「詩客」短歌時評

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短歌時評 第116回 遠野真「さなぎの議題」と「設定」について 田丸まひる 

2015-09-26 16:47:44 | 短歌時評
 第五十八回短歌研究新人賞が遠野真「さなぎの議題」に決まった。(「短歌研究」2015年9月号掲載)ひりひりとした痛みを伴いながら、子どもから大人へと、さなぎから蝶へとなりゆく過程の感覚を、感情よりも詩情に寄せて書いた興味深い一連だ。

 夜のこと何も知らない でこぼこの月にからだを大人にされる
 ガンジーが行進をする映像で笑いが起こる教室 微風
 割れた窓そこから出入りするひかりさよならウィリアムズ博士たち


 一首目、「」は大人の世界だろうか。こころは夜を知らないまま、からだだけ大人に「なる」のではなく、大人に「される」という把握が刺さる。「でこぼこの月」という表現には影を伴う質感があり、観念ではなくて誰かの肉体によって主体が大人にされているように見える。また、月は基本的に見上げるものだが、諦念を感じながら仰向けになっているような印象を持った。
 二首目、「ガンジーの行進」は非暴力・不服従を貫いたガンジーの「塩の行進」のことだろう。本来は笑いが起こるような状況ではないのにも関わらず、笑いが起こってしまう教室。「微風」は笑いによって動く空気とも取れるが、主体の内面に立ち上がる違和感とも読むことができ、例えば強風ではないことにガンジーの非暴力にもつながる意味がある。
 三首目の「ウィリアムズ博士」は、昆虫の変態を制御している物質を突き止めるためにさなぎを切り離すなどの実験をした生物学者であり、「博士たち」と複数形にすることで自分を脅かす存在(この一連では、肉親や学校のなかのひとたち)が一人ではないことを暗示しているようである。
 全体に、言葉の選択によって背景の意味をにじませているような歌が多く、一首一首の完成度が高いと諸手を挙げて言うことはできないが、言葉の配置や設定の面白さには心惹かれた。
 しかしここで、「設定」と感じたことへの違和感を覚えて立ち止まる。どうして「設定」だと感じてしまうのか。それは以下のような歌に起因する。

 肉親の殴打に耐えた腕と手でテストに刻みつける正答
 わたしだけ長袖を着る教室で自殺防止にテーマが決まる
 痣のないお腹を隠すキャミソール 罪を脱ぐのもまた罪であり


 一首目は家族からの暴力を、暗示ではなくはっきりと提示している。「肉親の殴打」という、こなれていない表現のために、より「設定」されているという印象を明確にしてしまっている。二首目、「わたしだけ長袖」については、暴力を受けた痕があるからとも読めるが、「自殺防止」のテーマが決まる教室と並べてしまうと、リストカットやアームカットなどの自傷行為にも導かれる。どちらにせよ、長袖から傷を隠すイメージをこのように暗示するのはやや安易ではないか。三首目、「痣のないお腹」も、お腹以外には暴力を受けていることを提示しているが、ここまで書くとさらに設定に見える。「罪を脱ぐ」の意味深な、しかし面白い表現を支え切れているかどうか。
 「さなぎの議題」の、痛みを伴いながら徐々に大人になりつつあるというこの世界観に、虐待を思わせぶりにちらつかせるような歌は、むしろ生々しさを遠ざけていないか。敢えて言えばあざとく、作り物めいている。虐待は舞台設定の小道具にするようなテーマではない。ただ、作り物めいてないとこういうテーマは、作品の世界を越えて作者自身に突き刺さる。しかし、自身を刺すこと(あくまでも表現での話だが)から逃れてしまうと、その連作の痛みは表面的なものにとどまり、ナイフが刺さらずに皮膚の上を滑っていくようになってしまう。

 昨年の短歌研究新人賞で話題になったような、事実か虚構かの問題ではない。事実であれ虚構であれ、作品を編むにあたってのめり込みすぎない冷静さや客観的な視点は必要だが、設定上の駒を置くような手つきが見えると、それは作品の力を殺ぐことにならないか。これは読者の勝手な期待にすぎないのかもしれない。ただこれは、実作者でもある読者にも跳ね返ってくる問題だと思っている。
 昨年の短歌研究新人賞受賞作である石井僚一「父親のような雨に打たれて」は、後に議論を引き起こすこととなったが、事実に軸足を置いた虚構であった。この連作の設定の手つきはどうだっただろう。

 傘を盗まれても性善説信ず父親のような雨に打たれて
 ネクタイは締めるものではなく解(ほど)くものだと言いし父の横顔


 また、2010年の山崎聡子の短歌研究新人賞受賞作「死と放埓な君の目と」では、事実かどうかという憶測も許さないほどに「義兄」の設定が効いていたように思う。

 真夜中に義兄(あに)の背中で満たされたバスタブのその硬さを思う
 義兄とみるイージーライダーちらちらと眠った姉の頬を照らせば

 (歌集『手のひらの花火』では「イージーライダー」と鉤括弧つきで表記)

 これらの作品が、遠野の作品とどう違うのか検討してみると、また遠野作品の違う側面が見えてくるのかもしれない。

 川野里子は評論集『七十年の孤独 戦後短歌からの問い』の中で以下のように述べている。

 現代短歌、ことに近年の短歌はリアルであることを、それ以前とは異なる切実さで求めるようになっている。それは、手触りや実感の希薄な現代という時代の求めでもある。事物の感触の薄くなった生活、ネットという、人間の五感から遠く離れた世界が今や私達の生活の中心を動かしているという現実もある。文芸はそうした感官をすり抜けてゆくもの、「今」からこぼれ落ちるものを掬おうとする衝動を常に抱え持っている
 (なお、川野の論は「リアル」を「それ自体最も今日的な精神や社会の象徴であり代弁である。」と定義しながらも、文芸が「『虚』の弾力」を必要とすることを語っているため、引用部分だけでは川野の論旨が伝わらないことを明記しておく)。

 「リアル」は、イコール事実ではなく、あくまで手触りや実感を伴うということだろう。例えば連作を編む時に作者が求めるもの(連作としての完成度や表現したいことが伝わっているか、など各人にあるだろうが)と、そしてそれを読む読者が求めているもの(それは、リアルへの希求から抜け出せないのかもしれない)との差異も、見極める必要があるのかもしれない。読者が作者でもあることが多いという、未だ狭い世界の話だが。

 最後に、今回の遠野の作品でいちばん心惹かれたのは以下の歌である。
 
 死ぬまでを永遠と呼ぶ人たちよ おもに掃除をたすけてほしい
 
 大づかみの上句は、しかし「死ぬまでを永遠と呼ぶ人たち」への批評でもある。「たすけてほしい」という声も届いた。
 今回、遠野の作品に向き合うのに際して、遠野が所属している「未来」に寄せた作品もすべて目を通した。個人的に突き刺さった作品を紹介して、終わりにしたい。

 朝霧に種まく人よ近づいていいのかだめか言わないでくれ  「未来」2015年7月号
 前をゆく人を殺してみたいとき大抵とじた傘を持ってる   「未来」2015年8月号

#略歴
田丸まひる(たまるまひる)
1983年徳島県生まれ。未来短歌会所属。「七曜」同人。歌集『晴れのち神様』(2004年booknest)『硝子のボレット』(2014年書肆侃侃房)
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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2018-03-27 00:10:53
読みました。

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