「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 迸る内面の発露―大田美和の「正述心緒」 髙野 尭

2024-02-22 16:08:14 | 短歌時評

 「KY」とか「ソンタク」とか、もう使い古されてしまって言葉にしようとさえ思わない習慣というか態度をあたりまえのようにとる風潮というのは、なにも政治のセカイにかぎらず、ボクたち世間一般で人口に膾炙した処世術だということはすでに周知の事実だ。特に「KY」という世間知は幼児期のある期間を過ぎると、ボクたち世間一般は言葉を飲み込むような習性を会得する、たとえ口から先へ言いかけたとしても、思ったことはしっかり飲み下してしまう。これは日本人という血統にかぎったことではない。外国人であっても長年在留されている方ならなんとなくそれこそ空気を読んで身に着けてしまっているかもしれないのだから。この島嶼はなぜかそういった独特で不思議な空気・エートスに満たされている。こう考えると現代詩という一つの表現形態などが成り立つ環境にボクたちはいるのではないか、とも言えそうだ。ストレートに言いにくいことを婉曲したり、言葉にできない蟠りをメタファー化したり、方法論は書き手と同じ数だけあるだろう。攻撃性さえ抑制しておけば支持されるかどうかは別として、生き残っていくコトバの生存可能エリアはいくらでもありそうだ。一種のニッチな癒しの時空間であることには間違いない。
 さてカテゴリーうんぬんの議論は脇に置いいとくことにする。2023年9月に上梓された大田美和『とどまれ』(北冬舎)がそんなジャンルの垣根を超えた耳目を集めるに値する作品集としてボクの眼に引かれた。「とどまれ」というタイトルは、それを目にした読み手かあるいは本などには見向きもしない非読者層に宛てられたのかは定かではないが、命令形の命法にまずリアクションを求められる。書店でこの題字を眼にしたなら、ここを立ち去らずよそ見などしないでこの本を買いなさい、と言いたいのだろうか、とか。それはさておきしばらく読み進んでいくと終盤でタイトルポエムらしき一句に出くわす。タイトルを忘れたころに登場する一篇だ。

「木枯らしの前の楓のあかあかと「若さはしばらくそこにとどまれ」   (Ⅳ男傘)より

 ユン・ドンジュの詩作品『いとしい記憶』から抜き出された詩句「とどまれ」を引用しつつオマージュ化された自己と他者の哀しみを、二重に映し出すよう重層的に変奏する作品だ。楓のあかあかとした命の盛りの輝きに魅せられた作者主体は、原詩ではもともと故郷を強制的に去らされる駅舎での去りがたい複雑な心境を異境の土地から追憶し「とどまれ」と心内に叫ぶ。今なら「時間よ止まれ」といいそうなフレーズを、作者自身の老いから若さへの追憶というやや自嘲気味の気分とをだぶらせることで、どちらも二度と取り戻せないという一種捩られた感情の逸出を演じている、とでもいおうか。年月とともに清冽な記憶と代謝された物質が同時に沈みこみ、そこには降り積もっていくメランコリーな体内の奥処に据えられた壺の哀しみがある。
 つい「とどまれ」に執着してしまったが、このまま逆順序でボクが気になった収録作品に触れていくことをお許し願いたい。というのも、これはおそらく作者の創作意欲を鼓舞した動機ではないと思うのだが、テーマ別にⅠからⅣに章立てされてはいるものの、それはあくまでもイギリス滞在記だとか朝鮮学校だとか大田氏が場所的に遊歩し体験した大凡物理的な空間の配置にそって配慮された順序だと推測するのだが、作品それぞれが一冊の書物の中で配置されたそれぞれの立位置で発露し開かれたセカイのトポロジーは、何か別の解釈層を形成するのに一役買っているのではないか、ボクにはそう見えるのだ。だから継起的な順列の意識をあえて壊すためにといえばよいのか揺さぶりをかけるために、(どこからでも拾い読みはできるのだが)まとまりよく味わうことを避けて、数は少ないがアトランダムにピックアップしながらその何かを炙りだしてみたい。
 
舞姫を送るとて待つ裏口に三日月の舟、櫂は彗星            (Ⅲ 海に拓けよ)より     

 この句は定型によく即した安定感を味わえるが、「舞姫」を鴎外の舞姫とだぶらせることで、異国の見知らぬ理不尽な気味悪さと夢の中に奔る彗星のごとく幻視を連想させる一方、裏口という世俗的な扉を設けることで作者主体の実存にかかわる内面に蟠る危うさの
実存・溢れ出とも、ボクには受け取れてしまうのだ。または

依り代をさわに作れと宣らすべしさやにさやげる四月の木末       (Ⅱ 漂着)より

 この句は一見古典的な凡庸な措辞を組んでいるので、秀作だが何かを見落としやすい、とボクは観る。それは何かというと、冒頭の「依り代」や「さわ」「木末」がよく視ると作者身体と関わっていそうだからだ。この歌集全体に通底している作者身体が様々な状況下で経験し内面から外へ、または内へ吐露し堆積していくあれやこれやが、四月の気風転換の時節に身を置くことで、その身体中全篇に通底し蟠りあるいは渦巻いている熱き多情を冷ます自浄の表現相を呈しているのではないかボクはそう味わってみたいのだ。それはこの句に続く次句との連関で明示的にその感
情吐露がわかる。

楽しげに花や羊や牛を撒く 最後は黒く塗りつぶすのに         (Ⅱ 漂着)より

 「塗りつぶす」という感情行為がある。次は、
 
無人の地下鉄とリフトで「入国審査」まで運ばれる恐怖の未来へようこそ 
 
「入国審査」は戦場ならずも泣き叫ぶ子が何をしたか誰も聞けない    (Ⅰ イースター・ホリデイ)より

 いかにも膚感覚と視聴覚を震え上がらせるリアルな吐露だといえよう。思ったままに投げだされた心の叫びが誰かに届かないことなどありえようか。むろん定型としての体をなしてはおらず、思いっきり逸脱してしまっている。一旦作者の内部で自己に受け止められることなく発露された赤裸々な状況描写だ。
 このように大田美和は、内部に沈潜した内面の深層から、間テクスト性も含めメタファーなどの高度なレトリックを駆使する共に、皮膚的な表層へと往還できる旅人なのだ。


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