「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 工藤玲音『水中で口笛』の調べ 小山桜子

2024-06-17 01:00:30 | 短歌時評

 わが師堀田季何が以前「俳句は切れ、短歌は調べ」と言っていた記憶がある。前者はすっと挿す簪、後者は流れるリボンのようなイメージか。その言葉を導とし、今回は工藤玲音『水中で口笛』(2021年左右社)を鑑賞する。
 思うに、短歌の調べには二つの意味がある。一つ目は文字通り韻律の心地よさ、うつくしさ。もう一つは内容における情緒の強弱である。
 まずは、音読する事が心地よく感じられる、韻律のうつくしい歌を挙げたい。

噛めるひかり啜れるひかり飲めるひかり祈りのように盛岡冷麵

 ひかりのリフレイン。ら行の乱反射。声に出して舌を噛まずに最後までなめらかに読めた時には、眩しくて気持ちよくて羨ましくて、もうほとんど盛岡冷麺に恋しているような恍惚に陥る。
 他にも、歌集には以下のように押韻が巧みで音読が心地よい歌がいくつも収められている。

運命を運命にするはつなつのやわらかい鼻つまんで起こす
うどん茹でる わたしを褒めるひとびとを哀れに思う夕暮れもある
はやく、って言おうとひらく口に花飛び込んできて言葉はあぶく
わたしのためのわたしがきみにふりむいていずれは風に朽ちるくちびる

 ちなみに押韻とは異なるが、個人的に何度も音に出して読みたくなる歌が以下である。

杏露酒と発声すれば美しい鳥呼ぶみたい おいでシンルチュ

 さて、次は内容における調べのうつくしさを味わってみたい。
 俳句では切れが大切な要素である。俳句の切れはそれだけでエッジを効かせる事ができるし、時には別空間にアクセスする切符のような役割をなし、句に広がりを持たせてくれる。
 しかし、短歌の場合、切れがない事が流れのうつくしさを生み、切れがない事が武器になる場合が多いのではないかと思う。ただし切れがないという事はどこにもアクセントがないという意味ではない。歌である以上、情緒のクライマックスが必ずある。

ゴミ袋の中にぎっしり詰められてイチョウはついに光源になる
眠る人のあまりに自由なそのかたちを誰も知らない部首だと思う 

 以上の歌はどちらも、韻律というよりはその内容によって調べのうつくしさを生み出している。切れのない流れるような一文の中で、結句に向けてのクレッシェンドに心が震える。

ATMから大小の貝殻がじゃらじゃらと出てきて困りたい

 こちらは大小の貝殻がじゃらじゃらじゃらじゃら出てくる事で真っすぐクレッシェンドをかけ、結句の「困りたい」で読み手予想を外してくるあざとさが愛しい。
 反対に、いきなりフォルテで始まる場合もある。

心臓から心臓が生まれるような祭りのど真ん中を歩いて

 こちらは「心臓から心臓が生まれる」という力強い措辞、そして「祭り」と「ど真ん中」という言葉が力強く響き合う。祭りの鼓動が心音のようにどくどく鳴り渡るのを聞くような心地すらする。しかしこの歌の妙は、三十一音をただ強いまま押し切るのではなく、最後は「歩いて」と言いさす事で肺いっぱいの空気を抜いてくれる絶妙なバランス感覚なのではないか。
 短歌が流れるリボンという喩えは上手いとは言えないが、あえてそれに準えるならどんなリボンでも末端の処理はうつくしくなければならない。古来より続く和歌の披講も、現代の競技かるたの読みも、言葉尻の音の処理のうつくしさに私は惹かれる。

 『水中で口笛』に収められた数々の歌の調べを味わった締めくくりとして、歌集の冒頭を飾る第一首目に戻ってみたい。調べという点である意味で異質であり、実に考えさせられる歌なのである。

水中では懺悔も口笛もあぶく やまめのようにきみはふりむく

 「あぶく」、「ふりむく」という押韻の心地よさが確かに読者を安心させる。しかしこの歌は単なる韻律の歌ではない。この歌に詠まれているのはあぶくであり、それは音にならない音、調べにならない調べであるという不思議な二律背反が、「調べ調べ」と意気込んでいる私を鮮やかに欺く。懺悔は、面と向かって言えない。水中に潜り、「きみ」の背中に向けて届く事のない無音をささめくしかないのである。
 重たい懺悔も水中では浮力を得て、かろやかな口笛と見分けのつかないあぶくとなる。
 「」「」「」「」「よ」「」「」「」「」「」「」「」「」「」。
 上句と違って、わざわざひらがなで表記された下句の一音一音はあぶくだ。白い音は水色の視界にとちとちとはじけて消えてしまう。
この歌は、音にならない音という新しい調べのかたちを示してくれているように思う。


※引用短歌:工藤玲音「水中で口笛」左右社 (2021)


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