前回の短歌時評154回 「安川奈緒の遺言(1)~粉砕王が通り過ぎる~」の続きである。
いくつかの粉砕王が通り過ぎ、その破壊された跡から、つまり「無」から若い人は立ち上がるしかなかった。
たとえば2001年の浜崎あゆみ(1978-)のヒット曲「evolution」にこんな歌詞がある。
https://www.uta-net.com/movie/12790/
この地球に生まれついた日
きっと何だか嬉しくて
きっと何だか切なくて
僕らは泣いていたんだ
こんな時代に生まれついたよ
だけど何とか進んでって
だから何とかここに立って
僕らは今日を送ってる
この楽曲は破壊の跡からの出発を熱狂的に歌い上げる応援歌だ。さあ新しい時代、こんな星に生まれたけど、こんなひどい時代だけど、みんななんとかやっていこうよ、がんばろうよ、と鼓舞する。そして浜崎はこれをevolution(進化)なんだと肯定的に解釈し、こんな時代に生まれたことをむしろ喜んでいるかのようだ。確かにそこから進化が生まれるのだろう。
一方、浜崎とは対照的に、そういった不安な時代の中から静かに立ち現れてきたのが永井祐(1981-)だった。彼はとても静かに現れたので、ほとんどの人は最初気がつかなかった。
白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう
思い出を持たないうさぎにかけてやるトマトジュースをしぶきを立てて
アスファルトの感じがよくて撮ってみる もう一度 つま先を入れてみる
第一歌集『日本の中でたのしく暮らす』(2012年)より。
2首目、うさぎは思い出を持たないのかもしれない。あるいは持つのかもしれないが、少なくとも思い出でいっぱいのはずの人間からすれば思い出は持っていないように思える。そして1首目のたばこの灰で字を書くこと、3首目の何もない無意味なアスファルトの写真を撮るという行為。こういった無為な行為をそのまま(本当にそのまま)短歌にしている。この無為な行為に注目するということ。そしてそれをそのまま短歌にするということ。思い出を持たないのはうさぎでなくて、作者本人ではないのかとまで思わせてしまう。そういった思い出すら持たない何もない「無」からの出発。そこには浜崎あゆみのような熱狂も応援も喜びもない。あるのは静かな日々の生活だけである。そして短歌としての高度な修辞も高邁な思想も何もない。そういった今まで通用していたことが何もかも壊れてしまい、今までの修辞や思想がもう通用するとは無意識に思えなくなったからだろう。一切をチャラにしてからしか始められなかったのだ。穂村弘(1962-)がかつて言った「修辞の武装解除」「棒立ちの歌」とはこういうことでもある。
そして安川奈緒も似たようなことを言っている。再び2010年『メランジュ』でのレクチャーより。
http://finwhale.blog17.fc2.com/blog-entry-242.html#
詩人が詩を書くときの「主体」は、散文家が散文を書く時のような一方通行的な高邁な思想とは無縁で、それどころか詩人以外の一般的「主体」より一段低いところに身を置き、この世界の受容体とならなければいけない。そして世界中から受容したことを言葉へと変換させ叙述する。それが真の詩人なのだ。
要は、詩人は地べたを這いつくばれ、ということだ。地べたを這いつくばって世界中から受容したことを言葉にしろと。そうでないと今の時代、真の詩歌は書けないと。今までとは違う時代なんだと言いたいのだろう。これは斉藤斎藤が吉川宏志(1969-)の短歌を「地べたから5ミリほど浮き上がっている」『井泉No.19』(2008年)と批判したことと似ている。今の時代1㎜たりとも浮いていては真の詩歌は書けないのかもしれない。詩歌にとってなんと辛い時代だろうか。
そして永井祐は無意識に地べたを這いつくばる。
太陽がつくる自分の影と二人本当に飲むいちご牛乳
日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる
ゴミ袋から肉がはみ出ているけれどぼくの望みは駅に着くこと
これはもう地べたを這いつくばることを愉しんでいるとしか思えない。まるでそれが自身の存在証明であるかの様に。そしてこの世に真実なんぞどこにも存在せず、在るのは事実だけであるということを愉しんでいるかのようだ。
斉藤斎藤と永井祐の登場で現代短歌のフェーズが明らかに変わった。今まで培ってきた詩歌の資産を一旦ゼロにして短歌のフレームはそのまま。短歌のフレームのみを残した、(短歌的な)無からの出発。穂村弘が、OSが変わったと言ったのはこのことではないのか。だがOSを変えずにしかも様々な詩歌の資産を受け継ぎながらも現代短歌のフェーズを明らかに変えた歌人がいる。瀬戸夏子(1985-)だ。
第二歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』(2016年)から。
片手で星と握手することだ、片足がすっかりコカコーラの瓶のようになって
心臓が売り物となることをかたときも忘れずに いつかあなたの心臓を奪うだろう
眠らないままでいるからすくなくとも今世紀は鋏でくりぬく苺のかたち
モダニズム詩から前衛俳句、前衛短歌、現代川柳と培われた修辞技法の延長上で、その中でも特に阿部完市(1928-2009)、安井浩司(1936-)、攝津幸彦(1947-1996)等のポスト前衛俳句とも呼べる俳人たちの修辞技法の影響が色濃いと筆者は感じるが、その卓抜した言葉の選び方、その言葉の組み合わせ方、それを従来の短歌韻律とは全く違う韻律で統率する独特のリズム感、そして最も肝心なのはそれら斬新なことから、決して偶然ではなく生じてくる奇跡的とも言える短歌的愉悦。それだけで十分に鑑賞に値するが、そんなことばかり言っててもそれは批評にはならない。批評することがこれだけ困難な歌人は他にいないのだが、それでも何とか批評して伝えたいというこの世で最も無謀なことをさせようとする歌人だ。
瀬戸夏子を批評するには様々な切り口があるだろう。ありすぎて考えれば考えるほど混乱を招くばかりだ。そこでここでは瀬戸が特に影響を受けたという彼女と同世代の詩人安川奈緒の観点から批評を試みたい。それで少し整理ができるはずだ。
もう一度、安川奈緒のレクチャーから再掲する。
http://finwhale.blog17.fc2.com/blog-entry-242.html#
詩はいま、文脈を逸脱させたり、断片化させることによって書かれているのではなく、もともと完全に粉砕されてしまった、粉々にされてしまった者たちが(確かに粉砕王が通り過ぎて?)、もう一度輪郭を取り戻そうと、必死の形相で、言葉をつないでいるのではないか。おそらく順序が逆なのだ。
同じく瀬戸夏子の第二歌集から。
雪もない宇宙のいない血のいない 場所でよいにおいにてやすらかに死ね
緯度を引く気持ちで宝石をたべて悲しむ人々を裏切るように所以を知らせる
絵にすればスイッチと言う死の前日のダンスと言えばわたしだと言う
安川奈緒的に言えば、これらは、決して文脈を自分でバラバラにしたのではなく、(誰かに)バラバラにされた後、もう一度輪郭を取り戻そうと必死の形相でことばをつないできている、ことになる。これら3首もそんなふうに思えないだろうか。実際につなぐことに成功しているかは別として、そのつなごうという意志が伝わってこないだろうか。
言い方を変えれば、桜井夕也が『未来』2019年1月号の「無意味nonsenseをめぐって」で言及したように瀬戸の短歌は「象徴秩序と意味関連が徹底的に攪乱されている」のではなく、つまり自分で攪乱したのではなく、一度(誰かに)攪乱されてしまったものから象徴秩序と意味関連を新たに再構築しようとしているのではないか。つまり順序が逆なのかもしれない。そう考えた方が詩歌にとっては建設的だろう。以下の3首でその経緯を説明してみる。
たった一言の手紙にも似て真夜中にひとしく生きた無傷のエンジン
性能は断崖に似る婚姻は生きていく筈みぞれを含んで
笑っている 傍らの丁寧なくちぶえ 下から上へ戦争カタログ
一首目、〈手紙〉と〈エンジン〉は本来つながらない。だが〈似て〉でなんとかつながり、〈たった一言の手紙にも似て〉単純で、世界の底を通奏低音のようにしかも無傷で活動し続ける、何か世界を駆動させているしっかりとした〈エンジン〉のようなものを象徴として提示してきている。その〈無傷のエンジン〉に安心するか不安になるかは読者次第だ。
二首目、〈性能は断崖に似る〉〈婚姻は生きていく筈〉は全くつながらない。だが最後の〈みぞれを含んで〉で婚姻というものが断崖にも似た性能でしかも〈みぞれを含んで〉ずっと生きていくのだと、婚姻とはそういう峻厳なものだと、身につまされるものは見事に身につまされてしまう。婚姻の本質を突かれたようでそういう人は呆然とするだろう。
三首目、〈くちぶえ〉と〈戦争〉は当然つながらない。しかも〈戦争カタログ〉である。この世に〈戦争カタログ〉なる呼び名は無いが、実際にはそういうカタログがあるだろうとは推測はできる。だがやはりこれは瀬戸がこの世界に切り込むために造った造語だろう。〈丁寧なくちぶえ〉の〈丁寧な〉はいったい何を示唆するのか。〈下から上へ戦争カタログ〉の〈下から上へ〉は何のことか、謎だらけだ。見事にバラバラである。だが最初の〈笑っている〉で、〈戦争カタログ〉を笑いながら眺めているような不穏な忌避すべき存在が浮かび上がってくる。そして〈丁寧な〉口笛を吹いている奴がいる。 〈下から上へ〉積み上がっていく戦争を丁寧に笑いながら眺めている、いったいそれはどんな存在なのか、問いだけが宙吊りになり、読者はこの世界に冷やっとした悪寒のようなものを感じずにはいられない。
確かに桜井夕也の言うように、瀬戸自身が攪乱してバラバラにしてしまったところもあるだろう。そしてそれだけで終わっている歌もあるだろう。だがやはり瀬戸夏子は一度バラバラになった象徴秩序と意味関連を最終的には再構築したいのではないか。そしてその再構築するときに同時に生じる、世界への新たな解釈と短歌的愉悦。その一瞬に瀬戸夏子は賭けているのではないだろうか。
最後に、「無からの出発」をよりわかりやすい形で無意識に歌ってくる西村曜(1990-)を紹介して終わりにする。
第一歌集『コンビニに生まれかわってしまっても』(2018年)より。
コンビニに生まれかわってしまってもクセ毛で俺と気づいてほしい
1990年生まれということはおそらく生まれたときからコンビニが広くあったのだろう。だからこそこの比喩が自然に出てくる。比喩というのはその言葉が体に馴染んでないと自然な感じにはならない。おそらく西村にとって、コンビニは世界の構成要素の根幹の一つに違いない。コンビニが無い世界は水が無い世界ぐらいありえないのかもしれない。だがこの比喩はコンビニ以前の商業形態をおよそ無化してしまう。だからコンビニがなくても全く困らない筆者のような世代からすれば、あまりに唐突でありそこにインパクトがある。あらゆる商業形態の80%が最初から無かったような殺伐とした気分に追いやられ唖然としてしまうのだ。豊かなはずの世界が豊かではなくなる。「無」とまではいかないが「無」に近い状況を生み出してくる。コンビニに生まれかわるということは人間を辞めるということと同時にその「無」に近い状況からの出発でもあるだろう。〈クセ毛〉がコミカルで可愛いところがいいアクセントになっている。
からっぽの子宮を満たすためだけに宿す子の名は「空港」とする (『未来』2020年3月号)
作者は女性で、これはもちろん妊娠の歌である。だがこれほど殺伐とした妊娠の概念が他にあるだろうか。sora歌会でこの歌を発見した時の戦慄を今でも覚えている。女性が子供を宿すということは新たな命を宿すということで、これほど尊いことは他になく、大なり小なり喜び溢れる命の賛歌になるはずだ。それを子宮が空っぽだからその空っぽを満たすためだけに私は子を宿してやる、文句あるか、と世界に対してメンチを切ってしまっているのだ。この歌の背景にあるのは完膚なきまでの「無」である。そしてその「無」に子を宿すことで「無からの出発」を果たそうとする。これほどの「無からの出発」が他にあるだろうか。
独り身のバイト帰りの自転車の俺を花火がどぱぱと笑う 『コンビニに生まれかわってしまっても』
会釈してそののち僕を殺すから未来とは目を合わせないんだ 『コンビニに生まれかわってしまっても』
もう二度と生まれてこないわたしたち製氷皿に張り詰める水 『コンビニに生まれかわってしまっても』
いつからか明日はなくなり今日の日と今日の隣の日が続くのみ (『未来』2018年12月号)
菜の花の一つひとつのまばゆさをすべて奪うと菜の花ばたけ (『未来』2019年7月号)
西村曜は新しいOSに乗っかりながらも、従来の修辞技法もある程度取り入れ、斬新でありつつ解りやすい。そして世界とたった一人で対峙する覚悟を感じることのできる数少ない歌人だ。期待したい。
安川奈緒は、短歌には全く興味がない、とかつて筆者に語ってくれた。にもかかわらず2010年の安川のレクチャーは、ニューウェイブ以降の現代短歌の変革の一側面を言い当て、そのあとの変異までも予言してしまったと言っていい。ひょっとして、美意識や価値観、文体的にも近い瀬戸夏子の短歌に出会っていたら、短歌に興味を持ってくれたかもしれない。しかしおそらく出会うことなく、2012年に世を去った。残念でならない。
今、新型コロナウィルスというかつてない程の巨大な粉砕王が通り過ぎようとしている。また詩歌に新たな変革をもたらすのだろうか。そして自分自身の文学観も変わってしまうのか。それは全くわからない。あまりに巨大すぎて、気持ちそのものが文学から遠ざかってしまわないよう、文学の変遷を注視していくしかない。(了)
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