「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 教えてほしい、MISOHITOMOJIの底力(前編)――『胎動短歌』(Collective vol.3)の挑戦 添田 馨

2023-08-18 16:35:13 | 短歌時評

 みんな勝負してるな、というのが率直な印象である。それにしても、みんなは何と格闘し、そして何と勝負しているのだろう。
 ところでMISOHITOMOJIは何故に五七五七七なのか、この問題への納得いく答えを私は聞いたことがない。これまでさまざまな人がこの問いについて語ってきたのを私も読んだが、いまだにもってよく分からない。五六五六六でもなく五八五八八でもなく、五七五七七でなければならない理由がわからない。むろん多少はここからはみ出すことがあっても、それはバリエーションの許容範囲ということで、原則までが変わったわけではないだろう。
 要するに、音数57577を音律五七五七七に変貌させるおおもとの力が何なのか、それを私はもっとも知りたい。短歌をつくる人たちも、たぶん日々そのことに挑戦しているのはないだろうか。その答えをだそうとして、勝負しているのではないだろうか。勝負したその結果が、残されたひとつひとつの短歌作品なのではないだろうか。

 『胎動短歌』(Collective vol.3)は、ジャンルを超えたさまざまな出自の人たち全三四組が、短歌連作八首をそれぞれ寄稿するスタイルをとっている。だから一首ずつ読んだ印象と、八首ぜんぶを読んだあとの印象とではとうぜん異なるし、なかなか的をしぼりにくい。私の視力などたかが知れてるので、読んだあとのじぶんの短期記憶をもとに思ったところだけを順次ピン止めしていきたいと思う。

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(役立たず)(その夜)(僕が)(乗った電車が)(向かうのは)(光が丘)(って駅)
                                       (Dream Baby Dream/青松輝)

 おお、いいね。ぜんぜん短歌っぽくない。カッコで包んであるので、これは続けて呼んではいかんのだろうけど、やはり続けて読んでしまう。そういう悲しい習性から私は自由ではない。でも、読みながら七個のカッコが私のこころを順にカッコに包んでいくのが分かった。その結果、すごいことが起きた。カッコのなかではなく、カッコのそとが私の心のなかにどーんと入りこんで来たのである。それはどこか悄然とした寂しい「」の影のようなもの。つまり七つのカッコが疎外したところのものの全体が、入りこんできたのだった。これ、そこまで計算してつくってるならすごい技法だね。「光が丘」っていう固有名詞も逆説的ですごく効果的だし。

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パーキングエリアのCDコーナーのチョイスはこの世の不思議のひとつ
                               (ホリデー・メイキング/伊波真人)

 読んだ瞬間に笑ってしまった。何度よんでも笑ってしまう。なぜこんなに可笑しいのか自分でもよく分からない。なのに、思いだしては笑ってしまう。「パーキングエリアのCDコーナーのチョイス」がどういうものか、じつは私は知りません。でも、想像はつくんです。たぶんこの一行って、世界の裂け目つまり断層なんだとおもう。ものごとがこちらの感覚とあまりにもズレすぎてると、そこに〝断層〟がうまれる。しかもそのズレ感覚を「この世の不思議のひとつ」としてやさしく受け入れているよね。それにしてもうまく切り取ったな。このホノボノ感はなかなかだせない瞬間芸、こんなにも人を幸せな気分にしてくれるなんて、やっぱりすごいよ、言葉のちから。

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夜道ラブ 眼鏡に心がうつる夜 ジュースを飲んでジュースをあげる
                              (みちるとうつる/岡野大嗣)


 あえて深読みはいたしません。深読みすると液状化がおきて「」が吹きだしてしまうから。でも「夜道ラブ」って言葉、すごくない?これだけで宇宙がひとつぱっと生まれちゃう、そんな言葉だな。「眼鏡」にうつるときって、レンズのかたすみに視界のそとの光なんかが反射してみえる、あの感じだよね。それが「」だっていうことは、それぐらいかそけき仮象にすぎないってことかな。この一行のなかで実体は「ジュース」だけです。これはふたり(恋人どうし?)で一本のジュースを回し飲みしあうっていう歌だよね。「」がそんなだから自分も相手もほんとうに実体なのか自信がなくなる。でも「ジュース」が「ラブ」をつなぐんだな。こんなエロス表現、いいじゃないですか。

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凍蝶のようだね二人押しボタンだとわからないままたたずんで
                           (かげよかたちよ/岡本真帆)


 白状します、はじめに頭をよぎったのは「二人押しボタン」でなんだ(?)という疑問でした。よく核兵器の発射ボタンなんか二人以上の人間がおさないと作動しないなんていうじゃないですか。そんな見当はずれなことを考えてしまった自分が馬鹿でした。ちゃんと五七五七七の原則にここは戻るべきでした。すると「凍蝶の/ようだね二人/押しボタン/だとわからない/ままたたずんで」――こんな区切りになるね。どうしたら、なにをいったらよいのか分からない「ふたり」のメタファが「凍蝶」なんだな。うーむ、ここで57577は意味の秩序をうむための透明な道具でしかないわけだ。だがもじもじし合っている若い男女のほほえましいイメージは鮮明に湧いてくるから不思議だ。

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突然だけど春のすべてを噛むために顎が強めの犬になりたい
                          (犬になりたい/荻原裕幸)


 おっと、正面から攻めてきたね!それも意表をついて。一瞬その手にはのるものかと思ったものの、時すでに遅し、やはりのってしまうんだな。ふと自分の青春期を思いだしていました。あの頃って生理的なものやら野心的なものやら意味もなく暴発的なものやら、いろんな欲望がアマルガムになって渦巻いていた。「春のすべてを噛む」って表現は、僕をそんなぎらぎらしたイメージで捉えました。そうだよな、顎が強くなければできないことだよな。「犬になりたい」ってそういうことなんじゃないの? 狼はこの国では絶滅したようだし、「」は自分たちのなかに残された数少ない〝野生の証明〟たるにふさわしい。短歌なのに、とつぜん犬に吠えかかられた時のように本当にビクッとさせられた。

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バラバラの僕を拾って縫ってくれてありがとうでも捨ててください
                             (酸性雨/金田冬一(おばけ))


 俺のことなんか放っといてくれよ、といいたいのじゃ多分ない。もっと複雑な感情がここには木枯らしのように吹いているね。そう感じる。なぜだろうか。僕にはいま雨のなかをひとり立ち去って行く托鉢僧のような作者の後ろ姿がみえるような気がしてるんです。じぶんの生き方をこの一行はイメージしてつくられたんじゃないだろうか。「バラバラの僕」って、ひょっとして自分の短歌のことなんじゃないか?そんなことまで考えましたが、ちょっと深読みしすぎかもしれません。「ありがとう」と微笑んで、すぐに「でも捨ててください」という返しはドキッとさせるつよい印象を残します。強固な拒絶の意志を感じます。こっちは逆に茫然としてしまう。でも孤絶を選ぶってそういうことだろう。引き止めないよ。

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世界が今日も工事中なので会えない絵文字の鳥を送ります
                         (未完成クラブ/カニエ・ナハ)


 歌わない短歌というものがあるなら、たぶんこういう一行詩になるんだろう。とりあえず五七五七七は度外視されていて、文体は平叙文を装って練られていますね。だから意味のほうが逆に重量をましているようにも感じます。「工事中」とあっても、いまは道路工事やビル工事や地下鉄工事をイメージする人はいないんじゃないかな。僕でさえホームページの未完成サイトの表示記号として連想するくらいだからね。つまり「世界」ってこの場合、言葉じゃなくてヴァーチャルな表象なんだな。「今日も」ということは、おそらく明日も明後日もそのさきもずっと「工事中」だということを暗示しているよね。「絵文字の鳥」は、だから送ってもらっても決して届かない〝言葉〟のことなのかも。

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生命の痛みに耐えて飲む水のデクレッシェンド/アッチェレランド
                             (間氷期、その光/上條翔)


 辛いです、正直いって。表白されているのは、ある種、絶対的な痛苦のようなもの。それしか分からない。分かることは、生きているがゆえに痛みがあること。そして痛みに耐えなければ水を飲むことができないこと。分からないなりに想像できるのは、ふかく病んだ身体性のここがゆいいつ可能な宇宙だということ。水を飲まなければ、たぶん、そこから先はもうないこと。でも水が「生命」を潤している感じがまったくしないこと。やっぱ辛いです。でも五七五七七がそれら全部を呼びだしては、しっかり統率している姿は立派です。毅然としています。カタカナ語にも音律は宿るのですね。「デクレッシェンド/アッチェレランド」は音楽用語ですが、ここでは締めの音律です。

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夕暮れに缶ビールのフタそっと開け一口飲んで減っていく今日
                           (そっと/狐火)


 「減っていく」といいながら、じつは満ちていってるんだよね、たぶん。けっこう手堅い喩法を駆使してる。ビール会社の広告に採用されてもおかしくないくらいだよ、マジで。それくらい幸福感があふれてる。「今日」なにがあったかなんて、とりあえず関係ない。この一行はそこで勝負しているのじゃない。駆使するのは意味的な喩じゃなくて、像的な喩。缶のなかで減っていくのは「ビール」であり、それを述べることで実は今日一日の疲労がやわらいでいく様を可視化することに腐心している。「そっと」という副詞がここでは抜群の効果を発揮してるね。心のやすらぐ感じがこの副詞で担保され、さらに全体を包みこんでいく。こういう勝負があって悪いことはなにもない。

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キスってさ、どんなんやろね そう言って高橋がふりむいた 逆光
                             (ザリガニをちぎって/木下龍也)


 ほとんどコミック・タッチの情景ですね。そう、情景です。「逆光」って言葉がすごく光ってる。語り手の視点はこのとき、まぶしい光がくる方向にむいているわけで、ふりむいた「高橋」がどんな顔をしているのか分からないところがミソなんじゃないかな。でも、僕の想像のなかではまっ黒い影になった彼のまっ白い歯並びまでがはっきり見えるんですよ。不思議ですよね、そんなことどこにも書かれてないのに。「キスってさ、どんなんやろね」とつぶやく「高橋」は、ここでは初心な男子の象徴と化していて、なんかすごく神聖な感じが漂ってくるのは気のせいだろうか。「逆光」のなかにあるからこそ、輝くものが絶対あるんだと思う。「キス」もたぶんそう。違うかね。

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目を狙って指突き出した春の夜の路地裏の詩をきみに聴かせた
                           (目を開ければ/小坂井大輔)

 どこか危険な雰囲気がただよってくる。「」なんて安全無害なものだと思ってるだろ?冗談じゃないぜ、「路地裏の詩」を教えてやるよ、とでも言いたがっているような。基本構文はさいごの七七で表出され、そこまでの五七五は「路地裏の詩」にかかる形容部分ですが、この畳みかける手法が効果的に生きているね。どこか荒んだ感じのダウン・タウンの路上、角をまがったとたんにストリート・ギャングの一団にいきなり目つぶし攻撃を食らった、そんな直感に襲われましたよ。一種のショック療法で、はじめに強い印象をなげつける。でも語り手はそれをやさしく「聴かせた」とむすぶことで、鎮静化をはかることも忘れない。いまの短歌世代の〝やさしさ〟をすごく感じるね。

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遠く光るは幻か陽炎か 狐の嫁入り ジェンダーレス
                       (去し春/GOMESS)


 言葉よりもはやく走るものがあって、あとから言葉がそれに追いつくのか。それとも言葉のほうがさきに走って、読み手があとから追いかけるのか。ひとすじ縄ではいかない問いだが、それらが交互にくりかえされるケースというのもありそうな気がする。「遠く光るは幻か陽炎か」は言葉がなんとか追いついた部分、ぎゃくに「狐の嫁入り ジェンダーレス」は言葉がさきにおかれて、読み手は後追いさせられる部分、のような気がする。これだけ断層が鮮やかだと、焦点像がむすばれにくいぶんだけ、短歌としての解像度は意味をうしなって、読みの自由度は拡大の一途をたどる。読み手の主体も色をうしなって、すでにして「幻か陽炎」になっている。すごい戦術もあったもので、歯がたちません、勝負になりません。

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つり革をゆずったあとの空中できみの手のひらしぼみはじめる
                           (もより/向坂くじら)


 しぼみはじめる」は感情表現だろうか。どうもそんな気がする。でもそれってどんな感情? ちょっと、それは言えないな。言えない感情の「感情表現」って、やっぱりすごくない? はい、そう思いますね。席をゆずることはあっても「つり革をゆずる」ってあんまり聞かない。てか、ふつうはやらないことで、仮にやったとしても行為の意味はいまいち不分明なままだ。そんな「きみ」の存在感は空中に浮遊した状態になり、それが「空中で」の表現につながっているとしたら、それも感情表現ということになるね。この短歌は「きみの手のひら」が主人公であって、「手のひら」はヒトデのように独立した生物になっていて、ひらいたりしぼんだりが感情表現になるって考えると、納得だわな。

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海の絵を見たあとで海を見ることは裏切りといえば裏切りだった
                            (裏切りといえば裏切り/鈴木晴香)

裏切り」といわなければ「裏切り」じゃなかったのですか? 「海の絵を見たあとで海を見ること」ってじっさいの行為ですか?それともたんなる喩えですか?喩えだったら、べつに「」でなくても〝空〟でも〝星〟でもぜんぶ「裏切り」になるのでしょうか?そんなことより「」を見たあとで「海の絵」を見た場合はどうですか?それも「裏切り」になるんでしょうか?「裏切り」といわなくたって〝裏切る〟ことは普通にあります。そうじゃないんだよね。たぶん、ちょっとした後悔があったんだと思う。止めときゃよかったのに、やっちゃった~というあの感じ。やったのは自分だから、自責の念もそこにすこしだけ混じってる。大丈夫、それ、ちゃんと伝わってるし。

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車窓からよその田畑は青々と 冷めてもうまい家のおにぎり
                          (草刈りエレジー/高橋久美子)


 おにぎりは、私は冷めたやつのほうが好きです。それもあってか、「冷めてもうまい家のおにぎり」という箇所を読んで、むかし母親のにぎってくれたおにぎりの味がまざまざと甦ってきました。言葉をよんでお腹がグーとなったのはこれが初めてです。なぜこんな素敵なことが起こったのか?たぶん、あくまでたぶんですけど、七七の下の句がほとんど何も装飾のないシンプルそのままの表現だったことが、その理由ではないだろうか。五七五の上の句はガラスごしの風景描写。都会在住で、かつ農業従事者でもあるという作者の生活スタイルの反映が、そこに距離感となって介入していることは否めない。だから、あいだの一字分の空白が、「冷めてもうまい」というベタな感覚表現に命を吹きこんだのだと思う。

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専門性発揮するには低すぎる景気を上げろよこの野郎
                       (空想転職絵巻/竹田信弥)


この野郎」って啖呵がこんなに鮮やかに吐かれた例は記憶にございません。それぐらい「この野郎」が生き生きしてる。輝いてる。皆さんは誰にむかって言われてるんだと思いましたか?そりゃあもう、景気をあげますあげますと御託ばっかならべて全然あげてくれない何とか首相とか何とか総裁でしょう、この場合(笑)。そもそも景気はあげるもんじゃないし、あがるものですからね。その人たちはできもしないことをさもできるかのように嘘八百ならべてるわけです。世の中に嘘の言葉がみちみちてるから、また一方で真実の言葉が輝くんだということがあるね。それをみちびくのは人々の思いであって、理屈ぬきの直感で十分シェアできる。こんなことまで短歌でいえるなんて拍手でした。

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もう死んだ という現在完了の報せに大きな鱗をもらう
                        (化石譚/千草創一)


 できごとはどれも純粋ではない。いろんなものがじつは混じりあって、できごとはできごとになっている。純粋なできごとって実はめったにない。で、言葉の世界は純粋なできごとがときおり起こる数すくない場所である。いや、やられましたね。この一行詩、かんぜんにそういうやつ。純粋なできごと。素晴らしい。ナンセンスじゃないよ。意味がないわけじゃ決してないよ。世界だってそうだろう。世界の存在に意味がないわけじゃない。でもどんな意味があるのかは誰にも分からない。「もう死んだ」って誰が?「大きな鱗」って何?誰からそれをもらったの?ぼくら読み手にそれが明かされることはなく、語り手がそれを語ることもない。この清らかさがいいよね、こういう純粋な関係って。

(続く)


短歌時評190回 Zoomと朗読 竹内 亮 

2023-08-08 22:34:46 | 短歌時評

 オンライン会議を使うことが増えた。
歌会や短歌講座や同人誌の準備会議は半分以上オンラインでやっている。ZoomかGoogle Meetというソフトウエアを使うことが多いけれど、ほかにもいくつかソフトがあってそれぞれ設定の仕方がすこしずつ違う。

 そういうソフトでマイクがきちんとつながっているか、ひとりで事前にテストをすることがある。Zoomだと「マイクのテスト」をクリックして、何か話す。この時、なにを話そうとすこし悩む。

 だいたい「こんにちは」とか「テストテスト」とか言ってみるけれど、音声テストとしてはすこし短くてもうすこし長いフレーズを話したいと思うし、数秒後にテストのためにソフトウエアがわたしの声を再生するときに、「こんにちは」とか「テストテスト」とかの自分の声を聞くとなぜかとても恥ずかしくなる。

 そんなとき、机の横にあった『赤光』の岩波文庫を手に取って、偶然開いたページにある歌を2首くらい朗読した。

真夏の日てりかがよへり渚にはくれなゐの玉ぬれてゐるかな

海の香は山ふかき国に生まれたる我のこころに染まんとすらん

 センテンスの長さもちょうどよいし、再生テストで流れてくる自分の声も歌がよいせいかなんだか立派に聞こえる。しかし、それだけでなく、音読してみると、『赤光』の歌のよさ(いまさらだけれど)が身体的に感じられた。

 自分で歌をつくっているとは「ごにょごにょ」と声に出して推敲するし、歌会に出て参加者の詠草を朗読して評をいうこともよくあるけれど、古典的な短歌を朗読する機会は実はあまりなかったことに気づく。

 テキストを黙読することとそれを音読することが大きく違うのはよく言われることだけれど古典を音読してそれが強く感じられた。

 それから、『赤光』の歌を音読してみる。そこでもうひとつ気づいたのだけど、自分の声がソフトウエアによって再生される過程というのも効果を発揮していると思う。だから、マイクのテストとは関係ないのだけれど、『赤光』を音読しながらマイクのテストを続けている。

 深夜ラジオをファンの人が書き起こしているサイトがあって、内容を知るにはそれでも十分だけれど、実際の音声を聞くのとはきっと大きな違いがあると思う。戯曲や台本を黙読するのと上演が違うのときっと同類なのだろう。

 短歌は黙読を前提としているのか音読を前提としているのか、ということを改めて思う。黙読して心打つ短歌はたくさんあるけれど、音読してみてわかる短歌もあるのだろうと思った。