「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評第151回 ライトヴァースで世界の苦を詠むこと 岩尾 淳子

2019-12-29 00:00:08 | 短歌時評

 前回、9月の時評ではライトヴァースの可能性について検証した。はたしてライトヴァースという軽やかな表現によって重い主題が詠めるのかということを考察したかったのである。それと同時期に加藤治郎の第11歌集『混乱のひかり』が出版された。せっかくの機会なので、もういちどライトヴァースの可能性を再考してみたい。

 さて、2019年「歌壇」10月号の特集「平成の事件と短歌」は平成の30年間に起きた様々な事件と短歌との関りを丁寧に検証していて読みごたえがあった。特集では、10人の歌人の10首選が掲載されていた。ざっと目を通して10人のうち6人が加藤治郎の短歌を引いていることに注目した。そのうち3名(柴田典昭・鈴木竹志・中川佐和子)が次の歌をあげている。


  押収のドラム缶にはあるらーん至福の砂糖こそあるらーめ  『昏睡のパラダイス』
 

 この歌については総論で三枝昴之も次のように触れている。

 オーム真理教事件を詠んだ歌も多いが、中ではあの集団の不可解さを抱きとめた加藤の修辞力がやはり光る。

 この発言を受けて、「歌壇」12月号の年間時評では奥田亡洋が次のように指摘している。

 平成の時代においても前衛短歌から受け継がれた方法が有効であったことを証明したのは間違いなく加藤治郎であり、そのことを踏まえた三枝昴之の指摘を見過ごしてはならないだろう。

 これは鋭い指摘として賛同する。ただ、ここでいわれている「修辞力」や「前衛短歌から受け継がれた方法」とは何をさすのだろうか。前衛短歌の目差したものは歌人によってさまざまで単純には括りきれない。それを受け継いでどう新しい歌を創造するのか。歌人によって引き継がれたものも様々である。否定という引き継ぎ方もあったろう。1990年代の加藤自身にとっての課題は「ハードな主題をかろやかに詠うこと」であったはずだ。これはまさにライトヴァースの可能性を押し広げる試行である。加藤には天性ともいえる明るさがある。その資質とライトヴァースの軽快さは相性がいい。しかし、加藤の課題は、本来、重力の軽いライトヴァースに湿った情緒をそぎおとした批評性を与えることだった。加藤は「歌壇」5月号で塚本邦雄について「塚本邦雄こそが真正のライト・ヴァースだった」と記述している。ただ、塚本は文語体を重視しており、そのぶん歌は重くなってしまう。加藤は、口語体を主体とするライトヴァースの短歌によって世界の苦を詠もうと模索してきた。そのためには上記の歌のように「あるらーん」「あるらーめ」といった表記や音声の工夫によって不穏さを創出する修辞が駆使されることになる。

 ここに及んで加藤のライトヴァースの手法はさらに洗練されてきたように感じる。従来のように、音喩を使いまわして仕掛けを作るのではなく、あくまでもシンプルで平明な口語で本質をつかみだすことが実現された歌が登場している。

  アトミックボム、ごめんなさいとアメリカの少年が言うほほえみながら

  撮影の男は何か注文をつけただろうか、光る砂粒

  いつかきっとなにもかなしくなくなって朝の食パン折り曲げている

  見切られたボンレスハムは怖ろしい紐にまかれてそのままである

  でかいバッグにモバイルPCぶちこんで不機嫌だなあ子は出て行けり

 ここでは従来のような饒舌さは影を潜めている。1首目、かろやかな言葉で世界の断絶や危機を引き出している。2首目、映像から想像をひろげ、表現に臨場感を与えている。また3首目はしずかなたたずまいの言葉でやがてくる絶望を予見している。最後の歌は加藤の新境地のようで楽しい。どの歌にも共通することは、修辞に無理がないことだ。それは言葉を破壊することから再生する方向へ道筋でもあろう。30年を経て、ここに加藤治郎のひとつの達成をみる思いがした。

〇若い層の口語短歌

  ツイッタ―がきもちわるくて友達がきもちわるくてツイッタ―する

高校2年 0 男子

 この歌には2019年11月17日に開催された兵庫県短歌祭ジュニア部門の応募作品の中で出会った。ツイッターという語に思わず目が留まった。SNSの世界は相手の顔が見えないだけに、リアルの世界で成り立っている関係とは違った顔が立ち現れる。それを単純に「きもちわるくて」といい、さらに畳みかけるように「友達がきももちわるくて」と関係性を引き寄せることで生々しい人間の感情の不気味さやそういう感情の集団性への嫌悪感が吐露されている。そしてそのバーチャルな集団に自分自身も加担しているという冷めた認識があり、それがある種のユーモアも醸し出している。独特のメタ性があり、そのあたりが極めて現代的であろう。ちなみにこの作品は残念ながら佳作に終わったがもっと注目されていいと少々不満に感じたのが正直なところだ。
 最近、ツイッター上での個人攻撃が目にあまる。人の感情、とくに憎しみにいったん火が付けばそれに抗することはほとんど不可能だ。本来、感情は個人のこころの内部でのひそやかな出来事であるはずなのに、SNSという劇場が設定され、見られることで簡単に巨大化してしまう。それは実体以上の形をあたえられることで、自我が拡大してゆく全能感を伴い、ある種の快楽をもたらすのだろう。ここには正義という問題もある。硬直した考えは、分断と不信を増幅するだけで、何も生み出さない。
 掲出した歌は、そういう状況を詠んでいるわけではないが、ツイッターの危うい感情の誘惑を、実に簡潔な口語で冷静にしかも自然に表現している。高校生という若い層が、口語でこうした重い内容を詠めることに瞠目し、幼いけれど公正な批評性や認識が開かれていると感じた。

  蝉の声いきなり止んで静寂のわけを考える私は十七

高校2年 T 女子

 こちらも同じく応募作品。夏ひかりのなかに訪れた突然の静寂に存在の不安のようなもの直観的に感じている。思索的で自意識がするどく切り立っている。世界の深さに手を伸ばすような純粋な観念性を秘めている。

  雨が降り川は流れてまた雲にそんな世界にぼくらは生きる

高校2年  S 男子

 水の循環として大きく世界を掴んでいて、その水と自分たちの生命をリンクさせている。その視線はまっすぐに前に向けられている。なんのたくらみもなく、思いを素直にシンプルな言葉で詠み切りながら、打ち出している強い生命感が印象に残る作品だった。

 この兵庫県短歌祭のジュニア部門は、中高生が対象であるがその応募作品を読んで、10代の若い層が秘めている、リアルな現実感や、深い思索力にとくに注目した。最近はどうしても現実を断片化してとりだす、オタク的な思考傾向があるが、それとは逆にひろく全体性へ向かう流れも生まれているようで心強い気がした。

 第55回短歌研究賞を受賞した郡司和斗は平成10年生まれの20歳、同時受賞の中野霞は平成8年生まれの22歳。どちらも若い。

  献血のポケットティッシュくばる人の籠いっぱいの軽さを思う

  うれしいよ シャンプーのあとかけられるぬるい水素水 床屋さん

  絶版になった十代 まっさらなルーズリーフを空へと放つ 

郡司和斗『ルーズリーフを空へと放つか』

  それはとても大きなうつわ 神さまが人のからだに隠した背骨

  逡巡をもう終わらせるこの川に何を流すか思いついたら

  光るものばかり集めてしまうけどきっとこの世を生き抜くつもり

中野霞『拡張子』

 選考座談会の記事を読んでいるともっと個性的な歌に注目が集まっていたが、筆者には、ここに挙げたような歌の方がまっすぐに心に入ってくる。読者を意識して微妙なところへ持っていこうとする歌も多いが、独特のユーモアのなかにおおらかな世界の掴み方がでている歌がやはりいい。
 先の高校生の作品にもいえるが繊細で自意識の闇をさまようような歌が若い人の歌のように思っていたが、最近はそうでもない。たくらまず、言葉を操作しすぎずない。そして歌の背景には若いながらに、深く世界に届くような豊かさがあって短歌の可能性を感じた。

〇「かばん」12月号から

「かばん」12月号誌上で小坂井大輔、戸田響子が穂村弘を囲んでの座談会が掲載されていて興味深く読んだ。小坂井大輔は『平和園へ帰ろうよ』で、サブカル的な文体を駆使してユーモアを加味しながら、自己や他者の無防備な姿をリアルに描写する生命感あふれる歌風。一方、戸田響子は『煮汁』において、違和感を梃にしながら現実の細部から歌を立ち上げる手法が鮮やか。日常のなかのささやかな違和感や居心地のわるさを、ナチュラルな口語文体で活写する。意識の境界に漂っている鰭のようなものを掬い取るには、やはりこうした口語文体が効力をもつのではないかと。改めて感じた二人の歌集だった。
 その二人について対談の中で穂村弘は

 二人の歌集に共通しているのはその「ダメ感」みたいなところだけど、それを成立させるにはユーモアみたいなものがいる。ユーモアと異化感覚と無意識の批評性みたいなもの。

と指摘している。また、

 今の時代に出ている優れた歌集に共通する点として「サバイバル感」があるような気がします。それがある種のユーモアみたいなものに繫がっていることがある。「ユーモアなければ即死」とでもいうような時代性ってあるような気がする。

 ここで穂村がどんな歌集を「優れた歌集」として対象にいれているのかは不明だが、昨年の山川藍『いらっしゃい』などは、その典型であろうか。

  わたしにも反省すべき点はあるなどと思った瞬間に負け

  ささやかに言葉かわせばこんあにもあなたは缶入りしるこが好きだ

  いま買ったゼリーを袋ごと渡す今日で辞めると言うレジの子に

  退職の一日前に胸元のペンをとられるさようならペン

  痩せたこと一度もないが痩せたさをライフワークにする安らかさ

 どのページを開いても、生きる切なさが軽いユーモアに包まれている。軽い口調にのせた言葉は、作中主体の置かれた決して楽ではない現実をポジティブな方向に反転する力をもっている。こういう前向きのベクトルを穂村は「サバイバル感」とネーミングしている気がする。格差社会でハンディのある地位や居心地の悪さ、あるいは逸脱感を磁場にして、閉塞するのではなくおおらかに外界に開かれている。
少し話が逸れたが、穂村は座談会で組んでいる小坂井大輔や、戸田響子にもやはり共通する特質を見出しているのはおそらくその「サバイバル感」だろうか。

  値札見るまでは運命かもとさえ思ったセーターさっと手放す 

  わたしのなかの進路指導の先生が死ぬなと往復ビンタしてくる

  柔道の受け身練習目を閉じて音だけ聞いていたら海です 

  犬の糞を入れた袋をひったくられてなんて美しい世界だろう

小坂井大輔『平和園に帰ろうよ』

  クレーンがあんなに高いとこにある罰せられる日がくるのでしょうか

  桜から桜の間(あわい)は夢なので一年は早く過ぎてゆきます

  すいれんすいれん図鑑をめくり次々とすいれんじゃない花流れゆく

  春だからぬれていこうじゃないですかフルーツ牛乳のふたをはね上げ 

戸田響子『煮汁』

 小坂井はサブカル的な軽快な口調で日常のなかで遭遇する失墜感や喪失感を現場性を立ち上げながらリアルに打ち出してくる。しかし、それは自意識に内向せず外界に開かれて自在感がある。戸田の方の歌集は主に違和感を言葉に打ち出してゆく手法によるところが多い。しかし、その意識はそれほど傷を負っているわけではなく、なんとなくピントの合わなかった世界を言語化することで世界と親和性を獲得してゆく。歌を読むのはそのプロセスといった感じだ。上に挙げた歌の2首目、3首目、あたりは桜や、花を詠むことで伝統的な美意識をとりこみつつ、それを独自の時間感覚によって更新している。1首目は永遠性にふれるような世界観の兆しもみられる。こまやかに細部を読みつつ、深い世界にも言葉が届こうとしている。そこには静かな再生感が編み出されているようにも思う。

〇さいごに

ヘルマンヘッセの詩にこんな言葉がある。

  この暗い時期にも
  いとしい友よ。私のことばを容れよ。
  人生を明るいと思う時も、暗いと思う時も、
  私はけっして人生をののしるまい。

『困難な時期にある友だちに』

 おそらくは30代の終わりころに書かれている。こうした境地は相当に年齢を重ねてから到達できるものかと思っていたが、そうでもないようだ。最近の若いひとたちのある部分の作品を見ていると、筆者の世代にくらべて、ずいぶんはやくこうした開かれた認識を手にしているように思える。そういう大きく豊かな歌におおく出会える一年であることを願ってこの時評を終わります。


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