「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 ものの核に迫る確かな視線。浜田康敬『「濱」だ』を読む 谷村 行海

2020-11-15 15:49:56 | 短歌時評

  われのことすこし美化され語らるる本来「美」とは無縁なるわれ     浜田康敬『「濱」だ』
  その名前が美貌歌人と思わするうたはいまいち迫力がない        同上

 人工的に作られた「きれいさ」が嫌いだ。思春期を迎えた中学生頃からずっとその思いを抱き続けてきた。周りに合わせて流行の歌を聞いてみてもフレーズがきれいすぎる上にどこかで聞いたことがある気がして奇妙に思えたし、六本木や銀座などに足を運んでも数時間ですぐに胸やけになってしまった。それよりも、無骨で飾らず、物事の核に迫ったものに私は惹かれてきた。
 だからこそ、私が所属する俳句結社「街」の先輩から浜田康敬のことを教えてもらったときには衝撃を受けた。

  この平安におぼれ貧しきわが詩才冷えし定食をぼそぼそと食う      浜田康敬「成人通知」
  あお向けに寝ながら闇を愛しおり動けば淋し自慰終えし後        同上
  豚の交尾終わるまで見て戻り来し我に成人通知来ている         同上

 浜田康敬は幼いうちに両親を失い、通信制高校在学中の23歳の年に「成人通知」で角川短歌賞を受賞した。一般的に見れば、なかなか過酷な生い立ちである。
 そんな生い立ちも関係してか、彼の歌からは気取った感じがしてこない。むしろ、「貧しきわが詩才」と欠点を自ら世間に曝してしまう。そのうえ、「自慰」や「豚の交尾」など、使うのに躊躇しそうな言葉も歌の中に落とし込んでしまう。うわべを一切取り繕わないことで、人間としての本質・目線がはっきりと現れてくるのだ。

  眼鏡少年二人がキャッチボールしていしがやがて止め二人とも眼鏡を外す 浜田康敬『「濱」だ』

 それは、今年の8月に上梓された第六歌集『「濱」だ』(角川文化振興財団)においても健在だ。
 普通であれば、眼鏡少年二人がキャッチボールをしている光景だけで歌を作ってしまいそうな気がする。しかし、浜田はそれをしない。「やがて」とあるように、少年たちのキャッチボールをただひたすらに凝視する。そして、その凝視の末に少年たちの素顔を発見する。どこまでもものごとの奥へと潜み、真実を見る目を持っている。
 私はこういった歌群を見たときに、波多野爽波的姿勢を思わざるをえなかった。波多野爽波は「チューリップ花びら外れかけてをり」「鳥の巣に鳥が入つてゆくところ」など、対象にじっと目を向ける。そして、意外な真実・光景を目の当たりにする。浜田の歌もこれに近い姿勢を持っており、俳人としても学ぶべきところが多いように感じる。

  解説者ぶって言うけど「黒・白」は雲の色なり「南風はえ」の上に置く    浜田康敬『「濱」だ』
  白南風や黒南風はまた漁師ことばその日の空を視つつ言うらし      同上
  体感に触れ来し柔さ心良く日に日に南風を意識に置けり         同上

 そんな姿勢を持つ彼は言葉に対しても敏感だ。
 「街」の句会で主宰の今井聖がたびたび口にしているが、俳人のなかには歳時記に載っているからといって季語を不用意に使う者がいる。例えば、涅槃西風。確かに、仲春の季語として歳時記に載ってはいる。載ってはいるのだが、果たして普段から仏教のことを思ってこの季語を使う俳人がどれだけいるというのだろうか。
 同様に、一概に白南風・黒南風といっても、それは単なる言葉ではなく、その言葉の奥に潜んでいるものがある。それを浜田はしっかりと感得し、そのうえで言葉を使う。こういった態度こそが、言葉を扱うものとしてあるべき姿だと言えるのではないだろうか。

  信仰に突如目覚めし友が来て簡明に神とうを語り帰りぬ         浜田康敬『「濱」だ』
  海の広さ幼児に聞かせている老爺両手に拡げひろげ尽くせぬ       同上

 内容自体も興味深い歌は多い。
 掲歌一首目は作りがドラマ的だ。神の存在や教えについてひたすらに語るだけの友、それから、突然のことにぽかんとした状態で聞く「われ」の姿が見える。そして、友は語った後に何をするでもなくただ帰るだけ。友が帰ったあとに一体何を思うのか。「変なやつだなあ」というとぼけた感じかもしれないし、「え、どうしちゃったの」とシリアスな感じかもしれない。各々が自由に想像を膨らませることができ、歌のさらに奥に潜むドラマを私たちに見せてくれる。
 二首目は寺山修司の「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり」を基にして作られたものか。子ども・孫に海とはどのようなものかを問われ、そのときに歌の記憶と今の自分とが自然とリンクする。そのうえで、寺山の歌の「われ」になりきって手を広げてみる。しかし、寺山の歌の「われ」があくまでも少年であるのに対し、浜田は既に老齢。少年と大人とのさまざまなものの蓄積は当然異なる。単純な海の広さだけではなく、さまざまな思いが交差した結果、「ひろげ尽くせぬ」へと至るのだ。主体を寺山の歌の少年が成長した後の姿ととったとしても、先ほどの歌と同様にドラマ的な作りになっておもしろいことだろう。
 
 取り上げた歌のほか、彼の生い立ちに関する歌、アメリカに居住する息子に関する歌なども多数収録されており、純粋な歌集としてだけではなく、彼がどんな人間かを知るための手掛かりにもなるような歌集だった。
 本書のあとがきで、2009年に上梓した第五歌集『百年後』(角川書店)が最後の歌集になると思っていたことを吐露しているが、歌の飾らなさは「成人通知」から失われていない。現在、浜田は82歳。この先もさらなる歌集を上梓してほしいと願うばかりだ。


短歌時評161回 「あなたの歌集、もう書店で注文しました!」 千葉 聡

2020-11-03 01:28:21 | 短歌時評

1 寄贈文化は心苦しい

 本を出版するのは大事業。人生における大事件だ。
 歌人を続けていると、毎日のように歌集が届くようになる。句集や詩集や小説を送っていただくことも増える。本当にありがたい。
 どの本にも、著者、編集者、発行者の思いが詰まっている。大切に頂戴する。
 ただ、なんだか心苦しくなる。寄贈していただいた本をすべて読む時間はない。結局、数冊を選んでじっくり読むことになる。それに、著者へのお礼状を書く時間も、なかなかとれない。
 文芸の世界では、慣例として著書を寄贈し合う。私も本を出すたびに、数十冊から数百冊、各方面に寄贈してきた。でも、経済的な理由から、それほどたくさんは寄贈できなかった。
 いっそのこと、物書き全員が一斉に「今後一切、著書は寄贈し合わない。すべて書店で買う」という取り決めをしたらいい。そうすれば書店内の文芸書コーナーが今よりも賑わうようになるかもしれない。大型書店の詩歌コーナーも増えるかもしれない。
 私は週末、書店をめぐり、気になっていた新刊歌集を購入するだろう。自分のポケットマネーで買った本には愛着が生まれる。今までよりも大切に読むだろう。店頭に置いていない本は、書店のサービスカウンターで注文する。ネットショッピングもいいが、なるべく書店で注文する。そうすると、私が注文した本を、後日、その書店が仕入れて棚に並べてくれるかもしれない。著者を真剣に応援しようと思うなら、ネット書店よりリアル書店で注文したほうがいいのだ。

2  「ご恵贈いただいた」と言わないで!

 ときどきSNSで「作者の〇〇さんから新刊をご恵贈いただいた。ありがたく読ませていただいた」という書き込みを見かける。やめてもらいたい。
 書き込んだ人と作者が仲良しなのはよくわかった。でも、そういうアピールは作者にとっては嬉しくないかもしれない。
 どんなに人気のある作者でも、自著を買い取って寄贈する。経済的な理由からほんのわずかしか寄贈できないことも多い。結局、Aさんには寄贈し、Bさんには寄贈しない、ということになる。Aさんの「ご恵贈いただいた」というコメントを、Bさんが読んだとしたら、どう思うだろうか。
 寄贈された本も、自分で買った本も同じだ。本の感想をコメントする場合は、どの本も同じように扱いたい。寄贈してもらったからといって、特段、高く評価するわけでもない。
 ときどき憧れの先輩から著書をご恵贈いただくこともある。嬉しくて、誰かに話したくなる。でも、ここで我慢だ。決して「ご恵贈いただいた」と言ってはいけない。すでに自分でその本を買っており、二冊持つ場合もある。そうなったら一冊は、文芸を理解してくれる友にプレゼントすればいい。絶対に「この本、半額で買わない?」と持ちかけてはいけない。
 本は大切に扱いましょう。

3 新人さんを応援するために

 短歌関係の会合に行くと、若い歌人と「はじめまして」の挨拶を交わすことがある。物書きの仲間が増えるのは、本当に嬉しい。世間話も文学論も盛り上がる。中には気をつかって、こう言ってくれる人もいる。
「じつは先日、第一歌集を出したんです。まだ十分に寄贈ができていなくてすみません。一冊、千葉さんに差し上げたいのですが、今、手持ちがなくて……。あとでご自宅にお送りしてもよろしいですか?」
 数年前までは、ごく普通に「ありがとうございます。自宅の住所をお教えしますね」と答えていた。今思うと、とても恥ずかしい。私は、こう答えるべきだったのだ。
「ありがとうございます。でも、あなたの歌集は、ぜひ書店で買わせてください。書店で本を探す、というのが私のいちばんの楽しみなんです。店頭になかったら注文しますから」
 どうです? なかなかいい答え方でしょう? こう言ったからには、必ず書店で買う。若い著者を応援するためにも。
 だが、私がどんなに心をこめて「書店で買います」と言っても、「千葉さんがそう言うのは、自分の本に関心がないからかもしれない」と勘繰る人もいる。(そう思わせてしまうのは、私の話し方がダメなのだろうが……)
 だから、このごろは、こんなふうに答えている。
「じつは、あなたの歌集、もう書店で注文しました。もうそろそろ届きます」
 こう答えたからには、その後、必ず書店で注文することにしている。答えた時点では、本当はまだ注文していないのだが、これくらいのタイムラグはお許しいただきたい。
 ここにこんなふうに書いたからには、私は今後、なるべく歌集を書店で買うことにします。みなさんも、いかがですか?

4 いつかすべてを手放す時が……

 スマホで電子書籍を読むこともあるが、私はやはり紙の本が好きだ。新刊書店の「新しい本の匂い」はたまらない。図書館や古書店の匂いだって、心から愛している。
 毎日何かしらの原稿を書いて、物書きの友だちも増えて、本も出せるようになった。地味な歌人だが、私は自分の人生を楽しんでいる。
 ただ、今いちばんの悩みは、増えてしまった蔵書をどうするか、だ。書棚を増やし、なんとかしてきた。物置の一つを書庫にして、古い本をまとめた。これであと数年はなんとかなる。数年後には、少しずつ本を処分し始めないといけなくなるだろうが……。
 私は五十代に入ったばかり。食事をきちんとし、体も鍛えて、九十代になっても現役作家でいたい。だが、いずれはすべての蔵書を手放す時がくる。
 よく利用している図書館の司書さんに「私が死んだら、数千冊の蔵書を『ちばさと文庫』としてすべて引き取ってくれませんか?」と聞いてみた。あっさり断られた。
「山本周五郎並みの作家だったら、その蔵書を全部まとめて引き取れるんですけどね。だからちばさとさん、まずは超偉い大物作家になってくださいよ」
 わかった。それならば大物になれるよう努力しよう。だが、大物になれなかったら、どうしよう。
 図書館、詩歌文学館や記念館、文芸家協会や歌人協会や歌人クラブ、古書店などのご関係のみなさん、蔵書の処分で悩む人は、これからますます増えるでしょう。どうか助けてください。何かいい方法を教えてください。
 紙の本の文化を守るためにも。