「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 短歌を見ました3 鈴木 一平

2016-11-30 21:23:02 | 短歌時評
 このあいだ、第一詩集(http://inunosenakaza.com/hai_to_ie.html)を刊行したのですが(とてもよい詩集なので購入しましょう)、その初売りとなったさる11月23日の文学フリマで、「穀物 第3号」を買いました。特にまとめることもせず、頭から読んでいこうとおもいます。

  曇天は鰈のごとくありて見ひらけば眼を圧して触れ来る

 小原奈実「錫の光」から。この作品は「鰈のごとく」あると書かれる曇天と、見ることに視覚の欠損をにじませる修辞の組み合わせが巧みであるとおもいます。「鰈のごとく」と示されるときの鰈は、おそらく風景に擬態し姿を眩ませる背ではなく、本来は見られることのない腹の部分なのでしょう。なので、曇天は見られもののいない(いたとしても、私からは曇天によって見えない)天へと背を見せ、見られるもの(地)に対して見られることのない部位を向けている。そして、腹を見るものに対して与えられる視覚の印象が、「眼を圧して触れ来る」ものであると読めます。鰈の腹とは背の裏側で海底に触れるものであり、従ってそれを見るという経験を内に組み込むことのない外観です。そのように呼ばれる曇天が見えるというときに生起する視覚は、見ることを妨げる遮蔽性を伴った、見ることそのものを成立させる距離自体を覆い隠すような、物理的な接触に伴う見えなさを中心に組織化するものであるわけです。また一方で、この作品において描かれることなく弾き出された鰈の背を、見ることの距離において周囲と擬態し見えなくなるもの、作品のもつ閉塞的な鑑賞体験を支える余白(それは腹のもつ見られることを放棄した白ではなく、見ることのただなかをかたちづくる白です)として、読み手はうっすらと想起してやみません。

 ここで曇天と知覚の対であるところの上句・下句の構造は、「ごとくありて」と「見ひらけば」の転換を挟むことで両者の関係を明瞭にかたちづくっています。鰈のように差し出される曇天があり、それを受け取る目の視覚。言い換えれば、曇天を主語とした述部としての視覚というレイアウトによって、作品はひとつの図を形成しています。数ある詩型のなかでとくに短歌が優れているのは、こうした対のレイアウトがもつ反復=リズムの時間性において、文構造に依存しないかたちで言葉の配置を有機的な歌としてつくりだし、そこでうたわれるものに情感を搭載させることができるところであると感じます(その点で、俳句はむしろ物がそこにあるかのような、身体に対する異物性をその力の頂点にもつのではないかとおもいます)。

  あたたかな窓は旅して何度でも電子レンジが見せる夕焼け

 文構造とは別に韻律の展開が作品に歌としての気質を与える、というあり方は、狩野悠佳子「恐れず雨を」を読んでいて考えたことでした。この作品は、「あたたかな窓」「電子レンジ」「夕焼け」の間の階層が明瞭ではなく、それぞれの要素がもつ触覚や視覚イメージの連関によって関係を保ちつつ、垂直に展開する定型感が残存する構成になっています。「あたたかな窓は」と「旅して」のあいだには「あたたかな窓が旅をする」という解釈よりも、「あたたかな窓」に「旅」を付帯させることで叙情性を付帯させ、「何度でも」の回帰性を挟み込みながら、後続する「夕焼け」の印象を強めるかたちになっているように感じます。つまり、「あたたかな窓」・「電子レンジ」・「夕焼け」と「」・「何度でも」・「夕焼け」が、定型感の基調の上で交差する。

 ところで、「旅して」と「何度でも」のあいだに見られるような、短歌における視点・文意の切り替えは、読んでいてかなり強く意識に引っかかるとおもいました(この作品で「何度でも」は、「旅して」と「見せる」のどちらにも係るような操作をほどこされていますが、「旅して」の順接においてわずかな切れ目がある)。当たり前のような話ですが、縦書きで進行する書物における縦方向の目の移動が占める占有は、横方向におけるそれに比べて大きいです。詩における改行は、こうした縦方向の読みを切断し、(当座の行とは異なる視野で読まれる)前後の行との関係下に置くことで、常に他なる論理の介在を潜在的にはらむような読みの複数性を余白のなかに持ち込むことができます。けれど、短歌は基本的に単一の行がもつ垂直的な展開の内部で読みが一続きに流れていくので、韻律を用いた区切りを施してもなお、視覚においてあらかじめ流れてしまった単一の時間経過に突如、ぐるりと切り替わるような世界の反転が起きたように感じます。

  わたくしをここで眠らせ心拍は先へさきへと歩む旅びと

 川野芽生「アヴェロンへ」におけるこの作品の、「わたくし」が「心拍」の前に来る構成は、こうした一文中での垂直性がもたらす時間の流れを意識すると、より制作の思考が際立って感じられます。たとえば、「心拍は」と始まってもよい前半部において「わたくし」が置かれることで、作品内部の視点を受け持つよう組織化されるはずの「わたくし」が即座に対象化されるとともに、リズムの進行に従って「ここ」が遠ざかっていく。一方、「わたくし」が持つはずだった場を持つことになる「心拍」は、この時間的な進行が読み下す目を伴いながら距離に変換されることで「先へさきへと歩」んでいき、その末尾で「旅びと」になる。私の理性の圏外としての眠りと、私の理性とは無関係に動き続ける心音の対比を用いつつ、そうしたズレを旅のイメージへと空間化する手つきが鮮やかです。「こころとは巻貝が身に溜めてゆく砂 いかにして海にかへさむ」もいいとおもいました。

 短歌の基幹となるリズム(五七五七七)における「五七」と「七七」の反復は、作品内部で時間がリズムを刻みながら進行していき、他方でそれとは異なる時間の様相に向けて開かれず、自閉的に反響するような読み味を与えます。言い換えれば、不可逆的でありかつ常にその進行の内側で自身に回帰し続けるような時間が、短歌を読むなかで与えられる基本的な感覚の根幹にあると、個人的に強く感じます。失われた過去に対する甘い寂しさや、いずれ終わりを迎える私たちの恋愛や生に対する諦めに似た確信、それらに通底するある種の叙情性とは、現下において不在である想像可能なものに対する意識の方向が、自閉的に自身の方向性それ自体を享受する過程において生まれるものですが、この素朴な情感は、短歌作品を読む上で避けては通れないものであるようにおもいます。

  至るところは紫陽花の青、まだだ、またあの寂寥の白さが覆う

 小林朗人「そして無明の灯りに還る」に収録されたこの作品は、「まだだ」を挟む二つの「」が、作品を二つに分割しています。前半部で提示される青を「まだだ」で取り消し、後半部で「」を提示する、つまり、「至るところ」と視覚的に示される空間を、情動によって再度塗りつぶしにかかります。この「」と「」の対応は、「至るところ」を基点として空間的な位置を持つのではなく、むしろ空間(見られるもの)と主観(見るもの)のあいだで取り交わされるものであると感じます。(「」は「覆う」ものとして、空間的な比喩を媒介に語られていますが)。「まだだ」の切れ目は、おそらくこの「」にも「」にも属さない「あいだ」の知覚を端的に物語る留保として、二つの「」に挟まれているのでしょう。ですが、この「あいだ」は決定の不可能性に貫かれてはおらず、現に視覚において与えられた「」に対して叙情的な「」が取り消しを伴いながら対応する、という時間の進行を、むしろ表現するものとして現れています。言い換えれば、「青」と白は対にはなるけれど、拮抗せず、結果的に「」が「覆う」という事態は覆らないということです。この「寂寥」の「」とはすなわち、先ほど述べた叙情の性質、対象と明確に結びつくことなく展開する意識の、意識そのものによる享受の感覚と重なるようにおもいます。(続きます?)

短歌評 〝短歌〟の外部化について――野口あや子の創作スタイル 添田 馨

2016-11-02 13:32:50 | 短歌時評
 野口あや子の歌集『夏にふれて』(2012年・短歌研究社)を開いて、私は即座に俵万智の歌集『サラダ記念日』(1987年・河出書房新社)を連想した。普段あまり短歌なるものを読まない私は、通りすがりの一門外漢にすぎない。だが、あくまで直感的にではあるが、これら二つの歌集には、互いに共通するものと相反するものとが運命的に混じりあっていると、そんな風に思えたのだ。二つの歌集のあいだには、じつに四半世紀の時間の隔たりがある。にもかかわらず、両者の距離について考えることに私が一定の意義を認めるのは、そこに私たちの‶短歌〟概念が外部化していく現場のすがたを、この二冊のあいだに横たわる距離そのものが象徴的に語っているように感じたからである。
 野口の作品を読むと、いくつかのパターンの存在することが分かる。主にそれは三つに分類できるように思った。一つ目は、喩がことごとく明示的な経験性へとストレートに還元できるような書き方の作品(a群)。二つ目は、喩がなんらかの経験性を隠蔽操作してただ暗示しているだけのような書き方の作品(b群)。そして三つ目は、短歌的な喩がまったく何の像も結ばないか、あるいは像を結ぶとしてもそれが美的な結晶化を果たさず、ただ解体しているかのような書き方の作品である(c群)。
 以下、思いつくままにそうした作品例を拾い上げてみる。

 ああああ会いたいってあくび通学の慣れない電車に揺られていたら(辛口。)

 焼きそばのイカをつついて大学は楽しいからね、とそれしか言われず(辛口。)

 くろぶちのめがねおとこともてあそぶテニスボールのけばけばの昼(学籍番号20109BRU)

 たばこいい?ジッポを出して聞かれたりいいよと答える前に火が付く(後遺症)

 精神を残して全部あげたからわたしのことはさん付けで呼べ(こんな恋などしていない)

 私にも希望はあってバスに乗ったり担々麺を食べたりはする(『希望』に対するanswer―『三十代の潜水生活』in柳ケ瀬 即興朗読―)

 内臓の入る太さじゃないって って うすいスカート持ち上げ笑う(落桃)

 戦っているよ、俺はときみは言い銀の携帯ひらいてばかり(短き木の葉)

 だれそれの妻と呼ばれて暮らすのもまたよしサンダルばかりを履いて(あめの隙間)

 ものさしの三〇センチが落ちていていまここ、の地をはかりていたり(顎のかたち)

 ここに引いた十首は、単独で呼んだ場合でも比較的イメージが捉えやすい作品(a群)ばかりを選んだつもりである。本歌集は野口の第二歌集であり、高校を卒業して大学生活をはじめた時期と、制作年次がほぼ重なっていると見られるもので、そうした背景状況を加味すれば月並みな言い方だが、普通の女子大生なら誰でも抱くような生活意識を、みずみずしい筆致でうまく切り取っている作品群だと言える。つまり、背景野としての型式(フォーマット)が、青春期只中の若い女性の大学生活の時空間にあるというところに視点をおいて読む限り、これらの作品はそれぞれ読後の経験的着地点を、読む者にそれほど違和感なくシェアし得ていると言えるだろう。
 野口あや子のなかに俵万智との類同性を私にもっとも強く感じさせたのは、主にこうした作品群の喚起する印象であった。というのも、私が過去に俵の歌集を読んだときの総体的な記憶残像が、野口のこれらの作品から喚起されたものと非常に近いように思われたからだ。だが意外なことに、いま改めて俵の歌集『サラダ記念日』を読み返してみると、両者には表層的な近親性以上にもっと根本的な違和性ばかりが何故か顕著なのだ。それは一体どこからくるものなのか。
 俵の作品から、これも思いつくままにいくつかの作品例を拾い上げてみる。

 君を待つ土曜日なりき待つという時間を食べて女は生きる(八月の朝)

 初めての口づけの夜と気がつけばばたんと閉じてしまえり日記(野球ゲーム)

 書き終えて切手を貼ればたちまちに返事を待って時流れだす(風になる)

 29になって貰い手ないときは連絡しろよと言わせておりぬ(風になる)

 君の香の残るジャケットそっと着てジェームス・ディーンのポーズしてみる(モーニングコール)

 唐突に君のジョークを思い出しにんまりとする人ごみの中(モーニングコール)

 泣いている我に驚く我もいて恋は静かに終わろうとする(待ち人ごっこ)

 思い出はミックスベジタブルのよう けれど解凍してはいけない(待ち人ごっこ)

 君の愛あきらめているはつなつの麻のスカート、アイスコーヒー(サラダ記念日)

 明日まで一緒にいたい心だけホームに置いて乗る終電車(サラダ記念日)


 あくまで比較論でいうと、作品の背景野をなす型式(フォーマット)は、野口にくらべ俵のほうが画一的な感じがつきまとう。どこからその印象が最もくるかと言えば、作品中に「」という呼称で登場する恋人らしき男性の像からきていると思われる。俵の『サラダ記念日』に収録された作品は、みずからの恋愛体験を題材にしたものが多くの比率を占める。つまり、姿のよく見えない普遍的な彼氏のイメージ(=「君」)が背景世界の中心にいて、抒情の構造はすべからくこの見えない普遍的な「君」をめぐる惚気意識や感情的葛藤に支配され展開する。こうしたことが、この歌集を人気作家による恋愛小説並みのベストセラーにまで押し上げた主な要因でもあったろう。『サラダ記念日』が商業的に成功した最大の要因は、恋愛対象を個別具体的な現実存在から、言語による普遍的な表象類似物(=「君」)に置き換えるというこの意図的な操作が生んだ文学効果にあったと言っていいだろう。本来、現実存在であるべき者のこうした表象類似物化の手法は、同時に、作品中の自己像にも多大な影響をもたらし、「万智ちゃん」というこれも架空の新たな表象類似物を否応なく導き出すことになる。『サラダ記念日』は、こうして歌集でありながら、歌集というものの常識を突き破った恋愛ドキュメントつまり疑似的な小説的効果をもつ新たな表現性を獲得したのだった。
 だが、その一方で短歌的形式(フォーム)は、ほとんど変更を被ることはなかった。五七五七七の基本形は、俵の諸作においてはほぼそのまま踏襲されている。このことは、俵において形式(フォーム)の破壊は、型式(フォーマット)そのものを更新するに際して特に必要とされていなかったことを物語る。短歌的抒情という従来意識の固着性をいわば破壊して、まったく新しい型式(フォーマット)を打ち建てるに際し、なぜに短歌作品の基本骨格たる形式(フォーム)が従来通りのまま無傷でいられたのか。というか、無傷でいることが作品内部で求められたのか。ひとつ考えられるのは、俵の作品世界において、ここに引いたような「八月の朝」「野球ゲーム」「風になる」「モーニングコール」「待ち人ごっこ」「サラダ記念日」等々といった一連の型式(フォーマット)自体が、完全に虚構の産物だった可能性だ。もしそうだったとすれば、作品中に表象される自己像すなわち「」や「」や「万智ちゃん」もそれと同様に、虚構の産物だったということになるだろう。『サラダ記念日』という歌集の総体から受け取る印象の質からして、私はその蓋然性がきわめて高いと思うのだ。つまり、この歌集は、作品の自意識を支える形式(フォーム)と同じくその無意識を支える型式(フォーマット)との相互的な関係構造の全体を、そのままそっくり虚構化するという、ある意味、壮大な試みだったのである。その結果、従来からの短歌の読者層に止まらない幅広い層の読者にまで、その作品価値の交換が一気に可能になったのだ。ただ、その一方で犠牲にされたものがあるとすれば、作品における言語の自己表出性、その個的な側面いがいにはなかったはずである。
 野口の作歌法と俵のそれとが本質において最も異なっているのは、この部分である。野口の作品において、自我の葛藤や情緒的な惑乱といった非言語領域の声が、言語の自己表出性をうまく捉えることで、それを表現にまで定着させた作品はあるのだろうか。

 「先生は思いませんか」と告ぐるとき全集のうえ塵微笑めり(学籍番号20109BRU)

 「太ってる、まだ太ってる」と叫ぶときわたしは刺草のようにさみしい(拒食症だった私へ)

 幸せになれと声 たんぽぽの根まで届けばもう知るだろう(拒食症だった私へ)

 べったりと下向き付け睫毛なるわれ表現は負け組の意ではあらねど(切れ毛)

 差し入れて抜いて気がつく鍵穴としていたものが傷だったことを(なつのなみだ)

 定型から零れてしまうわたくしもそのままとして、夏のなみだは(なつのなみだ)

 自意識というみずがわれを重くしてひたすらドライカレーをつつく(つめたい埃)

 青空に飛行機雲が刺さってるあれを抜いたらわたしこわれる(つめたい埃)

 あなただと決めつけるたび早口にもうとめどない発火であった(めぐすり)

 わたくしのからだの点字を読むきみはおそるおそる一語のみをつぶやく(花を捨てる)

 これらは、野口の作品のなかで、私がb群として主に分類したものである。顕著なのは、a群の作品にはそれほど目立たなかった暗喩構造が、作品の全領域を覆っていることだろう。手法的にそれが成功しているものもあれば、逆に失敗しているように見えるものもある。また、単に私が当該作品の隠れた暗喩構造を捉え損ねている場合だって考えられるわけだが、a群の作品に比べてこれらの作品は、表現意識の底が二重底三重底になっていて、個々の言葉の意味連関を追うだけでは、作品そのものが発信するポエジーの本質に読む側の意識がストレートに届くようなことは起こり得ない。それだけ表現の達成レベルが高度化しているものだと考えられよう。形式(フォーム)と型式(フォーマット)の関係は、無論ここでも重要な要素たるを失わないが、両者の対応性が構造的により複雑化している反面、型式(フォーマット)に対して形式(フォーム)の自立性が相対的に強まっているため、逆に、それほど前後の作品との関係やまとまりなどを意識せずとも、作品単独での読みに十分耐えるだけの弾性をみずからに具備しているということは言い得ると思う。言うなれば、俵の作品に希薄で、野口の作品には濃厚に見出せる表現上の要素が、これである。ここには俵のように虚構に向かう表象化の手法では覆い尽くすことのできない、野口の自我表現への飢餓感が色濃く作用している部分と思われ、時にそれは基本三十一文字の短歌形式をも内側から食い破って、ほとんど基本の形が原型をとどめなくなる程までに、横溢しているさまが窺えるのだ。
 私にはここでひとつ、大きな疑問が浮かび上がる。青春期において、肥大する一方の自我領域を持て余すかのように、表現意識がその全勢力を言語による芸術表現へと差し向ける時、表現形式上の制約は、果たしてどこまで必然的な意義を有するのだろうかと。同じことを短歌の問題に投影すれば、五七五七七の三十一文字の形式(フォーム)は、この問題にどのような結末を用意するのだろうか、というようにである。

 アドレスは、すみませんこのシャッターを、打ち上げにさあ さ、さようなら(卒業式)

 アイスクリーム、アイスクリーム、水滴をカップにつけてアイスクリーム(カーソル)

 Because/まで鳴らして止めたオルゴールの櫛 どこまでが無意識なのか(学籍番号20109BRU)

 らいらっくらいらっくらるるりるりと巻かれるようなかなしみをしる(後遺症)

 ちかてつにのられたことはありますか(がたがたゆれる)がたがたゆれる(はぶらしと桃)

 言いたくないことは言わなくてもいいのだよからからの金物の声で言う(つめたい埃)

 空いたばかりの椅子に残れるあたたかさあたたかさしばし問わずにいよと(椅子)

 青臭いことであろうとメタファーと区切られるならふるえていたい(ちりめんじゃこ)

 どうやって引き受けるべきかわからない 発作のような瞬きをして(ちりめんじゃこ)

 ほそながきものが好きなり折れやすくだれかれかまわず突き刺しやすい(けっかん)

 これらは、私がc群に分類した野口の作品例である。個々の作品の評価はひとまず脇に置くとして、これを短歌だと呼ぶことにどれだけの必然性があるのかないのかという問題を、いま私は考えている。例えばこれらを〝一行詩〟と呼びならわすとしても、さほどの違和感は生じないように思う。しかし、短歌と呼ぼうとすれば、それは基本的な形式(フォーム)からは逸脱した外部を有する拡大された短歌概念として、繋ぎ止められる性格のものだろう。一行の言葉の列に、一行詩としても短歌としてもいずれにも読める両義性を付与したこと――野口あや子の作品が〝短歌〟概念をその本質において外部化しえている部分があるとしたら、恐らくはこの点においてである。形式(フォーム)の、それは型式(フォーマット)からの完全独立を果たした姿でもあろう。俵万智がかつて『サラダ記念日』で行った表象化の手法をもってしては、この外部化は決して到達できなかったものだ。私はこの外部化ということを、一切の価値判断(美的判断)を抜きに提示している。その理由は、現代詩がつねに自らを外部化していくことで自らを更新し続けないかぎりその存立が難しくなっているように、短歌もまた自らを外部化し続けなければならない要請を、おなじ根拠から求められていると愚考するからである。

短歌評 千の種を砂と律して丘は一つの創(きず)とならん 竹岡 一郎

2016-11-02 11:55:00 | 短歌時評
 千種創一の『砂丘律』は、久し振りに読み応えのある歌集だった。作者は中東在住。「この歌集が、光の下であなたに何度も読まれて、日焼けして、表紙も折れて、背表紙も割れて、砂のようにぼろぼろになって、いつの日か無になることを願う。」と後書きにある。特異にして簡易な装丁のことを差し引いても、読みようによっては大した自信だ。何度も読み返す歌集がそれほどあるとも思われない。しかし、読み込んでみて、作者の覚悟のほどは伝わって来た。「ほとんどの連作において事実ではなく真実を詠おうと努めた。」と後書きにある。だから、詠われる真実を読み解いてみようと思う。

 瓦斯燈を流砂のほとりに植えていき、そうだね、そこを街と呼ぼうか

 砂漠の瞑想というものがある。砂漠にテントが立ち、村となり、市場が出来、大路が通り、都市へと発展し、人口が増えて、繁栄を極める。やがて衰退し、人が減り、建物は崩れ、道も絶えて、元の砂漠に戻る。世界には実体がない、という真理を文明の発展と衰退の観点から観想するものであるが、この歌はその始まりのところを、瓦斯燈という少し洒落たモノによってノスタルジックに示している。

 三日月湖の描かれている古地図(ふるちず)をちぎり肺魚の餌にしている

 これもまた先の歌に連なるものだろう。かつてあった三日月湖が、今はない。砂漠のような地勢では繰り返し起こってきたことだ。肺魚は魚の進化形とも取れようが、水から上がらざるを得ない状況に追い込まれた挙句の、仕方ない変貌ともとれる。地勢の流転の一過程をとどめた古地図を肺魚に与えることにより、万物流転の理を肺魚に含ませているようだ。

 閉じられないノートのような砂浜が読め、とばかりに差し出されている

 やはり万物の理を読めと差し出されているように読める。砂浜は海に接する砂漠であり、いわば生と接している死と取れよう。それは閉じられない。なぜなら、あらゆる生々流転は繰り返すようでいて、実は一回性のものであり、無限に広がるノートだからだ。或いは砂の一粒ずつが、無限の個々の生死の一つずつなのかもしれぬ。

 高架下にふたりで埋める雨傘は、傘はそれほど進化しないし

 この傘の骨は、恋の骨、という感じがする。綺麗な骨であるが、骨であり終わったものであることに変わりはない。「高架下」に埋めるのは、多分、相合傘に使われた傘だろう。中学生、高校生の恋の始まりを担うような傘、それがそれほど進化しないのは、恋が古来よりその初々しさをあまり進化させないゆえだろう。進化しない代わりに衰退もしない。高架が進化し重層し、時に中途のまま終わり滅びてゆくのと対照的である。だが、ここで「高架下」を出すのは、やはり置き捨てられたような寂しさが、高架下という舞台で際立つからだと思う。始祖鳥は化石になってから翼を生やしたわけでもあるまいが、傘に関しては「それほど進化しない」との言葉が却って反語となり、傘は化石化してから進化するかもしれぬと思わせる。恋は終わってから、美化されるものだからだ。

 紫陽花の こころにけもの道がありそこでいまだに君をみかける

 紫陽花は七変化と呼ばれるようにその色を変えてゆく。一字明けによって、作者の思いは一旦紫陽花から飛躍して、絶えず移り変わる色を思索する。心もまた移り変わるものであり、けもの道のごとく有るか無きかの道を抱き、そこに未だに見かける君はやはり紫陽花のように絶えず色を変える。記憶の中の恋を懸命に肉化しているかのようだ。

 すすき梅雨、あなたが車列に降る雨をそう美しい名で呼んだこと

 「すすき梅雨」は俳句では季語で、秋霖の異名だ。芒の頃の長雨だが、「車列に降る雨」と設定することにより、雨自体が芒であるような錯覚が起こり、車列は芒の中に置き捨てられつつ走りつつあるような感を起こさせる。福島の立入禁止区域における、舗道に一列に置き捨てられたまま草に覆われてゆく車たちを思わせる。それは文明の唐突な終焉で、ここに詠われる「あなた」も或る透徹した視点で以って、現在の車列に滅びを見ているのか。美しいのは「すすき梅雨」なる呼び名だが、この「美しい」は意味としては「あなた」にも掛かっている。もっと言うなら、「あなた」の眼差しに。


 壜の塩、かつては海をやっていたこともわすれてきらきらである

 別に恋の歌ではないが、何となくその匂いが漂うのは、「わすれて」と「きらきら」のゆえだろうか。深読みしようとすれば出来なくはない。しかし、これは深読みせず、ただ素直に明るい地中海的な陽光を感じていれば良いと思う。と言うのも、次のような容赦ない歌もあるからだ。

 幸せにもいくつかあって、待て、これは塩湖のように渇きの水だ


 多分、殆どの幸せが飲めば飲むほど渇く水であろう。幸せ自体が既に苦を内蔵し、地獄と隣り合わせている。これもまた恋の歌なのだろうか。或いは縄につながれた犬がぐるぐる回るように、絶えず同じ境涯で欲望に渇きゆく状態が、そもそも恋であろうか。人間のあらゆる営みは恋であり、渇きであり、苦を内蔵し、地獄と隣り合っている。ならば、裏切り給え。恋を裏切り給え。恋する事、夢見る事、抒情というもの全てを。

 抒情とは裏切りだからあれは櫓だ櫻ではない咲かせない

抒情に抗しているのか、それとも抒情に与しているのか疑問だが、「咲かせない」とあるから、やはり抒情に刃向かっているのだろう。なぜなら、抒情自体の中に既に、真実から目を背け美化しようとする志向が内蔵されているからだ。その志向を「裏切り」と呼んでも良いだろう。桜は愛でるものであり、仰ぎ見るものであり、(櫻という旧字体を選んでいることからして)古典に寄りかかるものであると取るなら、櫓は見てくれでは無く、兎も角も漕ぎ出だすための物だ。作者は咲かせるよりも進みたいのだ。

 修辞とは鎧ではない 弓ひけばそのための筋(きん)、そのための骨(こつ)

 先の歌よりもっとあからさまに、歌の本質を攻勢のものと捉えている。鎧、つまり守勢のものではない。歌という攻め射かけるための弓、そのための筋骨としての修辞。良い益荒男ぶりである。益荒男とは見てくれで成るものではなく、そう成らなければ死ぬ、という必然性により成ってしまうものだ。
 歌集中には砂漠を行く歌群があり、死の傍らを歩む中でも、特に切実なのは次のようだろう。
 
 (口内炎を誰かが花に喩えてた)花を含んで砂漠を歩く
 生きて帰る 砂塵の幕を引きながら正確なUターンをきめる
 骨だった。駱駝の、だろうか。頂で楽器のように乾いていたな


 これらの歌は単純で情景明白である。肉体が絶えず死と枯渇に晒されているからだろう。砂漠の現実である以上に生の真実である。現実の状況を詠っているようで、実はタンハーという真実を詠っている。タンハーとは、「激しい渇き」というほどの意味で、三世の毒の一つ、渇愛とも貪とも訳されるが、或る意志が(例えば人間ならその魂が)存在する構成要件の一つであり、砂漠に水を欲するがごとき、欲望の激しい渇きを指す。このタンハー(貪)、ラーガ(炎、訳して瞋)、モーハ(暗黒、訳して痴)により、人間は盲目的な存在としての意志を持ち、長夜に輪廻して、苦の本質を見ることがない。一首目、花は実は炎症であり、苦痛の原因である。二首目、渇きの地獄の只中で立ち止まり顧みる。三首目、死の調べを聞き無常を聞く。砂漠という地獄に生まれ地獄に乳呑み育つ定めの駱駝の、死後の歌を。恐らく砂漠の民は絶えずそのようなあからさまな真実を体験し、だから水豊かな島国の民のような夢をあまり抱かない。中東でそのような人々に囲まれた作者が観た風景が次に示される。

 映像がわるいおかげで虐殺の現場のそれが緋鯉にみえる

 映像が悪いとは言い訳であろう。悪くなくったって、血泥の累積は緋鯉の鮮やかさに見えよう。映像を通してなら尚のこと、なぜなら匂いがしないからだ。そして人間は何にでも慣れる。どんな地獄の風景にも。慣れなければ死ぬだけだ。ここで肝に銘じなければならぬのは、現在の日本における平和が、歴史上稀有な異常な状態である事だ。鮮やかな死の匂いとは即ち血の匂いであって、血の匂いは兵を酔わせる。言い換えるなら血に酔う者こそが兵であって、つまり兵である間は地獄の使いである。平和な状況に置かれたとき、激しく後悔し、PTSDを発する者も居ようが、しかし人間とは本来、血に酔うのだ。或る兵が特殊なのではない。人間という生き物がそもそも同種族の血を欲する特殊な性癖を持つのだ。そう観想したときの、絶望。

 民衆は感謝をしない すり切れた地図はテープの光がつなぐ

 「民衆は感謝をしない」とは真実である。「鼓腹撃壌」の故事を思えば、「帝力何ぞ我に有らんや」と民が歌う時、世は太平なのだ。この故事を皮肉に読めば、民は太平な時にさえ権力者に感謝はしない。誰が帝であろうが俺の知ったことか、と歌うものだ。一方、地図における境界線は政治的なものだ。砂漠なら、紛争地帯なら、昨日の地図はもはや明日の地図ではない。歌の後半では何とか昨日の地図を保とうとする空しい努力が「テープの光」によって象徴される。テープに反射する光は、灼熱の太陽の、むごたらしく現実を照らし出す光であろう。だから、前半の皮肉な真実と後半の現実的な苦闘が一字明けによって対比される様は痛ましい。それは次の歌のような痛ましさとなっても詠われ、しかし珍しく権力の側の孤独だ。

 万歳の声が潮(うしほ)であつたときバルコン、今も、激しくひとり
 実弾はできれば使ふなといふ指示は砂上の小川のやうに途絶へる


 権力を称える潮であった歓声が、反乱の鬨となったとき、権力の激しい孤独に応じて、かつての理想はもはや砂上の小川なのだ。常にそういうものなのだ。反乱を弾圧する側からの視線をも含む現実が示される。ここで平和な日本との比較を考える。戦後の日本はある意味、理想的な社会主義的国家であって、虐げられる側=民衆=正義に対して、搾取する側=権力者=悪という、甚だ単純明快な二元対立の図式が一般に流布され、信じられ、それで適度のガス抜きも行われ、うまく機能してきた。それはこの歌に詠われるような状況から見れば、実に微笑ましい皮肉な平和であろう。作者は弾圧される側に立つのでもなければ、弾圧する側に立つのでもない。たとえどこに立っていようと、自らの正義などは信じていない。多分、二元対立のどちらかに立つのではなく、業というものを見ている。このような冷静な視点が、日本の詩歌の抒情性において詠われることは稀である。

 この歳になつても慣れない。絨毯のやうに平たく死んでゐる犬

 前半に「この歳になつても慣れない」と言い訳が置かれているのはなぜだろう。慣れる筈だ。犬ならば。子供の頃、車に何か月も轢かれ続けている犬を見たことがある。登下校の折、通学路でいつもその犬を見ていた。正確には犬であった物体だ。犬はだんだん平たくなり、肉は啄まれ、毛皮は塵と散り、最後は二三片の骨だけとなって、その骨片はいつまでもアスファルトに食い込んでいたものだ。それは風景の一部であり、誰も気に留めなかった。見る側は人間であり、平たくなるのは犬という、人間ではない生物であったから、慣れる。だから、ここで詠われている「」は、もしかすると犬ではない。多分、戦車に轢かれたのだろう、平たくなったモノは犬のように見えるが、実は人であっても不思議ではない。紛争地帯では珍しい風景ではなかろう。

 西側に落ちて山ごと揺らした。祝砲ぢやないよなと君は嘲つた
 君の横顔が一瞬(しつかりしろ)防弾ガラスを月がよぎれば


 平たくなった犬に慣れた人の感慨なのだと思う。そのように慣れなければ生きてゆけない人の。爆弾を祝砲に喩えて皮肉り、月のように揺るぎない横顔を持つ、そう有らなければ、その人は砂と崩れてしまう。

 オリーヴの葉裏は鈍い剣のいろ 反権力を言へば文化人かよ

 オリーヴの起源はシリアともいわれ、エジプト文明やクレタ文明においては日常不可欠のものであったという。貨幣としての価値もあったということは、文明社会の流通性を担っていたとも取れる。オリーヴは平和の象徴であり、ノアの箱舟に鳩が持ち帰ったのはオリーヴの小枝であることから、息災の兆しでもある。オリーヴは単に平和の象徴というだけではなく、永続する平和な社会への切望そして手段とも読める。そのオリーヴの葉裏を鈍い剣の色と観たのなら、これは人間社会の平和なるものが、良い悪いとは別に、必ず武力に支えられざるを得ないという真実を暗示しているのだ。この歌における一字空けは、二つの異なる世界の対比を示しているのではないか。即ち、前半は中東の苛烈な現実である。後半は日本の呑気な現実である。
 
 展望のない革命(反乱)は反乱だ むかうに鶏頭、妖しく、有害

 革命に「反乱」というルビを振ったところが出色。ここで留意すべきは中東における「革命」の概念と、日本における「革命」の概念は違うということだ。中東の革命には、神は欠くことが出来ない。戦後の日本で革命といえば、まず共産主義革命が思い浮かぶ。無神論者の革命であり、現世しか信じない者の革命である。画餅としての儚さ脆さ甘さ美しさが、日本語の「革命」という語に投影される所以である。その「革命」に、ここ七十年まつわる異臭を作者が意識していない筈はないからこそ、鶏頭という何よりもまず赤いふてぶてしい花が置かれるのだろう。

 垂れてくるソフトクリーム 僕たちは国を愛することを憎んで

 この僕たちはソフトクリームを持っているのだろうから、平和な日本の僕たちだ。ソフトクリームは垂れてくる。崩壊してゆく。その対比として、「国を愛することを憎んで」なる文が置かれている。ここでもまた一字空けが用いられる。ソフトクリーム、甘い現実をゆっくりと崩壊させてゆくのは、僕たちの呑気な正義だ。
 今挙げた三つの歌はあからさまな批判であると読まざるを得ない。中東の現実との対比として、恐らく日本の文化人の現状が批判されている。これはかなり勇気の要る事である。次のような歌もその延長として読まざるを得ない。

 御屋敷の壁を曲がればその先はうつくしき行き止まりであろう

 御屋敷を古き良き、一見調和していた世界と観、曲がり角を歴史のそれと観れば、御屋敷の壁に沿っている限り、行き止まりに決まっているのだが、それを認めるには気概が要る。必要なのは、どんな夢も抱かずに容赦なく見る事だろう。如何なる理想も革命も正義も懐古も抱かずに見る事。

 たおれつつ目に焼き付いた地平線 まただ、余計な凸凹がある
 そもそもが奪って生きる僕たちは夜に笑顔で牛などを焼く
 幾重にも重なる闇を内包しキャベツ、僕らはつねに前夜だ
 指こそは悪の根源 何度でも一本の冬ばらが摘まれて


 幾度も斃れ、生き変わり死に変わってはまた斃れ、まだ地平は平らにならない。余計な凸凹、執着や復讐や怨念や正義や夢や理想がある。凸凹は随分僅かになってきたようにも見える。だが、まだ余計なモノがある。この斃れにおいても、まだ人間を超えられない。己が悪の形状を、指の腹に刻むが如く弄り回し、指の神経に記憶させ、悪を裁かず誤魔化さず、只有るとみて、笑顔で牛を焼く時にも、肉塊を血と共に彩っている牛のたましいを聞きつつ、尚も砂上の己が生を一日延ばすために、牛の末期の絶望を貪り食う。砂のごとき闇であった。前の生も、その前の生も、幾重にも闇であって、この生も未だ闇であり、だが前夜である。革命のか。正義のか。如何なる不明瞭さと不信に満ちている前夜なのか。どこまでも容赦なく明快に観るための、その暁の光を、常に阻んでいる前夜なのか。僕らは。僕ではなく、僕ら、とは何だろう。危機に際してはあっけなく霧散する、連帯感という雰囲気を差し引いて考えたとしても、例えば砂漠の上に呼吸している者が自分一人だけだとしても、確かに、僕ら、であろう。なぜなら、僕というたましいは、一人ではない。独立した個体ではない。幾重もの生霊死霊の断片から構成されている処の、或る仮の境界線を持つ領域に過ぎず、かつてミリンダ王が問うたように、丁度一個の馬車が、車輪や天蓋や柱や床や軛などから構成され、そのどれをも馬車と認識することが出来ないように、僕、とは様々な渇きや炎や暗黒から成る集合体に過ぎない。指こそが悪の根源ならば、世界に触れ、弄り、愛憎するために伸ばされる指こそが、渇きであり炎であり暗黒であるのか。それとも、よく己が悪の形状を知る者は、己が深淵を盲人の如く指もて探り、指もて這わせしめるが為に、指に、悪の上澄みが匂うのか。明快に観る手始めとして、つつましい香りとつつましい快楽の冬薔薇を、つつましく一枝折る時、何度でも己が悪を認識すること。一本の冬薔薇が、牛の屠られ喰らわれる如く、犬または人が轢き潰される如く、無限の回数を摘まれると観想して。

 朝までにボートが戻らなかったら白い喇叭はこなごなにして
 燃えながら燃やす炭火はおごそかな木の終り、そのように生きたい
 砂の柱にいつかなりたい 心臓でわかる、やや加速したのが
 見事 むしろ 花束のたえない、お出で、たえない町だ 花束


 前の二首は明確にして悲愴な意志表明である。水による、炎による贖罪、或いは特別攻撃。黙示録の喇叭は白光がそう見えるだけかもしれず、炭の暗黒は光の塊かもしれぬ。後の二首においては、手探りで自身の思考の外へ出ようとしている観がある。私としては後の二首の突出した感触に惹かれる。いつ砂と崩れても良い志、ロトの妻は文明の破滅を観察しようとして塩の柱と化したが、たとえ自ら砂の柱となっても観ようとする志か、そこへ向かって、微妙に加速してゆく一方で、町は、人の住む世界は、やはり花が絶えぬと見えるのか、その花がたとえ炎症であったとしても。後の二首の突き抜けた感じは、前二首の覚悟の上に、初めて成り立つものだろう。

※引用中の「(口内炎を誰かが花に喩えてた)花を含んで砂漠を歩く」「君の横顔が一瞬(しつかりしろ)防弾ガラスを月がよぎれば」以外の丸括弧はルビ。