このあいだ、第一詩集(http://inunosenakaza.com/hai_to_ie.html)を刊行したのですが(とてもよい詩集なので購入しましょう)、その初売りとなったさる11月23日の文学フリマで、「穀物 第3号」を買いました。特にまとめることもせず、頭から読んでいこうとおもいます。
曇天は鰈のごとくありて見ひらけば眼を圧して触れ来る
小原奈実「錫の光」から。この作品は「鰈のごとく」あると書かれる曇天と、見ることに視覚の欠損をにじませる修辞の組み合わせが巧みであるとおもいます。「鰈のごとく」と示されるときの鰈は、おそらく風景に擬態し姿を眩ませる背ではなく、本来は見られることのない腹の部分なのでしょう。なので、曇天は見られもののいない(いたとしても、私からは曇天によって見えない)天へと背を見せ、見られるもの(地)に対して見られることのない部位を向けている。そして、腹を見るものに対して与えられる視覚の印象が、「眼を圧して触れ来る」ものであると読めます。鰈の腹とは背の裏側で海底に触れるものであり、従ってそれを見るという経験を内に組み込むことのない外観です。そのように呼ばれる曇天が見えるというときに生起する視覚は、見ることを妨げる遮蔽性を伴った、見ることそのものを成立させる距離自体を覆い隠すような、物理的な接触に伴う見えなさを中心に組織化するものであるわけです。また一方で、この作品において描かれることなく弾き出された鰈の背を、見ることの距離において周囲と擬態し見えなくなるもの、作品のもつ閉塞的な鑑賞体験を支える余白(それは腹のもつ見られることを放棄した白ではなく、見ることのただなかをかたちづくる白です)として、読み手はうっすらと想起してやみません。
ここで曇天と知覚の対であるところの上句・下句の構造は、「ごとくありて」と「見ひらけば」の転換を挟むことで両者の関係を明瞭にかたちづくっています。鰈のように差し出される曇天があり、それを受け取る目の視覚。言い換えれば、曇天を主語とした述部としての視覚というレイアウトによって、作品はひとつの図を形成しています。数ある詩型のなかでとくに短歌が優れているのは、こうした対のレイアウトがもつ反復=リズムの時間性において、文構造に依存しないかたちで言葉の配置を有機的な歌としてつくりだし、そこでうたわれるものに情感を搭載させることができるところであると感じます(その点で、俳句はむしろ物がそこにあるかのような、身体に対する異物性をその力の頂点にもつのではないかとおもいます)。
あたたかな窓は旅して何度でも電子レンジが見せる夕焼け
文構造とは別に韻律の展開が作品に歌としての気質を与える、というあり方は、狩野悠佳子「恐れず雨を」を読んでいて考えたことでした。この作品は、「あたたかな窓」「電子レンジ」「夕焼け」の間の階層が明瞭ではなく、それぞれの要素がもつ触覚や視覚イメージの連関によって関係を保ちつつ、垂直に展開する定型感が残存する構成になっています。「あたたかな窓は」と「旅して」のあいだには「あたたかな窓が旅をする」という解釈よりも、「あたたかな窓」に「旅」を付帯させることで叙情性を付帯させ、「何度でも」の回帰性を挟み込みながら、後続する「夕焼け」の印象を強めるかたちになっているように感じます。つまり、「あたたかな窓」・「電子レンジ」・「夕焼け」と「旅」・「何度でも」・「夕焼け」が、定型感の基調の上で交差する。
ところで、「旅して」と「何度でも」のあいだに見られるような、短歌における視点・文意の切り替えは、読んでいてかなり強く意識に引っかかるとおもいました(この作品で「何度でも」は、「旅して」と「見せる」のどちらにも係るような操作をほどこされていますが、「旅して」の順接においてわずかな切れ目がある)。当たり前のような話ですが、縦書きで進行する書物における縦方向の目の移動が占める占有は、横方向におけるそれに比べて大きいです。詩における改行は、こうした縦方向の読みを切断し、(当座の行とは異なる視野で読まれる)前後の行との関係下に置くことで、常に他なる論理の介在を潜在的にはらむような読みの複数性を余白のなかに持ち込むことができます。けれど、短歌は基本的に単一の行がもつ垂直的な展開の内部で読みが一続きに流れていくので、韻律を用いた区切りを施してもなお、視覚においてあらかじめ流れてしまった単一の時間経過に突如、ぐるりと切り替わるような世界の反転が起きたように感じます。
わたくしをここで眠らせ心拍は先へさきへと歩む旅びと
川野芽生「アヴェロンへ」におけるこの作品の、「わたくし」が「心拍」の前に来る構成は、こうした一文中での垂直性がもたらす時間の流れを意識すると、より制作の思考が際立って感じられます。たとえば、「心拍は」と始まってもよい前半部において「わたくし」が置かれることで、作品内部の視点を受け持つよう組織化されるはずの「わたくし」が即座に対象化されるとともに、リズムの進行に従って「ここ」が遠ざかっていく。一方、「わたくし」が持つはずだった場を持つことになる「心拍」は、この時間的な進行が読み下す目を伴いながら距離に変換されることで「先へさきへと歩」んでいき、その末尾で「旅びと」になる。私の理性の圏外としての眠りと、私の理性とは無関係に動き続ける心音の対比を用いつつ、そうしたズレを旅のイメージへと空間化する手つきが鮮やかです。「こころとは巻貝が身に溜めてゆく砂 いかにして海にかへさむ」もいいとおもいました。
短歌の基幹となるリズム(五七五七七)における「五七」と「七七」の反復は、作品内部で時間がリズムを刻みながら進行していき、他方でそれとは異なる時間の様相に向けて開かれず、自閉的に反響するような読み味を与えます。言い換えれば、不可逆的でありかつ常にその進行の内側で自身に回帰し続けるような時間が、短歌を読むなかで与えられる基本的な感覚の根幹にあると、個人的に強く感じます。失われた過去に対する甘い寂しさや、いずれ終わりを迎える私たちの恋愛や生に対する諦めに似た確信、それらに通底するある種の叙情性とは、現下において不在である想像可能なものに対する意識の方向が、自閉的に自身の方向性それ自体を享受する過程において生まれるものですが、この素朴な情感は、短歌作品を読む上で避けては通れないものであるようにおもいます。
至るところは紫陽花の青、まだだ、またあの寂寥の白さが覆う
小林朗人「そして無明の灯りに還る」に収録されたこの作品は、「まだだ」を挟む二つの「、」が、作品を二つに分割しています。前半部で提示される青を「まだだ」で取り消し、後半部で「白」を提示する、つまり、「至るところ」と視覚的に示される空間を、情動によって再度塗りつぶしにかかります。この「青」と「白」の対応は、「至るところ」を基点として空間的な位置を持つのではなく、むしろ空間(見られるもの)と主観(見るもの)のあいだで取り交わされるものであると感じます。(「白」は「覆う」ものとして、空間的な比喩を媒介に語られていますが)。「まだだ」の切れ目は、おそらくこの「青」にも「白」にも属さない「あいだ」の知覚を端的に物語る留保として、二つの「、」に挟まれているのでしょう。ですが、この「あいだ」は決定の不可能性に貫かれてはおらず、現に視覚において与えられた「青」に対して叙情的な「白」が取り消しを伴いながら対応する、という時間の進行を、むしろ表現するものとして現れています。言い換えれば、「青」と白は対にはなるけれど、拮抗せず、結果的に「白」が「覆う」という事態は覆らないということです。この「寂寥」の「白」とはすなわち、先ほど述べた叙情の性質、対象と明確に結びつくことなく展開する意識の、意識そのものによる享受の感覚と重なるようにおもいます。(続きます?)
曇天は鰈のごとくありて見ひらけば眼を圧して触れ来る
小原奈実「錫の光」から。この作品は「鰈のごとく」あると書かれる曇天と、見ることに視覚の欠損をにじませる修辞の組み合わせが巧みであるとおもいます。「鰈のごとく」と示されるときの鰈は、おそらく風景に擬態し姿を眩ませる背ではなく、本来は見られることのない腹の部分なのでしょう。なので、曇天は見られもののいない(いたとしても、私からは曇天によって見えない)天へと背を見せ、見られるもの(地)に対して見られることのない部位を向けている。そして、腹を見るものに対して与えられる視覚の印象が、「眼を圧して触れ来る」ものであると読めます。鰈の腹とは背の裏側で海底に触れるものであり、従ってそれを見るという経験を内に組み込むことのない外観です。そのように呼ばれる曇天が見えるというときに生起する視覚は、見ることを妨げる遮蔽性を伴った、見ることそのものを成立させる距離自体を覆い隠すような、物理的な接触に伴う見えなさを中心に組織化するものであるわけです。また一方で、この作品において描かれることなく弾き出された鰈の背を、見ることの距離において周囲と擬態し見えなくなるもの、作品のもつ閉塞的な鑑賞体験を支える余白(それは腹のもつ見られることを放棄した白ではなく、見ることのただなかをかたちづくる白です)として、読み手はうっすらと想起してやみません。
ここで曇天と知覚の対であるところの上句・下句の構造は、「ごとくありて」と「見ひらけば」の転換を挟むことで両者の関係を明瞭にかたちづくっています。鰈のように差し出される曇天があり、それを受け取る目の視覚。言い換えれば、曇天を主語とした述部としての視覚というレイアウトによって、作品はひとつの図を形成しています。数ある詩型のなかでとくに短歌が優れているのは、こうした対のレイアウトがもつ反復=リズムの時間性において、文構造に依存しないかたちで言葉の配置を有機的な歌としてつくりだし、そこでうたわれるものに情感を搭載させることができるところであると感じます(その点で、俳句はむしろ物がそこにあるかのような、身体に対する異物性をその力の頂点にもつのではないかとおもいます)。
あたたかな窓は旅して何度でも電子レンジが見せる夕焼け
文構造とは別に韻律の展開が作品に歌としての気質を与える、というあり方は、狩野悠佳子「恐れず雨を」を読んでいて考えたことでした。この作品は、「あたたかな窓」「電子レンジ」「夕焼け」の間の階層が明瞭ではなく、それぞれの要素がもつ触覚や視覚イメージの連関によって関係を保ちつつ、垂直に展開する定型感が残存する構成になっています。「あたたかな窓は」と「旅して」のあいだには「あたたかな窓が旅をする」という解釈よりも、「あたたかな窓」に「旅」を付帯させることで叙情性を付帯させ、「何度でも」の回帰性を挟み込みながら、後続する「夕焼け」の印象を強めるかたちになっているように感じます。つまり、「あたたかな窓」・「電子レンジ」・「夕焼け」と「旅」・「何度でも」・「夕焼け」が、定型感の基調の上で交差する。
ところで、「旅して」と「何度でも」のあいだに見られるような、短歌における視点・文意の切り替えは、読んでいてかなり強く意識に引っかかるとおもいました(この作品で「何度でも」は、「旅して」と「見せる」のどちらにも係るような操作をほどこされていますが、「旅して」の順接においてわずかな切れ目がある)。当たり前のような話ですが、縦書きで進行する書物における縦方向の目の移動が占める占有は、横方向におけるそれに比べて大きいです。詩における改行は、こうした縦方向の読みを切断し、(当座の行とは異なる視野で読まれる)前後の行との関係下に置くことで、常に他なる論理の介在を潜在的にはらむような読みの複数性を余白のなかに持ち込むことができます。けれど、短歌は基本的に単一の行がもつ垂直的な展開の内部で読みが一続きに流れていくので、韻律を用いた区切りを施してもなお、視覚においてあらかじめ流れてしまった単一の時間経過に突如、ぐるりと切り替わるような世界の反転が起きたように感じます。
わたくしをここで眠らせ心拍は先へさきへと歩む旅びと
川野芽生「アヴェロンへ」におけるこの作品の、「わたくし」が「心拍」の前に来る構成は、こうした一文中での垂直性がもたらす時間の流れを意識すると、より制作の思考が際立って感じられます。たとえば、「心拍は」と始まってもよい前半部において「わたくし」が置かれることで、作品内部の視点を受け持つよう組織化されるはずの「わたくし」が即座に対象化されるとともに、リズムの進行に従って「ここ」が遠ざかっていく。一方、「わたくし」が持つはずだった場を持つことになる「心拍」は、この時間的な進行が読み下す目を伴いながら距離に変換されることで「先へさきへと歩」んでいき、その末尾で「旅びと」になる。私の理性の圏外としての眠りと、私の理性とは無関係に動き続ける心音の対比を用いつつ、そうしたズレを旅のイメージへと空間化する手つきが鮮やかです。「こころとは巻貝が身に溜めてゆく砂 いかにして海にかへさむ」もいいとおもいました。
短歌の基幹となるリズム(五七五七七)における「五七」と「七七」の反復は、作品内部で時間がリズムを刻みながら進行していき、他方でそれとは異なる時間の様相に向けて開かれず、自閉的に反響するような読み味を与えます。言い換えれば、不可逆的でありかつ常にその進行の内側で自身に回帰し続けるような時間が、短歌を読むなかで与えられる基本的な感覚の根幹にあると、個人的に強く感じます。失われた過去に対する甘い寂しさや、いずれ終わりを迎える私たちの恋愛や生に対する諦めに似た確信、それらに通底するある種の叙情性とは、現下において不在である想像可能なものに対する意識の方向が、自閉的に自身の方向性それ自体を享受する過程において生まれるものですが、この素朴な情感は、短歌作品を読む上で避けては通れないものであるようにおもいます。
至るところは紫陽花の青、まだだ、またあの寂寥の白さが覆う
小林朗人「そして無明の灯りに還る」に収録されたこの作品は、「まだだ」を挟む二つの「、」が、作品を二つに分割しています。前半部で提示される青を「まだだ」で取り消し、後半部で「白」を提示する、つまり、「至るところ」と視覚的に示される空間を、情動によって再度塗りつぶしにかかります。この「青」と「白」の対応は、「至るところ」を基点として空間的な位置を持つのではなく、むしろ空間(見られるもの)と主観(見るもの)のあいだで取り交わされるものであると感じます。(「白」は「覆う」ものとして、空間的な比喩を媒介に語られていますが)。「まだだ」の切れ目は、おそらくこの「青」にも「白」にも属さない「あいだ」の知覚を端的に物語る留保として、二つの「、」に挟まれているのでしょう。ですが、この「あいだ」は決定の不可能性に貫かれてはおらず、現に視覚において与えられた「青」に対して叙情的な「白」が取り消しを伴いながら対応する、という時間の進行を、むしろ表現するものとして現れています。言い換えれば、「青」と白は対にはなるけれど、拮抗せず、結果的に「白」が「覆う」という事態は覆らないということです。この「寂寥」の「白」とはすなわち、先ほど述べた叙情の性質、対象と明確に結びつくことなく展開する意識の、意識そのものによる享受の感覚と重なるようにおもいます。(続きます?)