることは少なかろう。それであればこそ、違いに気づける場としての詩客の意義がある。交流し鑑賞し合う行為から、彼我の違いに気づき己の文芸を知れる。筆者のように。短歌と俳句の違いについて考える貴重な機会を与えてくれた詩客に感謝する。

短歌相互評18 山田航から 初谷むい「ワールドエンドに際して」へ

2018-02-02 21:07:59 | 短歌相互評


 初谷むいは、ふたりの人間のあいだに生じるわずかな感情・動作の共有をしっかりとつかまえる。演劇のワンカットにも満たない短い時間に走る「対話」の電気をとらえてみせる。昔の初谷むいの短歌はモノローグ的な手法が多かったのが、徐々にささやかなダイアローグを描いてみせるような歌が増えてきた。

パズドラをあなたにおしえてもらったなマナーモードの静かな解除
こげたところ鍋からそっと食べている あかるい話をあなたに贈る
あたらしいニットが身体に合っている ようこそぼくの身体へニット
あかるいね雪の車道は あいづちのへたくそ許してもらっていたな


 これらの歌のテーマは「調和」だ。パズドラ、鍋、ニット、あいづちといった日常的モチーフを素材としながら、本来はまったく別々のものであったふたつの存在が「調和」してゆく一瞬を捉えている。初谷むいの文体の特徴として、「な」「ね」などの終助詞を多用して口語性を強めていくことがあげられる。現代短歌において口語終助詞の使用はモノローグ性を強化する役割を担うことが多いが、初谷むいの使用法は「パズドラをあなたにおしえてもらった」「マナーモードの静かな解除」という異なる文脈を持ったふたつの文どうしを接着させ、調和を図らせる目的で使われている。つまり、「を」や「は」のような助詞に近い用法として終助詞を使っているのだ。
 このような「助詞的終助詞」用法は雪舟えまに先んじてみられるもので、初谷むいもそこから影響を受けているようである。

宇宙のほうからふれてきたのわたしスケートリンクで迷子でした
男って妖怪便座アゲッパナシだよね真冬の朝へようこそ
雪舟えま『たんぽるぽる』


 これらの歌の「の」や「ね」は単純に文の切れ目を作っていない。発想が飛んでいるともいえる二文を調和させるための機能を果たしているといえる。初谷むいはこの手法を踏襲しながら、独自の文体を築こうとしている。
 「ワールドエンドに際して」には、風土や町との対話という新たなダイアローグ性がみられるようになってきている。昨年から札幌を離れ、海辺の町で暮らし始めた。そのことが作風に少し影響を与えているようだ。

うみべです 大雪が降り自転車があるかもしれない雪の膨らみ
きっと嵩増しされている雪の海 海を見に行くのはだるいけど
ボ――――――という音は船、ってこの町の人は知ってるいつのまにかね
言いたくてくしゃみにそれが消えてって夜のみなもに手を振っていた
夜行バスでてをつないでるカーテンの向こうにきっと雪だけみえる


 船の汽笛の音をいつのまにか知っているように、「町」の記憶が知らず知らずのうちに身体化されていることがある。初谷むいはそれをまたひとつの「調和」のかたちとして見出している。大雪に隠されているかもしれない自転車、夜行バスのカーテンで仕切られた外にあるかもしれない雪。「見えないけれどあるはずのもの」を想像することで、異郷は自らの身体と少しずつ少しずつ調和してゆく。希望的観測を語る副詞「きっと」は、初谷むいの短歌の重要なキーワードだろう。わたしとあなたが、わたしとこの町が、たとえ根本から異なるものであったとしても、「きっと」調和できる一瞬がある。

CMにふつうに感動したりする 夢という夢はないけどそれは希望だ

 希望は必ずしも未来とつながるとは限らない。未来は常に明るいのだといえばそれは偽善的な嘘でしかないだろう。でも、ほんのわずかでささいな共鳴と調和が、二つと無い輝かしいダイアローグを立ちあらわせてくれることがある。そこに賭けることが、口語短歌の命だ。
 「ワールドエンド」は悲劇的な終末を思わせる言葉だが、たったひとりのモノローグ的世界が終焉を迎えた先に来るものは、「きっと」希望のあふれる調和のとれたダイアローグであるはずなのだ。

短歌相互評17 初谷むいから 山田航「ココア週間」へ

2018-02-02 08:50:53 | 短歌相互評



山田航さんもわたしも北海道に住んでいるが、北海道の、特に郊外に暮らしていると、都会と比べ、ここにはちょって変な空気が流れているな、と思うことがある。古臭いような、新しいような、うるさいような、静かなような、愛しいような、憎いような。山田航さんはこれまでも地方都市での暮らしを詠んだ歌を多く発表されてきたけれど、今回の連作も、どことなく地方都市での生活を連想させるものだったように感じる。

一首ずつ鑑賞していく。

刷りたての切符のぬくみが手の中に届くこの冬最初の旅だ

刷りたての切符があたたかい、という発見。「この冬最初の旅だ」という言葉は主体とこの刷りたての切符、両者にかかっているように感じる。何がこの冬最初の旅にあたるのか、ということはわからず、しかし、最初の旅、という言葉には希望を感じる。希望が手の中に届く、という感覚がおもしろかった。

ひかりってめにおもいの、と不機嫌だごめん寝てるのに電気つけちゃって

生活の中での場面。語り掛ける口調が、誰かとの生活を描き出す。上の句での謎が下の句での答えによってわかる、という構成になっているけれど、この「謎」は、読者に向けられたものである以上に、この主体自身の心に浮かんだ謎であるように感じられる。眠る「きみ」の口からでる呪文のような言葉が、主体の心を明るく照らしている。

不器用に季節は過ぎて朝焼けにはじまるきみのココア週間

タイトルにも使われている「ココア週間」という言葉が用いられている一首。不器用に、という形容がおもしろい。時間は思っているよりもいつも簡単にわたしたちを置いて遠くに行って、でも今、はじまるなにかもある。朝焼けの中、「きみ」がココアを飲む。それが、不器用な世界の中で救いとなることもあるのではないだろうか。

通り雨だったんだけどこの胸をしっかり黒く濡らしていった


灰色の衣類を着ていると、水に濡れたところが黒く変色する。しかし、胸を黒く濡らしたのは水滴だけではないだろう。悪意や暗い感情と、無縁でいることなど誰にもできはしないことを考えさせられる。

浴槽の栓ひき抜けばりんと鳴るこれはあの夏なくした鈴だ


りんと鳴ったのは、本当の鈴ではないような気がした。なにかがきっかけで、過去に失ったものを思い出す。それは幽霊のように、実態を持たず何度も何度もわたしたちになにかを問いかける。主体は過去から逃れられていないのだろうか。

乱雑な仕草でポカリ注いでるきみらしくないきみがいちばんきみで


きみらしさ、と規定できるようなものだけに沿うのはきっと人間らしいことではなくて、「きみ」のなかにある「きみらしからぬ」ものをうれしく思う気持ちが伝わってくる。「ポカリ」という設定も面白くて、なんとなく、ポカリは乱雑でもいいかなあ、という感じがした。普段この「きみ」はていねいなひとなのだろう。ポカリスエットを乱雑に注ぐ動作からは焦りや暗いものが感じられるけれど、日常のあたたかみがそれをうっすらとカバーしている。

今日の『アメトーーク!!』のお題なんだっけそっかそれなら別にいいかな


会話の一部抜粋、という形がとられた一首。アメトーク!!は深夜にやっているバラエティー番組で、お題に沿った芸人が集められ、そのお題について語るという内容である。毎週欠かさずやっている番組を、その内容によって見るか見ないか決める、というのは日常においてはよくあることであり、この会話をしていたことすら、翌日には忘れてしまう。別にいいかな、というのはゆるやかな拒絶だ。悪意までいかない拒絶が、日常には溢れている。

コンタクトケースにふたつ凪いでいる湖 夜はいつも明るい

コンタクトレンズのケースにはたいてい二つのちいさなくぼみがあり、わたしたちはそれに洗浄液を満たしコンタクトレンズを入れる。それを「湖」と表現することがおもしろい。夜がいつも明るいわけはないのだけれど、コンタクトケースの中の湖に訪れる夜は、明るいのかもしれないな、となんとなく思わされる。

これでいいんだ ブラックコーヒー飲んだあと歯磨いたらいい味がした

なにについての、「これでいいんだ」なのだろう。この一首の中で言うと「ブラックコーヒー飲んだあと歯磨いたらいい味がした」に対するものだと読むこともできるが、どうもきっとそれだけではない。これでいいんだ、という言葉をわたしたちは自分を安心させたいときに使う。「でいい」というのはかなり消極的な言葉だけど、寝る前に歯を磨くとか、そういう日常においてやらなけらばならないことを肯定できたとき、わたしたちは生きる力を手に入れるのではないだろうか。

人工音の半鐘がなるこの街に約束されたカタストロフィ


「半鐘」とは「火事など異変の知らせに打つため、火の見やぐらの上などに取り付けた小さい釣鐘」のことであるらしい。それが人工音であり、そしてそれは悲劇的な結末を知らせている。どことなくSFチックだが、例えば緊急地震速報は人工音であり、現代の社会の中で訪れる終末とは、こんなものなのかもしれない。


たどり着けない地点にも稲妻が走るさよならパノラマカメラ


パノラマカメラは広い範囲を撮影するカメラであり、それにさよなら、と言っていることからどこか文明への反発のようなものも感じられた。


創英角ポップ体あの看板が最高に似合うパスタ屋だったね

創英角ポップ体は、その何とも言えない「ダサさ」でおなじみのフォントである。でもそれが、その店には似合ってしまう。この使われ方からはふしぎと愛着のようなものが伝わってくる。ダサいものはかわいい。ダサいものはかわいそうで、いたいけで、最高に似合う、という文言は決して褒めているわけではないけれど、それでも彼らにとってそこは「最高」の店だったのだろう。そしてその店はもうない、あるいはあるけれどもう「創英角ポップ体あの看板」はない。それがどことなくせつない。

ふたりきりでするUNOのこと飛ばすのもひっくり返すのも同じことだよ

UNOはふたりでもできるだろうけど、それはお世辞にもおもしろいものであるとはいえないだろう。この歌の中で述べられているように、飛ばして次のひとへ、という命令も、今までとは逆の順番で、という命令も結局変わらずに、きみとぼくの間をカードはぐるぐるとめぐることになる。ふたりきりでできることはほかにもたくさんあって、でも彼らはUNOを選んだ。その閉塞感に安心しているようにも感じられる。

電線で切り刻まれた三日月のひかりが僕をずたずたに照らす

夜空を見上げたら、月が電線の上に丁度かかっていて、月が切り刻まれているように見えた、という発見の歌である。「ずたずたに照らす」がとても痛々しくて、くるしい。ずたずたに、はむしろ「切り刻まれた」に使われることが多い擬音語で、本来ならばずたずたなのは三日月のはずである。しかし「僕」はこのように感じる。胸の詰まるような一首だ。

湖にあしくびしずめスカートを焦がしそうで焦がせない手花火

この連作で、コンタクトレンズの歌に続く湖の歌だ。そのためか、この湖がほんとうに存在するものではないような感覚になる。湖で女性、おそらく「きみ」が手花火をひからせている。そのひかりは彼女のスカートを燃やしそうに見えるが、実際に燃えることはない。視覚的にうつくしい一首である。おもしろいのは、視点がどこにあるのかよくわからないことと、「焦がせない」という言い方で、この手花火は、「焦がしたい」のだろうか、と考えさせられる。破滅を望んでいるような、そうではないような、主体の気持ちの移入が感じられる気がした。

金魚、いい音で鳴りそうだねおまえそのひらひらもかっこよくって


金魚が楽器だとしたら、鈴のようなうつくしい音が鳴りそうである。しかし、金魚は紛れもなく生き物で、生き物を楽器とみなす視点はどうも暴力的だ。

しずかすぎる世界を燃やし切る前に雪平鍋に立ちのぼれ泡

しずかすぎる世界、とはいったいどの世界のことだろう。乱暴と静寂がうつくしく同時に存在している。雪平鍋、と言うチョイスがおもしろい。

チェスの駒散乱の床 エンジェルを演じる衣裳ほら脱ぎ捨てて

チェスの盤面はひとつの完成された世界であり、それがばらばらに散らばったことは世界の崩壊をイメージさせる。そこにはもう役割は存在せず、天使に見えていたものも天使であり続ける必要はなくなるのだろうか。

この鼓動を駆使して走る終わりなき21世紀の地下道を行く

自身を機械に例えた、どことなくSF的であるような歌だ。21世紀は2100年まで続く。しかし、2000年以前に生まれた人々にとって、21世紀は終わらないものであると言っても過言ではないだろう。終わらない時代の閉塞感。

何度でも反復される擦過傷、夜明け間近のひかりの淡さ


擦り傷が何度も繰り返される、という言葉にひりひりとする。夜明け間近のひかり、ということはこの主体は夜中に、おそらく一人で起きている。そして過去の痛みを自らに再び与えている。この痛ましい歌で、この連作は幕を閉じる。



2018年現在の地方都市の憂鬱、そして生活のほの明るさが感じられた。生きることは希望であり、絶望だ。わたしたちには過去があり、現在があり、そして未来がある。この作品一連の中では、全ての時間が薄暗がりの中にある。地方都市はやはり都会と比べるとどこか滞っていて、閉塞感をそこに住む人々に与える。この連作の中に出てくる主体は、しかしながらその環境に、むしろ安心しているようにも見える。前半では生活の中での場面が多く詠まれていて、どれもどこか暗さをまといながらも明るい情景であった。地方都市に暮らすことは考えようによっては絶望で、町はほとんど変わらず、住民の生存のためだけに機能している。都会では3か月に1回美術館の展示が変わり、季節のイベントに応じて雑貨屋や服屋は装いを変える一方で、地方都市では、ほぼ年中、何も変わらない。わたしたちは時が経つスピードもだんだんわからなくなる。自分自身がこの町の一部となる。それは結構恐ろしいことだと思う。特に後半では、より暴力的なモチーフが頻繁に登場するようになる。逃げ出したいような、叫びだしたいような、でもそんなことはしたくないような、諦念がうっすらとただよう歌が多くて胸が痛んだ。しかしながら、わたしたちの生活は実際には、絶望だけではない。思わず笑ってしまうようなこともあれば、都会では感じられないような地味な日常の中での喜びもある。そのことがこの連作にひかりを与え、より深みのあるものにしているのではないだろうか。「きみ」とこの場所で滅んでいく、それもある意味ではしあわせなことなのかもしれない。
主体の痛みや絶望、その中でのひかり。そういったものを感じ取ることができる連作だった。タイトルは「ココア週間」。この連作は、未来への希望を信じているのかもしれない。