「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

五臓のつかれの歌~沖ななも歌集『白湯』を読む 田中庸介

2015-10-01 10:51:15 | 短歌時評
 沖ななもさんの第九歌集『白湯』(北冬舎)を読む。これは茂吉や方代を多く思い出させる調べのよさにつらぬかれており、あるときは《日常》の鬱の果てしなさを歌った泥のような歌集かと思えば、ところどころには強烈なぬけ感のある歌も含まれていて、そのテンションの乱高下が読むものの体の芯をぎらぎらとしびれさせるような、きわめて中毒性の高い一冊である。タイトルの『白湯』からしてこれは何も味のついていないお湯という意味の「さゆ」なのか、味が濃く白濁した中華スープの「パイタン」なのか要領を得ず、造本やあとがきからすると作者ご本人は枯淡の境地をめざしたものらしいが、この歌集がそんなものではまったくないことは、全くあきらかである。いくつか読んでみよう。

  無聊(以上2字傍点)サンプルさしあげますとマヌカンのけだるき声が耳をかすめる

 この歌は《無料サンプル》の聞き間違いの面白さから発想したもの。「けだるき声」が「無聊(ぶりょう)サンプル」と言うというのは、声の質もけだるいしおすすめしている内容もけだるいということ。声と内容は同じようでいて断じて同じではない。だが作者の〈そらみみ〉はそれをむりやり一緒にしているのだという詩歌の《構造》が読者に垣間見えた瞬間、マヌカンの写生がすぽんと抜け落ち、絵が真空状態となる。

  笑顔にて近づきて来る男あり笑顔のままに通り過ぎたり

 目の前で、ものすごいことが起ころうとしているのだが、誰も何も言えずにそのことがそのまま起こってしまうということがある。上の句と下の句の《差分》が限りなくゼロに近い衝撃的な作り方は、歌われている意識の真空をそのままことばの上でもなぞったものである。

  朝夕に目薬をさす目薬にうるおう眼(まなこ)ふたつをもてり

 二句切れの歌である。「目薬」のリフレインがくせもの。上の句は日常のみずからの言動の写生だが、下の句はその行為の対象物をあらためて見つめなおしたときの離人的な気分をあらわすようになる。「目薬にうるおう眼ふたつ」を自分は所有しているのだと気づいたときの強烈な違和感。

  〈神経は死んでいます〉と歯科医師は告げたりわれのはじめての死を

 これも同様に、歯の神経の「」が、どうしてもみずからの「」の喩として思えてしまう強烈な体験を詠んだものである。

  いっしんにひとりの男の振り下ろす金鍬のさき春を耕す

 上の句は男性的な労働の情景を詠んだものだが、「金鍬のさき春を耕す」の結句は、そのまま性的な豊穣の喩になっている。この「さき」への集中がこの作者の本領である。

  くされ声あまやかな声もつれつつ夜のとばりに消えてゆきたり

 痴話げんかを詠んだ一首のようだ。「もつれつつ」の「」音の多用と、「とばり」「ゆきたり」の「」音の脚韻が姿のよさをかもしだしている。「」から「」へ。なにか横のものが縦になるさまを描いたものか。

  朝夕に花を見んとてねんごろに朝顔植えぬ夕顔植えぬ

 朝顔と夕顔を植えれば、たしかに朝と夕とに似たような花が見られるはずなのである。いろいろな、ほかの花もあるだろうに、とにかく朝な夕なに花を見るということがしてみたくなったので、この朝顔と夕顔を植える。そんな、とんがってはいるがどこかアンバランスな発想の持ち主が描かれている。

  靄けむる山のむこうにうっすらとみゆる山影(すがた)のあのせつなさの
  わが肩に来て止まりたるひとつ蝶これも縁(えにし)と歩をゆるませる


 これらの歌の「山影(すがた)」や「縁(えにし)」、あるいは「あのせつなさの」といったたおやかな詩語は、それまでのぶっちぎりに強い視線をマスクし、演歌的な臭みのある抒情をかもし出している。

  もっちりと寄り添いて来るひだる(以上3字傍点)神五臓のつかれをともないてくる

 「ひだる(以上3字傍点)神」は「人間に空腹感をもたらす憑き物で、行逢神または餓鬼憑きの一種」とウィキペディアにある。どの歌もすっきりと姿がよいのに、内容を読めば内臓のゆがんだ感じを赤裸々に歌ったものが多いことの理由は、この「五臓のつかれ」にありそうだと思った。

※引用中丸括弧はルビです。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿