「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 生の皮、そして皮以外のもの 竹岡一郎

2014-12-30 09:16:34 | 短歌時評
鞣革(なめしがは)工場に生の皮積まれ傲然たり 死より出發するもの      塚本邦雄

 最近、塚本邦雄の「日本人霊歌」を読んで、この一首を知った。俳人の目から見ると、短歌は長い。いわば日本刀である。どんなに速いように見えても、鍔口を切って鞘走る手間があるような気がしてならぬ。俳句は例えるなら、剝き出しの鉈だ。跳び込みざまに刃の重さで、斬るというよりは撃つ。ただ、この歌は俳人の目から見ても重い刃が剝き出しで迫るような観があって心地良い。
 「生の皮」 は、なまのかわ、と読むのだろうが、せいのかわ、とも読めて、それは生を包んでいる皮とも、あるいは命の皮とも読める。もっと読むならば、人生の皮とも取れる。そこまで連想すると、動物の皮に決まっている筈なのに、もしかすると人間の皮か、とも思えてくる。暗喩としては、それが正解のような気もしてくる。
 ある動物がその動物の皮かぶっていなければ、その動物とは認められないだろう。それは多分もう死んでいて、肉塊だ。人もまた、人の皮かぶっていなければ、人とは認められないか。人の皮って何だろうと思う。良くも悪しくも人が人らしくあるために被るもの。それを世間体と言っても良いし、制度と言っても良いし、慣習と言っても良いし、社会倫理と言っても良い。
 この「日本人霊歌」は、一九五六年夏から五八年夏に掛けて書かれたと跋にあるから、戦後十年は経っているのである。戦後、日本の全ての価値観がひっくり返り、生き延びようとする自我が剝き出しになり、その剝き出しの肉を戦前は覆っていた筈の「天皇陛下万歳」が一転「マッカーサー万歳」となってから後の時代である。
 この時代の出来事を順に記すと、

一九五〇年 レッド・パージ(マッカーサーによる共産主義者狩)
        六月 朝鮮戦争勃発 「共産主義の脅威」が公然と語られる
            朝鮮戦争による特需景気
一九五一年 四月 マッカーサー、アメリカへ帰国
一九五二年 四月 アメリカによる日本の占領終わる
         五月 東京の皇居外苑にて「血のメーデー事件」学生運動の初の死者
一九五三年 三月 スターリン死去による日本株価大暴落
             (朝鮮戦争終結の予想により売りが殺到)
         七月 朝鮮戦争休戦
一九五四年 特需景気終わる 大企業スト多発 
一九五五年 立川の米軍基地拡張に抗して砂川闘争始まる
         五五年体制確立(与党の自民党と野党の社会党という構図)
         神武景気始まる
一九五六年 二月  フルシチョフのスターリン批判演説
             太陽族流行 経済白書が「もはや戦後ではない」
        十月 「日ソ共同宣言」 ハンガリーにて反ソ動乱、ソ連軍による鎮圧
        十二月 シベリア抑留者最後の引き揚げ
一九五七年 六月 岸首相訪米 「日米新時代共同宣言」新安保条約への布石
         七月 鍋底不況
一九五八年 後半より岩戸景気始まる

 資本主義と共産主義の間で、日本人が民族として生き残るべく、如何に揺れ動いたか、その模索の軌跡を考えると、胸迫るものがある。

鼠色の雨衣睛天の日も似合ひ晩餐にも革命にも遲刻する  「日本人霊歌」 
     
 鞣革工場とは、血と脂にまみれ捩れ凸凹した生皮を、綺麗に見栄え良く、長持ちするように整える処だ。皮を鞣す工程を、現実の社会を機能させる様々な思想に例えるなら(その当時日本人を鞣した思想を大きく二分すればアメリカ式資本主義とソ連式共産主義である)、この生の皮とは、敗戦し精神的基盤に盲いた日本人であろう。
 冒頭の掲歌において、「傲然」たるのは、積まれある生皮である。この「傲然」という措辞に、東洋の奇跡と驚かれるほどの経済復活を遂げた日本が重なってくる。景気はジェットコースターのように浮き沈みし、しかし日本人は貪欲に傲然と経済成長を続けた。エコノミック・アニマルと呼ばれても、傲然と働き続けたのは、つまり、金がなかったから敗けたという現実が骨身に染みていたからだ。もっと石油があれば、もっと鉄があれば、もっと物資があればと歯軋りしながら死んでいった者達の無念を、意識の底では忘れ得なかったからだ。
 傲然たることは、掲歌の中では特に否定されている印象は受けない。作者が敗戦を経験したのだから、当然だ。傲然たることは悪徳で、謙虚さが美徳なんて、それが本当の在るべき姿であったとしても。この世は金と暴力、もっと言うなら飯と布団と暴力で出来ていると、叩き込まれた者は、どうしたって傲然と振る舞わざるを得ない。傲慢でなければ、生きていけない状況がある。何よりも二度と屈辱を受けたくない。もう二度と飢えたくなく、凍えたくなく、殴られたくない。その為だけの、傲岸不遜である。「死より出発するもの」とは、先ず第一義に、「生き残れる筈ではなかったが生き残った者」という意味だろう。

處刑さるるごとき姿に髮あらふ少女、明らかにつづく戰後は  「日本人霊歌」     

 わが身の事は兎も角、例えばどうしたって守らねばならぬ少女がいる場合、如何に鞣されても生き残らねばならぬ。「死より出発するもの」とは、これから鞣される工程を受け入れるべく、傲然と待機している生皮であるとも取れる。
 さて、傲然たるのは、生皮であり、命の皮であり、人生の皮であり世間の皮であるのだが、中身たる肉はどこへ行った。皮は美しく鞣されることにより、新たに生き直すことが出来よう。皮を失った肉は、先ず大抵はそのまま息絶えるのだが、全身赤剥けのまま、瞼の無い眼を血走らせて生き残ったとすれば、その赤剥けの肉はどうなる。
 「傲然たり」と「死より出発するもの」との間に、一字の空白、一字分の沈黙が存在する事を考えると、「死より出発するもの」とは、生皮と離れて対峙するもの、皮を剝がされた後に生き残った赤剥けの肉体であるとも考えられる。見栄え良い鞣革を大量生産する為の「工場」から、追われる如く出発した赤剥けの肉は、その後どうなった。

吊されしまま朱き身を削がれゆく鮭と藝術家の生涯と  「日本人霊歌」 


 つまり、塚本邦雄となったのである。

短歌評 「オーロラのお針子」/「同じ白さで雪は降りく 岡野絵里子

2014-12-05 18:53:24 | 短歌時評
 先日、二十代で活躍している作家から面白い話を聞かせてもらった。彼女が書いているライトノベルの現場では、とにかく迅速に、そして量産が要求される。その結果、彼女は家にこもりきりになってしまい、孤立感にさいなまれるようになった。気晴らしをしようにも、時間が取れない。そこで考えた結果、同業の友人とスカイプをつないだのだそうだ。要するに(ご存じない方は)テレビ電話である。画面をオフにして、音声だけを生かし、そのままお互いに仕事をする。会話をしなくても、誰かとつながっていると感じることが出来て、精神が安定したそうだ。疲れてウトウトとした時、画面の向こうから、ライバルがカチャカチャとキーボードを打って原稿を書いている音が聞こえて来て、はっと目が覚める。「そういう効用もあるんですよね」ということだった。

 藤本玲未『オーロラのお針子』(書肆侃侃房)もきらめくような二十代の書き手である。若い時は友人を作りやすかった、などと年長者が嘆くが、本当にそうだろうか。私から見ると、現代の若者の人間関係の方が遥かに複雑微妙で、維持に難しい。この歌集にも、繊細で柔らかい感性で紡がれた人とのつながりが描かれる。

 おはようが勿体なくて部活中うなずきあってああいえば冬
 黒鉛のびしびし折れる昼下りご覧あの子は蒸発するよ
 となりあう木琴みたい教室の好きと嫌いに振りまわされて
 曖昧な定規で君を測るとき「嫌いじゃない」が定点となる


  部活動の早朝練習。冬の朝の澄み渡る空気。その張りつめた美しさの中を登校して来る部員たちは、試合も近いので、挨拶する時間も惜しい。すぐ練習に入る。うなずくだけでも意志は通うけれど、仲間だけで使っている言葉をさりげなく交わして励まし合う。仲良しのグループは自分たちだけの隠語を持っているものだから。それを作者は明らかにしない。「ああいえば」というだけだ。「勿体ない」から教えないのかもしれない。
 二首目、シャープペンシルの芯をやたらに折る生徒がいる。精神の均衡の危うい様子が窺える。蒸発とは古い流行語だが(1967年)、現在ではかえって新鮮に使われているのだろうか。いずれにせよ、傍観者の立場から踏み出すことはない。なぜなら友だちではないから、親しくないから。その境界線はどこで引かれるのか。答えが三首目と四首目にある。
 木琴の鍵盤のように、教室に並ぶ生徒たち。机は同じ形の木製であること、一人一人出す個性の音色が違う点など、比喩が見事だ。楽器が並んでいるのではなく、あくまで鍵盤だと思われる。ここでの人間関係は究極、好かれるか嫌われるかという感覚的、生理的な基準によるというのである。恐ろしいことだ。誰もが容貌や服装に気を使って、必死になる理由がわかるような気がする。だが恋愛になると、好き嫌いの意味が違って来る。「嫌いじゃないんだけれど・・」の余白にあらゆる要素が入って、評価が揺れ動く。
 女子生徒が女子大生になり、社会人になっても、みずみずしい感性が失われないのは稀有のことである。そしてどうやら、批評の目も獲得しつつあるようだ。

 誰もみな悪くないのというひとも鶴の首なら折ったはずです
 ねえちょっとじっとしていて千本の仮縫いのまま生きてもいいの
 マンホールにひとりひとつのぬいぐるみ置いてこの星だいすきだった


  偽善者は嫌なものである。「私は悪気がないの、可愛い天然なの」というポーズも嫌だが、 「みんないい人だって私は信じているの、なぜなら私がいい人だもの」 という善人顔は更に不快だ。愛の千羽鶴を作っているつもりかもしれないが、それ鶴の首を千回へし折ってるだけだからな、と私も言ってみたい。
  そんな俗の頭上をファンタジーが織られて広がる。地球を去って行く者たちが、ぬいぐるみを一体ずつ置くとは可愛らしい。子どもらしい記念の儀式のようだ。前後の事情や物語の続きは読者に想像させて、着想ゆたかなファンタジーを投げかける一首。
 二首目では現実と虚構が同時に進行する。服の仮縫い中、動かないでいてよ、と言われるリアルな状況と、お姫様のドレスだろうか、千本の仮縫い線という童話のような設定と、生きることに不確定で、いわば人生の仮縫い段階にいるのだという作者の揺れがそれぞれ進んでいく。考えてみれば、あらゆる事象が同時進行しているのが世界であり、果てなく関連し合い、影響し合っているのである。一つのテーマを切り取ってくるのも表現ではあるが、その有機的な結びつきを作品にあらわせるのは、限られた才能ではないかと思われる。
 最も魅了された、とても好きな二首を挙げてみたい。

 痛みあり光合成の痕である3月7日の交換日記
 包丁を持っている春てのひらの豆腐はいつかあたたかくなり


  正直なところ、前掲歌は完全に理解できていないのだが、惹きつけられてしまう。痛み、交換日記という、おそらくは十代の初々しさに、光合成の痕という謎の要素が重なる。陽の光を浴びて成長していく生がみずみずしく、世界を肯定して希望を感じさせてくれる。二首目は大人の女性のやさしい立ち姿。てのひらに乗せた豆腐を切ることも忘れさせるほどの、一体何があったのだろうか。訪れたばかりの春が、日々少しずつ人と街をあたたかくしていく幸福感がある。

  中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』は対照的な歌集。同じく新鋭短歌シリーズ第二期の一冊だが、二十代の書き手とは異なる視点を持ち、日常に確かな立脚点を置いた誠実な言葉たちである。そこには、成長していく子どもや夫に心を傾け、自身を折りたたむように日々を送る作者の姿が読める。

 柚子知らぬ小さき子らと柚子風呂に浸かればゆるり夜が大きい
 予選落ちの子らはゆっくり下りおりまだ俯かぬ向日葵の坂
 あしたまた遊べばいいと片付けた玩具は今日と同じで違う
 表札にとんぼ止まれば照りつつもこの家の姓に影を落とせり


 子どもと家族の風景をアトランダムに選んだのだが、世界を対比で捉えた歌が並ぶ結果になった。一首目は、まだ何も知らない子どもたちの小ささが大きな夜に包まれる。予選を「落ち」、坂を俯いて下る子どもたちと陽に堂々と顔を上げる向日葵。今日と明日、同一であり異質であるという二律背反。気ままなトンボの明るい胴体と、定住し、複雑な精神生活を営む人間の翳り。
 歌集の表題作も、気がつけば、対極にあるものを量ろうとしている。

 生と死を量る二つの手のひらに同じ白さで雪は降りくる

 病人はどのくらい死の領域に入り込んでしまったのだろう。体内に残っている生命力は、と推し量っては心を痛める。看病する温かい手は、生と死の命題をつかもうとする思考の手でもある。「手のひらを展けばそこに団栗と団栗の影ひとつずつ在る」は、この歌の原型だろうか。一つの事象には、必ず影となって相反する事象が生まれる。作者は団栗一つを掌に置いたときでさえ、その影を見逃さない。父の病と看護という重いテーマを通し、生を抱きしめた時に表れる死の影、死を受け止めた時にこぼれ出す生の光を捉え得た。
 作者の本領は、やはり人々と日常との中にあるようだ。「二月尽。父に借りたる雨傘は莫迦らしいほど真面目に展(ひら)く」は、律儀な父への批判がうっすらと感じられるが、作者の意図を離れ、「真面目に展く傘」を肯定的に捉えるならば、彼女自身にも似ていると言えよう。言葉は華やかに開き、人間を守って悪天候にも自在に行動させてくれる傘でもある。その傘を真面目にひらくこと、誠実にさして歩いて行くことは、「莫迦らしいほど」素晴らしい生き方である、とこの歌集からは思われるのである。