「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評 第101回 歌が世界であるために 山田消児

2013-08-27 19:10:46 | 短歌時評
 歌人佐藤通雅の個人誌「路上」126号(2013.7)にショートショート4編が掲載されている。作者は、山田航、玉城入野、野口あや子、石川美南。山田、野口、石川は今まさに活躍中の若手歌人、玉城は歌人ではなく編集者だが、新興の短歌専門出版社で代表を務めている。作品はいずれも見開き2ページ、400字詰原稿用紙にして約4枚の分量である。歌人であり小説家でもある現役の書き手といえばすぐに東直子が思い浮かぶが、彼女とは違って小説を書くプロではない歌人たちが、ショートショート、すなわちごく短い小説の執筆を依頼されてどう反応したのかというところに関心を引かれ、私はこの特集を興味津々で読んだ。
 4編を読み終えて最初に感じたのは、「ショートショート」という言葉から私が想像したのとは方向性がだいぶ違っているということであった。特異な設定でまず読者を立ち止まらせ、いったいどうなるのだろうと先への興味を掻き立てておいたうえで、意外な結末で驚かせたり考え込ませたりする。私が何となく抱いていたショートショートのイメージを簡単にまとめると、だいたいこういうことになる。さらに加えるなら、ファンタジー、寓話、SF等に分類されるような非現実的なストーリーが多いという点を挙げておいてもいいだろう。以上はショートショートについてのあくまでも個人的なイメージだが、たぶん、世間一般のそれともさほどズレてはいないと思う。
 しかしながら、なぜか「路上」で読んだ作品はこのようなイメージとは合致しないものばかりであった。では、どう合致しなかったのか。一編一編の内容をここで説明するわけにもいかないので、乱暴を承知で一言で言ってしまうと、どれもがいわゆる「日常の一コマ」もしくはその周辺を描いたものだったのである。主人公自身によって語られるストーリーは普通の人が普通に体験してもおかしくないようなことばかり、どこかにありそうな町のとある一箇所あるいは比較的狭い範囲で進行し、完結する。特異な設定や意外な結末はなく、魔女も詐欺師もタイムマシンも出てこない。
 短歌は一人称の文学であり、現実を素材に詠われるのが正統的なありようだという考え方は、今も強固にあり続けている。その同じ考え方に基づく枠組みが、他ジャンルの作品に挑むときにさえ有効に働いているらしいことに、私は少しばかり驚かされた。
もちろん、何をどう書くかは各人の自由だろう。たとえば私小説ふうのショートショートがあっても全然おかしくないし、実際これまでにも種々さまざまなタイプの作品が書かれてきたはずである。だが、歌人に限定せず任意の複数人に「ショートショートを書いてみて」と依頼したとしたら、まずこうはならないのではないか。むしろ、本来自由であるはずだからこそ、一定傾向の中に皆が収まってしまうのがいかにも短歌だなあと感じられて、いささか複雑な気持ちになったのだった。
さて、そうはいっても、むろん各編にはそれぞれに工夫が凝らされており、作者たちが自らのモチーフを見極めながら“作品”を創り上げたことが伝わってくる。オチであっと言わせるような作はひとつもないが、意外な展開なら、意外さの程度の差こそあれ、どの作品にもそれなりに仕込まれている。
 そんな4つの作品の中で最も私の印象に残ったのが、石川美南の『ない町』である。ストーリーは、最終バスに間に合わなかった「私」が駅から「我が家」までタクシーで帰るという、ただそれだけ。そこはおそらく大都市圏の郊外の町で、道筋に以前はたくさんあった商店や郵便局が、今はなくなってしまっているにもかかわらず「私」と運転手の心の中には共通の記憶として存在し続けている、という話である。込められた意外さの度合いはもしかすると4作の中でいちばん小さいかもしれない。だが、いずれも身近な場所でのささやかなドラマを描きながら、これだけがどこか違ったちょっと不思議な感触を伝えてくる。それはなぜなのだろう。
他から際立つ第一の特徴としては、構成要素をぎりぎりまで減らし、短さに見合ったシンプルさを実現したことが挙げられよう。そして、その成果として、作品は外部に寄りかからない自立した世界を形作ることに成功した。他の3編の作品世界はその外側に広がるもっと広い世の中や主人公の人生の一部分であって、それらから切り離したら存在の根拠を失ってしまうものであるのに対し、石川の作品だけが、そこに書かれていないあらゆる事情から切り離されても揺るがない自立性を獲得しえている。「私」はどの「私」であってもかまわない普遍性、抽象性を具え、「ない町」の商店街は、現実に存在する都市郊外のさびれた商店街の反映としてではなく、明示されない何らかの理由によって作品の中だけで勝手にさびれている。
 短いという点において、普通の小説に対するショートショートの位置は自由詩に対する短歌の位置に似ているともいえるが、それよりはむしろ、小説を起点にして、ショートショートの位置をさらに遠くへずらしていったところに短歌が位置すると考えた方が、私にはずっとしっくり来る気がする。短いからこそ書けることは間違いなくある。そう信じることのできない短歌作者がいるとしたら、それはその人自身にとってとても残念なことだといわざるをえない。ただ、短歌では、多くの場合、作者自身の人生や社会の現実や、たとえば東日本大震災のような誰もが知っている出来事を、ときには表立って、また、ときには暗黙の了解として、作中や作品の背後に置くことで短さゆえの情報不足を補おうとする。石川以外の3人は、短歌よりは長いショートショートにおいてもそれと同様のやり方を踏襲しているように見える。そして、その結果というべきか、作品をというよりも、作品という器に入った作者自身を読者に向かって差し出すような状況を生じさせたのである。
現実によって創作への動機づけがなされることと、その現実を作品に直接利用することとは、つながってはいても次元の異なる問題だと私には思える。後者は方法のひとつであるにすぎず、モチーフを作品に直結させるために便利である一方で、作品を現実に従属させてしまうという副作用も持っている。
 ちっぽけだからこそ、その気になれば自分自身が一個の世界になることができる。魅力的なショートショートとは、古来そのようなものではなかったろうか。世界の一部であるよりも世界と対峙するものでありたい。それは、ショートショートだけでなく、短歌においてもまた追求されてしかるべき究極の目標なのだと私は思う。
さて、こんなふうに考えてきたあとで「路上」のショートショート4編を読み返してみて、実は、石川のみならず、どの作者の作品も、主人公イコール作者だなどと単純には言えないフィクション性を見え隠れさせていることを、あらためて認識した。いや、頭では最初からわかっていたのだが、ついつい作者その人と結びつけて読んでしまう。一人称性の呪縛とは、作者だけでなく読者の側の問題でもあるのだと思い知らされた次第である。
 なお、本稿で取り上げた石川美南は、普段から物語性に富んだ歌を多く作っており、短歌界にあっては異色の作風の持ち主である。その意味では、もともとショートショートと馴染みやすい資質を持っていたのだともいえよう。最後に、歌集から歌をいくつか引いておく。

うつ伏せて口中の牙磨きつつおれは心底怖いぞ鬼が    『裏島』(2011)
人間のふり難儀なり帰りきて睫毛一本一本はづす     『離れ島』( 〃 )
おとぎ話のなき村にして猪のこども十匹煮て食ふ話    『同上』



山田消児(やまだしょうじ)
歌誌「遊子」「Es」同人
個人ホームページ:「うみねこ短歌館
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短歌時評 第100回 書籍としての歌集の見せ方を考える 山崎聡子

2013-08-13 20:39:25 | 短歌時評
~『迷子のカピパラ』と『ロングロングショートソングロング』~

 “ジャケ買い派”であるところの私がつねづね不思議に思っているのは、歌集には“ジャケ買い”したくなるような本が意外に少ないということだ。書店に流通させることが前提の一般書籍では、作品の世界観を担保する表紙や装丁がいわば「顔」の役割を果たす。一方の歌集では(もちろん、最近ではそうでないものも多数あるが)、重厚な見た目、紙の質感といった、いわゆる「品のよさ」が重視されているものが多いように感じる。
 もちろん、シンプルな装丁の美というものも理解できるし、「歌集は歌で勝負」という意見も一理あるとは思う。しかし、言葉を外に向かって発するにあたっては、その世界の入り口である“デザイン”“見せ方”がもう少し重視されてもよいのではないか、と思うのも事実だ。
 そんななか、今年4月に発行された『迷子のカピパラ』(風媒社)を手にして、その洗練された「顔」に衝撃を受けた。著者の秋月祐一は、1969年生まれ。未来彗星集に所属し、プロフィールによると、テレビディレクターとしての顔をもつという。なるほど、厳選された短歌100首を自身が撮影した写真と井上陽子のコラージュとともに配したこの美しい本は、写真集や画集のコーナーにあっても違和感がないような、視覚的な美意識に溢れた一冊だ。並ぶのは、現実とファンタジーの波間をふわふわ遊ぶような歌たちであり、その行間を愉しむのに、写真やコラージュとのコラボレーションは非常にうまく作用している。




開けてごらん影絵のやうな家々のどれかひとつはオルゴールだよ
リバーシブル! 正義の味方のやうな声発してきみは服うらがへす
「生涯にいちどだけ全速力でまはる日がある」観覧車(談)
九時半のかたちの寝相で目をさまし「愛ちてゆ」って、なんだピノコか
感情に名前をつけるおろかさをシャッター音ではぐらかしてく


 これらの歌の印象は、どちらかといえば淡く、一首としての屹立性としては弱く感じられるかもしれない。また、一読したときに、それぞれの短歌が歌集全体の“センスの良さ”に奉仕しているのではないか、とすこしもったいない気がしたのも事実だ。しかし、この歌集では、短歌自体はあくまでイメージを想起させるための装置であり、絶妙な配置も含め、文字(短歌)と視覚材料(写真・コラージュ)とを掛け合わせたときに、はじめてバランスが保たれるような構成になっている。他の媒体との掛け算で世界を「広げる」よりは、すべてを掛け合わせたときにちょうど「1」となるように周到に計算されたような。それでいてその苦労を感じさせないような。これらの特徴も含めて、秋月のディレクションはうまくいっているといえるのではないだろうか。
 
 一方、写真集で有名な出版社・雷鳥社から2012年3月に発行されたのが、『ロングロングショートソングロング』である。こちらの本は、枡野浩一の短歌に映画監督・杉田協士による写真を組み合わせた一冊で、日常を切り取ったようなスナップ写真に短歌が添えられる。自転車をひく女子高生、駅のプラットホームにたたずむ人、車窓から見える道路。どこか懐かしいような、誰の記憶にもありそうな、これらの風景を写真として切り取ることは、枡野が平易な言葉つきで日常に埋もれている“ほんとうのこと”を炙り出そうとしていることとほとんど同じ行為のように感じられる。前述の『迷子のカピパラ』では、短歌と視覚材料とが相乗的にハーモニーを奏でているとしたら、『ロングロングショートソングロング』では、類似する感性を持った作家二人が、 “ある感覚”を表現するために共同作業をした、という印象が強い。それだけでなく、短歌の一首一首は、平易でありながらよく練られており、圧倒的に“立っている”。おそらく、写真と切り離しても、受ける印象や好き嫌いはそれほど変わりがないのではないか。

この歌は名前も知らない好きな歌いつかも耳をかたむけていた
気をつけていってらっしゃい行きよりも明るい帰路になりますように
法律で裁かれている友達を法のすきまでゆるしていたい
セックスを一回したら死ぬような人生ならば楽だったのに
雨上がりの夜の吉祥寺が好きだ街路樹に鳴く鳥が見えない


 短歌を何かと掛け合わせる、という取り組みは、おそらくこれまでもやられてきたことであり、目新しいことではないのかもしれない。しかし、一見容易そうでいて、それぞれの表現を互いが活かしあい、必然性を納得できる形にすることはなかなか難しいことだ。ただ、それが成功したとき、その本は、短歌の世界を超えて広く届くのではないか。写真集や画集を楽しむような感覚で短歌を楽しんでもらえるのではないか。今回紹介した2冊は、そんな短歌の広がりの可能性を期待させる。

*    *    *    *    *

山崎聡子(やまざき さとこ)
ガルマン歌会、同人誌poolに所属。
2010年 短歌研究新人賞受賞
2013年 『手のひらの花火』(短歌研究社)上梓
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短歌時評 第99回 星の歌 田中濯

2013-08-02 00:00:00 | 短歌時評
 藤原定家がいま、流行っている、
 というのは冗談だ。
 もちろん、「百人一首」絡みの話題を加味しても、冗談にもならないのであるが、つい最近には、以下のようなニュースが報じられているのだった。

 京都大学(京大)は7月2日、藤原定家が『明月記』に記録した超新星「SN1006」が非対称にゆがんだ爆発をしていたことを発見したと発表した。
http://news.mynavi.jp/news/2013/07/04/021/index.html

 ゆがんだ爆発をしたからどうなんだろう、そりゃ、超新星にもゆがんだ奴はいるさ、と私ごときの素人は思うものであるが、ここでの「食いつきどころ」は『明月記』である。こんなところで定家卿の日記を眼にするとはなあ、という思いがしたものだが、実は『明月記』には天文事象の記述が多く、考古天文学の分野では実に重宝されている資料とのことである。
 『明月記』は、なにしろ時代背景が「平氏滅亡」「鎌倉幕府誕生」「平安朝終焉」「源氏将軍途絶」、という、日本史上屈指の大激動期であり、それだけで日曜歴史家の血が騒ぐのだが、残念ながら、私には原文を読む能力はないので、もっぱら『定家明月記私抄』(堀田善衛)を読むことになっている。この「SN1006」についての堀田の記述を見ると、1230年10月、定家69歳の話であるようだ。この年は前年に続く大凶作で、京の都も大荒れ、群盗が跋扈していたとのこと。そんなときに天に「客星」、つまり超新星が出現したものだから、これは凶兆に違いない、そういえば昔にも物凄い客星が出現したことがあるぜ、という流れで「SN1006」を定家はメモったようである。
 一方で、定家自身は、そのような天変地異の折にも猟官活動をしており、「中納言になれないなら死んだほうがましだ」(堀田による意訳)などと書き残している。彼はとにかく出世が遅かったひとで、出世したくてしたくてたまらなかったらしい。そんな俗物の彼と、天の星に想いをはせる彼と、あるいは彼の歌が、同居していることが文藝のひとつの面白味ではあります。
 前置きが「うなぎ」に続いてまたしても長くなってしまったが、定家の「客星」の記述に敬意を払い、本稿では短歌の一種の鬼門ともいえる「星の歌」に着目することにした。万葉以来、月の歌はあれども星の歌はない、というのが定説で、現代短歌でも星の歌はたいへん少ない。これには、都市化であるとか、農業・漁業や航海・気象に星が関わらなくなったことなど色々な理由が推察される。とはいえ、ここでは難しいことはあまり考えず、最近刊行された優れた歌集のなかから、いくつかを選んで紹介してみようと思う。

月も君、星も君ゆゑ哀れとはああ、われといふ哀しみならん
小島ゆかり『純白光』


この歌には『建礼門院右京大夫集』所収の有名歌である

月をこそながめなれしか星の夜の深き哀れを今宵知りぬる


が引かれて詞書として付けられている。建礼門院右京大夫の歌は、従来、「月についてはよく眺めていて知ってはいたが、星空の良さについては今夜初めて思い知ったことだ」という解釈がなされている。小島の歌は、この読みをさらに進めたもので、建礼門院右京大夫が見ていたものは確かに「月」であり「星」ではあったが、それは実のところ「君」を見ていたのであって、このふるまいこそは人間存在そのものにある哀しみである、というものである。この解釈は、まったくもって仰る通りであり、『建礼門院右京大夫集』というと、セレブな美男美女の悲恋であるとか、はたまた星の歌人であるとか、私はなにかと先入観のもとで歌を読んでしまうので、マンネリだし良くない、と反省した次第である。

部屋に雨匂うよ君のクリックに〈はやぶさ〉は何度も燃え尽きて
大森静佳『てのひらを燃やす』


 『てのひらを燃やす』は期待の新人の第一歌集である。全編ほぼ全てが相聞という思い切ったつくりをしていることが特徴であるが、肝心の「君」についての情報やパーソナリティについては、最後までほとんど判明しない。大森の歌における「君」は、自身の内面の鏡であることが徹底され、それゆえに、成功しているとは即座に判断できないが、他者である「君」は近くに居るがはるかに遠い存在となり、読者の「叙情機械(マシン)」を駆動させてゆく。挙げた歌はこの歌集に数多い佳品のひとつである。〈はやぶさ〉についての説明はよいだろう。ここでは動画をひとつ紹介するに留める(*1)。「雨」は実際の雨であるかもしれないし、動画を改めて見たあとでは、それは〈はやぶさ〉の破片の匂いであるかもしれないとも思う。また、クリックしているのは確かに「君」だが、それは「君」の意志なのだろうか?「われ」が「君」にせがんでいる、と解釈したほうが、この歌集の場合には自然であるように考える。おそらくは大森こそが、みずからのてのひらと同じく、〈はやぶさ〉を何度も何度も、燃やしているのである。

七月はあんず見上げてゐるわたしつひに変はらぬ何ものかある
目黒哲朗『VSOP』


この歌には星は出てこないが、その代わりに「見上げる」われが居て、あんずがある。『VSOP』には他にも数首、あんずの歌があり、平仮名表記であることも考えると、あんずは目黒にとってとても大切なものであることが理解される。りんごやぶどうは歌語として成立し、手垢もかなりついているが、あんずはかなり貴重なのではないだろうか。本歌集を読むときのキーワードのひとつとして提示しておきたい。挙げた歌については、おそらくは七月こそは目黒の誕生月であり、つまりは「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」を踏まえたうえでの感慨であるだろう。また、読みを超えて、調べと歌の姿が美しいと思う。この歌集は「わたし」についての冒険もおこなっており、それは見どころでもある。「わたし」もまた、この歌集ではありふれてはいないものであるから、キーワードのひとつとして、強く注意を喚起しておきたい。

 以上、三首三歌集について「星の歌」を見てみた。「星」は、遠すぎるし、小さすぎるし、個性にも乏しいので、たとえば、『純白光』に大量に出てくる「猫」と比べると、これはずいぶんと分が悪いのかなとは思うところである。けれども、星には星の味わいがあるのだし、「客星」のように、ごくまれに出現するのではなく、もう少し頻繁に、歌集のなかで輝いていてほしいとも勝手ながら思うのである。

*1
http://www.youtube.com/watch?v=2faNGDT7C2k
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