「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 わが短歌事始めⅡ 『塚本邦雄全歌集』 酒卷 英一郞 

2018-08-19 13:48:32 | 短歌時評
 『塚本邦雄全歌集』が白玉書房から版行されたのは一九七〇(昭和四十五年)、筆者二十歲の時であつた。旣刋六歌集、『水葬物語』に始まり前囘主に觸れた『裝飾樂句(カデンツア)』『日本人靈歌』『水銀傳說』『綠色硏究』『感幻樂』を收めた待望の、そして當時自分の所有してゐた書物の中で最も大事な一册であつた。これが短歌のすべてであり、いや世界の事象のことごとくがこの中に表現されてゐると信じて疑はなかつた。他の歌人たちは、この塚本が詠つた世界にこの上、なにを足すことがあるのだらうか、ここからなにを引去ると云ふ愚擧に出るのか。頁を手繰るごとに新しい世界が眼の前に啓かれ、胸に刻まれ、心に燒付けられた。この世界の全體像をしつかりと捕まへるために先づ行つた作業と言へば、塚本作品に登場する夥しい名詞、名辭、固有名詞の索引(インデックス)を作成することであつた。
 文學、音樂、美術、歴史、植物、動物、衣装、美食等々。あの黃金ノオト、詩的現象の解析表は一體どこへ行つてしまつたのだらうか。そもそもなんで作業は中斷されたのか。いまとなつては自己の心持ちを推し測るしか無いのだが、目眩く萬華鏡のやうな、しかも閒斷なき出現に、終ひには辟易し、たうたう放擲してしまつたのではなかつたか。これらを何ひとつとして眞に所有する、その世界を思想的に血肉化することは、終ぞ叶はないのではないか。ふと兆した不安は忽ち心を被ひ、黑雲は瞬く閒に全身を捉へた。
 先づは精華の數數を。

  つひにバベルの塔、水中に淡黃の燈(ひ)をともし――若き大工は死せり
  貴族らは夕日を 火夫はひるがほを 少女はひとで變へり。海にて
  夜會の燈(ひ)とほく隔ててたそがるる野に黑蝶のゆくしるべせよ
  みづうみに水ありし日の戀唄をまことしやかに彈くギタリスト
  ダマスクス生れの火夫がひと夜ねてかへる港の百合科植物
  遠い鹹湖の水のにほひを吸ひよせて裏側のしめりゐる銅版畫
  ゆきたくて誰もゆけない夏の野のソーダ・ファウンテンにあるレダの靴
  かりそめの戀をささやく玻璃窓にはるかな街の夜火事が映り

『水葬物語』


 『水葬物語』は前囘觸れたが、塚本三十一歲、一九五一(昭和二十六年)の處女歌集。これを繙くに後年の刋行となるが、盟友杉原一司との交友以前、「水葬物語以前」と銘打たれた『透明文法』から始めるのが常套であらうが、やはり『全歌集』との遭遇は決定的であつた。その濃密な假構と精緻なメトード、そしてロマネスクに彩られた花壇に異彩な數首が紛れ込んでゐる。

  銃身のやうな女に夜の明けるまで液狀の火藥塡(つ)めゐき
  寶石函につけて女帝へ鄭重にのびちぢみする合鍵獻ず
  迷路ゆく媚藥賣りらも榲桲(まるめろ)の果(み)を舐めてまた睡りにかへり


 まるで『俳風末摘花』擬きのあぶなゑ仕立てだが、喩的効果と適確な韻律とが、一首を低囘から牽き立ててゐる。

    *

  愕然と干潟照りをり目つむりてまづしき惡をたくらみゐしが
  水に卵うむ蜉蝣(かげろふ)よわれにまだ惡なさむための半生がある
  われの戰後の伴侶の一つ陰險に内部にしづくする洋傘(かうもり)も
  まづしくて薔薇に貝殻蟲がわき時經てほろび去るまでを見き
  賣るべきイエスわれにあらねば狐色の毛布にふかく沒して眠る
  ジャン・コクトーに肖たる自轉車乘りが負けある冬の日の競輪終る
  娶りちかき漁夫のこころに暗礁をふかく祕めたる錆色の沖
  硝子工くちびる荒れて吹く壜に音樂のごとこもれる氣泡
  腐敗ちかきレモンに煮湯そそぎつつ親しもよ輕騎兵ジュリアン
  道化師と道化師の妻 鐵漿色(かねいろ)の果(み)をへだてて眠る
  血紅(けつこう)の魚卵に鹽のきらめける眞夜にして胸に消ゆる裝飾樂句(カデンツア)

『裝飾樂句』


 『裝飾樂句』(カデンツア)創作期の作品に後に纏められた『驟雨修辭學』(昭和四十九年・大和書房刋)があり、いづれ甲乙つけ難き絕唱が竝ぶ。

    *

  日本脫出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも
  暗渠詰まりしかば春曉を奉仕せり噴泉(ラ・フオンテーヌ)・La Fontaine
  わが過去にすさまじきものはこびきて豪雨の中にうなだるる馬
  突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼
  世界の終焉(をはり)までにしづけき幾千の夜はあらむ黑き胡麻炒(い)れる母
  われまことに少女らに告ぐ朱夏いたり水苔のみづみづしき不姙
  われよりややつよき運命賜はりし鶸なり灼くる砂の上の屍(し)
  遠き一つの火災鎭めて今われにきたる猖猖緋の消防車
  桃太郞の眞紅の繪本ころがれる夜の疊、そこに時閒(とき)の斷涯(きりぎし)
  ロミオ洋品店春服の靑年像下半身無し***さらば靑春
  さむき睡りの中むらさきのほろほろ鳥(てう)小走りにさきの世の家族達
  不運つづく隣家がこよひ窓あけて眞緋(まひ)なまなまと耀(て)る雛の段
  ほほゑみさそふばかり安けくわがうちの古典の死、箱に光る鮎の屍(し)

『日本人霊歌』


 『日本人霊歌』一九五八(昭和三十三年)の制作年月は一九五六年夏から五八年夏への二年閒。作者三十六歲から三十八歲に當る。
 前作『裝飾樂句』を繼いで塚本獨自の社會性短歌のひとつの極みを遂げる。集中の作品群としては、表題作「日本人靈歌」全五十首に塚本にしてかなり直截的な表現が目立つ。この時何が起こつたのか。一九五六(昭和三十一年)十月、ハンガリー動亂勃發。ソ連邦によるハンガリー民主化の彈壓。スターリニズムの介入である。塚本は逸早く反應する。

  赤き菊の荷夜明けの市(いち)にほどかるる今、死に瀕しゐむハンガリア
  髮けむらせ繩跳ぶ少女 ハンガリア少女と遠く恐怖を頒(わか)ち
  運河、今朝油の蒼き膜にうつりハンガリア靑年の炎の眼
  ハンガリアのそののち知らず 怫然と若き蠺豆(そらまめ)煮をりコックは


 卷中、ハンガリアに言及した四首全てを擧げてみた。ここら邊りが塚本の社會性の極點ではないだらうか。ハンガリー動亂の日本思想界、文學界に及ぼした影響はその後の言動の分岐點ともなる。黑田寛一がこのスターリニズム糾彈の烽火を擧げた。埴谷雄高は反スターリニズムの行動原理の確立へ。
 一方、「ロミオ洋品店」にて靑春との訣別を果たし、靑年晩期と、壯年意識の濃厚な潤色、そして老年を見据える眼差しが交叉してゐる。

  靑年期疾(と)く過ぎゆくと汗ばみて見る灰綠(くわいりよく)のピカソの牧羊神(フオーヌ)
  老いは目くらむばかりのかなしみとおもふ暗がりに靑梅嚙む父よ
  はつなつのゆふべひたひを光らせて保險屋が遠き死を賣りにくる
  壯時(さかり)過ぎむとして遇ふ眞夏、手のとどく其處に血溜りのごとき日溜り
  冬の堅果(けんくわ)のごとき老年われは欲りここに黑き繪のフレンチ・カンカン


 無論、塚本が告發する日本の狀況と内部の情況とは次の一首のやうに異なる。

  われの危機、日本の危機とくひちがへども甘し内耳のごとき貝肉

 ゆゑにとはあまりに結論を急ぎすぎるだらうか。現狀からの、また自己の時閒の檻からの脫出願望は、卷頭一首(「日本脫出したし」)に象徴されるやうに全編を通じて通奏低音を奏でる。

  人無き埠頭にて極地への脫出の荷の中の周りやまざるミシン
  少女死するまで炎天の繩跳びのみづからの圓駈けぬけられぬ
  脫出ねがふわれをおほひて洋傘(かうもり)のうちがはのいたましき骨組
  檻に頰すりつけて火喰鳥見つつつひに空白の出日本記(しゆつにつぽんき)


    *

  燻製卵はるけき火事の香にみちて母がわれ生みたること恕(ゆる)す
  眼科醫、眼科醫と邂ひしかば空港のあかつきあかねさす水晶體
  菖蒲(あやめ)みのりてそのむなしき果(み)群るる季(とき)むらさきふかしわが嗜眠症(レタルギア)
  夏至の海くらくらとして過去よりの金靑(こんじやう)ぞ 溺死したるShelleyに
  おとろへて坐す黃昏(くわうこん)をコルシカの戀唄赤き針零(ふ)るごとし
  さらばみじかき夏の光りよ理髮師にわが禁慾の髮刈らすべく
  復活祭に往け 汝(な)がために縞蛇のたまごとおそるべき藍の天
  カナリア諸島地圖の旱りの海に泛(う)きわれかつて嬰兒(みどりご)をいだかず
  くちなしの實煮る妹よ鏖殺(あうさつ)ののちに來む世のはつなつのため
  曲馬團 死の前(さき)の夜のまなぶたの天幕に馬の影もつれつつ
  一束(ひとたば)の獨活(うど)ほどかれて胸を刺す香よ エルシノアのホレイショへ
  萬綠の中游ぐかにかへりきてここに左右の頰毆たるる愛
  抒情詩もて母鎭めむにあたらしき鋸の齒のかたみに反(そむ)く

『水銀傳說』


 『水銀傳說』一九六一(昭和三十六年)の山巓は、岡井隆をして「壯烈な失敗作」と嘆かしめたと云ふ表題作、ランボーとヴェルレーヌとの交感(コレスポンデンス)を、その愛憎劇として描いた百首に極まるか。先の『日本人靈歌』で飽和點に到達した塚本の短歌リアリズムが、脫出、さらなる飛躍を期しての兆戰であつた。Rimbaudに寄すとして五十首、Verlaineに寄すとして五十首の計百首。ふたりの現實的交歡を遙かに、その彼方の短歌詩形へと思ひを馳せ、中空に新しき韻文を刻む。この件り、碩學壽岳文章の「『水銀傳說』を読む」に委細が盡されてゐる。

    水銀傳說
     Rimbaudに寄す
  娶らざりしイエスを切に嘉しつつかなた葎の夭(わか)き蝮ら
  人を惡(にく)みて罪愛すれば山中に山火事のあとかぐはしきかな
  縊(くび)れし雉子(きじ)とわれらの前世紫金なしうつるスミルナの寺院(てら)の鏡よ
  にくしみもてこのにくしみをささへむと馬蹄型磁石なし寢るわれら
  印度大麻劑(ハシツシユ)のみて氷河の紅き花見むと髮燒けり幼妻の髮
  屍(し)は見ざれども暑き日をありありと哀れアルチュールが禾(のぎ)なす髮よ
    Verlaineに寄す
  こよひ巴里に蒼き霜ふり睡らざる惡童ランボーの惡の眼澄めり
  橘に靑銅の果(み)はきざしつつ死後のくにの夏のはじめ
  低くして眠る頭熱(づあつ)し 足の方はるか西域の彷徨(さまよ)ふみづうみ
  われ擊ちそこなひし拳銃 漆黑の蘂もつ花のごとく墜ちたり
  燠色(おきいろ)の夜の鷄頭にからだ觸れ立てりわれまた死の國の火夫
  一月十日 藍色に晴れヴェルレーヌの埋葬費用九百フラン


   *

  雉食へばましてしのばゆ再(ま)た娶りあかあかと冬も半裸のピカソ
  蕗煮つめたましひの贄(にへ)つくる妻、婚姻ののち千一夜經(へ)つ
  鵞鳥卵つめたしガルガンチュアの母生みしパパイヨ國の五月雨
  坐して針賣る老婆ここより西方へ千里タシケントは麵麭の町
  ギムナジウムと花屋のあはひ泥濘の屬領も昧爽(よあけ)までに亡ぶ
  揚雲雀そのかみ支那に耳斬りの刑ありてこの群靑の午(ひる)
  婚姻のいま世界には數知れぬ魔のゆふぐれを葱刈る農夫
  姦淫は母もつことにはじまりて酢の底となる皿の繪の鳥
  土曜日の父よ枇杷食ひハルーン・アル・ラシッドのその濡るる口髭
  ピレネー山脈戀ひて家出づ心臟のあたりわづかに紅き影曳き
  金婚は死後めぐり來む朴(ほほ)の花絕唱のごと蘂そそりたち
  ヴィヨン詩集瀕死の母のたをやかに鋭揚音記號(アクサン・テギユ)の楔形(けつけい)の棘

『綠色硏究』


 『綠色硏究』一九六五(昭和四十年)を語るのに變則的ながら、先づその著者の手による裝幀から愛でたい、と書き出して大いに悔しきことながら、この一册を所持してゐないのだ。つまり二十歲のころに入手した(正確な入手日は分からない)『感幻樂』以前の單行歌集の悉くを所有してゐない。さらに欲しさは彌增す。外凾の黑地に各色を配した章題の漢字レイアウトが絕妙で、まさしくこのデザインが塚本美學の象徴でもあり、歌集レイアウトとしては屈指の出來映えと言つてよい。このころより、なほ一層超絶技巧の名に恥ぢない古典格の作品が頻出し、村上一郞の「『綠色硏究』ノオト」によれば、「私には、塚本の歌を、モダニズムだとか、前衛短歌だとかいう人たちに、塚本の『最高の古典新古今和歌集』からの、(中略)ことばのつなぎに生れる連想の系譜を汲みとってもらいたいと希望する」と云ふことになる。

    *

  固きカラーに擦れし咽喉輪のくれなゐのさらばとは永久(とは)に男のことば
  雨の薊棘こまやかにひかりゐつ愛は創まらむとしてたゆたふに
  睡りの中に壯年(さかり)すぎつつはつなつのひかりは豹のごとわれを嚙む
  わが掌(て)のうちに螢は死して光りをりああ樹樹はその綠に倣ふ
  蚊の卵こころに顯ちてうすあかきベネディクタスのうすいたがらす
  睡れをとめらよ燈黃(たうくわう)の縞曳きて星隕つ おつるまで熟れしかな
  わがいだく寒卵うち赤からばピアノつくりしクリストフォリに
  言葉、靑葉のごとし かたみに潛然と濡れて世界の夕暮れに遇ふ
  わが愛のかたへに立ちて馬の目のこほる紫水晶體よ
  孔雀の屍(し)はこび去られし檻の秋のここに流さざりしわが血あり
  繭ごもる少女のために火の秋のバッハ平均率ピアノ曲集
  わが修羅のかなた曇れる水のうへに紅き頭韻の花ひらく蓮
  ほほゑみに肖てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一臺
  いもうとはつきくさの血につながるときのふ知りたること今朝おぼろ
  一人(いちにん)の刺客を措きてえらぶべき愛なくば 水の底の椿
  靑燕攣(つ)れつつ翔べば夢の世に井戶掘る邑をわれは過ぎしか
  瞋(いか)りこそこの世に遺す花としてたてがみに夜の霜ふれるかな
  秋は身の眞央(まなか)を水の奔りつつ弟切草(おとぎりさう)の黃のけふかぎり

『感幻樂』


 永らく塚本短歌の最高峰を『全歌集』直後の第七歌集『星餐圖』一九七一(昭和四十六年)と踏んできた。成熟と腐亂が綯交ぜに極みを爲し、叙情は内に微熱がごとく籠る。前歌集『感幻樂』を晴とすれば、まさしく表裏なす褻の一册である。久しぶりに讀み返してみて、はたして私の眼は曇つてゐたのであらうか。いまは閒違ひなく『感幻樂』一卷を、中でも「中・近世歌謠群の綠野を彷徨した」(『感幻樂』跋)隆達節によせる初七調組唄風カンタータとの副題をもつ「花曜」四十首と、憑かれたる帝王への頌歌として、後鳥羽院とネロに獻じられた「幻視繪雙六」計六十首のうち、特に前半の「菊花篇」三十首を塚本短歌の最高峰と斷じて惜しまない。

  花曜
    壹の章 むらあやでこもひよこたま
  いざ二人寢む早瀨の砂のさらさらにあとなきこころごころの淺葱
  おおはるかなる沖には雪のふるものを胡椒こぼれしあかときの皿
  雪はまひるの眉かざらむにひとが傘さすならわれも傘をささうよ
  きららきさらぎたれかは斬らむわが武者(むさ)の紺の狩襖(かりあを)はた戀のみち
  つね戀するはそらなる月とあげひばり 柊 ひとでなし 一節切(ひとよぎり)
  雪の上來しあたら長脛さやさやと杉の香はなつなれ好色漢(すきをとこ)
    貮の章 きづかさやよせさにしざひもお
  空蟬のうちに香もなきかなしみの充つるを天にむけし繪ひがさ
  まをとめの鈴蟲飼ふはひる月のひるがほの上(へ)にあるよりあはれ
  空色のかたびらあれは人買ひの買ひそこねたるははのぬけがら
  山どりの紺の風切羽(かぜきり)きみなくばやすらけく風の夜を寢みだれむ
  螢惑星(けいこくせい)を水に隕とせし誰がうたぞわれよりこゑ淸きほととぎす
  馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人戀はば人あやむるこころ
  籠(こ)には眠らふ雉子(きぎす)の卵いつの日かかへらなむ霜月のまぐはひ
  晝、抱擁の腕(かひな)ゆるめよ樹樹の閒ゆあらあらと放鷹樂(はうようがく)湧きくるを

    幻視繪雙六 
     Ⅰ 菊花變 後鳥羽院に寄す
  修羅はつなつの紺 ほととぎすあけぼのを逐ひわれは黃昏を怖れつ
  梔子一白(くちなしいつぱく) 死するをとこの目の二黑(じこく) ことば裂かるるとも肉觸れむ
  水無瀨瑠璃 熊野藍靑(らんじやう) 三碧(さんぺき)のあまれる隱岐に水脈(みを)奔るかな
  愛は終焉(をはり) 辛夷(こぶし)の空を橫裂きに雲雀翔つ世のほかなる時へ
  六白の雪をおもへばかまくらの沖うすずみの波の上の菊
  こころざし風の山査子(さんざし)花荒れて髮刈ればわがつむり新墾(にひばり)
  酢藏風花(すぐらかざはな)にはかにやみし催馬樂(さいばら)のをはりのこゑの死ねとひびきし
  心ほそるばかりに馬は麥食むを到りがたしわが詩歌の奈落



 この『全歌集』については忘れ得ぬふたつの插話(エピソード)がある。『全歌集』の監修校訂は須永朝彥氏が擔當した。漸くに一本が成り、氏曰く「校正には細心の注意を拂つたが、たつた一箇所、誤植が見つかつた」。
 聞けば、處女歌集『水葬物語』卷頭の、ランボーの佛文引用詩の冒頭部分に發音記號(アクサンテギュ)が重複してゐたとか。確かに「……私はありとある祭を、勝利を、劇を創つた……」に相當する「J、ai créé toutes les fête、……」の發音記號が重複してゐる。その時の須永氏の悔しさうな顏付き……。
 もうひとつの插話は詩人吉岡實との出會ひでもあつた。當時、東大安田講堂をめぐる官憲との攻防戰以後、學生運動は徐々に退潮の兆しがあつた。それ以前、私が通つてゐた母校でも、學内の民主化運動に端を發し、やがて産學共同路線粉碎から一氣に政治的スケヂュール鬪爭へと雪崩れ込んで行つた。だが、元よりノン・ポリティカル、政治意識の極めて希薄な非政治少年であつたから、バリケードスト突入からの長期休講は、幸ひなことにわが詩の季節の到來でもあつたのだ。時折しも、思潮社から『田村隆一詩集』を皮切りに「現代詩文庫」の刋行が始まる。續刋は谷川雁、岩田宏、清岡卓行、黒田喜夫、吉本隆明、鮎川信夫、飯島耕一等々。第1卷の『田村隆一詩集』に一九六八年一月一日第一刷の奧付があるが、第11卷の『天沢退二郎詩集』が同年七月一日、『吉岡実詩集』(第14卷)が同九月一日。全卷を所有してゐるわけではないので、若干の異同はあるだらうが、第18卷の『長谷川龍生詩集』は翌一九六九年一月七日の發行となつてゐる。因みに第30卷が『岡田隆彥詩集』で一九七〇年二月一日の發行。驚くべきハイペースで詩の季節が釀成されてゐた。列島に戰後詩・現代詩の旋風が卷起こつたと言つても過言ではない。どれも是も嬉しい限りの内容だが、シリーズ中、わが最高の一書といへば一九七一年刋の第45卷、『加藤郁乎詩集』を措いて他にはない。刋行時の全句集、全詩集でこれでたつたの三百二十圓。ここまで當初より定價は變つてゐない。非政治少年が遲ればせながら詩の季節を迎へてゐた。と同時に、いまも變はらず欲しいものに限りはない。食慾よりも性慾よりも言へば睡眠欲、そしてそれらを遙かに凌駕するかの物神崇拜。先の塚本索引もひとつの引き鐵であつたやも知れぬ。
 御茶ノ水驛の御茶ノ水橋口から明大通りを駿河臺下へ、途中、明治大學を經て右折、山の上(ヒルトップ)ホテルの前の小路を錦華公園へ下ると、その公園の裏手に淸水なんとか堂といふ文具店があつた。二階がなんとも不思議な構造で、室内を廻る圓形のバルコニーを圍んで三部屋の貸閒があつた。その一室があの傳說の漫畫雜誌ガロの發行元、青林堂の編集室であつた。創始者の長井勝一氏も健在で、ある朝「おい、御餅が燒けたよ」と、ご相伴に與つたことも。その隣室がわがアルバイト先の「荒魂書店」。この命名には石川淳のアナキスト群像を描いた長編「荒魂」が寄與してゐるとか、ゐないとか。
 神保町の古書街メインストリートからは大分奧まつた古本屋のアルバイトに、なぜ納まつたかについてはほとんど記憶がない。ただここの御店主についてはよく憶えてゐる。僅か二、三歳年上の店主I氏は、もともと駿河臺下の交差點を渡り切つた正面の三茶書房のいはゆる丁稚上り。二十代前半で獨立、件の店舗を起ち上げたが、當時「平凡パンチ」にも採り上げられたいはば古書店界の革命兒。轉じて後年アイドル寫眞集のブームを先驅けた。常客に發禁本の大家、城市郞氏。たびたびの寄り道で恐縮ながら、この城さんにも忘れ難き思ひ出が。――城さんが當店より高柳重信の『黑彌撒』をお購ひ上げ。この『黑彌撒』は昭和三十一年、楠本憲吉の琅玕洞による出版で、『蕗子』『伯爵領』に續く未刋の『罪囚植民地』を收め、「それまで二行から十数行まで様々に試みられていた多行形式が、ここで空白を含む四行へ収斂された句集」(澤好摩「高柳重信著書解題」『高柳重信読本』所收)としてその後の高柳重信の方向性、方法論を決定づけた重要な句集である。おそらく城さんからの以前よりの依賴か、店主の推薦品か。入手とほぼ同時に城さんの手に渡つた。しばらく店頭(正しくは店内)のガラスケースに收まつてゐたものなれば、早速、店番の閑に飽かせて、とつとと筆寫しやうものを。後日再來の折り、城さんを捕まへて『黑彌撒』の中身について執拗なほどにお尋ねしたところ、まるで鳩が鐵砲玉を喰らつたがごとき顏つき。城さんお歸へりののち、店主より「城さんに本の中身を聞いちや駄目だよ!!」。この意味が判るまでしばらくの時閒と幾許かの古本代を費やした。
 さうさう何を聞きつけてか、ある日突然、中井英夫が現れた。寺山修司が往時の『短歌硏究』第二囘新人賞に應募した「チェホフ祭」のモノローグは實は、ジュリアン・ソレルのそれであつた、と挨拶代はりの取つて置きの逸話を披露。天沢退二郎も中上哲夫も來た。
 話を戾さう。ある晝下がり、吉岡實がやつて來た。勤め先の筑摩書房は神田小川町、晝休みにひよつこり、、、、、と步いて來られた。出版されて閒もなくの『塚本邦雄全歌集』を求めに來たのだ。當店扱ひは、いはゆる新刋特價といふやつで、版元より定價の八掛けで仕入れた新刋を一割引きで販賣。名目は飽くまで古書販賣。察するところ、吉岡さんは著者塚本邦雄よりの獻呈寄贈を當て込んでゐたと思しい。しかしながらいつまで經つても肝心の書物は屆かない。さすがに痺れを切らして當店へと云つた次第か。噂に違はぬダンディぶりで誰かの人物評の、小柄で淺黑く、猛禽類を思はせるギョロ付いた目つき、と書くとまるで惡相となるが、その眼光からは明らかに詩人の慈愛が感じられた。オーダーメイドと思はれる背廣の上下に、やや太めの紺のストライプシャツ。吉岡さんが煙草を所望された。たまたま下の大家の文房具店が、煙草も商つてゐる。喜んで階下へ使ひ走りを買つて出る。銘柄は新生。この嗜好もまさに先の「詩文庫」で、高橋睦郎氏の「吉岡実氏に76の質問」に答えた方向性に合致。――たうたう西脇順三郎にも永田耕衣にも、生涯相見(まみ)えること叶はなかつたが、たつたそれも一度きり、吉岡實とほんの言葉を交はしたことは、大切な思ひ出となつてゐる。
 話はさらに遡るが、塚本書籍とのそもそもの不思議な廻り合ひにも、出遭ひの絕景ならぬ逆さ覗きの絡繰りが潛んでゐたのではと思ふことがある。早稻田古書店街に「文献堂」なる小さな古本屋があり、昔の閒尺にいささか不案内だが、差當り閒口三閒、奧行きもほぼ同樣で、昔時のことながら、冷暖房とて無く、一年を通して通りの扉は開けつ放し。錢湯の番臺よろしくいつも氣の弱さうな亭主が鎭座坐しましてゐる。中央を仕切る棚の右半分は、新左翼系の機關紙、理論書の類ひ。左半分が文系圖書で、僅かながら滅多にお目に掛かれない詩集、歌集が置かれてゐた。なぜか句集の類ひは記憶にない。その棚の一番上の左隅に塚本邦雄歌集『感幻樂』を發見した。「壯年のなみだはみだりがはしきを酢の壜のたてひとすぢのきず」一首揮毫入り。實に見事な細字サインペンによる流麗なる筆跡。ここでもわが未來は、壯年のみだりがはしきなみだを以て封じられてゐる。いかに惡筆の筆者と云へども一瞬目が釘付けとなり溜息が出る。無論その時まで、この一書の存在すら知らなかつたわけで、むしろ先方からわれを發見されたやうなもの。實の不思議はここからで、昭和四十四年九月九日、重陽の節句の日付で刋行された一册の定價は一二〇〇圓。いまでも裏の見返しに當時の鉛筆書きの値付けが殘つてゐるが、賣價は一八〇〇圓。旣に算術的魔境に入り込んでゐたものか、これを定價二〇〇〇圓の一割引きと單純に勘違ひしてしまつたのだ。實際は定價の五割增し。小學生でも分からうものを、しかしこの誤認がなければその後、限定本やごく少數の刋行物を除いて、市販の塚本本の大半を所有する端緖とはならなかつた。この倒錯的邂逅に感謝と云つたところで今囘は幕(ちよん)。

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