「詩客」短歌時評

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短歌時評202回 現代の「嘱目詠」とは 桑原 憂太郎

2024-08-10 13:28:07 | 短歌時評

 どういうわけか最近はとんと聞かなくなったけど、ちょっと前まで短歌の世界には、「嘱目詠しょくもくえい」と呼ばれるジャンルがあった。
 嘱目とは、目に触れるということ。すなわち、たまたま目にしたモノやコトを、そのまま詠ってみました、といった感じの体裁をとっている作品が「嘱目詠」。「たまたま目にした」というのが、ポイントいうか大事なところで、そんな偶然性みたいなものを、読者は鑑賞する、ということになる。
 三省堂「現代短歌大事典」には、岡井隆が項をおこしていて、そこでは、斎藤茂吉の次の二首を「嘱目詠」の例歌としてあげている。

家いでてわれはしとき渋谷川に卵のからがながれ居にけり  『ともしび』

わが色欲いまだ微かに残るころ渋谷の駅にさしかかりけり   『つきかげ』

 一首目は、家を出て渋谷川まで歩いて来たら、卵の殻がながれてきたのを、たまたま目にした、といったところ。
 二首目は、自分には色欲がまだほんの少し残っているなあ、なんて考えていたら、たまたま渋谷駅までやってきた、という感じか。渋谷駅に行くのが目的だったのかどうかは分からない。考えごとをして、ふと見ると、そこは渋谷駅だった、という体裁をとるわけだ。

 「短歌研究」7月号は、今年の「短歌研究新人賞」発表号。受賞作は工藤吹「コミカル」30首。
 筆者は、この受賞作を読んで、ああ、これは現代の「嘱目詠」だ、と思った。

 一連は、こんな作品からはじまる。

その昼の中に眩しい一室の、生活の、起き抜けの風邪だった
窓に背が向くように置いてある本棚の本の色味を気に入っている
連載を作者で追うタイプ とはいえ似たような絵柄の女の子
背表紙が長い絵になるコミックスの三巻からは面白いから
目が合うと段々部屋が散らかっていたことに焦点が合ってくる

 一首目。連作のはじまりの初句が「その」から始まるのが、なかなか楽しい。これから始まるお話は、<わたし>の世界のことだ、<わたし>以外の人は、「その昼」って言われたって、いつの昼かはわからないだろうけど、<わたし>にとって、「その昼」というのは、あの日の昼なんですよ、といったところか。物語に誘うというか、とあるお話の始まりというか、昔話でいうところの「今は昔」とか「むかしむかしあるところに~」の口上の役割を担っているのが「その昼」だ。
 そんな初句から始まる一首目は、口語調のくずし方からして、できるだけ人が話すような口調を韻文にあてはめようとする意図が見える。もっと細かく分析するなら、これから30首連作として、お話を進める<語り手>が、そのお話を「談話」として成立させるために、意図的な省略が施してある、ということがいえよう。三句四句は、「一室の(なかに私はいてさ)、(そこで一日の)生活の(はじまりをしようかと思ったんだけどさ)」あたりが省略されていて、そんな感じで大胆な省略が施されていることで、「談話」っぽくなっているのだ。
 こうした、<語り手>の語り口が、この一連の特徴だ。
 この特徴は、たとえば、三首目の「とはいえ」の口語的な接続などがそうだ。この接続、「とはいえ」の意味を厳密にとらえるなら、接続としては危うい感じもするが、そんな危うさも口語的な処理をするなら韻文としては許容されるということなのだろう。多分、散文というか小説のなかで使ったら、日本語としてアウトだと思う。

 さて、そんな<わたし>の風邪をひいてしまった日常が、連作を読み進むことで展開していく。口語体で、こんなことが<わたし>の身にあったんだよね、ということが<語り手>によって語られていくのである。

そのまま寝転んでいるうちに窓からの陽射しが天井に差し掛かる
遠泳のような余裕をたずさせてポカリのようなものを買い行く 
ときおり私を追い越す車を目で追えば身体が僅かに風を受く
その川を眺めるうちに少し経つ今日の陽射しはつよいと思う 
友達と遊んだときの公園がここからは遠目に見えてくる
看板が増えれば町は賑わいのさなか微かに歩調を上げる
秋とはいえ夏が兆して週末はバスが増えている大通り

 そうして、風邪をひいていまいち調子の悪い<わたし>は、そのまま寝転んで、ぼんやりと陽射しが天井に差し掛かるのを眺めていた。風邪をひいている、その体調というか身体性を作品にせず、見ているものを描写していく、というのが、写実的といえるだろう。写実的、といえば、病室で藤の花ぶさを詠んだ正岡子規のこの作品が思い浮かぶ。

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり 正岡子規『竹乃里歌』


 この子規の作品と比べて、現代の風邪をひいた写実作品の場合は、時間の経過がぼんやりと流れているのがわかるかと思う。
 つまり、子規の作品のように、詠うべき対象をしっかりと観察して、描写しているのではない。そうじゃあなく、気がついたら陽射しが天井に差し掛かっているなあ、という体裁で叙述する。これが、現代の写実の特徴だ。描写の正確性とか的確性といったことで一回性のリアリティをだそうというのではなく、時間が伸びきっているところを詠う、というのが、近代を脱した現代短歌のリアリティ、とでもいえようか。
 それはともかく、そんな感じで<わたし>は寝ころんでいたのだが、「ポカリのようなもの」を買いに行こうと出かける。
 ここから先が、「嘱目詠」の連続ということになる。
 三首目。たまたま目にした、追い越す車を目で追ったら、体に風を感じた、という、ただそれだけのことを作品とする。対象をじっくり観察するのではなく、「たまたま目にした」というのが、嘱目の妙味だ。
 さて、そんな偶然性を現代の短歌では、どうやって表現したらいいだろう。
 というと、やはり、定型が邪魔になるのだと思う。
 口語調を定型に当て嵌めると、どうしても、作為的になってしまうのだ。つまり、定型では「たまたま目にした」感じがしないのだ。
 もちろん、創作をしている以上、すべては<作者>が作り上げたものに違いないのだが、偶然性を表現するのに、口語定型はどうにもしっくりこないのだろう。
 だから、ここでは、定型を忌避する。初句は「ときおり私を」の8音から入って、韻律を思いっきり緩くして、散文的にする。2句も8音、だけど3句は5音にして、韻詩としての体裁をつくる。下句は、7音5音にして、破調にする。しかし、頭韻をK音で並べて、なんとか韻詩としての体裁を保つ、という、なかなか凝ったつくりをしている。
 いやあ、たまたま目にしたものを即興的に詠んでみたんですよー的な体裁をとりながら、韻詩として成立するように何気ない工夫を施している、という感じか。
 そういうわけで、現代の「嘱目詠」は口語で叙述する以上、近代短歌とはまた違う工夫が必要となっているのである。

 ところで、「嘱目詠」というのは、ただ目にしたものを叙述する体裁をとるジャンルだということは先に述べたけど、すぐれた「嘱目詠」は、一首のなかに展開がある。
 先にあげた、茂吉の2首でいうと、「歩いていたら、川に卵の殻があった」とか「考え事をしていたら、駅がみえた」とかという展開だ。
「犬も歩けば棒にあたる」ならぬ「人も歩けば棒にあたる」。すなわち、「~ならば、~だった」という展開である。
 こうやって一首を構成するのが、作品を成功に導く歌作のセオリーといえよう。
 この展開が、この工藤の一連には、見事に表されている。
 一首目なら「寝ころんでいれば、陽射しが天井にあたる」だし、三首目なら「追い越す車を目で追えば、身体に風をうけた」だ。「嘱目詠」のセオリー通りの作品といえよう。
 けれど、歌の内容としてはどうか。というと、たいして面白いわけではない。寝ころんでたら天井に陽差しがあたる、なんて平凡だし、車を目で追っていたら体に風を受けた、なんてのもそうだ。
 もし、この展開に意外性とか広がりとかがあれば、作品としては大いにすぐれているという評価になろうし、現に、先の茂吉の2首はそうなっていよう。川に卵の殻があったというのは結構な意外性だし、考え事をしていたら渋谷駅に差しかかったというのも、唐突な感じがして一首に広がりが感じられる。
 そうした意外性とか広がりを作品に求めないのも現代のリアリティなんだと思う。
 もう現代のこの世の中は、<わたし>の身の回りに、意外なことなんて起こりようもないし、そんなことが日常世界で起こったら、そもそも非日常の世界になってしまって、日常を描く連作としては破綻してしまう。あるいは、自分の風邪をひいたときの身体感覚とか、あれやこれや考えていることだって、他者とはそれほど変わることなんてないから、ことさら叙述することもない。別段、意外性はない。ということになる。
 では、意外性や広がりとは違うやり方で、それなりの作品として成立させるためには、どうするか。というと、これは、短歌構文をズラすなどの構文の変化によって、意外性を持たせる、という方略をとっている、といえる。
 つまり、日本語としてちょっとおかしい、意外な表現、意外な叙述、意外な描写、をすることによって、ちょっとした違和を作品にかもすのである。これ、あまり露骨にやると日本語として破綻して、ナンセンスというか古典的モダニズム(古典的な現代性)になってしまう。そうではなく、ちょっとした違和、というのが、ポイントだ。
 四首目なら、「少し経つ」が構文として変だろう。「少し経った」のタ形か、「経っている」、あるいは、「経っていた」、あたりが妥当であろう。そんなちょっとした構文のおかしさ、違和によって、何となく受ける居心地の悪さみたいなところで、一首の意外性をかもしている、と理解できよう。
 五首目。「友達と遊んだときの公園が(歩いていくと)見えてくる」に、「ここからは」が挿入されて、日本語の構文としておかしくなっている。「ここからは、見える」であれば正しいけど、挿入されたことで「ここからは、見えてくる」という、構文としては誤った接続となって、おかしくなっているのだ。
 六首目。「看板が増えれば町は賑わいのさなか」は、構文として成立しない。「看板が増えると」あたりの接続が正しいが、そうなると、意外性はなくなる。それから、「歩調を上げる」はコロケーションのずらし。「歩調を強める」あたりが正しいコロケーションだろう。
 七首目。「週末はバスが増えている大通り」の構文も危うい。「週末に」、あるいは、「週末には」が正しいだろう。
 というように、たまたま目にしたものを即興的に叙述してみました、的な体裁をとりながらも、ちょっとした違和を読者にもたせるために、構文をずらしていることがわかる。これは、散文でやったらアウト。日本語として成立しない。けど、短歌のような韻文であれば許容される、というのが現代口語短歌なのだ。
 そして、この連作も、そうした韻文の力を利用するために、定型や韻律を崩しながらも、ギリギリのところで韻文としての形をとっている、ということがいえ、まさしく、現代口語短歌作品にふさわしい連作、ということがいえるのである。

 さて、ポカリのようなものを買いに出かけた<わたし>も、買い物という目的を果たして、家に帰ることになる。
 最後の5首を掲出しよう。

どこにでも光は届くものだけど秋には乾ききる用水路
引っ越して来た頃ここは、晴天のキャッチボールにも見慣れたら
風邪なのに絆創膏も買っている 暮らしは上々に続くもの
銀杏並木が風を通してゆくゆくはここに団地が建つのだろうね
背表紙が長い絵になるコミックスみたいに広い町を歩くよ

 やはり、一首目、二首目、四首目の叙述あたりは、嘱目といえると思う。
 とくに二首目や四首目の「ここ」というダイクシスは、まさに今、<わたし>が目にしている、という感じを出すためのものだ。

 こんな感じで、現代の「嘱目詠」は、たまたま目にした偶然性を、いかに偶然性のまま、韻文におさめるか、ということを構文の意外性であらわしている、ということがいえるのである。
 偶然を偶然として成立させるにも、さまざまに作為を施しているものなのだ。


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