「詩客」短歌時評

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短歌時評197回 新たな技法の評価が求められている 桑原 憂太郎

2024-03-03 00:57:08 | 短歌時評

 角川「短歌」2月号の特集は「句切れの真相」。
 初句切れとか二句切れとかの、あの「句切れ」のこと。
 「句切れ」というのは、言わずもがなの、短歌の表現技法の一つ。短歌には、「体言止め」とか「句割れ」とか「句またがり」とか「倒置」とか「対句」とか「反復」とか、いっぱいいろんな表現技法があるけど、「句切れ」も、その一つ。技法であるから、短歌作品をよりよいものにしようとする、歌人が歌作のときに使うテクニックだ。
 だから、歌作するときには、そうした技法を体得していれば、イマイチの表現だった作品が、よりよい表現の作品へと変えることができる。
 一方、短歌作品を鑑賞するときは、そうした技法によってよりよくなった表現を味わえばよい。また一方で、作品評なんかをするときには、そうした技法が、作品のなかでキチンと効果的に用いられているか、なんてことをそれらしく述べれば、それらしい作品評になるだろう。
 そんな技法なわけであるが、そのなかでも「句切れ」の技法というのは、ほかの「体言止め」とか「句割れ」とか「句またがり」とか「倒置」とか「対句」とか「反復」とかという技法とどう違うのか。
というと、これは、林和清の次の一文に尽きる。
 すなわち、

 句切れの重要性は、定型意識の強度に比例する。(林「句切れに刻印されているもの」角川「短歌」2024年2月号)

 ということなのだ。

 つまり、表現技法としての「句切れ」は、定型意識の強い作品ほど、その重要性は増す、ということだ。
 これ、逆にいえば、定型意識の弱い作品にとっては、句切れという技法は、たいして重要ではない、といえるだろう。
 表現技法としての「句切れ」の効用について、実に、簡潔にしてキッパリとした文章だ。この角川「短歌」の特集は、この一文がすべてといってよい。
つまり、この林の一文が、「句切れの真相」だ。

 では、「句切れ」の「真相」が明らかになったところで、そもそも、定型意識の強い歌、弱い歌とは、いったい、どんな歌をいうのだろう。
 定型意識の強い歌については、それこそ角川「短歌」の特集でいっぱい取り上げられているので、ここでは、あえて定型意識の弱い歌を取り上げて、そこで「句切れ」がどうなっているのかを、みてみたいと思う。
 私が、定型意識の弱い歌ときいて思い出すのは、大辻隆弘の以下の論考だ。
 かつて、大辻隆弘は、「『ざっくりとした定型意識』について」という論考(『時の基底』六花書林、所収)のなかで、次の五首をあげて、その定型意識について次のように論じたのだった。

ラジカセの音量をMAXにしたことがない 秋風の最中に             五島諭

コアラのマーチぶちまけてかっとなってさかだちしてばかあちこちすき       飯田有子

海の生き物って考えていることがわかんないのが多い、蛸ほか           穂村弘

イェーイと言うのでイェーイと言うとあなたそういう人じゃないでしょ、と叱られる 斎藤斎藤

「水菜買いにきた」/三時間高速をとばしてこのへやに/みずな/かいに。     今橋愛

 大辻は論考のなかで、かつて小林久美子がとある批評会で言った「ざっくりとした定型意識」という言葉に「そうか」と蒙を啓かれる気分になった、と述べる。そのうえで、「その言葉は、現在の若者たちの短歌に流れる定型に対するアバウトな姿勢を、感覚的にではあるが、うまく言い表した言葉のように感じられた」(前掲書)と述べる。

 大辻が感じた「ざっくりとした定型意識」。
 定型意識はない、というわけではない。ざっくりとしているけど、あるにはある、ということなのだろう。つまり、定型意識が弱い、とくくっても、大きくはずれてはいまい。
 たとえば、五島の作品は、定型で区切るのではなく、「ラジカセの/音量を/MAXに/したことがない/秋風の最中に」と、五五五七九という音数律に分けるのが自然であろう。しかし、こうなると、短歌の五七五五七七の定型からは当然ながら外れる。でも、外れてはいるんだけど、初句や三句は五音だし、四句も七音だし、それになにより五句に区切ることができるということで、短歌の構成意識がみられよう。破調といえば破調だけど、弱いながらも定型意識は感じられる、といえるだろう。
 次の飯田の作品は、七五六八六あたりに区切れそうだし、穂村の作品は、短歌定型に近づけるなら、七七五七七あたりに区切れそうで、特に下句は、「句跨り」の七七で読み下せる。なので、これらの作品も、弱いながらも定型意識があるといっていだろう。
 では、こうした作品にとって、「句切れ」はどの程度重要なのだろう。
 五島の作品で考えるなら、この作品は四句で切れている、といえる。なので、四句切れ、といえなくもない。けど、ここでの「句切れ」の効果は果てしなく弱いだろう。もし、ここを「句切れ」ととるなら、結句の九音がせっかくの切れを台無しにしている、ということにならないか。筆者としては、ここで句を切ったというよりも、四句までで一文を終わらせて、結句はまた別の一文が挿入されている、感じで読んだほうが、よい鑑賞ができるように思える。
 つまり、この作品からは、「句切れ」の重要性を感じることはない。というか、この作品は、そもそも表現技法としての「句切れ」の技法を有効に使いたかった、というわけではないのだ。この作品は、「句切れ」の切れ具合を効果的に使おうという作品なのではなく、結句九音の冗長性を出すため、あえて四句で一度、叙述を終わらせた、ということなのだろうと思う。ここで、一度終わらせたうえで、結句を冗長に叙述して、抒情を醸したということなのだと思う。
 そうであるなら、この作品は、表現技法としてのこれまでの「句切れ」についての評価軸とは違った読みが求められているといえないだろうか。これまでの「句切れ」の読みではないのだから、例えば、「句切れ」の切れ味がどうの、なんて評は、まったく的外れとなるのではないか。

 より最近になると、もっと、定型意識の弱い作品も提出されている。

カーテンがふくらむ二次性徴みたい あ 願えば春は永遠なのか          初谷むい『花は泡、そこにいたって合いたいよ』

あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の             千種創一『砂丘律』

 ここまで、定型意識が弱められると、表現技法としての「句切れ」の有効性については、もう無効になってしまっている、といえるだろう。

 あるいは、次の作品はどうか。

真夜中のバドミントンが 月が暗いせいではないね つづかないのは        宇都宮敦

三月のつめたい光 つめたいね 牛乳パックにストローをさす

美しい田舎 どんどんブスになる私 墓石屋の望遠鏡               北山あさひ

離婚してほしいと言ったことがある ヒヤシンス 咲きたくなっちゃった

 この四首は、我妻俊樹と平岡直子による共著『起きられない朝のための短歌入門』(書肆侃侃房)で取り上げられて、三分割になっている、と議論のあった作品である。
 短歌を二分割するのが「句切れ」なら、三分割は、「句切れ」が二つということになる。こうなると、もう、従来の「句切れ」の有効性など、すっかり無効になってしまっていよう。
 それに、宇都宮の「三月の~」は定型だし、北山の二首は、「句割れ」や「句跨り」を有効に使った短歌定型の作品である。先に掲出した作品群とは違って、定型意識が弱いわけではない。逆に、強いからこそ、北山の作品は、「句割れ」や「句跨り」が効果的に働いているのである。
 つまり、定型意識が強くとも、「句切れ」の重要性がすっかり無効となった作品が提出されるようになっている、というのが、現代短歌の先端部分なのだ。
 先の初谷むいや千種創一も含めて、こうした現代短歌作品によって、従来の「句切れ」にかわる、新たな技法としての評価が、鑑賞する側に求められている、といえるのだ。


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