「詩客」短歌時評

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短歌評 くるぶしまで短歌に埋まる――光森裕樹歌集『山椒魚が飛んだ日』を読む 田中庸介

2017-01-05 00:06:10 | 短歌時評
 光森裕樹さんの第三歌集『山椒魚が飛んだ日』(書肆侃侃房)は、東日本大震災後の数年間の作者の石垣島での日々に寄り添って、未生と生と死のあわいに横たわるさびしい薄暮の空間を、巧みなことばのレトリックと機知によって切り取った秀作である。第一歌集『鈴を産むひばり』(港の人)で提示されたやわらかいもやもや感のある冷たい「やさしさ」が、暴力的なまでの「愛」へと一気にのぼりつめた感がある。

  やはりはうしやのうでせうかと云ふこゑのやはりとはなに応へつ、否と
  婚の日は山椒魚が二〇〇〇粁を飛んだ日 浮力に加はる揚力
  琉歌かなしく燦たり候石垣島万花は錆より艶(にほ)ひにほふも
  きつとぼくらの子どもはぼくらにくぐらせるはるの波紋よゆつくりねつて
  頭を撫でられオスカル坊やたりし日を終へるか砂に素足がしづむ

(「山椒魚が飛んだ日」)


 第一首はきっぱりとした四句切れ。第二首、彼女の飼っていたウーパールーパー(あるいは、山椒魚)を、東京から引っ越すために石垣島へ飛ぶ飛行機に持ち込む際の椿事が、哀しくも愉しげに語られている。第三首、やさしさの「」「寂び」から愛の「」への展開を宣言している。時代がかった言い回しであるが、奇跡的に不健康をまぬがれている。第四首、「はるの」「波紋」は「ジョジョの奇妙な冒険」へのオマージュかもしれないが、このウーパールーパーはあるいは胎児のイメージか。第五首はドイツ文学の名作、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』へのオマージュだが、永遠の少年からの離脱、すなわち、ひとりのおとなになるということ。くるぶしまで埋まる泥田を歩くことを想像する。あるいはくるぶしまで埋まる砂浜。主題ははっきりしているのだけれど、確かなものはなにひとつないように描かれる心のあやうさ。しあわせなのに、悲哀である。あるいは、しあわせだからこその悲哀。その感傷が、短歌形式の果実をうまく活かして展開されていく。
 だがその中にも、まばゆく輝くいくつかの固有名詞(それをぼくらはGoogleで検索する)、ないしは普通名詞。あとがきによれば2012年から2016年までに詠んだ歌からなるこの歌集は、2013年の石垣島移住ならびにお子さんの誕生を白眉として、(1)2012年のマダカスカルへの旅(2)妊娠中期の妻の手術、台湾への旅、艋舺龍山寺への参詣(3)出産後の京都への旅(4)2003-2004年の南ドイツ・フライジングでのNENAの歌の思い出(5)突発性難聴や白内障の検査・手術(6)買いたての羊のフィギュアを東京・幡ヶ谷のバー「Pledge」のカウンターに並べながら読む安藤美保遺歌集『水の粒子』(ながらみ書房)――と数えあげてみると、まったくめまぐるしく生々しい場所の移動の記憶に満ち満ちた一冊といえよう。
 フライジングはミュンヘン郊外の街らしい。そこでの経験に繋がる『ブリキの太鼓』、ドイツ・ポップバンドのNENA、動物フィギュアメーカーのSchleichなどのドイツ文化は、いずれも作者にとってたのしい青春の思い出であったようで、この歌集における数少ない開放感あふれるカタルシスになっている。

    “Liebe ist”
  雪暮れのマリア広場に購ひてシナモンの香の熱き葡萄酒
    “Feuer und Flamme”
  音にのみきくひとあるいは火炎焱燚菊あるいはネーナ・ケルナー、あなた

(「火炎焱燚(くわえん)菊」)


 それぞれの詞書にNENAのアルバムタイトルをかかげているこの連作は、タイトルにもちょっと面白い漢字の遊びが仕込まれているけれども、真紅の炎のような火炎菊の花のイメージは、かがり火を焚きながらアップテンポで歌い踊るこの80年代歌姫のノリのよさによくマッチしていると思う。ホットワインの歌には茂吉の欧州紀行を思い出させる姿のよさがあるし、「音にのみきく」は、「遠からんものは音にもきけ、近からんものは眼にも見よ」という昔の武士の名乗りの表現を、音楽業界の歌姫にかぶせたものである。
 そのミュンヘンから南に600キロ下るとそこは水の都、ベネチア。この南へとたどる視線――それは、東京から南島を見る視線にも重なる――は、だが決してかろやかな解放の雰囲気を持つものではない。特にシェークスピアの「ヴェニスの商人」を引用した重いデモーニッシュな「契約」の概念が、特異な世界観をかもしだしている。

  十字路に立てる惡魔の惡の字の中の十字路に立てる惡魔の
    代償はヴェニスの商人方式
  ――容易き哉、其方の言葉の身ぬちよりきつかりと削ぐ肉一听(ポンド)
    この世も法がある地獄つてことか。
  其れは好都合つてもんさ、君たちと確かに契約を結べるなんて。

    [引用者註:口、口、口、口の活字が行の外へ逃げ出している]
  ことのはの腐葉土をゆく惡魔の背を射抜かむとして腕が捥げ落つ
    [引用者註:肉、月、身、月、扌、口の活字が行の外へ逃げ出している]
  ししむらをそがれてのちの血ならみなあげるよあなた、産んでよかつた
(「石敢當をつきぬけて」)


 「石敢當」は南島の道のつきあたりに立っている魔よけの石。十字路(かじまやー)は、風車や九十七歳のお祝いという意味もあって、異界、後生(ぐそー)との交通路と深く関係している概念である。そして「地獄にも法があるつてことか。/其れは好都合つてもんさ、君たちと確かに契約を結べるなんて」という「ファウスト」の台詞をエピグラフに掲げたこの連作は、出産が苦境に陥って、ヴェニスの商人方式で悪魔に自分の肉を売ってもよいから身代わりになれるものならなりたいという強い愛を、巧みな漢字のグラフィック・ポエムとして描きぬいた秀抜な作品である。その取引の結果として、悪魔のことば「容易き哉」の一首のそれぞれの漢字には、第三首第四首からころがり出た余計な部首の「」「」「」「」「」「」「」「」「」がくっついてしまって「」の下の口が「口口」に変化した漢字、「」の「」の部分が縦に二個「」が並んでしまった漢字、など不気味でありえない文字の世界(ちょっとあの道教の霊符に似ている、というか、現代版のそのものに違いない)を現出させる(84ページ)。すなわち、その「取引」が紙の上で成立して無事出産がなされたに違いないのだ。道教の護符がインターネット上で簡単に手に入る現代ではあるが、それはあくまでも霊的ななにものかとの「取引」である! あるいは連作「外貨」においても、

  マジックテープに繋がる野菜を断つときの同じちからが生むおなじ音
  子に吾の名を教ふるはさびしかり別れのことばを手渡すに似て
  人質のごとく奪りあげたる熊のぬひぐるみを提げ保育所を出る
  ――肉體に繋がる頸を斷つときの同じちからが生むおなじ音

    [引用者註:肉の字の右にもうひとつ余計な肉がついている、
         「同」の「口」の部分が縦に二個に分裂]

 などのデモーニッシュな歌が掲出されており、いずれかの場面で取引の対価は払わなければならなくなるのである――、ということを、これらの歌はわれわれに警告しているように思える。
 つづく連作「トレミーの四十八色」もまた、この取引として神々に還す色ということを主題にしている。

  鳳仙花のごとき啓示よ神々に還すべき色四十八色
  喪いたる色など誰ぞ思ひ出す――トレミーは捧ぐ、双の眼球


 という二首を最初と最後にして、それぞれに凝った趣のある四十八首が挟まれている。トレミーは二世紀の天文学者、プトレマイオスの英語名。トレミーの作った星座表に出てくる四十八星座の名をまずラテン語ならびに中国語で詞書として記し、その中国語から発想したイメージを、かならず色の名前を結句として歌にまとめる、というように作られたきわめて方法的な作品群である。「双の眼球」というところからは、あるいはトレミー48は日本の人気眼鏡ブランドの名前でもあって、メガネフレームにデザインされた48色のこともひそかに指していると解釈することもできよう。

    Perseus/英仙座
  斬り落とすメドゥーサの首より散りゆける蛇よ流星群の山吹
    Aquila/天鷹座
  双頭の双双頭の双双双双頭の鷲ぞ空五倍子色
    Taurus/金牛座
  白牛に地母神たちが摘まみ持つための瘤あり風は草色


などの歌はその柄が特に大きく、SFチックなイメージを楽しみながら読めた。これらの連作の方法は、茂吉の「をさな児の積みし小石を打くづし紺いろの鬼見てゐるところ」「にんげんは馬牛となり岩負ひて牛頭馬頭どもの追ひ行くところ」というような『赤光』にある「地獄極楽図」十一首を思い出させるもので、行わけ自由詩からもっとも遠い、もっとも短歌的な世界を継承していると言えるかもしれない。
 花のカジマヤーをむこうからこちらに来る人もあれば、こちらからむこうへいく人もある。歌集は24歳の若さで不慮の事故で夭逝した歌人、安藤美保(1967—1991)への挽歌の一連「幡ヶ谷沃野」でしめくくられる。それと合わせ鏡のようにして語られるわが子の誕生の物語が、これほどまでにデモーニッシュに、不吉な妄想を追いかけるようにして書かれていくのは他に例をみない。そうとははっきり書かれていないが、わが子は安藤美保の生まれ変わりなのではないか、あるいは、安藤美保の運命を後追いするのではないか、というような親の不安が伝わってくる。

    Bar Pledge
  〈誓約〉と云ふ名の店に飲む火酒のローランドからハイランドへと
  テーブルが荒野であらば沃野たるバーカウンターに歌を拾ひつ
  “ツーフィンガー”確かむるには細き指なりしか安藤美保の其の指
  うたがひて疑ひやまずも詠ひつく場所はきとあり焚火の如く
  性別を明かさぬままに子を詠みてふたとせさうだふたとせが過ぐ
    Schleich
  東京にゆくたび購ふ動物の模型のつがひ仔は購はず
  実に善く出来てますねと云はれたる沃野のうへのつがひの羊
  又、来ますと云ひつつ鞄に仕舞ひこむ『水の粒子』とつがひの羊
    ――はるの波紋よゆつくりねつて
  ひやくねんを空に漂ひましろなる山椒魚が我をいざなふ
    *
  其のときが来たらば吾を訪ひに〈誓約〉と云ふ名の店に来給へ


 ウイスキーが生まれたスコットランドの緑で覆われた沃野。そこには放牧の白い羊が点々と散らばっている(羊を飼ったりウイスキーを蒸留するくらいしか泥炭地は利用することはできないのだ)。その緑。ドイツの玩具メーカーのよくできたつがいの羊の模型を作者は東京で購入するが、なぜか子羊は買うことがない。作者はそのことによって、おそらく子の夭折への不安を暗示しているのかもしれない。(Google検索によれば)どうやら沖縄の苗字を持つバーテンダーのいるらしい都会のバーで、買ったばかりのドイツSchleich社製の羊のつがいをバーカウンターに飾りながら、「ほっそりと反らすこともでき友達の唇(くち)さわることもできる指もつ」「ツーフィンガー気負いて飲めばもろともに夕陽のなかへ落ちる勉学」などという『水の粒子』の歌を拾っていったであろう作者のぜいたくな時間。
 本書を通読させてもらった感想はまず、子の誕生をめぐって、これほどまでにスケールの大きくかつ地に足のついた表現を展開することができるのか、ということで、それが作者に十歳おくれて新米の父親となった評者にとっての個人的な驚きであった。歌人はここまで書けるのか。こうまでして展開できるのか。しかし、自分もまた子を持ってはじめてわかったのは、まったくもう、おとなの世界へようこそっていう感じなのである。小さいものの出現によって、いやおうなしに永遠の青春のモラトリアムから未来の世界へと蹴りとばされてしまった。
 そして、いくぶん難産だったらしい分娩のシーンを詠んだ一連においては、「テテップップ」という鳩の鳴き声のような何かの機械の音を聴きながら「ひとがひとを保たむとするまづしさを剝がされ吾も樹になつてゆく」(「其のひとは」)という一首が特に圧巻であった。「「前世は木だったかもね」自動車の扉を開けて吾をふりかえる」(安藤美保)をおそらく踏んだであろう「樹になつてゆく\誰もゐない/真つ暗な\まばゆさのなか/木霊を\叫ぶ」(「其のひとは」)のスラッシュの連発のリズムは、荻原裕幸氏らの記号短歌を連想させ、掲出歌での「ふたとせさうだふたとせが」の「さうだ」というところの感傷的な文体などは岡井隆氏を彷彿とさせるけれども、時として彼岸へと眼を向けさびしい悪魔と切り結ぶことも辞さないこの作者のシャープでかつデモーニッシュな歌柄の大きさは、そもそもは岡井さんの得た果実を受け継ぎ、さらにその先へと現代短歌の駒を進めるものだろう。
 漢字文化は日本語表現の核にあるものだが、非常にユニークな造字法によってその限界を拡張しようとした作品の数々は、日本語表現全体に対する大きな挑戦である。おのおのの連作の主題がさまざまなカルチャー・サブカルチャーと切り結びつつ、実に活き活きと面白く展開するとともに、それぞれの連作が集まって一冊のひとつの大きなストーリーを作っていくところも、連作単位の短歌表現をはるかに超越した一冊の構成力の高さを物語っている。そして「海への道なめらかに反り海沿ひの道へと変はります 元気です」(「石垣島 2013」)というように、沖縄、石垣、あるいは台湾といったマージナルなトポスを渉猟し、そこに深く根をおろす力。これらのどれをとってみても、本作が現代短歌のみならず現代日本文学のエッジを切り開く意欲的な作品であることは論を俟たない。これらの要素すべての調和にさらに磨きがかかり、よりまろやかになっていくだろう光森さんの今後の挑戦に心からのエールを送りながら、ひとまず今年度時評の筆を擱くことにしたい。