「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 生活を作品にするということ 望月 遊馬

2015-09-26 17:12:43 | 短歌時評
 今回、短歌時評をさせていただくということで、佐藤羽美氏の『ここは夏月夏曜日』という歌集をとりあげたいのだが、それに先立って、まずはふれておきたい作品がある。それが元山舞氏の作品だ。
 元山舞氏が世に問うた第一詩集である『青い空の下で』は、学校の記憶が鮮烈に詠われた詩集である。そのなかの一篇「今日」という作品を引用してみよう。

  今日              元山舞 


 暖かい春の陽射しをうけながら
 物静かな体育館に 先生の声が響く。

 今日はこれから 友達と遊ぶ予定
 公園に行って 海を眺めて
 何をしようかなぁ・・・

 ぼぉっとそんなことばかり考えていられるのは
 少しの間。

 非常口のドアは開けっ放し

 空とグラウンドは いつもより無表情になって

 規則正しく並んだ先生も
 きっと心の中は おかしいほど乱れてらっしゃるんだろう

 見渡して 紺色の海の中

 ああ・・・私も水なんだなぁ。

 時計をちらちら気にしながら かごの中での背比べ

 潮のにおいを持ってやってくる風は まだ遠いけど
 かすかに感じる夏の予感


 おかしいな 今 春になったばかりなのに
 

 この詩は現在リアルタイムの学生でなければ書けないのではないかと錯覚してしまう(いや、その錯覚こそが醍醐味でもあるのかもしれない。)のだが、確かにこのとき元山舞氏は十代前半で、もちろん年齢相応の明るさや広さがこの作品から感じ取られる。
 十代の人が十代の生活を詩にする。それはまっとうな感覚だ。一方で、かつて十代だった、もう十代ではない人が、十代のころの学生生活を思いだして詩にする。これもまっとうなのではないだろうか。元山舞氏の作品を読みつつ一方ではそのようなことを思った。(学生時代の記憶を述懐する作品。それはある種、懐古趣味とも言えるけれども、懐古と言い得るほどには作者は老いてはおらず、むしろ若々しく瑞々しい感覚によって切り取られる作品は、それそのものが美質と言えよう。)
 そのような感想を抱きつつ読んだ歌集が佐藤羽美氏の『ここは夏月夏曜日』のなかの表題の連作である。
 この連作は、学校がテーマとなっており、小学校のことがあれば、大学のこともあるが、少なくとも学校生活をしていたころの記憶が主題であることは間違いない。
 連作は、次の一首からはじまる。

 バス停で夕方からの霧雨はぼやんと終わり西瓜の匂い

 ここでは、学校生活のことは何一つ語られていないのだが、私の脳裏ではバスを利用して通学している学生(高校生かな? )が思い起こされて、ついでに「西瓜の匂い」というところに雨上がりのえもいわれぬ清涼感、雲間から射す太陽の光にあらわれる青春の触感などを感受してしまう。

 すぼめたる傘の骨から滴りぬ学校指定のザックへと 夜気

 この作品も、「雨」に関わるテーマだ。「夜気」という触感は、「西瓜の匂い」とおなじように感覚的に「天気」そのものを傍受してしまう。ここでは、はじめて「学校指定」と特定することにより学生生活を暗示しているのだが、次の作品、

 棺桶の中にいるらし現国のキヨ先生は白い靄ごと

 という一首によって、どうやら国語の先生が亡くなってしまい、霊体(?)となったキヨ先生をユーモラスに哀切を以って描いているところが特徴的だ。
このキヨ先生は人望のある先生だということをうかがわせる。というのも、次の一首、

 枝と葉を揺さぶり合って前列の女子生徒らはむんむんと泣く

 この一首からは、女子生徒が肩を震わせて泣く様子を、枝と葉の揺さぶりにたとえて表現している、いわば、むせび泣いているようすがどこか生々しい。

 葉桜がごわつく頃か先生の深くで水が零れ出たのは

 この美しい一首は、忘れがたい。先述の歌では「靄」であったキヨ先生だが、ここでは「水」として表現されている。

 千億の生徒の指紋を受け取って体育倉庫で眠る跳び箱

 場面が切りかわり、体育倉庫の描写となるのだが、この「受け取る」や「運ぶ」といった移動を連想させる書き方は、物質そのものを相対化させることにより、「見つめる視線」を浮き彫りにさせる。
 最後に、

 なにもかも蒸発させてこの夏は順番どおりに剥がれてゆけり

 と結ばれて、連作は終わるのだが、「見つめる視線」が遠ざかったり近づいたりするところ、それは経年による経験がさせるものでもあると思うが、それこそが、かつて十代だった、もう十代ではない人が、十代のころの学生生活を思いだして作品にすることの意味のひとつなのではないかと思ったりもするのだ。

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