「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 あらばしりと春の雨 山田露結

2014-03-14 10:38:41 | 短歌時評
 どうして私のところに短歌時評の執筆依頼が来たのでしょう。ふだん、短歌のことをほとんど気にしていない私なので、書くことなんて何もないよなぁと思っていたのですが、そういえば、少し前にツイッターでこんなやり取りがあったのを思い出しました。

香りたつ「八海山」のあらばしり暖簾の外は春の雨です 久々湊盈子(歌集「あらばしり」/砂子屋書房2000年)

 歌人の荻原裕幸さんのツイートの中で、この一首が紹介されていて、私はそれを見てとっさに「はて?」と思い、こうツイートしました。

@rockets_yamada 1月22日
〈俳句では「あらばしり」は秋の季語だと思うのですが(ちなみに暖簾は夏)。こういうのオッケーなんですかね。〉

※「暖簾」は夏の季語ではありません。ここで私は「簾」と勘違いしていました。

 これは私が俳人だからなのかもしれませんが、私は、あらばしり→新酒→秋季となんの疑いもなく認識していて、春の雨を見ながらあらばしりをいただくという情景に妙な違和感を抱いたのです。年を越して春になってしまった新酒はもう新酒ではないんじゃないだろうか、私は、たとえばこの歌を〈香りたつ「あきたこまち」の今年米暖簾の外は春の雨です〉としてみてもやはり違和感があると思いました。このことについては、すでに私のブログに同様のことを書きました。
 私のこのツイートについて歌人の田中槐さん(@enjutanaka)から、〈短歌では季語という考え方がないので、こういうのもありなんですよ。〉という旨の返信をいただきました。荻原裕幸さん(@ogiharahiroyuki)からは、私の疑問に関する連続ツイートがありましたので、ここにその一部を引用させていただきます。

@ogiharahiroyuki 1月22日
久々湊盈子さんは、あらばしり、を、その年収穫した新米で造った酒、と歌集のあとがきで説明しています。彼女は、義父も姉も俳人、季語への親近はあるでしょうけど、ここでは業界用語っぽく捉えているんじゃないでしょうか。春雨を見ながらそれを飲んだという体験を背景にしての一首なんだと思います。


@ogiharahiroyuki 1月22日
一括りにすると必ず違うと感じる人も出るんだけど、ともあれ、短歌では、いまここ、にそれがあれば、歳時記的な意味での季節のことはあまり気にしませんね。あらばしり=新酒の本意にはこだわらない。むしろ、林檎は冬のものなのにわざわざ冬林檎なんて変な感じ、というのが歌人的な感覚だと思います。


@ogiharahiroyuki 1月23日
短歌が季節を気にしないわけではない。気にしないわけはない。ただ、歳時記的な本意よりも日常的な感覚や経験をベースに、季語でもある単語、が用いられることが多い。俳句で或る花が登場すれば本意的に季節が特定されるけれども、短歌では長い花期のどこかの作品上のいまここに咲いていることになる。


 お二人の言われることはよくわかります。私はいったん納得しかけました。しかし、その後、よ~く考えれば考えるほど、私の頭の中は大混乱となりました。
 たとえば、「初詣」という季語があります。これは間違いなく正月の季語です。俳句だからということではなく一般的に「初詣」は新年の行事です。その年にまだ一度も神社を訪れていなくて、夏になってからはじめて詣でたとしても、それを「初詣」とは言いせん。
 こんな俳句があります。

冬空へ出てはつきりと蚊のかたち 岸本尚毅

 俳句で「蚊」は夏の季語ですが、この句では「冬空」がメインの季語となっているので、ここでの「蚊」は、たまたま冬まで残っていたものだと解釈することができます。そうすれば頭の中はすっきりとして混乱は起こりません。俳句においても季語とされているものを本来とは別の時期に季語としてではなく使うことは、それほど珍しいこととは思いません。しかし、盈子さんの「あらばしり」の歌については、あらばしり→新酒→秋季というのが私の中で完全に固定化されていたために「春の雨」との取り合わせによって、たとえば「夏の初詣」と言われたのと同じような違和感が生じて混乱してしまったのです。つまり私は「あらばしり」を春夏秋冬移動可能な「蚊」ではなく、移動不可能な「初詣」と同じ部類のものと考えたわけです。
 「あらばしり」を辞書で引いてみると、〈あらばしり【新走り】→新酒に同じ。季秋。しんしゅ【新酒】その年にとれた米でつくった酒。新しい酒。今年酒。新走り。⇔古酒。季秋。〉(大辞林 第三版)とあります。また手元の歳時記では、「あらばしり」は「新酒」の副題で〈新米で醸造した酒。かつては収穫後の米をすぐ醸造したため、新酒は秋の季語とされる。現在はほとんどが寒造りとなっていて翌年二月ごろに出荷される。〉(合本俳句歳時記 第四版・角川学芸出版)となっています。なるほど、歳時記の方は、いちおう秋の季語ではあるけれども、「現在はほとんどが寒造りとなっていて翌年二月ごろに出荷される」から、本来の季節感と実際とはズレがあるというようなニュアンスです。となると、はたして冬に仕込まれて春に出荷するものを「あらばしり」と呼ぶのかどうか、ということが問題になってきます。
 一方で、「あらばしり」には「新酒」とは別の意味もあります。製造段階で日本酒を袋から絞り出すときに最初に出てくる濁ったものを「あらばしり」と呼ぶのです。
http://www.meimonshu.jp/modules/xfsection/html/gallery2/memo/seishu/mm0_arabashiri.html
 ああ、なるほど、盈子さんの詠んでいるのがこの「あらばしり」であるなら、季節感に惑わされることなくしっとりと春の「あらばしり」を堪能することができます。ああ、そうか、そうだ、きっとそうに違いない。また、あるいは、ひょっとすると「八海山」には「あらばしり」という銘柄があるんじゃないだろうか、ああ、そうか、そうだ、きっとそうに違いない。いや、まてよ、もしかしたら「あらばしり」というのは単に「しぼりたて」程度の軽い意味なのかも知れない、ああ、そうか、そうだ、きっとそうに違いない。いやいや、秋だろうが、春だろうが、新しく出来た酒だから「新酒」=「あらばしり」で問題ないじゃないか、ああ、そうか、そうだ、きっとそうに違いない。などと自分に言い聞かせては、私は、なんとかこの混乱をおさめようと、久々湊盈子さんの歌集「あらばしり」をAmazonで注文しました。すると、荻原さんのツイートにあった通り、歌集のあとがきには〈「あらばしり」というのは「新走り」と書き、その年に収穫した新米で造った酒のことである。「にいしぼり」ともいう。これはまた「荒走り」であって、激しい風雨を受けながら航行することでもある。日本酒が好きで、ドライブが好きで、雑駁な日常をせわしなく走りまわっている今の私にはこれしかない、という集名といえようか。〉とありました。ん?あれ?盈子さんは「あらばしり」を「その年に収穫した新米で造った酒」と辞書通りの意味に認識しています。う~む、新米はいつまで新米と呼ばれるのでしょう。次年度の新米が出るまではずっと新米?新酒?今年酒?あらばしり?寒造り?あらばしり?春の雨?あらばしり?などともだえつつ、ふたたび私の頭の中は混乱しはじめました。いえ、あの、なにも、久々湊盈子さんの歌を、また、田中槐さん、荻原裕幸さんのツイートを否定しようなんてつもりはありません。ん?あれ?もしかして、私、誰も躓かないところで一人勝手に躓いてる?大丈夫?とも思いながら、今もこの混乱はモヤモヤと続いています。
 近く、仕事で新潟に行きます。ひょっとすると、そこで「八海山」の「あらばしり」に出会うことができるかもしれません。折よく春の雨が降っているといいのですが。