「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 ぞんぶんに泳ぎまわれる水槽はあるか――奥村晃作歌集『ビビッと動く』を読む 田中 庸介

2016-09-28 16:33:02 | 短歌時評
 伊那の人、奥村晃作氏は満八十歳を迎えられるがその歌風は厳にして平明、澄み渡った淡水のような写生の王道を行くものである。北原白秋/宮柊二の流れをくむ「コスモス短歌会」の重鎮なのに「写生」とは何事か、と眉をひそめられる読者もあるかもしれないが、氏の標榜する「ただごと歌」の行き着くところは、結局「生を写す」ことであり、このレベルに達すれば茂吉も白秋も関係なくなるのではないかと評者は想像するものである。最新の歌集『ビビッと動く』(六花書林)には、しゃれではないが実にvividな総天然色の風景が展開されており、色の描写の多様さにまずは驚く。

  燃え尽きた黒太陽を車輪としイタリア広場にキリコは置けり
  壁面を描くのみなる中国の揚州の黄なる土の壁面
  白い雲ふわふわ浮かぶ青い空ベルギーの空マグリットの空
  紅梅の花こんなにも紅かった、幹に直接開く花びら


 第一首から第三首は美術展に取材したものであり、それぞれキリコ、原田守啓、マグリットの絵に想を得たものという。第一首「燃え尽きた黒太陽」は、あるいは作者自身の心の暗喩か。衝撃的な叙景の上の句を淡々と抑える下の句がびしっと決まる。第二首は二句切れ。壁面のみを描いた絵という同語反復的な前衛絵画の過激さを「中国の揚州」の固有性で解決へと導く。第三首の上の句「白い雲ふわふわ浮かぶ青い空」は、俳句でも現代詩でもおそらく不可能であるに違いないような、ごくゆるい童謡的な世界に遊ぼうとするものだが、これを「」を三度繰り返しつつやはり固有名詞でしっかり締めることで、稚拙を装った上の句の遊びが、シュルレアリスムの画家マグリットの、あの書割的な筆触の嘱目でこそあったかのような気にさせられる。手だれの一首である。第四首は王朝の美学をも想わせる実に艶のある歌で、読点が感動の所在を指し示すものである。この読点は本歌集でコレハと思えるところにのみ抑制的に使われており、技法として非常に効果的である。そしてこの「白い雲ふわふわ」や「こんなにも紅かった」は、やはり白秋の流れを汲む作者の本領であろう。
 これらの歌はみな姿がよく、また表現的にも巧みであるが、異様に緊張感がみなぎっている。イタリア広場の車輪、黄色い壁面、白い雲が青い空、幹に直接開く紅梅の花など、原色の世界が蜷川実花の写真のようにぎらぎらと光り輝き、油絵具でぼたぼた描いたような「壁面」「壁面」の連呼が重たい塊となって、読むものの胸をイキナリなぐりつける。以前、異能の美術家、横山裕一氏について書かせてもらったとき、現代美術の《もの派》の初期作品についても考究する機会があったが(「現代詩手帖」2014年7月号)、その展覧会場にごろんと置かれたグラファイトや塩や硫黄の柱のような「もの」の原型としての質感の迫力が、この奥村さんの短歌からも立ち上がってくる。予定調和的な「短歌の私」など、はるか後ろに置き去りにされ、ただ作者の男性的なリビドーと、その生の不安だけが無人の荒野に「もの」の形をとってたちあらわれるのである。茂吉の《私》というのは、結局のところ自己劇化のおこないであって、そこでは人口に膾炙するキャラクターとしての「斎藤茂吉」の姿が自己再生産的に語られていく。中途半端な自己劇化は、読者におもねるものとしてのいやらしさをはらむが、茂吉のようにそれを極限までに推し進めると、読者におもねる自我さえも消滅して「私」が普遍的な人称へと昇華するところまで行ってしまう。だが奥村氏の場合、その自己劇化ないしは自己の客体化をすべてあっけなく廃してしまおうとするような、いっそ幼児的とでもいうべきひとつの潔さによって(以前の歌には「オクムラ」が登場していたが、それも本作では廃止されている)、読者におもねるいやらしさを茂吉とはまた別の道筋によってすっきり回避しようとしている。だから、一見するとこれらは伝統的な客観写生の歌に見えつつも、発語主体を一切客観化しないで突っ張る強靭さの存在がまことに奇特である。短歌定型と己の大常識のみを頼りとし、ごく主観的にわが道を突き進むしかない、というような向こう見ずさの存分な発揮を特徴とした、実験的でパワフルな新しい写生の歌がここに展開されていると言ってもよいだろう。そこに氏の表現の強度がある。
 本作でもっとも作者が力を入れているのは、ある死刑囚の再審請求への想いである。作者はこれを「幽閉の森―死刑囚絵画展」の連作十九首ならびに連作「集会」四首を費やし書き上げている。まず「残忍の殺人鬼Sの共犯として死の刑が確定したり」「夫婦なら仕方がないかクロでなくグレーであろう風間博子は」「井の底で叫ぶ己(おのれ)を直ぐに描(か)く風間博子の絵に打たれたり」「ま裸の己(おの)が姿を描きたる風間博子の雪冤(せつえん)の叫び」と、死刑囚の絵に出会った感動をたたみかけるように語る。さらに「井の底の苦悩の風間博子をば光の界に引き上ぐるべし」「闇あれば光もあるを闇のみに覆い隠せる権力恐る」「十五年戦い続け一旦は負けし博子を救わねばならぬ」など、作者の権力批判の想いがうかがわれるような、一歩踏み込んだ強い語調の歌が続く。
 そうしてみると、さらに連作「京急油壺マリンパーク」でも、なんでもない水族館の情景を詠んだかのように見せる以下の歌、

  跳び芸を見せるイルカと大道の芸人らとの違いは何か
  シロチョウザメ、バルチックチョウザメ計十(けいじゅう)が水清く澄む槽に身を置く
  ぞんぶんに泳ぎまわれる水槽をプレゼントせよチョウザメたちに


は、虜囚の辱めを受けるものたちへの想いの隠喩として読まざるを得ない。「十手」は江戸時代の捕り物道具、「十字架」は磔刑の象徴。第二首の「計十」なる見慣れない漢字熟語には、これらが実に十分に見いだされる。また、第三首の下の句はカタカナ語を多用し、この作者にはめずらしくやわらかい仕上がりのものであるが、読者はここに、短歌形式ないしは短歌結社が「ぞんぶんに泳ぎまわれる水槽」でありえたか、そしてありえるか、というような、柔軟でまっとうな自問とすこしの逡巡の痕跡を見いだしてみるのも面白かろう。
 思いおこせば奥村氏にはかつて超結社の批評会などで何度も机を並べさせてもらって、チョウザメならぬ初心のわれわれにもずいぶんフランクに現代短歌の読みを勉強させていただいたものだが、ご健康とますます自在なる歌境とを心からお祈りしたい。

※引用中、括弧はルビ。

短歌時評第123回 武田穂佳の顔、山階基の表情-「ユリイカ」、第五十九回短歌研究新人賞を中心に 田丸 まひる

2016-09-24 17:07:17 | 短歌時評

 「ユリイカ」2016年8月号の特集「あたらしい短歌、ここにあります」はインタビューや評論が特に面白く、石川美南+山田航の「あたらしい短歌のキーワード15」なども新鮮な気持ちで読んだが、とりわけ詩人の最果タヒと穂村弘の対談、枡野浩一と佐々木あららの対話が刺激的だった。なかでも2014年の石井僚一の第五十七回短歌研究新人賞の際にも議論になった、いわゆる「私性」に関する穂村と枡野の意見を興味深く読んだ。
 最果と穂村の対談では、最果が〈やっぱり歌人が書くものって生活につながっているものなんですか?〉と穂村に問いかけると、穂村が〈近代以降、そういうことにしたんだよね。“人生日記帳”みたいな〉(もちろんそれが嫌だという意見についても書かれている)〈“人生日記”みたいなシステムを採用したために、短歌人口は増えた〉〈自分の着ぐるみを着て動いてる、みたいな感じ〉と答えている。
 また、最果が作者の背景を教えられるのが嫌いだと表明しながらも〈でも短歌は、その歌人が好きで読むっていう感じが強いです。この人がこれを書いているという事実が意味を持ってしまう。それはあまり好きではない読み方なんですけど、そうなってしまうパワーのようなものが短歌にはありますよね〉と話すことや、穂村の〈「私性」という言い方をするんだけど、短歌はその作者の重力がより強い。若いときにはもっと軽く晴れやかな気持ちで、言葉はそういう地上の重力から切れているって思っていたのに、歳を取るとそれに反する体験ばっかりで〉〈表現のための専用ツールである音楽や踊りだったら、現実の出来事からもっと独立した強さを持ち得るんじゃないか。でも、言葉は短歌や詩の専用ツールじゃなくて、いわば兼用ツールだから、必ず意味の汚染を受けてしまう。逆に、現実から完全に隔てられないことがおもしろいって思うこともできるのかなあ〉などの発言の持つ意味を考えると興味深い。作品と作者の軽やかに切り離された関係をよしとしていた穂村が、歳を取るにつれて考えを変えていったような、最果が「この人がこれを書いているという事実が意味を持ってしまう」と表現したような、短歌が持ち得る「パワー」とは何だろうか。
 同じく、穂村とほぼ同年代(6歳差)の枡野にも佐々木との対話のなかで〈短歌って結局「人生こみ」じゃない。「誰が言ってるか」が問われるジャンル〉という発言をみとめる。穂村と同様に、〈最初は僕も「誰が言ってるか」が問われることに疑問があって「匿名性」への希望があった〉としながらも〈穂村さんが指摘したように、たまたま始まった「主人公=作者」っていう読まれ方がとても通用しやすかったからそれが主流になってしまったんだと、僕も思っているし、僕自身はそうじゃない短歌をつくってきたつもりだったんだけれども、でもそこで「私と主人公は違うんです」「これは私の経験談ではないんです」ってすべての短歌に貼っておくことはできないわけじゃない?〉と話すのだ。
 穂村、枡野の意見に賛同できるところも多いが、それでもなお、石井の作品をきっかけに引き起こされた議論のことを考えれば、比較的若い層から出された「作者と作品は別のもの」という主張に託された思いも無視することはできない。石井の作品は匿名で出された新人賞という場だったからこそより議論が紛糾したのだろうが、今年の新人賞はどうだろう。
 第五十九回短歌研究新人賞は武田穂佳「いつも明るい」、次席が山階基「長い合宿」に決まり、「短歌研究」2016年9月号に掲載されている。

  ストレートパーマを君があてたから春が途中で新しくなる  武田穂佳「いつも明るい」

  あの夏と呼ぶ夏になると悟りつつ教室の窓が光を通す

  放課後の夏服ひかり満ち満ちていつかあなたの死ぬ日がいやだ

  こんなにもりんごゼリーは透き通る いじめの順番回ってきた日

  わたしがわたしを守ってあげる シャーペンの芯を多めに詰める


 武田作品は「いつも明るい」というタイトル通り、テーマとしている学生生活の一瞬のきらめきのようなものを描きながらも、「いじめの順番」が回ってくる日をりんごゼリーの透明さに繊細に託すなど、明るいだけではない思春期を丁寧に切り取っている。
 季節は自然に移り変わっていくものだが、「ストレートパーマを君があてた」という目の前で触れられそうな世界で、しかし作中の主体にとっては重要な理由で春が更新されるという把握が面白い。「途中で」という表現にも実感がわく。「あの夏」は選評で穂村弘が〈よく、「たった一度の十七歳の夏」とか言うけれど、「たった一度の五十四歳の夏」とは言わないわけで、経験上、五十代などに比べると、十六歳、十七歳、十八歳の一年ごとの命の変化は大きい〉と述べているように、ただ一度の思い出になる予感を引き起こす。小野茂樹の「あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ」の歌のような世界も立ち上がってくるだろうか。
 また、あくまでも世界は「君」や「あなた」と一緒に過ごす教室、(両親が描かれておらず、また兄も不在のようだが)祖母や従姉妹のいる家族を中心に描かれ、手の届く範囲であることも特徴的だ。選評で加藤治郎が「家族の不在」について指摘しており、そのあたりの説明がやや中途半端で作品世界に入り込めない部分もあるが、概ね分かりやすく共感しやすい連作だと言える。ただきらきらしているだけではなく、タイトルとなった歌に「好きだって思ったものを信じてる わたしの道はいつも明るい」とあるように、「いつも明るい」とわざわざ強調している作品の世界は、今後歌の数が増えればより深みが増していくのかもしれない。
 さて、武田作品では「特別になりたし紺の制服の下に真白のワンピース着る」「桃色の歯茎に透けた親知らず わたし明日で十七になる」などの歌で、「十六歳の女子学生」(もちろんワンピースを着る男子学生であるという可能性は捨てきれない)という設定が表明されており、応募時には匿名ではあるが「匿名性」は乏しく、思春期の少女の顔が浮かび上がる。
 一方、次席の山階作品では、年齢性別にたどり着く手がかりが、丁寧に消されている。

  今のまま生きるのがしんどいどうし都会に部屋を借りようなんて  山階基「長い合宿」

  ともだちと住む生活の想像はできていますか。父は問うだけ

  恋人でも家族でもない半裸だなルーム・シェアは長い合宿

  木造は感じがいいね また地震きたら死ぬかね ふたりで かもね

  湯上がりのくせを言われてはずかしい今のところはもめごとがない


 読者を混乱させるような歌はなく、実家を出て「恋人でも家族でもない」「ともだち」と都会でルーム・シェアをし始めたという連作だと分かる。「生きるのがしんどいどうし」の句跨りの韻律の絶妙な重さや、父の問いかけにおける主体との距離感などが面白い。一緒に暮らし始めたばかりにも関わらず「死ぬかね」(死ぬかな、ではないのだ)と言える不思議な連帯感にも心惹かれる。
 さて、選評で加藤が〈このルームメイトはどこで知り合ったかもわからないし、まずもって男性なのか女性なのかもわからない。普通は女性同士ということになると思うんですけど〉(この時点で加藤は作中の主体を女性だと仮定している。余談だが国土交通省の調査ではシェアハウス入居者の男女比は平成23年、平成25年においてほぼ5割ずつで均衡している)、〈一番肝心な人物の姿を抽象化してわからないようにしているのも作品の一つの方法として巧い〉と述べていることについて、その通りだと思うが、そもそも作中の主体が男性なのか女性なのかも巧妙に隠されていないだろうか。連作中に一人称が出てくるのは唯一「うちを出る? はてなを顔にしたような母よあなたに似たわたしだよ」の歌だけであり、この「わたし」で性を判断することはできない。「半裸」についても「湯上がりのくせを言われてはずかしい」についても、少しくすぐったいような関係は男性同士でも女性同士でもあり得るし、半裸の程度によっては(いやよらなくても)男女の組み合わせでもそれほど違和感はない。そもそも性的指向も表明されていない。
 山階は意図的に主体やルームメイトの「顔」を消して、主要な人物像においては、共同生活を手探りで始めた主体の「表情」のみで作品を構築しているのではないだろうか。しかし、名前がなければ「誰が言ってるのか」霧の中のようだが、友人とルーム・シェアを始めたある程度若い主体だと想像しうることを考えれば、「匿名性」は薄いのかもしれない。
 武田や山階の作品が、「現実から完全に隔てられて」いるかどうかという観点でみれば、経験談かどうかは別にしても、作品の中でただひとりの顔なり表情なりが浮かび上がってくる時点で「“人生日記”みたいなシステム」からは切り離せないもののように見える。そのことと作品の評価は別の次元の話だが、(空想的な例えで申し訳ないが)作者の養分を根から吸いあげて咲いた花が作品だとしたら、やはり作者と作品は逃れられない関係なんだろうか。かつて岡井隆が『現代短歌入門』において〈短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(それが即作者である場合もそうでない場合もあることは、前に注記しましたが)を予想することなくしては、この定型短詩は、表現として自立できないのです。〉と述べたが、ここに尽きるのだろうか。
 あたらしい作品は次々と生まれてくる。短歌の「私性」の議論についても、いずれかの作品や何らかの事象や事件によってさらに何周もめぐって深くなっていくのだろう。なんにせよ、「私」の立ち位置、自分の「私性」を考えながら作品を編み続けるしかないのだが……。


#略歴
田丸まひる(たまるまひる)@MahiruTamaru
1983年生まれ。未来短歌会所属。「七曜」同人。短歌ユニット「ぺんぎんぱんつ」の妹。歌集『晴れのち神様』『硝子のボレット』