「詩客」短歌時評

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短歌時評201回 AIには書けない短歌について、ほか 小﨑 ひろ子

2024-07-09 14:23:53 | 短歌時評

 ちょっと気にあることがあって、自分のパソコンに搭載されている簡易AI機能で「エモ記事論争、ナラティブ型」というワードを入力して検索してみた。すると、関係する記事のいくつかのリンクとともに、それらをつなぎ合わせた説明があっという間に表示された。実に便利なものだ。検索したエモ記事論争とは、最近、朝日新聞のRe:Ronというサイトで繰り広げられた論争。一概に良し悪しの結論が出しにくい現象らしく、「最近、ナラティブ型エピソード主体の〈ナラティブで、エモい記事〉を新聞の紙面で見かけることが少なくない。ナラティブとは物語や語りを意味する。」「デジタル版において、この手のエピソード型、ナラティブ型の記事はよく<読まれる>らしい。よくクリックされ、PVなどの<数字>が出る」「だが、(売上は)クリック数やPVと常に結びつくわけではない。」(西田亮介)という。
 報道に限らず、「あるべき姿」と思っている基準から乖離したものを目にしたとき、人は憤ったり怒ったり、「はて?」と感じたりする。この場合、読者が欲しているのは本来あるべきストレートな報道であり、真偽の確かなデータであるはず、ということらしい。大昔、成績の悪かったジャーナリズムのゼミで新聞の読み比べをしたことを思い出したりしながら、朝日新聞といえば、最近では、前に住んでいた住まいの近くにあったつくば支局が閉鎖されたというニュースもあり、時代も変わっているのだなと思う。
 短歌AIを開発して俵万智の短歌の「言葉」を習わせて作歌させたり、永田和宏の短歌を学ばせて連歌に挑戦させる試みを実施して紹介したのも朝日新聞だが、学習する言葉や作品、提示する条件によって、短歌AIもそれなりに個性ある結果を出すらしい。連歌作成の試みの中では、永田和宏が、「短歌を詠む過程を一からすべてAIが取って代わることは今のところまだない」「AIにはできない部分に短歌の本質がある」といったことを述べているのが印象的だった。将来、人の「仕事」の半分くらいはAIに置き換えることができるようになる、といった話もよく聞くが、こうした議論はどの分野でも形を変えて存在するのだろう。エモ記事というのも、時代の流行とあわせて、AIが簡単に作り出すものから外れた場所のあたりに出現したのかもしれない。論理思考から離れて感情に訴えかけるような方法は、本来、危ない時代に存在する類のものであり、邪道であったはずなのだ。
 私が使用しているパソコンには、時々刻々様々なニュースや話題が記事の種類に関係なく「〇〇によるストーリー •〇 か月 • 読み終わるまで〇 分」という注記とあわせて表示されてくる。〇に入る部分が読者にとっては確かに重要で、余計なお世話のような気もするが、「ストーリー」という表記の違和感を除けば、確かにこれも便利なのである。「ストーリー」ではなく、「エピソード」という言葉が付されることもあり、何だか「これは単なるエピソードですよ」と念押しされているかのようだ。便利な方向にすべてが進む中、もちろん、一所懸命探さなければ出てこないような情報も、探しても出てこない情報も、面倒なことをしている間に偶然見つける以外遭遇し得ないような情報も、背後には膨大にあるに違いない。
 同じ物語性でも、ナラティブとストーリーとは微妙に違うという。にわかに仕入れた知識によれば、ストーリーが個人の物語であるとするなら、ナラティブは受け取る相手にとっての物語をも含み、マーケティングの手法などに用いられるらしい。「われわれはこういうつもりでこの商品を開発しました、これをあなたの暮らしに取り入れたら、あなたの暮らしはよりよくなることでしょう」といった風な含みを相手に手渡すことで売り上げにつなげるのだという。日々そのようなCMはいくらでも見ることができるが、心地よく欲望を刺激してくれる例えば某ハウスメーカーの自然の中にたつ豪邸のCMのバックに繰り返し流される“プリーズノックオンマイドアwoowoo♬”という音楽の歌詞、昨今の短歌ブームの代表のようにも言われる「本当にわたしでいいの」の歌(無論こちらはマーケティングではなく作者の経験や心理に即した言葉なのだろうけど)と合わせ鏡の対になっているように見えて面白いと思っている。
 短歌の話に限って言えば、個人の物語や情感が時に秀逸な作品を生み出す短歌にとって「物語」とは何なのだろうなとときどき思う。他者の関心を引く私小説だろうか。誰にでもありそうな日常の描写だろうか。真似事でも他人事でも悪口でも何でもよいから、誰もが関心を持ちそうな経験や見聞きした事象を読者に手渡して、座で共有することだろうか。
 最近、ちょうどこのテーマに少し関わりそうな「エピソード」に短歌の界隈で出会ったので、記録しておく。今年2024年5月の中日新聞夕刊の週末ガイドというコーナーの「旅レシピ」という記事として、「熊野三山で詠む」という旅行記事が掲載された。この種類の旅の記事はそもそもが現在の土地の実際の様子を伝えるものなので、記者の経験に即した記事であっても、特に違和感はない、はずである。私は中堅の七十歳代の女性歌人がある場所に持参した新聞切り抜き記事でこの文章を読ませていただいたのだが、その中堅歌人の感想は「自分の歌は最後に一首載せる程度でいいんじゃないの?」ということのようだった。
 王朝和歌は今年の大河ドラマ「光る君」により、短歌ブームと並行してトレンドでもある。清少納言の「那智の滝は熊野にありと聞くが、あはれなるなり」という歌を文頭に、「咲きにほふ花のけしきを見るからに神のこころぞそらにしらるる」という白河上皇の歌碑を紹介しながら、出会った風物を文章に記し、文脈に沿った自身の短歌を八首挿入する歌紀行、専門歌人ではない書き手の歌は流行の会話調の言葉ではなく文語による作品となっている。私は、新聞の切り抜き読ませていただいて、最初すこし笑ってしまい後で大いに反省したのだった。すこし笑ってしまったのは、いわゆるへたうま短歌の面白さというより、作品と文章に作者の心の声が大いに現れていたからである。ちなみに中堅歌人の感想は、厳しい歌会に出したなら散々に批判されそうな歌をあられもなく何首も掲載しているという、今の若い短歌愛好者に対してよく年配者が抱くであろう理由とあわせて、名所紹介の紀行文はきちんと所縁のものを系統だてて紹介していくべきなのでは、というもので、まさにナラティブ記事に対する違和感によるもののように思えた。一理あるが、歌会の作品ではなく実際に現地に赴いての詠み歩きの紀行文だから、普通に楽しめばよいのだと思う。
 鉄道で那智勝浦に降り立ち、名物のマグロ丼を食べ、霊場と神話の地の山歩きを楽しむ。後半の記事では、「新緑の光に霞む四十路かな」と、自身を詠み込んだ定型の俳句を見出しに、「徒然草」の自然描写や唐の詩人杜牧の「千里鶯啼いて緑紅に映ず」といった句を交えて文章が進む。博学である。このような古典に表れる自然は、現代の日本の日常ではなかなか実感することはできないから、実によい時間だ。やがてふたりの外国人の女性が浴衣で足湯を楽しんでいるのに出会う。自分の姿を見られて怒った女神に鹿の姿に変えられ猟犬に食い殺されたギリシャ神話の猟師の逸話を思い出したことが綴られる中、「月の神鎮まりたまへ贖ひは御足に熱きこの地球ほしの血ぞ」といった歌が添えられる。「女神」の喩による表現はジェンダー的にNGなので、歌の中で「」としていることに感心するが、神格化するなら人間とはやはり別の扱い。温泉に褐色の鉄分等の成分が多く含まれるわけでもないなら「地球ほしの血」はちょっとどうかな、と歌会の評のようなことを考えたりする。確かに地下ではマグマが活動しているし、地球人はスターリンクを飛ばしたり戦争をしたり月の所有権を主張したり、月に神がいたなら怒りそうだけど。歌は思いがけない読み方をされることもあるから、歌会であれば他の参加者から別の反対意見も出ることだろう。そういう声もちょっと聞いてみたい気がするところである。
 前回の時評で著作を取り上げさせていただいた大野道夫が、斎藤史の二二六事件前後の歌「暴力のかくうつくしき世に住みてひねもうすうたふわが子守うた」について、三井修発行の同人誌「まいだーん」9号に短い文章を寄せている。一般的にこの「暴力」は国家権力の暴力であり、〈うつくしき〉は反語ととられることが多いが、後日の斎藤史本人の言によれば、「青年将校たちの無邪気で純粋な暴力と一般的な暴力の差を言いたかった」ということで、よく公になされている解釈とは真逆ということになってしまう。ふみはこの年の五月に出産しており、子守うたも比喩等ではなく事実であるという。本来、うつくしいものであってはいけないはずの暴力、漠然とした概念的な言葉は都合よくどうにでも解釈される、とは、かつて鈴木六林男が句会で述べた言葉でもある。具体、具体と年長者が口を酸っぱくしながら言う理由もそのあたりにあるのだろう。私もいまや年長者の部類に入っているが、そういう風にうるさいくらいにきちんと言うことができる人たちがだんだんいなくなっていることに、少し不安を抱いている。私にはとてもたちうちできない。
 さて、熊野の風土の中で日本の原始韻律に感性を委ねた作歌は初心者にとってもベテランにとっても楽しそうなのだが、この記事では「河原を掘れば温泉が湧き入浴できる」と聞いて宿でくわを借りてでかけ、海パン姿で川の浅瀬に横たわる記者の写真が「川湯温泉にある大塔川の河原に湧き出る温泉でくつろぐ筆者」という説明とともに付されていたことにも驚かされた。観光客の女性が怒ったとしたなら、浴衣で足湯を楽しむ姿を見られたためではなく、眼前にそういう姿の者が現れたからに違いない。さては驚いた女性に温泉を掘り出して振る舞い、写真を撮ってもらったか、そうか、これはもしかしたら喰い殺された漁師のポーズかもしれない。面白い話に見事に引っ掛かったかと思いながら、記事の隅に付された交通アクセス情報を確認する。川遊びもここなら危なくないし、この場所は混むのだろうな、などと思う。熊野といえば南方熊楠の瞑想中の写真や滝にうたれる修験僧、古代からの祭りの様子など独特の風土がすぐに思い浮かぶが。パソコンのAI機能で検索するとあっという間に公的機関等の情報とリンクが表示され、ガイドブックの購入画面も現れた。
 ところで、作者の経歴や顔を知ることで歌の鑑賞や見方が変わるのはよくあることなのだが、この記事を書いたのは、ウクライナやイスラエルで詠まれた俳句を紹介し、昨年、平和・協同ジャーナリスト基金賞という賞を受賞した記者でもあり、それらの記事はウェブでも見ることができた。<中日新聞が「平和の俳句」の作品公募企画を続けていることとも関係して、「報道は平和の俳句の国際版といえる」と高く評価された>という。最初笑ってしまい、後に失礼なことであったと反省したのは、その仕事の大きさを後から知ったためである。
 旅レシピの記事は、熊野の「釣鐘石」についての、「私たちの大半は、世界の滅亡など考えずに生きている。でも熊野三山の神々には、人類の終わりの情景がありありと見えているのではないか-。思いを巡らしているうちに、右岸には熊野速玉大社が近づいていた」という文章と次の短歌で熊野の休日は締めくくられる。

釣鐘が鳴り崩れる日白鷺は今と変はらず空を見てゐる  林 啓太

末尾に推量の助動詞が省略されていると読みたい。「釣鐘石が岸壁から転げ落ちた時、この世は滅ぶ」という土地の伝説をガイドに聞いたという。不穏な雰囲気だが、文章か詞書がないと読み取りにくい。こうした伝説が生まれた当時の日本にも動乱や災害があったことだろう。その時代の「この世」とは、どのような世界のことだったのだろう。
 小塩卓哉が「歌壇における新聞ジャーナリズムの役割」(2021年)という文章で、「短歌だけでなくあらゆる文芸ジャンルに東日本大震災は大きな爪痕を残した」と述べ、東日本大震災後十年間の歌壇内あるいは新聞歌壇への<当事者>の作品について書いているが、俳句や短歌という短詩型文芸に携わる<当事者>は国内に存在するばかりではないことを改めて思う。短詩型文学に限らずあらゆる文芸・文学につけられたとてつもない大きな爪痕。

つひに巴里さへ燃えあがる夜も冷えびえと検索窓は開いているか

 光森裕樹の『鈴を産むひばり』の中の一首を思い出している。様々な時々に、パソコンの検索窓が閉じてしまったとしても、詩歌や文学は、決して誰かのもとへ届けられることを諦めたりしないだろう。

【大事なことなので追記】
 中日新聞の記者の受賞対象記事では、2022年からのウクライナの英語俳句の作品が継続して紹介されており、新聞のデジタル版には、〈バフムトに谺は黙す霧襖〉〈塹壕の最後の烟草湿りをり〉と、普通に暮らしていたウクライナの人々の句が、写真や作者の言葉とともに掲載されている。戦時中の日本の俳句作家の作品とまるで変わらない。決して特別な時代の特別な地域の話ではないと思わされる。イスラエル社会に生きるパレスチナの女性の作品からは、〈本を手に孤児逃げ惑ふ空爆下〉〈爆煙の中に夕陽ゆうひの沈みゆく〉〈瓦礫より満月昇るガザの空〉といった作品と、「全ての人間が堂々と生きる権利があると信じている」「<人間が辱められ殺されない未来>を願い、緊張がさらに高まる中、俳句を詠み続けたい」といった言葉が紹介されている。
 日本でも海外でも、俳句は短歌よりも愛好者人口が多いが、最近では、角川「俳句」の最新号(2024年7月号)が「国際俳句」の特集を組んでいる他、昨年はウクライナのウラジスラバ・シモノバの言語と日本語による句集 『ウクライナ、地下壕から届いた俳句-The Wing of a Butterfly』が。黛まどかの監修により刊行されている。作者は1999年ハルキウ生まれ、十年来の俳句の愛好家で、句集のなかほどからは戦争状態の中で避難せずに続けた句作による作品群となっている。ウクライナでは芭蕉等の俳句は広く知られているという。

<参考>
・「その<エモい記事>いりますか-苦悩する新聞への苦言と変化への提言」西田亮介(Re:Ron 2024年3月29日、朝日新聞デジタル)
https://digital.asahi.com/articles/photo/AS20240327003298.html
・「歌人・科学者 永田和宏さん×AI短歌」【10月28日(土)開催、11月2日(木)15時~オンライン配信】
・『AIは短歌をどう詠むか』浦川通(2024.6.20.講談社現代新書)
・「旅レシピ 熊野三山で詠む(上)(下)林啓太(2024年5月2日、9日中日新聞夕刊)
・「うつくしき暴力とは何か」大野道夫(「まいだーん」9号)
・「平和・協同ジャーナリスト基金賞、本紙・林啓太記者に奨励賞贈呈式〈ウクライナ、パレスチナ非戦の俳句〉(2023年12月16日中日新聞) 
https://www.chunichi.co.jp/article/823269
・「歌壇における新聞ジャーナリズムの役割-東日本大震災から十年を経て」 小塩卓哉(「音」2021年6月号、音短歌会)
・『ウクライナ、地下壕から届いた俳句』ウラジスラバ・シモノバ、黛まどか監修(集英社インターナショナル、2023年8月30日)
(敬称は省略しています。)