「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評200回 平岡直子について カリフォルニア檸檬

2024-06-03 13:36:12 | 短歌時評

  平岡直子は第一歌集『みじかい髪も長い髪も炎』(2021年本阿弥書店)のとき、あとがきで「短歌はふたたびの夢の時代に入った」と提言した。
 ずいぶん大仰な言い張りである。
 しかし、歌集『みじかい髪も長い髪も炎』で読める短歌群には、そう言い切れるほどの力量があるのも事実だろう。あとがきの文言におけるテーゼの強さに、多くの一首が強度で負けていない。しかし歌集『みじかい髪も長い髪も炎』で読める短歌群が〈夢の時代〉を体現しているのかは、別問題である。むしろ〈夢の時代〉に入った、その入口や、きっかけとしての機能だとも仮定できる。
 それにしても「短歌は」という主語は、あまりにも大きい。
 いわゆる、デカ主語である。
 とはいえ〈私〉は歌集刊行以後に、平岡自身の短歌が「夢の時代」の体現を深化させていくことを期待した。つまり〈私〉にとって歌集『みじかい髪も長い髪も炎』によって「夢の時代」については到来しなかった。と言わざるを得ないが、そもそも「夢の時代」を歓迎するかどうかのスタンスも不明ではあり、しかし、歌集『みじかい髪も長い髪も炎』によって「夢の時代」を得た読者もいるだろう。と、予想はできる。
 あるいは。
 現代短歌社が主催する現代短歌社賞の選考委員に選出された告知(2023年)から、その立場で「夢の時代」を反映した応募作をプッシュする可能性を思った。
 また、我妻俊樹との共著『起きられない朝のための短歌入門』(2023年)でも、タイトルからの彷彿とは裏腹に「夢の時代」に関する核心的な言説は特に見受けられず、紀伊國屋書店新宿店で配布された購入特典冊子のタイトルは「起きろ」であった。他にも「歌壇」誌での時評、各誌で散文の機会は頻繁にあり、現在は「短歌研究」誌での時評も担当している。
 是非は別としても、ことごとくで「夢の時代」についての具体的な開示はスルーされているように見える。そもそも自己言及するものではないのかもしれないし、あとがき以後に平岡自身の考えが変化している可能性もあるし、あるいは、まだ「夢の時代」までの準備期間として捉えている可能性もある。あとがきを作成するタイミングで「夢の時代」を発見した、とは思えないけれど。
 確かに、何か成果が出るまでには時間も費用もかかる。
 成果がでない場合も多い。報われたい、のような感情の結実が目標にならないほうがいいとは思う。別に、成果が全てではない。だとしても、少なくとも近ごろの平岡直子は(これまでよりも、明確に)何かしらの成果(に準ずるもの)への到達を求めて活動し始めているように見える。
 また、ここでは「眠っている間に見る夢」のニュアンスで解釈していたが、同時に「実現したい夢」や「夢中」のニュアンスも存在することは指摘しておきたい。
平岡の真意が、どのようなニュアンスかは分からない。

ねえ、それは、「どっちの夢?」とたずねたら、どっちも、と眩しそうに、好きだ(平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』から「みじかい髪も長い髪も炎」)

 そもそものところ「夢の時代」というのが判然としない。しかも「ふたたびの」である。ということは、すでに一度目の「夢の時代」があったらしい。それは、いつの何を指しているのか。

 ちなみに、穂村弘のベスト版歌集『ラインマーカーズ』(2022年)にある瀬戸夏子の解説は「ふたたびの、聖書」だ。こちらは「以後の〈きらめき〉」と地続きの発想にあるかと思うし、平岡直子のと全くの無関係だとも思わないが。

 ふたたびの?


   ▽

 人生に対して最適化された文体は、人生との接続を制限されると生命線が消えてしまう。短歌は更新を拒んで化石になるか、今までに築いてきた財産のうちの大部分を失うか、二者択一の危機に晒されているともいえる。
 大森はこのところ常にこの問題と格闘しているようにみえる。
(中略)
 大森は今のところ、人生についての問題を「心」の再発見という一本槍で突破しようとしているように思う。心をいわば準身体に昇格させることで、社会性という服を着ない汎用性のあるフォルムの人間を見出しているように感じられるのだ。
 興味深いのは、大森のこういった試みにおいて「心」はむしろ公共性が発生する点である。(平岡直子「大森静佳について」(『歌壇 2021年7月』))

 これは、大森静佳の第三歌集『ヘクタール』(2022年)刊行以前のテキストからの引用になる。
 歌集『ヘクタール』については、平岡の見立てを基に検討できる余地はあるかとは思う。思うとして、それは改めて別のタイミングでしたいと思うとして。
 いわゆる「心と身体の不一致」が前提にあるのだとすると、ずいぶん近代的な文学的関心の一つだ。しかし、本旨は別だろう。
 あること・あったことに対する関心というよりは、これからの(あくまでも平岡直子の活動軸のだとしても)のニュアンスがある。それにしても「心をいわば準身体に昇格させる」については、そもそも心と身体に格差があるという発想に基づいており、なおかつ身体よりも心が低く低く見積もられている。その真意は、読み取り切れない。(文学における「心」についての現状は、斉藤斎藤の「本気で心を殺したいなら」歌壇2020年12月号が末だ、最新を論じた参照すべきテキストの一つだろう)
 平岡直子の問題意識として想起するテキストに、下記がある。

「そもそも、私は『人はモノである』と思っていて」という言葉を聞いた。この日は「川柳を見つけてー『ふりょの星』『馬場にオムライス』合同批評会ー」というイベントにパネリストとして参加した。二冊の川柳句集の合同批評会で、それぞれの作者はともに二十代の川柳作家である。「人はモノである」とは、『ふりょの星』のほうの作者である暮田真名が、批評会での著者挨拶に代えてイベント終了後にインターネット上に発表した音声コンテンツのなかでの発言である。批評会で自身の作品が「言葉が冒涜的だ」と評されたことを受け、冒涜的な表現をするのは自分のなかに「人はモノ」という考えがあるからだ、と、必然性を説明する。世の中の風潮としては、「人はモノではない」「女はモノではない」ことをむしろ強調しなければいけない流れがあり、また、文学というのも「人はモノではない」ことの輝きを言うためのものかもしれない、それでも、その輝きは自分のものではなく、その輝きに追従することは自分を傷つけるーー暮田が語るそういった感覚はわたしにはよくわかるし、わたしもまた、「人はモノ」だと思っているとも思う。(平岡直子「このまま消えていきたくないんだよ」(『短歌研究 2024年3月号』))

 実際のところ、このテキストを読んだとき「いいぞ!いいぞ!」って〈私〉の心は大よろこびした。その喜びは、あくまで〈私〉の、短歌の読み書きの際の価値観や志向として非常に好都合である。という事情が過多なので、それはそうとして……くらいで、ここでは話を進めたい。
 暮田真名の真意も、同時に観測・検討が重要ではある。が、この回の時評には平岡の考えが、というべきか感情のような部分が、わりと説明されていると思う。

 また、先月末(4月27日)に開催された榊原紘歌集『悪友』『koro』批評会「悪友たちの心音」にてパネリストとして発話した平岡直子は、こ「私は『人はモノである』と思っていて……わたしもまた、「人はモノ」だと思っているとも思う」の発想を基点にしつつ、榊原紘の短歌にアプローチしようと試みた。同時に、自説の確認や展開を試みた。そういう現場として、見ることができた。
 おそらく今後も、本件に関する(平岡直子なりの)到達値に向けて、到達度を(平岡直子は)更に高めていくことだろう。

 近い関心があるだろう、と思うところで下記も並べておきたい。

 三十一年前の刊行当初、時代の空気が〈女には何をしたっていいんだ〉という態度を許容していたこと、意図的な誇張表現やアイロニーなど、レトリックとして読み取られる領域が今より広かったことの二点において、この歌は二重に守られていたのだと思う。現実に〈女には何をしたっていい〉わけはもちろんないけれど、短歌を含むなんらかの言語表現に〈女には何をしたっていいんだ〉と書いてはいけない……わけはあるのだろうか?(平岡直子「「恋の歌」という装置」(『短歌研究 2021年8月号』))


   ▽

 しかし、平岡直子は「モノ」とはいえトロフィーやアクセサリーのように見なしているわけではないと思う。あるいは道具のような、使用者にとっての利便性に関心があるわけでもない。もちろん、コトとの区別も為されたいるだろう。
 いったん。
 対象を、人のように扱う/モノのように扱う という差のところから、のような気はしつつ。
 この「モノ」という語のニュアンスは……?

 人のなかみが何であるかということより、人が何のなかみであるかということのほうがずっと優先されている。まったくそのほうが大事だと思う。
(中略)
 短歌は汎用性のある着ぐるみだ。短歌は汎用性のある着ぐるみではない。一人として同じ内面を持つ人間はいないとみなすのも、全員が同じ内面を持っているとみなすのも、ほとんど同じことではないか。(平岡直子「パーソナルスペース」(『歌壇 2022年2月号』))

 それにしても「一人として同じ内面を持つ人間はいないとみなすのも、全員が同じ内面を持っているとみなすのも、ほとんど同じことではないか」にある二者択一の過程は、そもそも極論すぎる。なんだけど、それぞれの価値観が、どのように別なのかの確認は都度ごとにできたい。が、どちらの価値観に偏って享受するかによることで意味合いが変わるという事実は共通認識としたい。と〈私〉は思う。

 また「人のなかみが何であるかということより、人が何のなかみであるかということのほうがずっと優先されている」とは、永井祐の短歌に対する言及であるが、例えば安直に
 内:私的/外:公的
 という見立ては可能であり(だからと言って功罪がない、というわけではないが)その前提において、下記の「永井さんをこっちにとっちゃおう」が読める。

 葛原妙子と森岡貞香が「斎藤茂吉をこっちにとっちゃおう」と談合していたというエピソードが好きで、わたしはこのごろ「永井さんをこっちにとっちゃおう」とだれもいない家のなかで虚空に向かって話している。(平岡直子「パーソナルスペース」(『歌壇 2022年2月号』))

 読めるときの、平岡直子の意図だろうとして分かる部分と、同時に、些か性悪さがあるというか都合が良すぎるんじゃないか? という懸念がある。
 あるのだけれど、いったん冷静になると。
 冷静に〈葛原妙子〉と〈森岡貞香〉が〈斎藤茂吉〉の三つ巴を考えたとき、なんというか〈葛原妙子〉と〈森岡貞香〉は同じ側(こっち)の近さはあるかもしれないが、決して同じ位置ではないのでは?
 もしかしたら〈平岡直子〉と〈虚空〉と〈永井祐〉の三つ巴も合わせて、考え直してみる必要があるかもしれない。

 「葛原妙子と森岡貞香が「斎藤茂吉をこっちにとっちゃおう」と談合していたというエピソード」ってのは、どういうときの、どういう動機なんだろう?
 意図は〈葛原妙子〉と〈森岡貞香〉で、それぞれ別にあるかもしれない。

 短歌特集が組まれた「ダビンチ2023年11月号」のなかで、平岡直子は、
私、読み間違えが好きなんですよ。街中の看板を見ているときや本を読んでいるときなどに、思わぬ読みが目に飛び込んでくると嬉しい。どーなつがどうぶつに見えたりするんですけど、それは自分の無意識が、この文脈にはどーなつではなく、どうぶつがふさわしいはずだという判断をしていると思うんです。そうした自分の読み間違えを正当化することが詩の表現であり、無根拠に何かを信じるということ。自分がどうして短歌を作っているのか、ということについて、理由付けや説明はたくさんできるけれど、突き詰めていくと自分と短歌のつながりを無根拠に信じているんだと思うんです」
と答えている。
 〈無意識〉や〈無根拠〉は、ともかくとして。
 ここで平岡直子は、自身の見方が〈副〉だと認めてはいないだろうか? 認めた上での正当化だし、その正当化に価値(ニュアンス)があると期待している。
 平岡直子は、正確には「どーなつ」であると知りながら(その「どーなつ」である意味も分かりながら)しかし「どうぶつ」だと言い張る。
 ここには、
 公的 / 私的
 の別がある。
 ただ「どうぶつ」と表明するだけでは、通用しないだろう。全員が「どーなつ」だと分かっているなかで、その上で「どうぶつ」と言う。その動機はケースバイケースだろうが、それは茶番に近いとも思う。
 (ところで〈私〉は、茶番が大好き/一方「やってる感」は、できるだけ避けていただきたいが)

 平岡直子の解答値のようなところは、既に開示されている。
 「歌壇2024年4月号」での特集「作歌意図を超えた歌」にある下記の発想だ。

  くわしくは書き込んでいないはずの作品の背景をどういうわけか歌から取り出されて驚いたことがあるし、まったく予想だにしなかった鮮やかな誤読をされてうれしかったことがある。何回もある。短歌をつくったり発表したりするのはそんなことだらけだと思う。意図が正確に伝わることを重視するタイプと、思わぬ誤解をされることによろこびを感じるタイプに歌人を二分するならわたしは完全に後者で、心のなかには「うれしかった誤読」のコレクションがある。(平岡直子「目隠し」(「歌壇2024年4月号」))

意図が正確に伝わることを重視するタイプと、思わぬ誤解をされることによろこびを感じるタイプに歌人を二分する」とき、後者だと自認する平岡直子は、同時に「主/副」や「正/誤」や「公/私」あるいは「表/裏」のような区別ができうる。
 どちらにしても「意図がある」前提の二択にはなっているのだが、後者のタイプのとき、いわゆる〈無意識〉や〈無根拠〉に頼る場合と最大限に精緻なコントロールした(意図が正確に伝わるように作歌した)上で思わぬ誤読を見出されたい場合があると〈私〉は思う。
 要するに、後者のタイプの歌人だと自認する平岡直子だが、きちんと前者のタイプを経由した上での後者だと思う。
 また〈誤読〉に対する期待値についても(実際に「目隠し」でも功罪は書かれているが)その出力についても、まだ過渡期だと思う。

白猫を白梅の樹に変えるにはすごくたくさん枝が要るのよ(『外出 二号』(2019年)から平岡直子「鏡の国の梅子」)

 注意しなければならないのは「誤」ができるのは「正」があるからで、さらに「正」が共有されているからである。例示を使用し続けるが、あくまでも「どーなつ」であるからこその「どうぶつ」なのである。
 自身が「誤」をするためには「正」が必要になる。
(公/私の場合は特に、既に「大きな物語」が崩壊し、成立が難しくなって久しい昨今において、非常に難易度が上がっている)

 危なっかしく語のスライドをしてしまうが、先ほどの「永井さんをこっちにとっちゃおう」が、永井祐に「公」側を担ってもらい自身は「私」側したい……のようにも見えて仕方がない。しかし、得意領域不得意領域はあるだろうが、平岡直子は実際のところ〈一人二役〉している。


   ▽

 なんだか話は変わってしまったかのように思えるが、今、改めて「夢の時代」とは……?

 

   △

 余談になるが、いつからか年末のTwitter(現X)には「今年の自選5首」という自主企画が発生する。
 2023年末、平岡直子は自身のTwitterで「ことし発表した歌を全放出するから誰かが勝手にそこから五首選んでくれる」の募集した。

https://x.com/tricot75/status/1741465555851202936?s=46&t=sZkGej0tbbPDAuZjOdFHrg


その際に〈私〉がした五首選を載せておくので、もし興味があれば、ご確認ください。

https://x.com/y_aao/status/1742221471974625441?s=46&t=sZkGej0tbbPDAuZjOdFHrg


 更に「完全に余談な後日談」になるが。
 幾分とアルコールも回った三次会(一次会には、歌会をカウントする)の場で、この他選五首について伊舎堂仁に反応を求めて、伊舎堂仁を困らせた。
 好感の同意を前提に反応を求めていたかとも思う。だる絡みだ。
 伊舎堂仁と〈カリフォルニア檸檬〉は、別の(もちろん共通・共有する部分もあるのだが、あるからこそ)相反するような偏り方の短歌的な価値観や期待値を持っていると思っているから、それは困るのも当然だったろう。

 

   △

次回は 9/14 に公開予定です。

 


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